
【神霊奇譚】台湾好兄弟8【オリジナル小説】
阿恩を車に押し込むように入れ、チャイルドシートに座らせる。幼いながらも美玲の異変を感じ取っているのだろう。痛いとも怖いとも言わず、阿恩は大人しくされるがままにシートベルトをつけ、じっと美玲の顔を見つめていた。
美玲は何かに急かされるよう、着替えの入ったバッグと市場で買った荷物を阿恩の横に置くと運転席に乗り込んだ。
ドアを閉める――何気ないその音が、母が投げてドアにぶつかった絵本を思い起こさせ、鼓動が跳ねる。美玲は下唇を巻き込むようにして歯をつきたてると、衝動を追いやるようにエンジンキーを回した。
もとは亡き父が使っていた母の車は自分の物よりも大きく、クッションもずっと柔らかい。
阿恩は鼻歌を歌いながら、自分の桜貝のような爪をまじまじと見つめて撫でている。
もうすでに父の遺産は底をついた。母の毎日の看護助手代。リハビリに移るときにまた支払わねばならない保証金。
「どうしろっていうのよ……」
叔母も看護を手伝ってはくれない。母は働けない。自分一人の給料で、生活費を払い、阿恩の保育料を払い、母の病院代を払わなければならない。
じわじわと絶望と諦めが心を侵食していく。
美玲は乾いた笑みを浮かべると、アクセルを踏んだ。
開け放した窓からは、むっとする熱気と共に排気ガスの匂いと騒音が飛び込んでくる。
バックミラーで後ろを確認すると、阿恩が窓の向こうを一身に眺めているのが見えた。
「恩恩、何を見ているの?」
「んーっとね、んーっ……しま!」
「あれは島じゃなくて、中州って言うのよ」
「なかす!」
「じゃあ、今いるところは?」
「はし!」
「好《ハオ》! 凄いじゃない、恩恩」
阿恩が嬉しそうに声を上げて笑った。ヒーローが描かれたスニーカーを上下に揺らし、もっとよく橋を見ようと身を乗り出す。
「こら、恩恩! 危ないから、きちんと座っていなさい」
「いや!」
「いい子にしていないと、プリン屋さんのプリン、虎姑婆《鬼ババア》が全部食べてなくなっちゃうかも」
「いや!」
「じゃあ、いい子にして座っていようね」
阿恩が姿勢を正して座りなおした。だが、すぐに手足が揺れ始める。バックミラー越しにそれを確認した美玲が、目元を和らげた。
「じゃあ、恩恩、媽媽《ママ》にお歌を聞かせてくれる?」
「うん!」
「何のお歌がいいかな?」
「ねんどのおうた!」
両手でおにぎりを握るような動きをしながら、阿恩が歌い始めた。
「ねんど、こねこね、こねこね。こねこねねんど! きれいなまるを作ったら、にっこりおかおの、媽媽ができた!」
体を左右に揺らしながら、手遊び歌を歌う。小さなふくふくとした手がひらめくたびに、美玲の心が一つずつ、定まっていく心地がした。
今日は頭七。死者が自らの死を自覚して、帰ってくる日だ。そして――不遇の死を遂げた死者は、加害者の元へやってくる。
阿恩の歌を聞きながら、美玲は前方に近づくビル群を睨みつけた。
母が買ってバックミラーに吊るしていた玉蘭花は、もうすっかり枯れてしまっている。今になってそれに気が付くと、美玲は手を伸ばして蕾を束ねるワイヤーを外した。
「キラキラおかおの、だいすきな媽媽」
「媽媽も恩恩が大好きよ」
「だいすきー!」
阿恩が大きな声で言って、幸せそうに笑った。
「媽媽もうたって」
「じゃあ、一緒に歌おうか」
「うん」
美玲は決して振り返らなかった。
ハンドルを握る指に力を入れる。爪が手の甲を突き刺す。
絶対にあの事故を起こしたのが自分だと、気づかれるわけにはいかなかった。
自分がいなくなれば、阿恩はどうなる。母は――。
美玲はにこやかに歌いながら、射殺さんばかりの形相で進行方向を睨みつけていた。みぞおちが固くなり、心がどろどろとしたものに覆われていく。
自首などしている場合ではない。
怒りの炎が、恐怖をなめるように焼き尽くしていく。
例え悪鬼になろうとも、この身が刀山火海の責め苦にあおうとも、家族を守らなければならない。
「絶対に奪わせない」
声に出さず唇だけを動かして言う。震えて力の入った唇が裂けて吊り上がり、乾いた笑いが横隔膜を震わせた。
”だめだ、戻れ”
頭の片隅で、何かがしきりと警告を発している。だが、今更どうしろと言うのだろう。自分はもうすでに逃げてしまっているのだから!
