
『柚木泊居宅介護支援事業所』② ~游上はのびのびしてしまう 猪原春子(八十五歳)~
游上はのびのびしてしまう 猪原春子(八十五歳)
二十一日から四十数件のモニタリング、さすがにきつかった。いつだったか裁判員に選ばれ裁判に出るために半月で一か月分のモニタリングをしたことはあったが、今回は九日しかなかった。でもまぁ、どの利用者も落ち着いていたのが幸いだった。
「え、游上さん、裁判員したことあるんすか……。あ、そういえばなんか游上さん宛ての荷物届いてたっすよ」三十日、事務所に戻ると僕のデスクに段ボールの箱が置かれていた。「また前の事務所からっすか?」
前の居宅とアパートから私物を送っていた。前の居宅からは買い取ったパソコン、個人ファイルのコピー、デスク周りに飾っていた小物、アパートからは生活に必要のない私物を送った。
生活に必要な物は処分した。食器も冷蔵庫も洗濯機も必要な物の大半はここにある。僕の荷物が増えたおかげでここの秘密基地感が倍増した。ますますいい感じだ。
「あ、これは自分持ちのタブレットパソコンすね」リュックを置き段ボールを開ける。
「游上さん、モニタリング行く時もノーパソ持ってってますよね。何個パソコン持ってるんすか」星崎さんがキーボードを打つ手を止め呆れたような声を上げた。その声色、最近よく聞く。一昨日、ゲーム機と四十九インチのテレビが届いて僕が喜んで設置していた時もそうだった。
「ん、これで最後っすよ」わくわくしつつタブレットパソコンを仕事用のパソコンの横にセッティングする。「いや、これ、夢だったんすよねぇ」
仕事用パソコンと並んだ十インチのタブレットパソコン、これをネットフリックス専用機にし、音声は外音取り込みができるブルートゥースイヤホンから出力する。仕事をしつつネトフリを流し見する、それが僕の長らくの夢だった。ネトフリの元を取るにはこれしかない。
「何してるんすか」と星崎さんは笑った。「そんなことして、仕事に支障出ないんすか」
「出るわけないでしょ。流し見なんだから全く問題無しです」ずっとそう思っていたがさすがに前の居宅ではできなかった。他の職員が全員休んでいる土曜日とかにスマホでこの構成を構築はしていたが、いかんせん画面が小さすぎた。「あ、もしかして星崎さんってこういうこと気にしちゃう方っすか? 仕事さえしてりゃいいって、そういうタイプかと思ってたんすけど」
タブレットパソコンを立ち上げイヤホンを着けて外音取り込みにする。動画を流すが、ちゃんと星崎さんの立てる物音も聞こえている。問題なさそうだ。
「まぁ、件数ちゃんと回してくれれば言うことないっすよね」
「ですよね」こう言っては足元を見るようで悪いが、ここにとって僕が持ってきた四十数件は大きいはずだった。「ネトフリ見ながら回した四十数件とそうじゃない四十数件、報酬は一緒すもんね」
六時になり、事務所入り口のボードをクローズにする。このボードを含め星崎さんはなかなかセンスがいい。事務所内に雑然と置かれている物もどことなく味があるものばかりだ。
今や僕のベッドになったこのソファも適度に硬いだけでなくどこかレトロで……昭和のドラマに出てきそうな、とにかくいい感じなのだ。そもそもピンク映画館の二階なんてところに事務所を構えること自体、普通じゃない。ある意味、センスがいい。いや、めちゃめちゃいい。たまらん。
「夕飯、どうしましょうか」このソファに座ると一日が終わった、という気がするようになってきた。
「夕方、マルエイで適当に弁当買ってきたっすよ」
「マルエイって……なんだっけ」
「柚木泊の漁港の近くにある小さなスーパーっす。これから嫌でも行くことになるから、ポイントカード作っといた方がいいっすよ」
相談し僕は中華弁当に、星崎さんは幕の内弁当にした。夕飯の後、交代で風呂に入ると星崎さんはテレビを見たりネットをしたりして十時過ぎには奥の相談室として届けられている四畳半ほどの畳の部屋に行く。
僕は風呂の後にしばらく仮眠をとり、星崎さんが相談室に入った後くらいに起き出してゲームをしたりお酒を飲んだりして真夜中に眠る。
朝はだいたい九時前に星崎さんが起きてくる。一応ここの居宅の営業時間は九時からだが、そもそもここを訪ねてくるのは営業さんくらいなものだし、朝一で鳴る電話なんてほぼない。
だから僕はだいたい九時半くらいまで寝ている。星崎さんが菓子パンをかじりながら叩くキーボードの音が目覚まし代わり、というわけだ。勤務開始が八時半だということだけで八時過ぎには出勤していた前の事務所と比べたら天国だ。
