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30日歩くずどこに着く― 邪銬台囜の“ゎヌルが倉わる”理由【領域線】

    前回たでの【氎行線】【陞行線】では、䜿節団の動きを「パレヌド」ずしお再珟しおきたした。

    では、そのパレヌドはいったいどこたで続いおいたのか。

    邪銬台囜は、どこにあったのか——ではなく、
    どこからどこたで広がっおいたのか。

    今回は、その話です。

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    ずはいえ、これはかなり自由床の高い話でもありたす。
    ルヌトの取り方ひず぀で、卑匥呌の堎所も、邪銬台囜の範囲も倉わっおしたうからです。

    逆にいえば、誰でも「自分なりの邪銬台囜」を描けるずいうこずでもありたす。

    ちょっずそんな気分で、読んでみおください。


    「氎行十日・陞行䞀月」邪銬台囜の領域ずいう考え方


    これたで「パレヌド」ずしお描いおきた魏の䜿節団の行皋は、芪魏倭王ずなった卑匥呌の暩嚁を各地に瀺しながら、祈りや枅め、亀流を重ねおいく巡行だったず考えおいたす。

    こうした巡行は、特別なものではありたせん。
    䞭囜では皇垝の巡狩が行われ、日本でも景行倩皇の巡行が䌝えられおいたす。

    たた、時代は䞋りたすが、日本の神幞祭にもどこか共通する構造が芋られたす。
    神が各地を巡り、土地を枅め、その支配や結び぀きを確かめおいく——そうした意味合いを持぀儀瀌です。

    たずえば宇䜐神宮では、神茿による巡行が叀くから行われおおり、神が動くこずで領域を瀺すずいう発想がうかがえたす。

    もちろん、これらを盎接結び぀けるこずはできたせん。
    ただ、魏の䜿節団の行皋もたた、各地を巡りながら関係を確認しおいく「動き」であったず考えるず、単なる移動ずは違った意味を持っおいた可胜性がありたす。

    ぀たり、このパレヌドの足跡をたどるこずは、そのたた邪銬台囜の勢力圏を浮かび䞊がらせるこずに぀ながるのではないでしょうか。


    氎行の起点の䞍匥囜を京郜郡・行橋垂あたりず蚭定
    本皿のパレヌド説ずしお、氎行で南䞋しやすい堎所ずいう考えもあり、䞍匥囜をのちの豊前囜府ができる京郜郡や行橋あたりず比定したした。
     
    ここで泚目したいのが、『魏志倭人䌝』における衚蚘の现かな違いです。
     
    䌊郜囜が「千䜙戞䞖垯数」ず蚘されおいるのに察し、䞍匥囜は「千䜙家」ず衚珟されおいたす。
     
    䞀般に「戞」が家族単䜍の䞖垯を瀺すのに察し、「家」は物理的な建物を指すず解釈できたす。
    ぀たり䞍匥囜は、玔粋な居䜏地ずいうよりも、倚くの枯湟斜蚭や倉庫が立ち䞊ぶ「物流の拠点」ずしおの性栌が匷かったのではないでしょうか。
     
    䞃䞇䜙戞ずいう圧倒的な芏暡を誇る邪銬台囜本䜓に比べれば、䞍匥囜そのものの勢力圏は決しお倧きくはなかったはずです。
     
    そう考えるず、氎行の䞀日目で蚪れるであろう枯。
    「氎行線」で提瀺した、「豊前沿岞」や「䞭接(山囜川)」あたりは、すでに邪銬台囜の領域(勢力圏)だったのかもしれたせん。

    ぀たり、「氎行十日」で巡る九州東岞の枯は、邪銬台囜の領域だったず考えおもいいのかもしれたせん。


    九州暪断ルヌト —— 阿蘇ぞ至るパレヌド

    䜿節団䞀行は、船でのパレヌド神幞祭の船枡埡のようなものを経お、10日目に䞊陞地点ぞず至りたす。
    本皿では、その地点を、のちに豊埌囜府が眮かれる倧分ず蚭定したした。
     
    そこから「陞行䞀月」の行皋ずしお、次のルヌトを想定しおいたす。
    倧分 ― 日田 ― 筑埌 ― 山鹿 ― 阿蘇
    地域名だけではむメヌゞしづらいため、地圢に眮き換えるず以䞋のようになりたす。


    【阿蘇ぞのパレヌド 地圢の軌跡】玄210km30日間
    倧分平野 ―― 由垃院盆地 ―― 玖珠盆地 ―― 日田盆地 ―― 筑埌平野(うきは・八女)  ―― 菊池川流域(山鹿盆地) ―― 熊本平野北郚 ―― 阿蘇カルデ

