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『オレの棺に、千の人生は入らない』


              作 ジロン


    あらすじ

    毎朝目が覚めると、そこは昨日と違う世界だった。

    三十二歳の田中涼介は、ある朝を境に「あの時こうしていたら」という選択が現実となった無数の人生を、一日ずつ渡り歩くようになる。それは夢でも幻でもなく、驚くほどリアルな体験だった。
    最初は戸惑い、やがて夢中になった涼介だが、何百もの世界を重ねるうちに気付くある奇妙な空洞感。
    そして彼はたどり着く——本当の人生とは何か、という答えに。

    選ばなかった道の向こうに何があるのかを知ってしまった男が、それでも「今日」を選ぶまでの物語。


    もくじ

    • プロローグ 最初の朝

    • 第一章  繰り返す朝

    • 第二章  羨望と収集

    • 第三章  虚無の発見

    • 第四章  本物の傷

    • 第五章  子供の問い

    • 第六章  繰り返しの中の孤独

    • 第七章  七海との一日

    • 第八章  春の朝

    • 第九章  高橋への電話

    • 第十章  最後の問い

    • エピローグ 千の人生と今日



    プロローグ 最初の朝


    誰にだってある。
    変えたい過去くらいきっと…

    そう、
    誰もが一度くらいは思うはずだ。
    あの日、あの時、あの瞬間。

    ああしていれば、こうしていれば…
    そして、
    なぜ
    行動に移さなかった?

    勇気をほんの少し…
    なぜ
    絞り出せなかった……………

    心を素直に…
    なぜ
    認めてあげなかった……………


    もし、

    もしも、
    行動に移していたならば
    もし、
    勇気があったならば
    もし、
    心を認めていたならば

    その
    もしもが存在していたならば…………






    それが最初に起きたのは、何でもない木曜日の朝だった。

    目覚ましより少し早い5時55分ちょうどに勝手に目が覚めた。
    いつもより何か澄んでいる気がした。夢の残滓も、眠気の靄もなく、いきなり意識が立ち上がってくる感覚。
    まるで誰かに名前を呼ばれたような、そういう目覚め方だった。

    そういう寝起きの意識の中、まぶたを開けると
    ぼんやりと天井が視界にはいる。

    見慣れたはずのシミの位置が違った。いや、シミそのものがなかった。
    というよりも、
    天井そのものが違う。

    だが、そのことを一瞬も不思議にすら思わなかった。
    朝というのは時々そういうものだ。まだ思考が追いついていなくて、昨日と今日の境界があいまいな状態はよくあることだ。
    起き上がろうとする。
    寝ぼけているだけだ、と思った。
    しかし身を起こした瞬間、全身に違和感が走った。

    (何処だ、ここ)
    見知らぬ部屋だった。

    ワンルームではなく、広いリビングがある。
    天井は高く、窓は大きい。朝の光が、清潔な白いカーテン越しに差し込んでいた。
    家具は上等で、どれもが「センスのある誰か」によって選ばれたことが一目でわかった。
    床はフローリングで、踏むとひんやりとした感触がある。カーペットを敷いていない。
    壁には絵が一枚かかっていた。抽象画で、青とグレーが混ざったような色合い。安っぽくはない。
    窓の外には見たことのない街並みが広がっていた。

    誰の部屋だ?

    ぼんやりした頭でそう思った。
    しかし、昨日は確かに自分の部屋に
    帰ったはずだ。
    それにこんな上等な部屋に住む
    知り合いに心当たりはない。

    田中涼介、三十二歳。

    彼は自分の名前と年齢を確かめるように、心の中で唱えた。
    パッとしない中堅商社の営業マン。
    担当は工業用資材で、クライアントは中小企業が多い。達成感のある仕事ではないが、転職を考えるほど嫌ではない。
    彼女はいない。前の彼女と別れてから二年が経つ。貯金は二百万円ほど。特技はなく、趣味も続かない。読みかけの本が三冊あって、どれも半分より前で止まっている。
    そういう男が、見知らぬ部屋で目覚めた。

    混乱しながら立ち上がると、
    その刹那、ふいに記憶が波のように押し寄せてきた。

    引き潮が砂の上に貝殻を残すように、誰かの記憶が涼介の中に流れ込んできた。最初はぼんやりした輪郭だったものが、急速に鮮明になっていく。
    この部屋は自分のものだ。港区の高級マンション。家賃は三十八万円。月に三十八万円を払える自分がいる。
    自分はコンサルティング会社の部長で、年収は二千万を超えている。
    大学時代に起業サークルで出会った仲間と事業を立ち上げ、三十歳で会社を売却して今の職に就いた。

    俺が、そんな人生を?

    鏡を探した。玄関の近くに姿見があった。歩み寄って、覗き込む。

    自分の顔だった。
    ただし、どこか違った。目に力があり、顎のラインが引き締まっている。肌のくすみが少ない。
    姿勢がいい。現実の涼介より、少しだけ「できる男」に見えた。
    それは別人ではなかった。同じ顔の、別バージョンとでも言うべきものだった。
    現実の涼介が読んだことのない本を何冊も読み、現実の涼介が経験したことのない失敗をいくつも乗り越えた顔。

    涼介はしばらく鏡の前に立ち尽くした。

    クローゼットを開けると、スーツが5〜6着かかっていた。どれも仕立てが良く、現実の涼介なら値段を見ただけで諦めるようなものだった。
    迷わずその中の一着に手を伸ばした。
    記憶がそうさせた。
    この自分はいつもこのグレーのスーツを月曜日に着る。今日は木曜日だから、紺のほうにする。自動的にそういう判断ができた。

    その日一日、涼介は夢の中を歩くように過ごした。

    高層ビルの会議室。三十階から見下ろす東京の風景は、現実の涼介が知っているものより遠くまで見えた。
    洗練された同僚たち。誰もが自分の仕事に自信を持って動いていた。
    涼介は記憶の助けを借りながら、その中に溶け込んだ。
    頷くべきところで頷き、発言すべきところで発言した。するとみんなが聞いた。この自分の言葉を、人々は信頼していた。

    夜景の見えるレストランでの接待もあった。クライアントは大手メーカーの役員で、涼介より十歳は上だった。
    しかし話の中で、相手はこちらを立てた。尊重した。
    現実の涼介が工業用資材を売り込む時の、あの空気とは違う空気が、そこにはあった。

    何もかもが現実より上等だった。

    帰り道、タクシーの窓から夜の東京を見ながら、涼介は考えた。
    これが自分だったら、と。
    もし大学の時に違う選択をしていたら。
    もし起業サークルに入っていたら。
    もし臆せずに、あの時踏み出していたら。

    そして夜、ベッドに入って目を閉じると、意識が溶けるように消えた。

    まるで深い水の中に沈んでいくように。抵抗する間もなく、意識の灯火が、すっと消えた。

    翌朝、目が覚めた。
    天井には、見慣れたシミがあった。

    自分のボロいワンルームだった。

    窓の外を路線バスが通り過ぎる振動が、床に伝わってくる。
    台所の蛇口が微妙に緩んでいて、夜中にポタポタと音がする。
    隣の部屋の住人が早朝から動き回る足音がする。全部、いつも通りだった。

    夢だったのか、と思った。

    しかし夢にしては鮮明すぎた。
    スーツの質感も、コーヒーの苦さも、部下の名前も、夜景のレストランでの会話の細部も、全部覚えていた。
    夢というものは目覚めてしばらくすると輪郭が崩れ、しだいに消えていく。
    ところが昨日の記憶は消えなかった。それは体験として残っていた。