「ういっす」起き、適当に菓子パンを手に取りデスクに座る。電話が鳴った。最近買い足した僕用の子機で出る、が一歩先に星崎さんが取っていた。
「あ、游上さん、いつもの人」星崎さんが保留にしつつ言った。「なんだっけ、あのおばあちゃん」
猪原さん、だ。もう関わって何年になるだろうか。完全に身寄りのない天涯孤独系のおばあちゃん、特に認知症もなく身の回りのこともある程度自立しているので長らく要支援1という最も軽い介護度で推移している。
「猪原さん、こんにちは」
「あ、寝起きでしょ游上さん」
「勘が鋭いっすねぇ、さすが」
「そんな、誰が聞いたってわかるわよ。そうそう、游上さん、昨日相撲見てた?」
「いやー、興味ないっすね、相撲」
「だからね。私が応援している子、優勝できなかったのよ。游上さんが応援してくれてないからよ」
「いやいや、関係ないっしょ」
猪原さんの電話は大抵こんな感じだった。大した用事はない。世間話をしたい、寂しさを紛らわせたい、多分そんなところだろう。
「よくかかってきますね」星崎さんが言う。「面倒くさい系の人っすか?」
「まぁ、大したことないっすかね」
「でも結構な頻度ですよね、電話」
「これくらい可愛らしい方っすよ。でしょ?」
顔を洗って歯を磨き、本格的に仕事を始める。九月はさすがに余裕はなかったが一〇月に入ってから徐々にここの利用者について調べ始めていた。自分の仕事をこなしつつ、星崎さんが今持っているケース、利用終了になったケースの記録を見る。そうだ、思った以上に居心地がいいからといってのびのびしているばかりではいけない。
「やめてくださいよ、何見てるんすか」気が付くと星崎さんが後ろに立っていた。しまった、プリズンブレイクに集中しすぎて星崎さんの気配を察し損ねていた。「いや、ほんと恥ずかしいっす」
「いや、他人のケースって色々勉強になるっすから」まぁ、嘘ではない。特に別事業所の記録の仕方は色々参考にはなる。
「勉強って」星崎さんは肩をすくめた。「そう言えば游上さん、主任持ってるんすよね、あと社福と精神も」
主任、とは主任介護支援専門員という資格のことだ。介護支援専門員として一定期間働いた上で研修を受けると主任介護支援専門員になれる。社福は社会福祉士、精神とは精神保健福祉士、の略だ。
「主任は欲しかったからとったけど、社福はケアマネをするための基礎資格だし精神は趣味でとっただけだよ」
介護支援専門員は基礎となる資格を使用しての実務経験が一定期間無いと受験できない。僕にとってそれが社福だった。
「趣味で精神とるって、ほんと游上さんって何者すか。そもそもなんで精神とか取ったんですか」
「何者って」星崎さんのケースを開いていたページを閉じる。「プリズンブレイクを勤務中に見ているケアマネっす」
あはは! 星崎さんが笑った。それ以上は何も言わず自分のデスクに戻っていく。それでいい、それでいいのだ。
「いやー、にしてもここは景観からして最高っすね」
僕と星崎さんのデスクは窓一面のガラス戸に並んでいる。その先に広がるのは遠い海と柚木泊の街だった。耳を澄ますと囁きのような波の音が聞えて、街は静かで、ぼんやり見ていても飽きない。
「ずいぶんお気にっすね」やれやれ、星崎さんはそう息をついた。「そういえばほとんど街に出てないでしょ、游上さん」
僕が持ってきたケースは隣町の榊原のケースが大半で、確かに柚木泊の街にはあまり降りて行ったことがない。
「何かの機会があれば見て回るといいっすよ、いや、実際」
その数日後、猪原さんのモニタリングから帰ってきた後、彼女から電話がかかってきた。
「游上さん、私、生きていけないわ」猪原さんの声がひどく沈んでいる。ぴんときた。このパターン、数年前にもあった。
「どうしたんですか」プリズンブレイクを見つつ応える。
「游上さんが帰った後、ビデオが壊れたの」
猪原さんが言うビデオ、とはDVDプレイヤーのことだ。猪原さんのほとんど唯一の趣味は韓流ドラマのDVDを借りて見ることで、レンタルショップまでの道中の歩行が彼女の心身状況の維持の秘訣だと勝手に思っている。
「この前買ったのが三年ほど前ですからねー」三年前も同じような電話があって、その時は翌日のモニタリングでたまたま通りかかったリサイクルショップで激安の中古プレイヤーを立て替えて買ったのだった。
「私、大切に使ってたのよ?」
「知ってますよ」
「游上さん、また、買ってきてくれない……?」
