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第三話)乱世のプロジェクト ―言葉、届く―

    <前回の話>

    あらすじ
    Agentforce Voiceの日本語対応が、ついに正式リリースされる。前回の教訓を活かし、如月は今度こそ現場を後回しにせず、氷室たちを検証の初期段階から巻き込む。派手な炎上は起きないが、専門用語の誤認識など、地道な摩擦が続く日々。
    その静けさの中で、如月はふと、あの十万件の夜の方が生きている実感があった、という危うい感情に気づいてしまう。

    乱世のプロジェクト

    メールの件名を見た瞬間、如月は思わず画面を二度見した。

     「Agentforce Voice 日本語対応 正式リリースのお知らせ」

     東海林からの転送メールだった。本文には、日本語での自然な音声対応が、順次利用可能になる旨が書かれている。半年前、あの英語限定の暫定運用から始まった小さな一歩が、ようやく本来の形に近づこうとしていた。

     黒田に報告に行くと、案の定、目を輝かせていた。

     「ついに来たか。前回の反省を活かして、今度こそ、ちゃんとした計画にしよう」

     「はい。ただ、今回は先に、氷室さんたちを検証チームに入れたいと思います」

     黒田は、少し意外そうな顔をした。

     「検証が終わってから、現場に説明するんじゃなくて?」

     「今回は逆にします。検証の一番早い段階から、現場の人に、実際の音声で試してもらいます」

     黒田は、しばらく如月の顔を見ていたが、やがて頷いた。

     「……好きにやってくれ。前回、お前の判断で乗り切ったからな」


     氷室は、検証チームへの招待を聞いて、少し驚いた顔をした。

     「私たちが、最初から入っていいんですか」

     「はい。今度は、後から説明するんじゃなくて、一緒に確かめてほしいんです」

     氷室は、少しの間、如月の顔を見ていた。

     「……前と、順番が逆なんですね」

     「はい。順番を変えるのに、半年かかりました」

     氷室は、小さく笑った。

     「では、遠慮なく、細かいところまで見させてもらいますね」       


    検証は、翌週から始まった。

     日本語対応のAgentforce Voiceは、確かに以前より自然な会話ができた。だが、氷室たちが実際の業務さながらの会話を試すと、細かなほころびが、次々と見つかっていった。

     「『解約』と『解決』を聞き間違えています」

     「弊社の製品名、『クラウドリンクPro』を、何度か『クラウドリンクブロ』と認識しています」

     「契約更新の話をしているのに、新規契約の案内を返してきました」

    どれも、派手な炎上にはならない。だが、地道に潰していかなければならない、小さな誤認識の山だった。

     東海林のチームと如月のチームは、毎日、氷室たちが見つけた誤認識のリストを持ち寄り、辞書登録や、業界特有の言い回しのチューニングを、一つずつ重ねていった。

     「今日は、また五件」

     「昨日より、二件減りましたね」

     地味な数字が、少しずつ、良くなっていく。誰も声を荒らげない。誰も、責任を押し付け合わない。ただ、静かに、日々の仕事が進んでいく。


     その静けさの中で、如月は、ある夜、ふとした瞬間に、自分でも戸惑うような感情に気づいた。

     検証の進捗レポートを一人でまとめながら、如月は、半年前のあの夜――十万件の契約データが宙に浮いた、あの炎上の夜のことを、不意に思い出していた。

     あの夜は、恐ろしかった。誰もが自分を責め、正しさが何の役にも立たないと思い知らされた夜だった。

     それなのに、今、この静かな夜の中で、如月は、あの夜の方が、確かに生きている実感があった、と感じている自分に気づいてしまった。

    なぜ、あんな夜を、少しでも懐かしいと思ってしまうのだろう。

     誰かに矢のような視線を向けられ、逃げ場のない数字を前にして、それでも一つずつ道を切り開いていく。あの緊張感は、確かに苦しかった。だが、苦しさの中には、今のこの静けさにはない、何か鋭い実感があった。

    如月は、その感情に、静かな怖さを覚えた。

    自分は、乱世を、望んでいるのだろうか。

     もしそうだとしたら、それは、荀彧が最後まで警戒し続けた、権力者の中に眠る危うい欲望と、地続きのものかもしれない。乱世を憂う人間が、いつしか乱世そのものを欲するようになる。そういう転落を、如月は知識としては知っていた。だが、それが自分自身の中にも、小さく芽生えているとは、思ってもみなかった。

     如月は、その感情を、誰にも――黒田にも、氷室にも、そしてもし話せたとしても郡司にも――言うつもりはなかった。ただ、その感情の存在だけは、自分の中で認めておくことにした。

     それは、危険な欲望かもしれない。だが、目を逸らせば、いつか自分でも気づかないうちに、その欲望に飲まれてしまう気がした。

                     



     検証開始から三週間が経ったころ、誤認識の件数は、当初の十分の一以下にまで減っていた。

     完璧ではない。だが、氷室たちの業務に、実際に使えるレベルには近づいていた。

     「これなら」

     氷室が、検証用の端末を前に、そう漏らした。

     「これなら、まず簡単な一次受付から、少しずつ任せてみてもいいかもしれません」

     派手な発表も、経営会議での拍手もなかった。ただ、現場の人間が、自分の言葉で、小さく「これなら」と言った。それだけのことだった。

     だが如月にとって、その一言は、半年前の十万件よりも、ずっと重く響いた。        


    その夜、如月のスマートフォンに、短いメッセージが届いた。

     「日本語、来たんだってな」

     郡司からだった。

     「はい。地道な調整が続いています」

     「地道にやれ。派手な炎上より、地道な調整の方が、案外、乱世では役に立つ」

     それだけだった。以前のような、長い助言はなかった。

     如月は、その短さに、少し寂しさを覚えながらも、同時に、それでいいのだとも思った。

     乱世は、いつも大きな炎に彩られているわけではない。むしろ、日々の小さな摩擦を、一つずつ静かに片付けていくことの方が、多いのかもしれない。

     それでも、時々、あの炎が恋しくなる自分がいる。

     如月は、その矛盾を抱えたまま、静かにノートパソコンを閉じた。乱世は、まだ終わらない。だが今夜は、それだけで十分だった。

    【シリーズ完結】



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