    涼介はしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと起き上がった。
    台所に行き、インスタントコーヒーを淹れた。
    昨日飲んだコーヒーとは全然違う味がした。そりゃそうだ、と思いながら、涼介はそれを飲んだ。

    これが、始まりだった。


    第一章 繰り返す朝

    それから毎朝、世界が変わった。

    ルールは単純だった。
    眠りにつくと別の「自分」に移る。
    その世界での記憶が流れ込んでくる。身体は動く。会話もできる。
    しかし夜眠ると、また別の朝が始まる。

    法則と呼べるようなものがあるとすれば、それだけだった。
    どの世界に行くかは選べない。
    どのくらいそこにいられるかも、原則として一日限りだった。
    起きてから眠るまで。そしてまた別の朝が来る。

    最初の数週間、涼介は困惑と好奇心の間を揺れた。

    ある朝は、大学時代に諦めた音楽の道を選んだ自分だった。

    小さなライブハウスの楽屋で目覚めると、使い込まれたギターと、書き込みだらけの譜面が周りにあった。
    財布の中身は寂しく、スマートフォンは格安のものだった。
    部屋を借りているのは東京の外れの、築四十年のアパート。
    洗面台の鏡には、誰が貼ったのだろうか「成り上がり」という色あせたシールが貼ってあった。

    現実の涼介は音楽が好きだった。
    大学の頃、ギターを弾いていた時期がある。
    バンドを組もうとした友人もいた。
    しかし就活の時期になると、そういうものは自然に薄れていった。
    音楽で生きていくことなど、初めから考えていなかった。才能があると思ったこともなかった。

    それでも鏡の中の自分は、どこか生き生きとした目をしていた。
    疲れていることは間違いなかった。目の下にうっすらクマがある。
    財布の中身が少ないのは、生活が楽ではないからだろう。
    しかし目の奥に、小さな火があった。消えそうで、しかし確かにそこにある種類の光。

    その日の夜、ライブがあった。

    客は十数人。
    照明は粗末で、PAのバランスも今ひとつだった。
    機材の一部は借り物で、ケーブルの接続が甘いのかジリジリとノイズが混じった。
    楽屋は狭く、出演者が四組いて、順番待ちの時間が長かった。

    しかし涼介がギターを持って立つと、指が自然に動いた。

    この自分が積み上げた十年の記憶が、筋肉に染み込んでいた。
    弦の押さえ方、ピッキングの角度、コードを切り替える時のわずかな間。
    現実の涼介が覚えているのはCとGとAmくらいのものだったが、この自分の指は複雑なコードを迷いなく押さえた。

    曲が始まった。

    涼介は歌いながら、客席を見た。
    十数人の人間が、それぞれの表情でこちらを見ていた。
    スマートフォンをいじっている者もいた。
    遠い目をしている者もいた。
    しかし何人かは、真剣に聞いていた。
    腕を組んで、頷いている男がいた。ビールを持ったまま固まっている女がいた。

    最後の曲が終わったとき、小さな拍手が起きた。

    たった十数人の拍手だったが、涼介の胸に何かが刺さった。
    現実の自分は一度も経験したことのない感触だった。
    自分の作った音が、自分の歌った言葉が、知らない人間の胸に届いた。
    そのことの、小さいが確かな手応え。

    ライブ後、物販テーブルの前に一人の男が来た。
    三十代くらい。地味な格好をしていた。
    「CDください」
    と言った。
    手渡すとき、男は
    「前から聴いてます」
    と言った。
    それだけだった。
    しかしその一言が、何かを変えた。
    前から、という言葉。
    積み重なった時間を想像させる言葉。

    この男は、別の日にもここに来たことがある。それがこの小さなライブハウスに、継続を生んでいた。

    その夜、ラーメン屋でチャーシューメンを食べながら、涼介はその感触をずっと反芻していた。
    儲かってはいない。
    有名でもない。
    豊かでもない。
    しかし何かがある。
    それが何なのか、うまく言葉にはできなかった。

    またある朝は、別れを告げた恋人・七海と結婚した世界にいた。

    七海、本名・秋元七海。
    大学四年の春に、共通の友人の集まりで出会った。
    化粧が薄く、話し方が静かで、笑うときに目が細くなる人だった。
    映画が好きで、読書家で、意見を押しつけない代わりに、自分の考えはしっかり持っていた。

    二年間、付き合った。

    涼介が
    「まだ自分の人生を決めたくない」
    という曖昧な理由で距離を置き始め、七海が
    「どういうこと」
    と聞き、涼介がうまく答えられずにいると、七海がしばらく待って、やがて泣きながら
    「もういい」
    と言った。それきりだった。

    その世界のリビングには見覚えのない家具があり、冷蔵庫には二人分の食材があった。
    七海が台所で鼻歌を歌っている声が聞こえた。
    低く、メロディを楽しむような歌い方。
    静かで、自然で、その部屋に染み込んでいる声だった。

    「おはよう」と言いながら振り返った七海は、少し大人になっていた。
    笑い方は変わっていなかった。
    目が細くなる。頬に、笑窪の気配がある。
    大学の頃より髪が少し短い。
    でもそれが似合っていた。

    「ねえ、今日の夜ごはん何がいい?」涼介は一瞬言葉に詰まった。
    「なんでも」
    と答えた。
    七海はちょっと唇を尖らせた。

    「毎回それ言うんだから」

    毎回。

    その言葉が、涼介の胸に小さく刺さった。
    毎回、という言葉が指し示すもの。
    何度も繰り返されてきた朝。
    何百回という「おはよう」と「今日の夜ごはん何がいい?」と「なんでも」と「毎回それ言うんだから」の積み重ね。

    この自分と七海の間には、「毎回」があった。

    何度も繰り返されてきた小さなやりとりの積み重ねが、あの唇の動きを作っていた。
    七海の「毎回それ言うんだから」は怒っているわけでもなく、ただの習慣の確認だった。この人はこういう人だ、という穏やかな了解。

    涼介はテーブルにつきながら、胃の奥に鈍い痛みを感じた。

    羨ましいのか、と思った。
    しかし羨ましいとは少し違った。
    もっと複雑な感情だった。
    自分がかつて持っていたかもしれないものの輪郭を、時間を経て初めてはっきりと見た、あの感じ。


    第二章 羨望と収集

    二ヶ月が過ぎた頃、涼介は自分なりの「楽しみ方」を覚えた。

    まず目覚めた瞬間に、部屋を見渡す。
    どんな選択をした自分か。
    次に、流れ込む記憶を整理する。
    仕事、家族、恋愛、友人。
    その日一日でできることを把握する。
    そしてその人生を、全力で生きてみる。

    エリートコースを歩む自分の日には、緊張感のある会議に臨んだ。
    海外赴任した自分の日には、異国の空気の中で仕事をした。
    子供のいる自分の日には、夕方に公園で娘を抱き上げた。
    陶芸家になった自分の日には、土の感触とともに静かな午前を過ごした。
    農家になった自分の日には、夜明け前から田んぼに出た。

    どの世界にも、今の自分が持っていないものがあった。

    涼介は毎朝、まるでホテルのルームサービスのメニューを眺めるように、その日の人生を受け取った。
    選ぶことはできない。届いたものを受け取るだけ。
    しかしその多様さは、現実の涼介が生涯をかけても経験できないほどのものだった。

    それぞれの世界で印象的だったことを、現実の世界に戻った時、涼介は手帳に書き留めるようになった。

    現実の自分の世界だけは、連続していた。
    パラレルワールドを渡り歩いても、それを体験している「観察者としての涼介」だけは積み重なっていく。
    その記憶を保存しておきたかったのだ。二ヶ月分のメモが増えていった。