前の職場のあった榊原は柚木泊と一山挟んだ、小さな地方都市だった。様々な店舗がそれなりに点在していたので中古のDVDプレーヤーを購入することは簡単だった。柚木泊はどうだろう。
「予算、いくらくらいですか?」
「うーん、三千円くらいかな」猪原さんは生活保護だ。毎月の支給額内でうまく生活されている。余剰出費はそれくらいが限界なのかもしれない。
「見かけたら立て替えで買っときますよ」
「いつ、買ってきてくれる?」
「うーん、まだ分からないですね」
「早く欲しいな……」
「見かけたら立て替えで買っときます」
電話を切る。窓の外、広がる海とその下の寂れた街、息をつく。やれやれ、面倒なことになったものだ。
「どうしたんすか、游上さん」星崎さんが言った。ことのあらましを話す。「DVDプレイヤーかぁ」
「ま、今度見かけたら買っときますよ」
「でも猪原さん、無いと死んじゃうでしょ?」
「んなわけないでしょ」肩をすくめる。
「ちょうどいい機会じゃないっすか」星崎さんはモニターを見つつマウスをかちかちと動かした。「游上さん、もう外出の予定ないんすよね」
僕達はクラウド上のカレンダーにお互いの予定を記入することでそれぞれの予定を確認できるようにしていた。留守番中の電話対応時に何かと便利なのだ。
「そうっすね、特に予定は無いっす」
「柚木泊、見てきたらいいんじゃないっすか」星崎さんは立ち上がり海と張り合うみたいに伸びをした。「ま、なーんにもない所ですけどね」
なるほど、いい機会だ。天気もいい、街をバイクでゆっくり見て回るのも楽しいかもしれない。
「あ、今日の夕飯、買ってきてくださいよ」一階まで見送りに来てくれた星崎さんが言った。
「マルエイ、見つけなきゃね」
「マルエイの近くにリサイクルショップみたいなところありますし。で、ついでに海も見てきたらどうすか?」
「海?」
「游上さん、いっつも海が綺麗だって、言ってるでしょ?」
「綺麗でしょ、実際」
「ま、見て来てくださいよ」
ヘルメットをかぶりクロスカブで走り出す。山沿いの道、ギアを踏み速度を上げる。この街は信号が少ないのがいい。榊原は便利だが信号が多く交通量も多かったのでせっかく買ったクロスカブ110も原付程度でしか走れないのが嫌だった。
やがて現れた街に至る長い坂道、海に向かい下っていく。穏やかな太陽に照らされる海は眩しいほどで、風も爽やかで心地いい。ま、見て来てくださいよ、という星崎さんの言葉、腑に落ちない。
坂道の下はだらだらと長い商店街があった。かつては色々な店が満ち溢れていたようだが、今はシャッターが閉じている店舗が多く、開いている店舗も金物屋や寝具店等、客が来ているのか全然分からない店が目立つ。
その他に昔ながらの八百屋や鮮魚店、リノベーションしてこじゃれた雰囲気にしている飲食店等もあったが、全体的には物寂しい雰囲気だ。……リサイクルショップらしきところはない。
商店街の周辺には住宅街というべき地域が広がっている。年季の入ったアパートもあるが、大半が古い日本風の住宅だ。そんな中に時々どかんと大きな屋敷がある。そういえば事務所付近の山沿いの道にもぽつんぽつんと大きな家があった。貧富の差が激しい街、なのかもしれない。
住宅の密度がだんだんと薄まってゆくにつれて海が近付いてくる。潮の香りに海への期待が高まっていく。やがてたどり着いた堤防、その上に立つ。
一面の砂浜を想像していたがこの付近はテトラポットが並んでおり、がっかりだ。テトラポットには何やら小さなごきぶりのような虫が無数におり、僕の気配から逃れるようにさっと物陰に隠れる。海も近くで見るとなんというかただの海で、小さな虫の気味悪さが興をそぐ。
「あー、それ、ふなむしっていうみたいっすよ」電話をすると星崎さんが教えてくれた。「ごきぶりみたいだけど、人畜無害らしいっす。あ、釣りの餌に使えるって聞いたことあるなぁ」
出発前の星崎さんの言葉、理解できた。堤防付近には打ち捨てられた漁船や漁に使う道具が無造作に置いてあったり、草むらにはごみが捨ててあったりと、見なくていい物ばかりが目に付く。
「で、何か用でしたか? ふなむしが気持ち悪いって、そんなこと言うのに電話したんすか?」
「友達か」思わず返すと星崎さんは笑ってくれた。「いや、マルエイってどこにあるのかなって」
夕飯を買う予定のマルエイ、商店街にも住宅街にもなかったのだ。
「あー、漁港の近くっすね。今、堤防にいるんすよね? 海と向かい合って右を見てもらったら漁港があるからそっちに向かって行ってもらったら見つかりますよ」
