
「強制」と「自由」の境目
昨夜の続きです。
3.「期待」がさらにエスカレートすると「強制」になる?
(続き)
それは「支配」と「制限」だ。
私たちは「相手にこうなってほしい」という期待がエスカレートし、「相手をコントロールしたい」という支配に変わることがある。
すると「これは良いけどこれはダメ」と、相手の行動や状態を制限したくなる。
それが「強制」だ。
強制には良い側面もある。
たとえば法律。
法律には強制力がある。
道路交通法では、赤信号は「止まれ」。
「止まるかどうかは、各自の自主性に任せる」というわけには行かない。
この強制力が、人々の命を守る。
法治国家の国民は、法律に支配されている。
人々の行動や状態は、法律に制限されている。
だからおかしな法律が成立しないように、注意する必要がある。
強制の是非が分かれるものもある。
たとえば訓練。
ピアノの上達のためには「毎日弾きなさい」と強制される。
算数習得のためには「九九を覚えなさい」と強制される。
食器を使う、正しい言葉を話す、トイレトレーニングなどのしつけも訓練であり、強制される。
ピアノも算数も必要なければ、強制されない。
でも「楽しく身につけてほしい」と期待するのであれば、強制よりも好奇心をくすぐる。
それも支配でコントロールだ。
しかしその結果、相手がピアノや算数を楽しめるようになったら、支配すら「悪い」とは言えない。
強制が悪いのはどんな時か。
すぐに思いつくのは虐待である。
相手は強制されたくない。
相手の意に反して強制する。
暴力、暴言、不適切な(判断が難しい時もあるが)養育などは、悪い強制だ。
その支配や制限は違法である。
では、私たちはどうすれば良いのか。
「強制されたー」と感じた時、
①その強制は必要か?
②その強制を楽しめるか?
をチェックすると良い。
①その強制は必要か?
法律、しつけなどの訓練がこれにあたる。
しかしその前に(まともな)がつく。
まともな法律、まともなしつけ、まともな訓練。
この判断は難しい。
自分で考え、人と話し、本などを読み、また考える。
「まともな」=「大多数の」ではない。
普通か一般的かは置いといて、自分が思うまともな価値観。
その価値観で必要な強制であれば、信じれば良い。
もちろん考えが変わっても良い。
②その強制を楽しめるか?
「明日は朝7時集合」
野球ではよくある。
いやいや、早過ぎでしょ。
5時20分起きじゃん。
でも何だかんだ言って、みんな集まっている。
絶対みんな眠いに決まっている。
それでも誰も文句を言わず、その理不尽さに従っているのであれば、みんなどこかで楽しんでいる。
苦労した後の達成感とか。
それを外野が「強制は良くない」と止めるのは間違っている。
もちろん違法、ハラスメント、健康を害するなどの人権侵害があるのなら、異を唱えたほうが良い。
しかしそうでない場合、楽しめればOKなこともある。
不要な強制、楽しめない強制からは逃げよう。
一度自由に立ち戻ろう。
そこで、
「信じられるか?」
「期待できるか?」
「強制になってるか?」
と自問する。
それができれば、自由でありながら、「信じる」「期待する」「強制する」について考えることを、バランス良くできるはずだ。
誰に文句を言うでもない。
あなたの人生だ。