    手帳の最初のページにはこう書いてあった。

    「音楽家の俺——指にタコができている。ギターを弾くときの開放感。ライブ後に食べるラーメンの胃袋を満たす感覚。貧乏でも感じられた幸福」

    「七海と結婚した俺——彼女の機嫌が悪い日の兆候を知っている。冷蔵庫の開け方が少し乱暴になる。それを知っているということが、時間の証明だと思った」

    「起業した俺——部下の前では弱みを見せない。でもトイレで一人になると、壁に手をついて深呼吸する。あれは一種のルーティンだった。出てくる時には何事もなかった顔をする」

    「農家の俺——夜明け前の空が、きれいだった。ピンクと紫が混ざったような色。あれは毎日見られる空なのに、今まで知らなかった」

    どの自分も、複雑だった。

    表側から見れば「成功」に見える人生でも、内側には見えない重さがあった。
    コンサルタントの自分は高い年収を持ちながら、週末に一人で酒を飲む習慣があった。
    誰かを呼ぶでもなく、どこかに出かけるでもなく、ただ一人でウイスキーのボトルと向き合う。
    その表情は、会議室の自信に満ちた表情とは全く違うものだった。

    子供のいる自分は幸せそうだったが、夜中に一人でリビングに座って、手帳に数字を書き込んでいた。
    教育費の計算だったのか、住宅ローンの試算だったのか、別の何かだったのか、涼介にはわからなかった。
    しかしその背中は、丸まっていた。
    昼間に娘と公園で走り回った同じ人間が、夜中に丸まっていた。

    医者になった自分の日があった。
    外科医で手術が多い。
    その日は難しいオペが入っていた。
    十時間以上、立ちっぱなしで手術をした。終わった時、脱力して更衣室前のベンチに倒れ込んだ。
    看護師が「お疲れ様でした」と言って、湯気の立ったコーヒーを手渡した。涼介はそれを受け取りながら、「助かった」と思った。
    患者が助かった、という意味と、自分が助けてもらった、という意味が、その言葉の中に混在していた。

    研究者になった自分の日があった。
    大学の研究室。誰も来ない夜遅い時間に、データを眺めていた。
    三年取り組んできた実験が、行き詰まっていた。
    論文が書けない。成果が出ない。
    あと一歩が、どうしても届かない。画面を見つめながら、深呼吸する回数が多かった。
    それでも帰らなかった。
    データを閉じなかった。何かを諦めてはいなかった。

    それでも涼介は、羨ましいと思い続けた。どの自分も、自分より「多く」持っているように見えたのだ。

    ある日、同僚の桐島と昼飯を食べた。桐島は結婚していて、子供が二人いる。
    四十代でそこそこ出世していて、趣味はゴルフ。どこにでもいる中年男性だった。
    しかし食事の途中で、桐島は
    「いやあ、涼介のほうが自由でいいよな。縛られないから」
    と言った。

    涼介は返事をしなかった。

    自由。

    それが羨ましいと思う人間がいる。
    縛られないことが豊かさだと思う人間が、確かにいる。

    しかし涼介は毎朝、これまで百通り以上の「縛られている自分」に出会ってきた。
    音楽に縛られている自分。
    仕事に縛られている自分。
    恋人に縛られている自分。
    子供に縛られている自分。
    土地に縛られている自分。

    そのどれもが、「縛られている」ことによって、何かを手にしていた。

    縛られることで生まれる、深さというものがあるのかもしれない、と涼介は思った。
    しかしそれを桐島に説明する言葉を、涼介はまだ持っていなかった。



    第三章 虚無の発見

    三ヶ月が過ぎた頃から、奇妙な感覚が積み重なり始めた。

    最初は気づかなかった。あまりに少しずつ、あまりに静かに忍び込んでくるものだったから。

    どの世界を体験しても、夜になると同じ空洞感があった。

    料理の匂いがしても、腹の底から満たされない。
    誰かに「おかえり」と言われても、帰ってきた気がしない。
    仕事で成果を上げても、その達成感が次の朝には残っていない。
    なぜなら翌朝、涼介は別の世界にいるから。

    最初はそれを疲れのせいだと思っていた。体験の量が多すぎて処理が追いつかないのだ、と。
    しかし疲れとは少し違った。疲れているのに、眠れない夜があった。
    布団の中で天井を見つめながら、今日体験したことを反芻(はんすう)している。
    今日の世界の「自分」は、何を積み上げてきたのか。
    何に傷ついて、何に喜んで、何に意味を見出してきたのか。
    それをなぞりながら、自分は何も積み上げていない、と思う。

    観察しているだけだ、と気づいた時、初めてその空洞の正体がわかった気がした。

    転機は、老人になった自分の世界で目覚めた朝だった。

    縁側から手入れの行き届いた庭を眺めていると、七歳くらいの女の子が家の中から飛び出してきた。
    運動靴でよく動き回る子だった。庭に出た瞬間から駆け出して、バランスを崩しそうになりながら縁側の前で急に止まった。
    「おじいちゃん、昨日の話の続き、聞かせてよ」
    涼介は一瞬、固まった。

    昨日の話。

    流れ込む記憶の中に、それはあった。
    昨日の夕方、この孫娘に昔話を語って聞かせた記憶。
    山に住む狐の話。賢い狐が村の人間を助ける話で、登場人物に孫娘の名前をつけていた。
    孫娘は喜んで、続きをせがんだ。
    「明日ね」と言ってその日は終わった。それが「昨日の話」だった。

    しかしそれは、あくまで記憶だった。

    活字で読んだ本の内容を知っているのと、実際に声に出して語った経験は、違う。
    涼介は昨日この庭でその孫娘と座っていない。
    話していない。
    この子の目が輝くのを見ていない

    「……ちょっと待っておくれ」
    涼介は目を細めて庭を見た。

    木が一本、静かに立っていた。幹が太く、根が地面をしっかりと掴んでいた。
    誰かと一緒に植えたのだろう。長い時間をかけて育ったことが、ひと目でわかった。
    幹には凸凹があり、枝の分かれ方に歴史がある。大きな台風が来た年に、ここが折れた。そういうことが、幹の形に刻まれている。

    俺はこの木を、一秒も育てていない。

    その日の夕方、涼介は庭に出て木の幹に手を当てた。
    ざらりとした樹皮の感触があった。
    太い年輪が、手のひらの向こう側にあるはずだった。
    何十年分の朝と夜が刻まれた幹。涼介にはその年輪が、ない。
    老人の記憶として知ってはいても、それは借り物に過ぎなかった。

    孫娘が隣に並んで、同じように木を見上げた。
    「大きいね」
    「ああ」
    と涼介は答えた。
    「おじいちゃんが植えたの?」
    「そうだよ」
    「何のために?」

    涼介は少し考えてから言った。

    「ここに、いたことを残したくてな」

    孫娘は首を傾げた。
    「どういう意味?」

    涼介は答えられなかった。
    自分でも、うまく言えなかった。
    ただ、この木を見ながら感じていることを、七歳の子供に伝える言葉が出てこなかった。

    孫娘は少し待って、それからまた庭を走り出した。
    子供はすぐに別の何かに気を取られる。
    それでいい。
    七歳にとって、「ここにいたことを残す」という意味はまだわからなくていいのだ。

    涼介は木の幹に触れたまま、しばらくそこに立っていた。

    積み重ねるということは、こういうことか。

    木を植えて、水をやって、台風に耐えて、また水をやる。
    何十年も。
    その果てに初めて、孫に語れる木が生まれる。
    涼介には語れる木がない。
    知識としての木はある。
    しかし語れる木がない。