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    この「陞行䞀月」で巡る範囲こそが、邪銬台囜の内陞郚の領域ではないか、ずいうのが本皿の基本的な考え方です。
     
    前提ずしお、
    1日の移動距離を100里玄8km皋床ずし、
    地圢に応じお「平地8〜12km山地5〜8km」で蚈算しおいたす。


    あなたなら、どこを「ゎヌル」に蚭定したすか

    これたでの考察では、最終目的地を阿蘇ずしたしたが、この行皋はあくたで「パレヌド巡行」ずしおのものです。

    ぀たり、
    ・どの集萜を巡るか
    ・どのルヌトを取るか
    ・どの皋床の速床で進むか
    によっお、最終的にたどり着く堎所卑匥呌の居所は倉わっおきたす。
     
    同じ「30日」ずいう条件でも、描けるルヌトは䞀぀ではありたせん。
     
    たずえば、
    ・熊本平野からさらに南䞋し、人吉盆地ぞ至るルヌト
    ・豊埌倧野や竹田盆地を経由しお阿蘇に入り、その埌北ぞ抜けるルヌト
    なども十分に考えられたす。
     
    地図を芋ながら、自分なりの「パレヌドの道」を描いおみるのも、この仮説の楜しみ方のひず぀です。


    別ルヌトずいう可胜性 —— 呚遊・分岐する動線

    なお、宇䜐・䞭接ぞの䞊陞、あるいは倧分から宇䜐ぞず呚遊するルヌトも怜蚎したした。
     
    宇䜐に䞊陞しお阿蘇を目指すのであれば、距離・日数は問題ないのですが、宇䜐の堎所が、「南に氎行十日」ずいう蚘述ず異なり、やや近すぎ、方角も違和感があるので、採甚を芋送りたした。


    実は本呜にしたかった宇䜐最終地ルヌト

    たた、倧分から宇䜐を目指すずいう呚遊ルヌト、
     
    【宇䜐最終地 呚遊ルヌト】玄280km / 43日間 
    倧分 ―― 豊埌倧野 ―― 竹田―― 阿蘇―― 山鹿 ―― 筑埌―― 日田 ―― 玖珠 ―― 安心院 ―― 宇䜐
     
    ずいうのであれば、
    卑匥呌が宇䜐にいるこずになり、その埌の歎史や今埌の考察のこずを考えるず魅力的なのですが、43日もかかるのであきらめたした。

    このルヌト、阿蘇の倖茪山を越えずに迂回すれば、8日皋床短瞮できるのですが、集萜を巡るパレヌド前提なのに阿蘇を無芖するのもどうかず考え採甚を芋送りたした。


    内陞盆地呚遊ルヌトのおもしろさ

    さらに、内陞の盆地を巡るルヌトも想定できたす。
    ぀たり、邪銬台囜は九州東岞ず内陞盆地が領域ずいう考えです。
     
    【内陞盆地呚遊ルヌト】玄227km / 35日間 
    倧分 (別府) ―― 由垃院盆地 ―― 玖珠盆地 ―― 日田盆地 ―― (杖立枩泉) ―― 小囜盆地 ―― 阿蘇カルデラ ―― 竹田盆地 ―― 豊埌倧野 ―― 倧分
     
    ただ、盆地䞭心を邪銬台囜の領域ずするず、それで7䞇戞が成立するのか疑問ずいうこずもあり採甚したせんでした。

    ただ、このルヌトなら、別府枩泉、由垃院枩泉、玖珠枩泉、日田枩泉や倩ケ瀬枩泉、杖立枩泉、山囜から寄り道しお黒川枩泉、阿蘇の内牧枩泉を巡り、久䜏高原や原尻の滝を芋お倧分に戻れたす。
    「魏志倭人䌝」よりも、「るるぶ」に茉っおいそうな旅になりたす。

    このように、「氎行十日・陞行䞀月」ずいう条件を単なる移動ではなく“巡行”ずしおずらえるず、ルヌトは䞀本の線ではなく、耇数の可胜性を持った“広がり”ずしお芋えおきたす。


    歎史ず重なる道 —— 景行倩皇の巡行ずの䞀臎


    このように、パレヌドのルヌトを考えるこずは、そのたた「邪銬台囜ずいう囜の茪郭」を描く詊みずなりたす。
     
    こうした「巡行によっお領域を瀺す」ずいう構造は、『日本曞玀』に蚘された景行倩皇の九州巡行ずも、いく぀かの点で重なりたす。
     
    景行倩皇の巡行は、神話ず歎史の境界にある蚘述であり、幎代に぀いおも諞説ありたす。
    しかし、九州各地を巡るその動きは、本皿で描いおきたルヌトず重なる郚分が少なくありたせん。

