
第二話)乱世のプロジェクト ―軍師、去る
<前回の話し>
あらすじ
炎上を乗り越えた如月のもとに、新たな乱世が訪れる。黒田はAgentforce Voice導入による「負荷半減」を掲げるが、実際には日本語が未対応という現実が発覚。経営の期待と現場の不安の間で、如月は再び板挟みになる。さらに、これまで如月を導いてきた郡司が、利益相反を理由に距離を置くと告げる。頼れる軍師を失った如月は、初めて自分の判断だけで、乱世に小さな一歩を刻んでいく。
半年前の炎上から、コールセンターは静かな安定期を迎えていた。契約データの紐付けは復旧し、氷室の現場からも、大きな悲鳴は聞こえなくなっている。
その静けさを破ったのは、黒田の一言だった。
「次のフェーズは、Agentforce Voiceでいく」
定例会議の場で、黒田は資料を見せながら、いつもより早口だった。
「営業の問い合わせや、よくある質問への対応を、AI音声エージェントに任せる。ベンダーのデモを見たが、驚くほど自然な会話だった。低遅延で、CRMのデータを見ながら答えてくれる。これなら、氷室さんのところの負荷も、大幅に減らせるはずだ」
如月は、資料に目を通しながら、小さな違和感を覚えていた。
「黒田さん、そのデモは、どちらの言語で行われていましたか」
「……英語だったな。だが、Salesforceの製品なんだから、日本語でも同じように動くだろう」
「確認します」
その一言で会議は終わった。だが如月の中では、確認すべきことのリストが、静かに増え始めていた。
技術検証は、東海林のチームと共に、その週から始まった。
「Agentforce Voiceは、現在すべての地域で利用可能ですが、対応言語は英語の米国版と英国版のみです。日本語のサポートは、順次追加予定という案内になっています」
東海林が、ベンダー側の最新情報を読み上げるようにそう言った。
「……順次、というのは、いつですか」
「そこは、正式なアナウンスがまだで、こちらでも分かりません」
如月は、黒田に伝えるべき内容を、頭の中で整理し始めた。デモで見た自然な会話は、あくまで英語での話だった。日本語での自然な音声対応は、今の時点では、まだ実装されていない。
「黒田さんには、私から伝えます」
「よろしくお願いします。……正直、うちとしても、今回のご提案の熱量に、少し急ぎすぎたかなという反省はあります」
東海林が、珍しく殊勝な態度でそう言った。半年前の「仕様です」の頃とは、少し違う空気があった。
如月がそのスマートフォンを取り出したのは、報告の内容を、誰かに一度話してみたかったからだ。
「郡司さん、少し聞いてもらえますか」
いつもなら、すぐに返信が来た。だが、その日は違った。
三十分後、ようやく届いた返信は、いつもの皮肉っぽい一言ではなかった。
「悪い。しばらく、そっちには深く関われなくなる」
「……どういうことですか」
「大手の製造業から、Agentforce導入の外部アドバイザーとして声をかけられた。専任契約になる。お前のところとは、利益相反にもなりかねないから、しばらくは距離を置く」
如月は、しばらくその文面を見つめていた。
半年前、十万件の炎上の中で、自分を救ってくれた声だった。「今、動くな」という一言が、如月にとっての方位磁針のようなものだった。その声が、今、離れていく。
「今回は、隣にいられない」
郡司からの、もう一通のメッセージが、それを裏付けるように届いた。
如月は、返信を打てなかった。かつて郭嘉が、若くして世を去った後、荀彧は自分の頭だけで、曹操の陣営の中を歩き続けなければならなかった。あの時の荀彧の孤独が、今、如月自身の輪郭と重なっていく。
翌朝、如月は黒田に検証結果を報告した。
「Agentforce Voiceは、現時点で日本語には正式対応していません。デモで見ていただいたのは、英語環境での動作です」
黒田の表情が、分かりやすく曇った。
「……営業からは、そんな説明は受けていない。むしろ、グローバルで展開している製品だから、日本語も問題ないという話だった」
「営業の説明と、実際の対応状況にズレがあります。ベンダー側も、正式なアナウンスはまだ出ていないとのことです」
「じゃあ、俺が経営会議で説明した『負荷半減』の計画は、どうなる」
黒田の声には、半年前の炎上の時とは違う種類の焦りがあった。あの時は、部下を問い詰める側だった黒田が、今度は自分自身が、経営会議という上位のレイヤーから問い詰められる立場に立たされている。