    その夜、涼介は眠れなかった。

    夜明け近くになって、ようやくうとうとした。
    眠りにつく直前、涼介は思った。私は今日この庭で、何かを確かめた。
    しかしそれを誰かに話すことが、私にはできない。

    なぜなら明日の朝、私は別の世界にいるから。

    この老人の庭も、この木も、この孫娘の笑い声も、明日の涼介には持ち越せない。



    第四章 本物の傷

    転機が訪れたのは、雨の続く十一月だった。

    十一月は涼介の嫌いな季節だった。
    空が低く、日が短く、気温がじわじわと下がっていく。
    何かが終わっていく感じと、何かを待つ感じが同居する、中途半端な季節。

    その日目覚めると、重い空気が部屋に満ちていた。
    雨音がした。
    窓の外は暗く、雨粒が窓ガラスを叩いていた。流れ込む記憶の中に、葬儀の映像があった。
    黒い喪服。
    白い菊。
    泣き崩れる女性の背中。
    泥のような疲れ。

    親友の高橋を、交通事故で亡くした世界だった。

    高橋賢太は現実の涼介にも存在する人間だった。
    大学の同期で、今も年に数回飲む間柄だ。
    工学部出身なのに「俺、理系っぽくないよな」と自分で言うような男で、確かに雰囲気は文学部の学生みたいだった。
    いつも馬鹿げた冗談を言い、終電を逃して涼介の部屋に転がり込んでくる、そういう男だった。
    「お前んち、ホテルとして最高なんだよな」と毎回言う。布団の場所を知っていて、勝手に出してくる。涼介は毎回「次から鍵は渡さない」と言って、結局渡している。

    その男が、この世界では三年前に死んでいた。

    布団の中でしばらく動けなかった。

    この世界の自分の記憶が、次々と押し寄せてきた。
    雨の中を歩いた通夜の帰り道。
    傘をさす気力がなくて、途中から畳んで歩いた。びしょ濡れで帰ったのに、着替える気になれなくて、濡れたコートのまましばらくソファに座っていた。
    一人で飲んだ安いウイスキー。
    高橋が好きだったラーメン屋の前を通るたびに足が止まった、あの半年間。
    涼介は「人と食べるメシは最高!」とよく言う高橋を思い出した。
    一人で食べに行くのが嫌な男だった。誰かを誘って、一緒に食べたがる男。

    笑えなくなった時期があった。

    友人たちも心配して連絡をくれた。「飲まない?」「どうしてる?」「元気?」返信するのがしんどかった、あの冬。元気ではないことを説明するのが面倒で、かといって嘘をつくのも嫌で、画面を見つめたまま返信しなかった日が続いた。

    体が重かった。起き上がれなかった。

    現実の涼介は高橋を失っていない。しかしこの記憶は、リアルだった。
    悲しみが、借り物とは思えないほど生々しく胸に広がっていた。
    胸のあたりが締め付けられるような感覚。息を吸うたびに、何かが痛い。
    これは感情であるはずなのに、身体的な痛みとして感じられた。

    やがて午後になって、涼介はようやく起き上がった。

    体が重かった。
    足がうまく動かなかった。台所で水を飲んで、窓の外の雨を見た。
    三年前と同じような、十一月の雨だった。

    机の引き出しを開けた。

    何を探しているのか、自分でもわからなかった。
    しかし記憶が引いていった先に、それはあった。
    パンフレットだった。北海道の旅行案内。
    余白に、走り書きがあった。

    インクがにじんでいる場所があった。

      『いつか必ず行く。お前の分も見てくる。 賢太、待ってろ。』

    涼介は、その文字を長い間見つめた。

    下手くそな字だった。
    おそらく泣きながら書いたのだろう。
    文字の形が、感情を押し込めた時の形をしていた。
    震えてはいないが、書いた人間が泣いているのがわかる。力の入り方に、そういうものが滲んでいた。

    この言葉は、痛みの中から生まれていた。

    取り返せない喪失が、それでも前へ向かおうとする力になっていた。
    高橋がいなくなった世界で、この自分は倒れながらも立ち上がり、この一行を書いた。

    涼介には書けない言葉だった。

    高橋はまだ生きている。
    だから涼介には、この種類の悲しみがない。この種類の強さも、ない。

    傷が、人を作る。

    漠然と、しかし確かに、そう思った。

    どの世界の自分も、涼介が知らない痛みを経て今日に立っていた。
    失敗、喪失、後悔、選ばれなかった日々。
    音楽家の自分は、鳴かず飛ばずの何年もを経て今日のライブに立っていた。
    起業した自分は、会社を立ち上げ混乱と苦労の中を通り抜けてきた。
    七海と結婚した自分は、二人でぶつかった何度かの危機を乗り越えてきた。

    それらが積み重なって、それぞれの「自分」の輪郭を作っていた。

    傷のない自分に、輪郭はない。

    涼介は、その考えを胸に刻んだ。
    その刻んだ考えを何度も心で繰り返した。
    正確な言葉かどうか、今の自分ではわからなかった。
    しかし、見過ごせない何かがそこにはあった。

    涼介は高橋に電話をかけたくなった。

    しかしこの世界に、高橋はいない。
    電話をかけられない。
    「元気か」と聞けない。
    「飲みに行こう」と言えない。
    当たり前のことが、当たり前にできない。
    現実の涼介は今日も高橋に電話できる。
    しかしその「できる」ことの価値を、今まで一度も考えたことがなかった。

    窓の外で、雨が降り続けていた。



    第五章 子供の問い

    十二月、涼介は子供のいる世界に三度目の朝を迎えた。

    娘の名前は、花、といった。
    五歳で、目が大きく、よく笑う子だった。
    朝が早い子で、七時前には起き出してくる。その日も寝室のドアを開ける音がして、「パパ、おきてー」という声がした。
    ドアを押し開けながら言う声。まだ眠い頭で扉を押しているのが伝わってくる、そういう声。

    この世界には妻もいた。
    名前は麻衣。
    現実の涼介が知らない女性だったが、記憶の中では出会いから結婚までの経緯が流れ込んでいた。
    職場で知り合い、三年付き合って結婚した。穏やかで、芯の強い人だった。怒る時には静かに怒る。
    嬉しい時には静かに嬉しがる。
    派手ではないが、揺れない。

    朝食の準備をしている頃、花はテレビを見ていた。何かのアニメだった。途中で飽きたのか、テレビを消して台所のほうへやってきた。
    椅子に座って、机に頬杖をついた。

    「ねえパパ、人間はなんで死ぬの」

    「突然どうしたの」
    麻衣が笑った。

    涼介は手を止めて、娘の目を見た。
    真剣な目だった。
    ふざけてなどいない。
    保育園で何かあったのかもしれない。クラスの子の祖父母が亡くなった話を聞いたのかもしれない。
    あるいはただ、テレビで何か見たのかもしれない。
    子供の「なぜ」は、脈絡なく来る。
    しかしその「なぜ」は、いつも本物だ。

    「死ぬから、今日が大事になるんだよ」

    口から、自然に出た言葉だった。

    台本があったわけではない。
    答えを準備していたわけでもない。
    しかし言葉は出てきた。無数の別の世界を渡り歩いてきた観察者が、そう答えた。
    花はしばらく考えてから、
    「よくわからない」
    と言った。
    「そのうちわかるよ」

    麻衣が
    「パパ、難しいこと言うね」
    と苦笑した。
    涼介は味噌汁を飲みながら、自分でも少し驚いていた。
    いつのまにか、そう思うようになっていたらしかった。
    死ぬから今日が大事。言葉にすれば当たり前のことだ。小学校の道徳でも習うような言葉かもしれない。
    しかし涼介がそれを口にした時、それは体験から来た言葉だった。

