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『柚木泊居宅介護支援事業所』⑲(完) ~再就職した游上の魂胆  (藤木孝彦 六十七歳)~

    再就職した游上の魂胆  (藤木孝彦 六十七歳)
    「あんたらでも勧誘とか、するの」藤木さんが顔をしかめている。

    「まぁ、普通はしないですけど」向かい合って座る藤木さんを見据える。「ここは藤木さんを見込んで、お願いしてるんです」

     笑いを堪えている星崎さんが見える。窓から見える柚木泊の海は春の日差しを浴びて細かく閃いていた。

    「游上さんが戻ってきてくれて嬉しいは嬉しいけど、別に俺、何にも困ってないもんなぁ」

     去年の秋、僕は前の居宅から四十数件を持って柚木泊居宅に転職した。しかし今は一からのスタートだ。言うまでもなく、この事務所に利用者が一人もいない僕に給料を出す余裕はない。

    「出来高払いなんです、ここは」藤木さんにすがるよりない。「別に使ってくれなくていいんです、四点杖を一本借りて床の間にでも飾ってもらえれば」

    「杖なんて飾らねぇよ」藤木さんは首をすくめた。「なぁ、あんたらって介護保険を使って稼いでるんだろ? 使いもしない杖を貸し出して、いいのかい」

     よくないっす、星崎さんが堪らずといった風に笑った。藤木さんも笑い、僕も笑ってしまう。

    「商売、地道にやっていくのが一番よ」帰り際、藤木さんは僕の肩を叩いてくれた。「また、まち子でな」

     またよろしくお願いしまぁす! 藤木さんを見送り事務所のドアを閉める。星崎さんはまだ笑っていて、僕はデスクではなくソファに戻った。利用者が一人もいないのだからデスクに戻ったところですることもない。まぁ、ネトフリを見るくらいか。

    「また新規、来ますよ」笑いの余韻が残る声で星崎さんが言っている。

    「ま、給料は出せないけど、三食は何とか面倒見ますから」
     情けない、さして貯えがあるとも思えない星崎さんから食べ物を分けてもらわないといけないなんて……寝転びくすんだ天井を見上げる。いざとなったらあいつの金を……とも思うけど、辞めておく。あの金も、あの手紙も、まだ、まだ今じゃない。

    「そうだ、営業とか行こうかな」
     しばらくぼんやりしているとそんなことを思いついた。あいつの一件、近藤先生や山田さんにはばれてしまっているが、それ以外の高齢サポートや病院の連携室には知られていまい。

    「ついこの前辞めた奴がまた同じとこに再就職して営業にくるって、絶対なんかあったって思われますよ」そう言った星崎さんは立ち上がり、伸びをした。「海、見に行きましょか」

     海? 立ち上がり星崎さんが向かい合っている柚木泊の海を眺める。息が漏れるほどに綺麗な海、そういえば近くで見たのはここに転職してからすぐの頃、一人で行った時のたった一度だけだった。

    「どうせ暇だし、行きましょか」

     この前、塩谷さんの所で安くで買った星崎さん用のヘルメットを彼に渡し事務所を出、階段を降りる。

    「さてさて、今日のラインナップは……」

     未亡人まち子・濡れて潮騒、本日の上演作品を見て吹き出しつつ、星崎さんを後ろに乗せクロスカブを走らせる。長い坂道、スナックまち子を通り過ぎ柚木泊の海の手前でバイクを止めた。
     堤防に上がるとテトラポットと海が眼下に広がった。相変わらずふなむしは僕達の気配に気が付くとごきぶりみたいにさっと姿を消して、事務所で見たあの綺麗な海が胸の中でやけに輝いた。

    「たまには、いいっすねこういうのも」
     でも、僕はそう言っていた。そういう気分だった。潮風とか、波の音とか、解放感とか、そういう肌で感じる何かが、あの事務所では味わえない何かが僕にそうさせているのかもしれない。

    「まぁ、たまにはね」

     もし星崎さんがいなかったら、ふとそんな思いがよぎった。前の居宅にいる時に瀬戸の担当になっていたら、瀬戸が死んだ後の僕はどうなっていただろう。
     ……そもそも僕の母親が瀬戸でなかったら、瀬戸があんなくずでなければ……。柚木泊居宅の僕のデスク、僕の寝床兼応接用のソファ、事務所の中のごちゃっとした佇まい、雑多であるが故に感じる落ち着き……押入れの中で息を潜めていた僕は今、帰りたいと思える場所に辿り着けた。
     いや、あの押し入れから出発したからこそ、今、ここにいられる。母親が瀬戸だったから、柚木泊居宅に星崎さんがいたから……。

    「あ」

    「あ」

     僕達の声が重なる。星崎さんの驚いた、どこか気恥ずかしそうな顔、きっと僕も同じだ。思わず合った視線、星崎さんが言おうとしていた言葉は僕と同じだったのか。でもどうして星崎さんがそう言おうとしたのか、分からない。
     分からない、が分からなくてもいい。今、ここにいられればそれでいい。

    「恩コイン、十個分ですからね」星崎さんが言う。

    「え?」

    「恩コイン十個で理由も言わず勝手に辞めていった社員を再就職させてあげたんす」

     なるほどそういうことか、うん、それがいい。

    「恩に切りますよ」と言うと星崎さんも笑った。

    「これで凛子ちゃんがいれば言う事ないすけどね」

    「おくず様な母親のもとでも頑張ってますよ、凛子ちゃんは、きっと」根拠はない、がそう言うよりない。僕達にはただ、そう願うことしかできない。

    「ですかね」と呟く星崎さんの顔に影がよぎる。

    「ですよ。凛子ちゃんも、絶対、幸せになれます」

     ん? 星崎さんが僕を見ていて、気が付いて、慌てて顔をそらした。

    「今日、久しぶりにまち子、行きましょ」と言って、今日の上映作品名がよぎって、また笑ってしまう。「あ、そういえば町子さん元気なんすか?」

     星崎さんはぷ、と笑った。
    「元気ですよ。多分長生きしますよー、なんせ、潮騒に濡れてますから」

     それからもしばらく、僕達は海を眺めていた。僕達の気配を忘れたふなむしはまたうじゃうじゃとテトラポットを覆い始めた。心底うんざりする、が悪くない。今、ここ、まぁ、悪くない。

    完


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    夕璃

     
     
    小説家志望の介護支援専門員。某新人賞の二次選考突破×2が人生唯一の輝き。レビュー基準は以下。 ☆5:人生の宝物 ☆4~:ディスクを購入するか検討⇒多分買っちゃう ☆3~:面白かった!⇒リピ確! ☆2.5:普通 ☆~2.5:うーん……。 ※たまにお話のこと、お仕事のことも書きます。

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