メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【街談涙話】 台湾好兄弟3 【創作小説】

    渦屋飴吉

     昼過ぎになった。
     七郎はせっかくセットした髪をくしゃくしゃにすると、大あくびをしながら、厚底ブーツのかかとを地面にこするようにして歩いていた。歩くたびにベルトに付けた手錠が腰骨に当たり地味に痛い。
     お気に入りのアーマーリング。ベルトがたくさんついた厚底のエンジニアブーツ。
     3月も末ともなれば、日中は汗ばむほど暑くなる。だが、せっかく買ったブーツだ。もう少し履いていたい。
     あくびのせいで涙の浮かんだ目元を乱暴にこすると、視界の端に何かが揺れるのが見えた。黄色い規制テープの欠片だ。
     阿伯が言っていた事故現場はここだろう。今なお色濃く事故の跡を残している。
     七郎は空き地の隅にある小さな廟にぞんざいに頭を下げると、またフラフラと歩き始めた。
     裏に回らねば気づかぬビルの背面をくりぬいて作ったような廟をくぐり抜け、下にいるトタン屋根のビンロウ売りと挨拶を交わし、横断歩道を渡る。
     歩行者信号の中で、一生懸命緑色の坊やが走っている。
     ショーウィンドウの中の時計。コーヒーを焙煎する匂い。
     鍵屋を通り過ぎ、路面店の店主と一言二言挨拶を交わすと、七郎は二段の階段を一跨ぎにして市場に入った。

     休み明けの市場は、活気に満ち溢れていた。
     七郎は器用に人波を避けながら豚肉屋に向かうと、
    「おーい、おっちゃん」
     と釣り下がる肉をひょいとよけ、声をかけた。
     思い切り包丁を叩きつけ、肉を骨ごと断ち切っていた店主が顔を上げる。
    「おー、米苔目の兄ちゃんか」
    「いつものと三層肉《バラ肉》、それと大腸ちょうだい。あ、あと、いい猪皮《ブタ皮》入ってる?」
    「うちはいつも、いい物しか仕入れねぇよ」
    「知ってるって! だからおっちゃんの所で買ってるんだから」
    「はは。猪皮だな。ちょっと待ってろ」
     店主が店の奥のガラス張りの小部屋に消える。
     手持無沙汰にステンレス台に並べられている豚肉を眺めていると、
    「七郎ちゃん、七郎ちゃん」
    「ん?」
     近くの包子屋の阿姨《おばちゃん》が、口元に手を当て呼んでいるのに気づいた。
    「なーにー?」
    「ねぇ、ちょっと見た? 交通事故のニュース! 美大生の男の子がひき逃げされたの。あれ、うちの近所の子なのよ!」
    「あー、見た見た。ひでぇことしやがるよな」
    「本当に。ひき逃げだなんて……。あたしゃ、悔しいったらないよ! あんなにまじめな子が、どうしてあんな目に……。あの子は母一人子一人で育った子でねぇ。今でこそ、いろんなお手当てがあるけど、当時は何にもなくて。あの子のお母さんは、それこそ文字通り必死になってあの子を育てたんだよ」
     言いながら感情が高ぶってきたのだろう。阿姨の声がだんだんと大きくなる。
    「あの子が高校を卒業して就職が決まったのを聞いたら、安心したんだろうねぇ。血を吐いて倒れて、そのまま亡くなっちまったんだ。あの子、真っ青な顔で震えながら、うちに飛び込んできてねぇ。本当に可哀そうだった。抜け殻みたいになっちまってさ。働くこと以外何にもできなくなっちまって……。だからあたしゃ、しばらくあの子にご飯を作って持って行ってやってたんだ」
    「あのニュースの子かい?」
     油飯《おこわ》屋の女将さんが、店を片付けながら会話に入ってきた。
    「そう。うちの近所の子でねぇ。子供の頃から知ってる子なんだよ」
    「気の毒にねぇ」
    「本当に。あたしゃ涙が出るよ。日中は印刷所で働いて、夜は大学に行ってさ。その後は牛肉麺店で働いてたんだよ? 土日だって、休みなんてなかったはずさ。そんなにしてまで美大に行っても、身体を壊しちゃ何にもならないって、あたしゃ随分あの子に言ったんだけどねぇ。亡くなったお母さんが喜ぶから、絵本のイラストレーター、って言うのかい? あれになるんだ、って言ってねぇ……」
    「こんなご時世じゃ、家賃を払うだけでも大変だっただろうに……。その子あれだろ? 奥さんが話してた、何かの賞を取ったっていう……」
    「そうそう! あたしもよく知らないんだけどさ、なんでも権威ある賞の大賞に選ばれたとかでさ、随分喜んでたんだよ。なのに、授賞式の前日に亡くなるなんて……!」
     阿姨が声を詰まらせ、エプロンの端を目に当てた。
    「本当に、こんな可哀そうなことったらないよ。あの子が一体何をしたって言うのさ? ただ一生懸命生きてただけなのにさ」
     おかみさんが店じまいをする手を止め、阿姨の肩を抱いてさすった。

    「へい、お待ち!」
     肉屋の店主が、発泡スチロールのケースに入れた肉を台の上に置いた。
     七郎は金を払って受け取ると、油飯屋のおかみさんたちに会釈をして市場を出た。
    「誰にも助けられず、絶望の中一人で死ぬのは、さぞ怖かっただろうな……」
     七郎は独り言ちると、こちらに向かってくるスクーターを避け、店に向かった。
     近くの廟の香がふわりと鼻腔をくすぐった。胸がやたらと重かった。


     
     次へ
     
     前へ

     目次へ

     
     
    オリジナル小説書いてます。 お暇つぶしにどうぞ。

    あなたへのおすすめ