    何百の「別の今日」を見てきた。
    そしてどの世界でも、人は一日の中で懸命に何かをしていた。
    失敗して、傷ついて、立ち上がって、また明日に進もうとしていた。それはすべて、終わりがあることを知っているからだった。

    その日の夕方、公園で花と遊んだ。

    十二月の夕方は早い。
    四時を過ぎると空がオレンジになって、五時前には暗くなる。
    それでも花は「まだ遊ぶ」と言い張った。すべり台を何度も滑り、その度に「見てて、見てて」と言った。
    涼介は「見てるよ」と答えながら、ベンチに座って空を見ていた。

    夕暮れの空はオレンジで、雲が薄く引いていた。

    こういう空を、現実の涼介は見ていない。少なくとも、ちゃんとは見ていない。
    会社帰りに空を見上げることはあっても、立ち止まって見ることはない。
    次の信号までの間に、視界の隅に入ってくるものとして見ている。
    それと、今見ているこの空は、違う。

    この空を、自分は明日見ない。

    明日の朝、涼介は別の世界にいる。
    この夕空は、この一日限りのものだ。

    なぜかそのことが、胸に重く落ちた。今まで感じたことのない重さだった。惜しい、という気持ちではなかった。どこか、もっと根本的なところを揺さぶる感覚だった。

    「パパ、なんで泣いてるの」
    花が走り寄ってきた。

    涼介は頬に手をやった。濡れていた。

    「……きれいだなって思って」
    花は首を傾げて、同じ方向を見た。

    「うん、きれいだね」
    そう言って、また走っていった。

    涼介はその背中を見送りながら、ずっと涙を流していた。
    なぜ泣いているのか、自分でも整理できなかった。
    きれいだから泣いているのではない。いなくなることが悲しいわけでもない。
    何か、もっと根本的なものが揺れていた。

    帰り道、花が涼介の手を握った。
    小さい手だった。
    信号が青になると「走るよ」と言って、つないだ手を引っ張った。
    涼介は引かれながら走った。
    それだけのことだった。
    しかしその「それだけのこと」が、今日という一日の中でいちばん確かなものに感じられた。

    夜、布団の中で花を読み聞かせた。
    絵本を三冊読んだ。
    花は途中で眠った。眠った顔を見ながら、涼介はしばらくそこに座っていた。

    麻衣がドアから顔を出して
    「花、寝た?」
    と聞いた。
    「うん」
    と涼介は答えた。麻衣は
    「今日、なんか変だったね」
    と言った。
    「変?」
    「泣いてたんでしょ、公園で」
    「花に聞いた?」
    「ええ。パパが空を見て泣いてたって」
    涼介は少し笑った。
    「きれいだったんだよ」
    麝襣は
    「そう」
    と言った。それだけだった。それ以上聞かなかった。

    彼女はこういう人だ、と涼介は思った。
    それ以上聞かない。聞かなくていい、と判断して、聞かない。
    そういう人と、何年も一緒にいるということ。

    眠りに落ちる前、涼介は考えた。

    今日という一日が終わる。
    明日、涼介はここにいない。
    この世界の涼介が消えるわけではない。
    しかし、花の「見てて」も、麻衣の静けさも、あの夕空も、明日には消える。
    現実の涼介とだけ繋がらずに。
    それはどういうことか。

    持てないなら、意味がないのか。一日しかいられないなら、体験する価値がないのか。

    違う、と涼介は思った。

    今日はあった。確かにあった。
    涼介がここにいた今日は、存在した。それは消えない。少なくとも、涼介の中には残る。
    あの夕空の色は、涼介の記憶の中には残る。

    消えても、あったことは本物だ。

    それが、今日涼介が気づいたことだった。



    第六章 繰り返しの中の孤独

    年が明けた頃、涼介は別の悩みを抱えるようになっていた。

    現実の人間関係が、少しずつおかしくなっていた。

    職場の同僚・桐島から「最近どこかぼんやりしてない?」と言われた。
    確かに、涼介はしばしば別の世界での出来事を考え込んでしまう。
    打ち合わせ中に、昨日の別の世界での会話が頭をよぎる。
    昨日の世界では医者だった。難しい手術をして、疲れ果てた。そのことを考えていると、桐島の声が遠くなる。

    「田中さん、聞いてましたか」

    「すみません、もう一度お願いします」
    こういうことが、増えた。

    友人との飲み会では、笑えない瞬間が増えた。
    みんなが「あのとき別の選択をしていたら」という話をするたびに、涼介は黙った。
    それが冗談交じりの愚痴であっても、涼介にとっては重い問いだった。
    「俺が音楽続けてたらな」
    「あの会社に行かなきゃよかった」
    「あの子と付き合ってたらどうなってたんだろう」
    みんながそれを軽く言う。飲みながら言う。けらけら笑いながら言う。

    しかし涼介には、「あのとき別の選択をした自分」が見えてしまっていた。

    音楽を続けた自分は、確かにいる。
    そしてその自分の生活の細部を、涼介は知っている。指のタコ。格安スマートフォン。小さな拍手の手応え。そのどれもが、冗談ではなかった。
    飲みの席の話のネタではなかった。
    一人の人間の、地面の重力を感じながら生きている現実だった。

    「お前、最近つまらなくなったよな」

    大学の友人・田辺が、ある夜そう言った。
    「前は馬鹿な話しても笑ってたのに」

    「そうか」

    「なんか悩んでんの?」

    「別に」

    「彼女でも?」

    「いない」

    「だから?」

    「違う」

    田辺は「まあいいけど」と言ってビールを飲んだ。
    そのまま話は流れていった。田辺は空気を読む男だった。無理に引き出そうとしない。

    涼介はビールを飲みながら、自分が何に悩んでいるのか整理しようとした。
    しかし整理できなかった。言葉にならないものが、胸の中に詰まっていた。

    私は毎朝別の世界に行く。
    何百通りの人生を見てきた。だからどの選択も軽く扱えない。
    どの後悔も笑えない。
    そういうことだろうか。
    しかしそれを田辺に説明する気にはなれなかった。説明できたとして、どう受け取られるかがわからなかった。

    一番辛かったのは、高橋と飲んだ夜だった。
    高橋はいつも通りだった。
    くだらない話をして、酔って、
    「今日、電車乗る自信がない」
    と言って、結局終電を逃して涼介の部屋に転がり込んだ。
    涼介はその間ずっと、高橋のいない世界の記憶を抱えながら座っていた。

    この男が死んだ世界を、俺は知っている。
    高橋が笑うたびに、胸が痛かった。

    こんなによく笑う男が、死ぬことがある。事故は突然来る。さっきまで笑っていた人間が、翌日にはいなくなることがある。
    その事実を、涼介は一つの世界の記憶として持っていた。それは現実ではない。しかし経験として持っていた。

    「お前、最近なんか変わった?」
    高橋がそう言った。

    「そうか?」
    「なんか、目が違う気がする」
    「どう違う」
    「なんか、遠い目してる。哲学者みたいな」
    「哲学者って」
    「いい意味でも悪い意味でもなく」

    涼介はビールを飲んだ。
    「考えることが増えたかもな」

    「何を?」
    「いろいろ」

    「彼女?」
    「違う」

    「仕事?」
    「違う」

    「じゃあ何?」
    「うまく言えない」

    「まあそういう時もあるか」
    高橋は言った。
    それ以上は聞かなかった。
    この男も空気を読む。
    ただし田辺とは違う空気の読み方をする。田辺は話を流れるように変えるが、高橋は変えない。ただ、そこに座っている。