美玲はすがるような気持ちで阿恩を見た。
阿恩はブレスレットがきついのか、鼻歌を歌いながら赤いひもを引っ張って遊んでいる。
「おばあちゃんが退院したら、新しいのを買ってくれるから、もうちょっと我慢していてね」
「うん」
七郎と阿伯は橋の中程に立って、向こうからやってくる黒い靄をまとう車を見ていた。
包子屋の阿姨が、廟で祈りを捧げている。
”見つけた、見つけた、見つけた!”
ぶわりと膨らんだ黒い靄が、橋の向こうから猛スピードで迫ってくる。
車の中で阿恩が歌っている。
「ねんどをこねこね、こねこね。こねこねねんど。きれいな丸がとんがって」
アレンジして歌いだす阿恩に、笑みが浮かんだ。
「何ができたの?」
「子母桃《桃饅》!」
刹那、バックミラーに影が差した。車内の温度が一気に下がる。みぞおちがふわふわとし、首筋から全身に鳥肌が走る!
美玲は息ができず、口をパクパクと動かし、懸命に空気を取り込もうとした。だが、心臓が締め付けられるように痛み、息をすることができない!
盆の窪から浮遊感が走り、めまいがする。
足が、アクセルを踏みぬいた。
「や、やめ……」
手がハンドルから離れない!
急な加速に体が座席に押し付けられる!
「媽《ママ》!」
阿恩が叫んだ。
「やめ、て……」
喉が締め付けられる。顔が赤くなる。
”許さない”
確かにそう耳元で聞こえた。
「許さなければ、何よ!」
美玲が吼えた。
「あなたはもう死んでいるの! 私たちの生活を壊さないで!」
後ろの車がクラクションを鳴らす。
横に並んだ男が、運転席からこちらを見ながら大声で何かを言っている。
「恩恩は殺させない!」
美玲の車が橋の上を猛スピードで駆けていく。
「媽!」
「動け、動け、動けっ!!」
なりふり構わず叫び、足をアクセルから離そうとする。だが動かない!
ビル群がだんだん近づいてくる。
視界を横に両断する高速道路が首元に迫る刃に見える。
分離帯だ。
美玲が悲鳴を上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、嫌よ! 恩恩だけは助けて!」
「媽!」
「恩恩!」
阿恩が手を伸ばす。何とか身をよじり、体中の力を総動員して、片手をハンドルから引き放し、阿恩に腕を伸ばす。だが届かない!
ブレスレットがちぎれて落ちた。
翡翠が割れる微かな音を拾い、ハンドルに取りつきアクセルを踏んでいた靄が、後部座席を振り返る。
バッグの下に見慣れた絵を見つけ、靄の力が緩んだ。
靄がゆっくりと美玲から離れ、後ろに手を伸ばす。
”ぼくの絵……”
あの日、受賞されるはずだった自分の絵だ。
靄が完全に美玲から離れ、後部座席に向かい、チラシを見つめた。
美玲が急ブレーキを踏む。
荷物が盛大に吹き飛び、阿恩の体にシートベルトが食い込む。
美玲が短く神の名を叫び、渾身の力でブレーキを踏みぬく。
靄がチラシを大事そうに包み込んだ。
『Wu Bohan《吳柏翰》追思展』
そこにはそう書かれていた。
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