如月は、その焦りの色を見て、初めて気づいた。黒田もまた、乱世の中で、板挟みにされている一人なのだと。
「日本語対応を待つのではなく、今使える形を考えます。時間をください」
「……分かった。だが、次の経営会議までには、代替案が欲しい」
氷室たちの現場に、この件を伝えたとき、返ってきた反応は、如月が予想していたものとは違っていた。
「正直、ほっとしました」
氷室が、そう漏らした。
「AIに全部任せる、みたいな話を聞いたときから、少し怖かったんです。私たちの仕事が、急になくなるんじゃないかって」
「そこは、決してそういう計画では……」
「分かってます。でも、噂って、勝手に広がるので」
如月は、はっとした。技術的な検証にばかり気を取られていて、現場に流れていた不安の声を、拾いきれていなかったことに気づく。
「日本語対応がまだない、というのは、正直、今は助かります。ただ」氷室が続けた。「いずれ日本語対応が来たとき、また同じように、急に『負荷半減』みたいな計画が降ってくるんじゃないかって、それは今から心配です」
その言葉が、如月の中に、静かに刺さった。
正しい答えを、郡司に聞くことは、もうできない。
だが、今の氷室の言葉には、正しい答えというより、もっと具体的な、如月自身が決めるべき問いが含まれていた。
その夜、如月は一人でオフィスに残っていた。郡司に相談する、という選択肢は、もうそこになかった。
これまでの自分なら、こういう時、頭の中で郡司の声を真似て、自問していた。「郡司さんなら、何て言うだろう」と。だが今夜は、それすら浮かんでこなかった。
如月は、白紙のメモに、氷室の言葉を書き出した。
「①今の負荷を減らしたい(経営) ②仕事を奪われる不安を減らしたい(現場) ③日本語がまだ使えない(技術的制約)」
三つを並べて眺めているうちに、如月の中で、一つの案が形を持ち始めた。
日本語の音声対応を待つのではなく、今使える英語対応の部分だけを、先に小さく試す。
海外拠点向けの問い合わせや、英語話者からの一次受付だけに、Agentforce Voiceを限定導入する。日本語の一次受付は、これまで通り氷室たちのチームが担う。AIが「代替する」のではなく、「今できる部分だけを、先に引き受ける」という位置づけにする。
「負荷半減」という数字を今すぐ出すことはできない。だが、「AIは、いずれ来るが、今日、皆さんの仕事を奪うものではない」という約束は、今、明確に示すことができる。
如月は、その案を、資料にまとめ始めた。正しさを証明するためではなく、黒田にも、氷室にも、それぞれの立場で「今、動いていい理由」を渡すために。
経営会議で、如月はその案を説明した。
「日本語対応が正式に来るまで、英語話者向けの一次受付にAgentforce Voiceを限定導入します。負荷軽減の数字としては小さいですが、確実に前進できます。そして、日本語対応が来た際には、今回の限定導入で得た知見を使い、現場の不安を最小限にした形で展開できます」
黒田は、資料を見ながら、しばらく黙っていた。
「……前より、地味な提案だな」
「はい。ですが、崩れない提案です」
黒田は、小さく笑った。半年前には見たことのない類の笑い方だった。
「分かった。それでいこう」
その週末、如月のスマートフォンに、久しぶりに郡司からのメッセージが届いた。
「聞いたぞ。英語限定導入、地味だが、いい落としどころだな」
「どこから聞いたんですか」
「業界は狭い。それより」
少し間があって、続きが届いた。
「今回、俺に聞かずに決めたな」
「……聞ける相手が、いなかったので」
「それでいい。むしろ、それがいい」
如月は、その一言を、何度か読み返した。
郡司は、もう隣にはいない。だが、隣にいなくても、自分の判断で、乱世を一歩進めることができた。かつて郭嘉を失った後の荀彧も、きっとこうして、自分の足で立つことを覚えていったのだろう。
軍師は、いつまでも隣にいるとは限らない。だが、軍師が置いていった問いの立て方だけは、確かに如月の中に残っていた。
乱世は、まだ終わらない。だが、如月はもう、頼るべき声が隣にいなくても、前に進めることを知っていた
<次回の話し>
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