    深夜、高橋が寝落ちした後、涼介は暗い台所でビールを飲んだ。

    どの世界も体験できる。どの選択肢も覗ける。それはすごいことのはずだった。なのに、なぜこんなに寂しいのか。

    答えは薄々わかっていた。

    どの世界でも、涼介は一日しかいられない。どんな豊かな人生も、翌朝には消える。
    誰かと信頼を築いても、それを持ち越せない。何かを成し遂げる手応えを感じても、翌日にはリセットされる。

    涼介は、積み重ねることができなかった。

    どの世界の自分も、積み重ねていた。
    音楽家の自分は十年積み重ねていた。
    七海と結婚した自分は何年も積み重ねていた。
    老人の自分は、庭の木を何十年かけて積み重ねていた。

    それが、越えられない壁だった。

    高橋の寝息を聞きながら、涼介は窓の外の夜を見た。東京の夜は明るい。
    闇の中に、光の断片がたくさん浮いている。それぞれの光の中に、それぞれの人間がいる。
    みんなが何かを積み重ねている。
    それに気づいてしまったことが、果たして良いことだったのか。

    気づかないほうが、楽だったかもしれない。
    気づいてしまったからこそ、持てないことが痛い。



    第七章 七海との一日

    二月、涼介は七海と結婚した世界に、久しぶりに戻った。

    前に来た時から何ヶ月か経っているらしく、部屋の中に小さな変化があった。
    ダイニングテーブルの上に、見覚えのない観葉植物が置いてあった。
    窓際に本棚が増えていた。七海が読む本が増えたのだろう。カバーのかかった文庫本が何冊か並んでいた。

    その日は日曜日で、二人に予定はなかった。

    七海は午前中、読みかけの文庫本を読んでいた。ソファに足を折って座り、本を持つ手に力が入っていた。面白い場面なのかもしれなかった。涼介はコーヒーを淹れ、窓辺に座って外を見ていた。二月の朝は寒く、窓ガラスが少し曇っていた。

    特別なことは何もない一日だった。

    昼前に、七海が「なんか買い物行こうかな」と独り言のように言った。
    涼介は「一緒に行く」と言った。七海は少し驚いた顔をしてから、「うん」と言った。スーパーで食材を買った。涼介が適当にカゴに入れようとすると、七海が「それ、昨日買った」「これ、もう少し待ってから買ったほうがいい」と言った。冷蔵庫の在庫を、すべて把握していた。
    彼女はこの家を知っている。
    当たり前のことだが、涼介はその当たり前さに驚いた。

    昼過ぎに、七海が言った。
    「ねえ、散歩しない?」

    近所の川沿いを、二人で歩いた。
    七海はコートのポケットに手を入れて、川面を眺めながら歩いた。
    時々思い出したように話し、また黙った。
    職場の同僚の話、読んでいた本の話、「春になったら植木鉢に何か植えたい」という話。話題はつながっていなかった。
    つながっていなくても、それで良かった。

    涼介は隣を歩きながら、七海のことを見ていた。

    別れた日から十年近くが経っていた。
    七海はあの頃より少し落ち着いた雰囲気になっていたが、考え込むときに眉が寄る癖は変わっていなかった。
    話の途中で「あれ、なんだっけ」と止まる癖も変わっていなかった。
    涼介が大学の頃に覚えていた七海と、目の前を歩いている今の七海が、同じ連続した時間の中に存在していた。

    橋の上で立ち止まり、欄干に肘をついて川を見下ろした。冬の川は水量が少なく、色が暗かった。

    「何考えてるの」
    と涼介は聞いた。

    「別に。なんとなく」
    と七海は言った。

    それだけだった。

    しかし涼介は、その「なんとなく」の豊かさを感じた。
    二人の間には、説明しなくてもいい沈黙があった。言葉にならないものを置いておける空気があった。
    それは、長い時間が作ったものだった。何年もかけて、二人の間で育ったものだった。

    大学の頃、涼介は七海の沈黙が苦手だった。何を考えているのかわからなくて、何か言わなければと焦った。
    今の七海と並んで橋の上に立って、それが杞憂だったと知った。
    七海の沈黙は、何かを隠しているのではなく、ただそこにあるだけのものだった。

    「川って、ずっと流れてるんだね」
    と七海が言った。

    「うん」

    「当たり前だけど、ずっと流れてる。私たちが寝てても、会社行ってても」「そうだな」

    「なんか、それがいいなって思って」

    涼介は川を見た。確かに流れていた。止まっていなかった。人間が意識しなくても、川は動いている。

    帰り道、七海が涼介の腕に手をかけた。特に何も言わず、ただそうした。
    コートの上から触れる手の感触があった。
    涼介は、その重さを感じながら歩いた。

    これを俺は、選ばなかった。

    後悔ではなかった。現実の涼介が七海と別れた選択を、今さら責めているわけではなかった。
    ただ、その重さを確かめたかった。
    自分が手放したものの、本当の質量を。二年間付き合った末に手放した人間との、十年後の腕の重さを。

    それは、重かった。思っていたより、ずっと重かった。

    夕方、家に帰って温かいものを飲んだ。七海がお湯を沸かして、二種類のハーブティーを出してきた。
    「どっちがいい?」
    と聞いた。涼介は
    「どっちでもいい」
    と答えた。七海は
    「じゃあこっち」
    と言って、片方を渡した。
    毎回「なんでも」「どっちでもいい」と答える涼介への、七海なりの答え方だった。涼介は受け取った。

    夜、ベッドに入る前に七海が言った。

    「今日、楽しかった」

    「何もしてないけど」
    と涼介は言った。

    「それがよかったんじゃない」
    七海は電気を消した。

    暗闇の中で、涼介は目を開けていた。

    何もしない一日が、楽しかった。
    それはどういうことなのか、涼介はずっと考えていた。
    スーパーに行って、川沿いを歩いて、ハーブティーを飲んだ。
    それだけの日。
    何かを達成したわけでもなく、どこかへ行ったわけでもない。
    しかし七海は「楽しかった」と言った。

    何もない日が輝いて見えるためには、その前に何かが積み重なっている必要があるのではないか。

    二人が過ごしてきた無数の普通の日々が、この何でもない日曜日に意味を与えていたのではないか。
    いつも食材の在庫を把握している七海と、いつも「なんでもいい」と答える涼介と、いつも同じ場所で沈黙する二人と。
    それらの積み重ねがあって初めて、「何もしない一日」が成立するのではないか。

    積み重ねのない「何もしない一日」は、ただの暇だ。

    しかし積み重ねの中の「何もしない一日」は、豊かさだ。

    眠りに落ちながら、涼介は思った。

    積み重ねが、今日を作る。




    第八章 春の朝

    三月になった。

    現実の涼介の日常は続いていた。
    変わり映えのしない仕事、たまに飲む友人たち、特別なこともない毎日。

    しかし、現実の世界の自分を見る目が変わっていた。

    以前は、自分の日常が退屈に見えた。
    昇進のスピードも遅く、大きな成果もなく、恋人もいない。
    同期の中で、誰かが結婚した、誰かが出世した、誰かが副業で成功したという話を聞くたびに、自分は止まっているような気がした。

    しかし今は、少し違う。

    今日の帰り道、スーパーで夕飯の食材を選んでいる時、この選択が昨日の自分の続きだと気がついた。
    昨日も同じスーパーに来た。同じ照明の下で、同じ棚を見た。明日も来るかもしれない。この繰り返しを、以前は単調だと思っていた。
    しかし今は、違う見え方がする。