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    衚の着色郚分が、本皿の想定するルヌトず重なる箇所です。
    もちろん、二぀のパレヌドの性栌は察照的です。景行倩皇は「熊襲蚎䌐」ずいう軍事行動であり、軍事パレヌド。
    卑匥呌のそれは「平和的なPRパレヌド」です。
     
    しかし、ここで重芁なのは目的ではなく、
    「なぜその道を通るのか」ずいう点です。
    時代や目的が異なっおも、
    ・歩きやすい地圢
    ・安党に越えられる峠
    ・集萜ず集萜を結ぶ動線
    ずいった条件は倉わりたせん。
     
    ぀たり、「通りやすい道」は繰り返し䜿われる。
    このルヌトの重なりは、単なる偶然ではなく、圓時の人々が実際に䜿っおいた“生きた動線”を瀺しおいる可胜性がありたす。


    四囜ぞ枡るルヌト —— 讃岐にたどり着くもう䞀぀の解釈


    ここたで本皿では、「倧分䞊陞・九州暪断」ずいうルヌトを想定しおきたした。
     
    しかし、このパレヌド説の面癜いずころは、
    同じ理論で別の到達点を導くこずもできる点にありたす。
     
    鍵ずなるのは、「氎行十日」の䞊陞地点です。
     
    もし䞀行が、囜東半島あたりから少し東ぞず進み、倧分ではなく、察岞の四囜・八幡浜に䞊陞したずしたらどうなるでしょうか。

    方角は「南」ではなく「南東」になりたすが、氎行十日の距離圏ずしおは十分に珟実的な䜍眮にありたす。

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    ここから、叀代官道「南海道」の原型をなぞるように進むず、
    次のようなルヌトが描けたす。
     
    【四囜暪断パレヌドの軌跡】
    八幡浜 ― 倧掲 ― 束山 ― 今治 ― 西条 ― 新居浜 ― 四囜䞭倮 ― 讃岐
     
    このルヌトの総距離は玄240km。
    本皿で蚭定したパレヌドの歩行ペヌス平地8〜12km / 山地5〜8kmで蚈算するず、玄26日で讃岐高束呚蟺ぞ到達したす。

    ぀たり、「陞行䞀月」ずいう条件を、ほが無理なく満たしお、
    邪銬台囜四囜説の䞭心地・讃岐にたどり着くこずができるのです。


    「方䜍の誀蚘」に頌らない解釈

    畿内説などでは、しばしば、「『南』は『東』の曞き間違いである」ずする解釈が取られたす。
    しかしこのパレヌド説では、そうした仮定に頌らなくおも、自然な動線の延長ずしお讃岐ぞ到達するルヌトを描くこずができたす。
     
    さらに、通ったルヌトが邪銬台囜の勢力圏ず考えれば、四囜の瀬戞内偎に邪銬台囜が広がり、南の四囜山地や倪平掋偎に狗奎囜や、蚘述のみが残る21か囜を配眮する䜙地も生たれたす。


    邪銬台囜は“どこ”だったのか


     本皿では、「氎行十日・陞行䞀月」をひず぀の“パレヌド”ずしお再珟しおきたした。その結果芋えおきたのは、意倖な事実です。

    倧分から阿蘇ぞ向かっおも、四囜ぞ枡り讃岐ぞ向かっおも、どちらも「陞行䞀月」で到達できおしたう。

    ぀たり——

    「陞行䞀月」ずいう条件だけでは、邪銬台囜の䜍眮は䞀点に定たらない、ずいうこずです。

    このずき問題になるのは、「どこにあったのか」ではなく、どのような道を通り、どのように到達したのか、ずいう芖点です。

    同じ日数であっおも、遞ぶルヌトが倉われば、たどり着く堎所も倉わる。

    この単玔な事実が、邪銬台囜の䜍眮をめぐる議論を難しくしおいるのかもしれたせん。

    本皿のパレヌド説は、邪銬台囜を“堎所”ずしお特定するのではなく、“動き”の䞭でずらえ盎す詊みです。

    その芖点に立぀ず、邪銬台囜は䞀぀の点ずしおではなく、「耇数の可胜性が成立しおしたう構造」ずしお浮かび䞊がっおきたす。
     

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    ルヌトの遞択によっおは「魏志倭人䌝」ずいうより「るるぶ」ですがGemini䜜成


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
    北斎の「人魂で 行く気散(きさん)じや 倏野原」から名前を付けおみたした。考察系の぀もりですが、あたりこだわらず、しばらくは魏志倭人䌝を違和感少なく解釈&考察し、邪銬台囜や卑匥呌のこずを自分なりの芖点で玹介できればず思っおいたす。

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