確かに、せり出した堤防と漁船らしき船がちらほら見えるところがある。そこに向かう途中、マルエイがあった。年月と潮風に彩りを奪われたような外見、昭和の雰囲気をいまだに残す店内が特徴的だ。
この時間はまだ割り引きシールが貼られたお弁当はなく、特選幕の内弁当とミックスフライ弁当を買った。店を出ると日が傾きかけていて、事務所に戻ることにする。
マルエイの近く、何やら倉庫のようなものが見えてきた。その中には不用品らしき物が整然と置かれている。ここがリサイクルショップか。
「あれ、見ない顔だなあんた」倉庫の入り口付近で作業をしていた恰幅のいい中年のおじさんが僕を見つけた。
「最近越してきました」
「あ、もしかして星崎さんの所の新しい社員さんかい?」
ぎょっとしているとおじさんはがはは、と豪快に笑った。
「今、あんたが使ってるデスクとか椅子とか、星崎さんがここで見つけて俺が運んだんだよ」
塩谷さんというこのおじさんは柚木泊近辺から不要物を買い取り、分別して資源にしたりメンテナンスして転売したりしているのだという。
「星崎さんは上得意でさ」塩谷さんは言った。「売り手がなかなかつかない物を引き取ってくれてよ、ありがてぇことよ」
なるほど、理解できた。事務所の中にある一風変わった物……例えばあなたとゆきどまり、と書かれた電飾看板等は星崎さんがここから持ち込んだ物のようだ。
「あの、DVDプレイヤーってありませんか。できるだけ安い物、頑丈だとなおよしなんすけど」
あー、そう声を上げ周囲を見渡した後、塩谷さんは倉庫の中に入って行った。僕もゆっくりその後に続く。実に様々なものがある。立派なタンス、金庫、昔のアーケードのゲーム機、子供用の自転車……。
「こんなのどうかな」塩谷さんが持ってきたのは箱に入った格安のプレイヤーだった。「開封はしてあるけどほとんど使ってないっぽい」
「いくらっすか」
「うーん、星崎さんの所の人だから二千円でいいや」
お金を払い、お礼をしてバイクにまたがる。走り出すと、猪原さんの声がよぎった。
「游上さん、私、生きていけないわ」という声、思い出すと笑えた。猪原さんは連絡も多くケアマネの仕事なのか? と思うような要求も時々ある人だったが、可愛げがある人だった。
小憎たらしい爺さんが言うといらっとする事でも、猪原さんが言うと笑えてしまうから不思議なものだ。自分も年を取るならあんな風に年を取らなきゃな、そう思う。
「え、買ってきてくれたの?」榊原までクロスカブを走らせ猪原さんのアパートのチャイムを鳴らすと、彼女はそう声を上げた。
「生きていけないんでしょ?」と言うと猪原さんは気まずそうに笑った。
「そんなわけないでしょ、馬鹿ね」
機械音痴な猪原さんのためにセッティングをする。1Kのアパートの中は雑然としていて、テレビを動かすのも一苦労だった。
「游上さん、今のところがよっぽど居心地いいのね」コードを接続していると、猪原さんがそう言った。
「え、なんでですか?」
「なんか、顔がいきいきしているもの」
「そう、ですか?」思わず顔を撫でる。「前はそんな死んだ顔してましたか?」
「そこまででもないけど」猪原さんは噴き出した。「今の方が色気があるわ」
「色気、ですか」
「今の方がハンサムってことよ」
ぱん、猪原さんに叩かれた肩の衝撃をなぞりつつ事務所まで戻る。時計を見るともうすぐ六時という時間で、看板をクローズにしてしまう。
「え、また行って来たんすか、あのDVDプレイヤーのおばぁちゃんのところ」じゃんけんで勝ち取ったミックスフライ弁当を頬張りながら星崎さんが言った。「ついでの時にしか行かない、みたいなこと言ってたじゃないっすか」
「うーん、生きていけないって言ってたしなーって」
「で、生きていけてなかったんですか、あのおばあちゃん」
「そんなわけないって、言ってたよ」
あはは、星崎さんが笑う。特選幕の内をあらかた食べ終え、ソファに体を沈める。窓から見える海はやっぱり息が漏れるほど綺麗で、ここからはふなむしはその影すら見えなくて、やっぱりいいなぁ、と思う。
うん、ここから見る海、行こうと思えばすぐに行けるがあえてここから眺める海、いい。とりあえず今はここで……ここがいい。
『柚木泊居宅介護支援事業所』③ ~星崎、五歳女児と同居する 浜崎甚平(七十二歳)・前編~ に続く……
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