    繰り返しの中に、自分がいる。

    ある朝、涼介は珍しく「現実」の世界に連続して目覚めていることに気がついた。
    五日間、同じ世界にいた。

    最初の二日は気づかなかった。
    三日目の朝に、(あれ、また同じ世界だ)と思った。四日目に確信した。
    五日目の朝、目覚めた瞬間に天井のシミを探した。
    あった。また同じだ。初めてのことだった。何ヶ月も経験してきた中で、現実の世界に五日連続でいたことは、なかった。

    五日間、涼介は涼介のままだった。

    出社して、仕事して、帰って、飯を食って、眠った。特別なことは何もなかった。
    桐島と雑談した。
    定食屋でランチを食べた。
    夜に読みかけの本を少し読んだ。
    コンビニで偶然うまそうなデザートを見つけた。
    それだけの五日間だった。

    地味な五日間だった。しかし、何かが違った。

    六日目の朝、涼介は目が覚めた瞬間に天井のシミを探した。
    あった。同じ世界だった。
    涼介は起き上がって、コーヒーを淹れた。
    昨日買ったコーヒー豆。
    昨日洗って伏せておいたカップ。
    誰かのものでも、記憶の中だけのものでもない、確かに自分が積み上げた小さな痕跡。

    コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。曇り空だった。特別な景色ではなかった。
    それでもその景色は、昨日の自分が見た空の続きだった。

    続いている。

    その言葉が、涼介の中に静かに落ちた。
    続いている、ということの重さを、これほどまで感じたことはなかった。
    何百の世界を渡り歩いてきて、初めてその重さがわかった気がした。続くことは当たり前ではない。自分にとって当たり前でないことを、他の人間は当たり前として生きている。

    それが得難いことだと、無数の「もしも」を渡り歩かなければ気づかなかった。

    涼介はコーヒーカップを両手で包んで、温もりを感じた。

    昨日洗ったカップが今日も使える。
    昨日買ったコーヒー豆が今日も残っている。
    昨日読んだ本の続きを今日も読める。
    これを積み重ねと呼べるかどうかわからない。
    しかしこれが、自分のものだった。
    借り物でも、一日限りのものでもない、確かに自分に属するものだった。

    その日の昼休み、涼介は外に出た。

    会社の近くに、小さな公園がある。
    ベンチが二つと、砂場と、遊具がいくつか。昼間は子供がいることもあるが、今日は誰もいなかった。涼介はベンチに座って、空を見た。雲が動いていた。

    別の世界の空も、何度も見た。
    農家の自分が見た夜明けの空。
    花と見た夕暮れの空。
    七海と歩いた川沿いから見えた冬の空。
    どれも、本物の空だった。
    しかし今見ているこの空は、続いている空だった。昨日も今日も同じ東京の空が、同じ場所から見えている。

    三月の風が、少し暖かくなっていた。

    もうすぐ春だ、と涼介は思った。
    春になれば、桜が咲く。桜の咲くこの街は、去年も見た。
    一年続いた。一年分の四季が、この場所にあった。

    涼介は手帳を出して、何か書こうとした。
    しかし言葉が出てこなかった。
    書かなくていいかもしれない、と思った。書き留めなくても、明日もここにいる。持ち越せる。

    それだけで、十分だった。




    第九章 高橋への電話

    その日の夜、涼介は高橋に電話した。

    特に理由はなかった。いや、正確には言語化できない理由があった。

    この男が生きていることを、確かめたかった。ただそれだけだった。
    今さら言葉にすれば単純なことだが、実際にそれを感じた時、涼介は迷わず電話をかけていた。

    「なんだよ、珍しい。どうした」
    高橋の声は相変わらずだった。
    電話口でも、声の中に笑いが混じっている。そういう男だった。

    「いや、別に。飲まないかと思って」「急だな。今日?」
    「今日」

    少し間があって、高橋は「いいよ」と言った。
    「どうせ暇だし」

    その「どうせ暇だし」が高橋らしかった。本当に暇なのか、涼介のために予定を変えたのかが、声だけではわからない。
    しかし高橋はそれを問題にしない。
    暇かどうかより、行くかどうかを先に答える。

    二人で近所の居酒屋に入り、とりとめのない話をした。

    仕事の愚痴、共通の知人の近況、昔の馬鹿な話。
    「あの合コンの時、お前が寝落ちしたやつ覚えてる?」
    「覚えてるよ、あれは疲れてたんだよ」
    「言い訳がひどい」
    「お前だって一次会から飲みすぎてたじゃないか」

    高橋は相変わらずよく笑い、よく飲んだ。

    涼介は途中から、ただ聞いていた。高橋の話を、高橋の笑い方を、高橋が手酌でビールを注ぐ仕草を、じっと見ていた。
    「なんか、じっと見てるな」と高橋が言った。

    「そうか」

    「怖いぞ、それ」

    「ちょっと、大事にしたくなった」

    「何が」

    「今夜」

    高橋はしばらく涼介の顔を見てから、
    「まあ、たまにはそういうのもいいな」
    と言った。追求しなかった。

    涼介は途中、ふと口を開いた。
    「お前さ、死んだらどうしたい」

    「は?」
    高橋が眉を上げた。

    「急になんだよ、怖い」

    「いや、真面目に」

    「真面目に言う質問かそれ」
    と高橋は言いながら、でも酒を一口飲んだ。考えるつもりがある時の飲み方だった。

    「葬式はしなくていい。金かかるし、呼ばれるほうも面倒だろ。でも」

    少し止まった。

    「でも、誰かに覚えててほしいな。俺がいたってこと」

    「誰かって?」

    「誰でも何でもいい。一人でも。俺と飯食ったこと、覚えてるヤツがいれば、それでいい」

    涼介は黙って聞いていた。

    「一人か」

    「一人でもすごいことだよ。本当に覚えてるって、なかなかないから」

    「そうかもな」

    「お前は?」と高橋が聞いた。

    「俺も、同じかな」

    「似たもの同士だな」
    と高橋は笑った。

    その笑い方が、いつも通りだった。真剣な話の後でも、いつもの顔に戻る。それが高橋の、誠実な軽さだった。
    深刻になりすぎない。
    しかし、流さない。
    ちゃんと聞いて、ちゃんと受け取って、それでも笑う。

    涼介はビールを飲んだ。
    「お前がいたこと、覚えてるよ」

    高橋は少し止まってから、
    「なんだそれ、急に」
    と言った。

    「普通に言えよ、気持ち悪い」
    「うるさい」

    「ありがとよ」
    そう言って、またビールを飲んだ。

    その夜、高橋はまた終電を逃した。「しょうがない、泊めろ」
    と言った。
    「今日こそはタクシーで帰れよ」
    「どうせ泊めてくれるくせに」
    と高橋は言った。

    それから二人で涼介の部屋に帰って、コンビニで買った安いつまみを食べながらもう少し飲んだ。大した話はしなかった。昔の話、他愛もない話、どうでもいい話。

    深夜になって、高橋が寝落ちした。

    涼介は台所で水を飲みながら、高橋が寝ている部屋を見た。
    静かに息をしている。生きている。
    当たり前のことが、当たり前ではないことをある世界で知ってしまった後では、この当たり前が重かった。

    台所に立ちながら、涼介は夜空を見ようとした。しかし台所の窓から空は見えなかった。窓の外には、隣のビルの壁があった。
    それでも、悪くない夜だと思った。

    高橋がここにいる。それだけで、今夜は悪くない。




    第十章 最後の問い

    四月のある朝、涼介は見知らぬ世界で目覚めた。

    流れ込む記憶の中に、見慣れない情報があった。自分は作家だった。

    売れない小説を書き続けて十年。
    三十二歳で、代表作と呼べるものはまだない。
    単行本を二冊出したが、どちらも初版止まりだった。文芸賞に三度応募して、三度とも最終選考で落ちた。そういう男だった。

    仕事はアルバイトで生活費を賄い、書く時間を確保する。深夜まで書いて、早朝に起きてまた書く。
    睡眠時間が短い。食事が雑になる。それでも書くことをやめられなかった。なぜやめられないのか、自分でもたまにわからなくなるほど、そういう生活だった。

    机の上に、書きかけの原稿があった。

    涼介は椅子に座って、それを読んだ。

    最初の数行で、背筋が冷えた。

    男が毎朝別の世界に目覚める話だった。
    ページをめくった。男は毎朝、異なる「自分」として目覚める。
    コンサルタントの自分、音楽家の自分、結婚した自分。それぞれの世界を体験しながら、男は何かを探している。
    この自分は、自分の体験を小説にしていたのか。

    いや、違う。この自分にとってそれは実際の体験ではなく、作り話のはずだ。
    この世界の作家・田中涼介は、毎朝別の世界に行っているわけではない。ただ、そういうことを想像して書いている。
    しかし内容は、涼介が渡り歩いてきた世界と重なる部分が多すぎた。
    音楽家が小さなライブハウスで演奏する場面。
    老人が庭の木の幹に手を当てる場面。
    親友を失った世界で、北海道のパンフレットに走り書きをする場面。
    涼介が実際に体験したことが、この原稿の中に書かれていた。

    偶然か。それとも、すべての自分が同じ問いを抱えているのか。

    千通りの人生がある。千通りの選択がある。
    しかしどの人生も、同じ問いに行き着くのかもしれない。積み重ねとは何か。本物とは何か。今日とは何か。

    原稿の最後の一行には、こう書かれていた。

    「どれだけの選択肢を知っても、人は結局、たった一つの今日しか生きられない」

    涼介はその一行を、何度も読んだ。

    読むたびに、重さが変わった。最初は当たり前のことを言っているように見えた。
    二度目に読むと、少し胸に刺さった。
    三度目に読むと、ずっと探していた答えのような気がしてきた。

    たった一つの今日しか生きられない。

    それは制限ではないか。千の可能性に触れながら、一つしか選べない。それは悲劇ではないか。そう思っていた時期があった。

    しかし今は違う。

    たった一つの今日しか生きられないからこそ、今日が本物になる。
    千の今日を同時に生きることができたら、どの今日も本物ではなくなる。
    今日の重さは、他の今日を選ばないことから生まれる。

    手放すことで、手に入るものがある。

    原稿の余白に、涼介はメモを書き込んだ。この世界の作家がそうするかどうかは関係なかった。自分の考えを書き留めたかった。

    「千の人生は棺に入らない。でも、一つの今日は確かにここにある」

    書いてから、しばらく見た。

    完全な言葉ではないかもしれない。しかし、本当のことを言っている気がした。

    その夜、眠りにつく前に、涼介は窓から空を見た。曇っていた。星は見えなかった。しかし涼介は、その空をしばらく見続けた。

    明日、どこで目覚めるかわからない。
    現実の世界かもしれない。全く知らない世界かもしれない。それはコントロールできない。

    しかしどこで目覚めても、今日この空を見たことはきっと消えない。

    この原稿を読んだことは消えない。

    最後の一行を、何度も読んだことは消えない。



    エピローグ 千の人生と今日

    翌朝、涼介が目覚めると、天井にシミがあった。

    つながっている現実の世界、
    自分のワンルームだった。

    路線バスの振動が床に伝わってくる。
    隣の部屋の住人が何か動かしている音がする。台所の蛇口が微妙に緩んで、かすかに音がする。
    全部、知っている音だった。全部、続いている音だった。

    涼介はゆっくりと起き上がり、顔を洗い、コーヒーを淹れた。
    昨日と同じ手順で、昨日と同じ道具を使い、昨日と同じ味のコーヒーができた。

    窓を開けた。

    春の風が入ってきた。

    涼介は目を閉じて、その風を感じた。
    温度と湿度が、皮膚に触れた。
    三月より暖かく、夏よりは軽い。
    四月の風とは、そういうものだ。

    桜の季節だった。

    窓から見える範囲に、桜の木が一本ある。満開に近かった。
    白とピンクの間のような色が、今朝の光の中で静かに広がっていた。
    風が吹くたびに、花びらがいくつか落ちた。

    涼介はコーヒーを片手に、窓辺に立った。

    どれだけの世界を見ても、自分が選ばなかった道には、自分が知らない傷と、自分が持てなかった強さがある。どの人生も、正解でも不正解でもない。ただ、それぞれの人間が、それぞれの一日を積み重ねて作ったものだ。

    そして自分には、今日しかない。

    選択を重ねた昨日の続きとして存在する、この今日だけが、本物だ。

    涼介は手帳を開いた。

    これまでに見てきた世界のメモが、ぎっしりと書かれていた。
    音楽家の自分。
    七海と歩いた川沿い。
    老人の庭の木。
    高橋を亡くした雨の日。
    花が「きれい」と言った夕空。
    医者の自分が疲れ果てて座ったベンチ。
    農家の自分が見た夜明け。
    作家の自分が書いた最後の一行。

    全部、本物だったと思う。

    一日しかいられなかったが、体験は本物だった。記憶は借り物だったが、感じたことは本物だった。
    どの世界の痛みも、喜びも、本物だった。

    ただ、全部を生きることは、誰にもできない。

    だから人は、選ぶ。

    どこに傷つくかを、どこで笑うかを、誰の「おかえり」を聞くかを、どの木を育てるかを、どの人間と「毎回」を作るかを。
    涼介はコーヒーを飲み干して、カップを洗った。


    今日も、会社に行く。

    特別なことは何もない一日になるかもしれない。
    桐島と雑談するかもしれない。
    昼は定食屋に行くかもしれない。
    残業があるかもしれないし、ないかもしれない。
    夜に高橋から連絡が来るかもしれない。

    しかし昨日の続きとして、そして明日への架け橋として、この一日は確かに存在する。

    今日の涼介は、昨日までの涼介が選択を積み重ねてきた結果としてここにいる。
    そして今日の涼介が選び積み重ねるものが、明日の涼介を作る。
    大したことは何もしていないかもしれない。
    しかし、ここにある。続いている。自分のものとして、ここにある。

    それで十分だと、涼介は思った。
    絶対的な正しい選択などする必要はない。後悔すらも一つの経験として次に繋げるワンシーンであれば良い。

    そして手帳の最後のページに
    いつかの世界で記した言葉を思い出しながら、そこに今の涼介の気持ちを込めてこう書き添えた。

    【オレの棺に、千の人生は入らない。    
     入るのは選んで重ねた
     たったひとつの愛すべき人生だけ】

    ペンを置いた。

    玄関を出ると、桜が満開だった。
    マンションの入り口を出た瞬間に、その景色があった。通りの並木が、全部白とピンクに覆われている。
    今朝の風と光の中で、静かに揺れていた。
    人が行き交っている。自転車が走り去る。みんなが同じ桜の下を歩いている。みんながそれぞれの今日を歩いている。

    風が吹いて、花びらが一枚、涼介の肩に落ちた。
    涼介はそれをそっと指先で拾い、しばらく見た。
    薄く、軽く、そして陽の光に少し透けていた。
    短命な花びら。散り始めれば早い。
    しかし今、この瞬間、ここにある。
    涼介の指先に、確かにある。

    涼介は、それを風にフワリと返した。
    花びらは宙に舞い上がり、青い空の景色に消えた。

    見上げると、雲一つない青だった。どこまでも続く青。

    涼介は背筋を正し、胸を張って
    歩きはじめた。

    繋がりと重なりの
    愛すべき
    今日という日の中へ。

          おわり

         作 ジロン


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