
顔のない人
これは、親しい友人から聞いた話だ。
彼は新宿で働いている。
ある日、酒を飲んでいると、ふいにこんなことを言い出した。
「"顔のない人"がいるんだよ」
唐突すぎて、思わず笑いそうになった。
だが冗談を言っている様子ではなかった。
「なんだそれ?」
そう聞き返すと、彼は少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「朝のラッシュとか、渋谷のスクランブル交差点とか……人が多すぎる場所でさ。たまに、見えるんだよ。“顔がない人”」
当然、人は日々たくさんの人とすれ違う。
特に都市部では、その数は膨大だ。
誰一人として顔を覚えているわけがない。
記憶に残らない人間のほうが、圧倒的に多い。
だから、彼の話も最初はこう思った。
——単なる“記憶の抜け”が、妙な感覚として残っているだけじゃないか、と。
だが彼は首を横に振った。
「違うんだよ。見えてるんだ。ちゃんと」
「顔がないって、どういうことだよ」
「そのままだよ。目も鼻も口もない。ただの“のっぺりした面”なんだ」
少し、背筋が冷えた。
「でもさ、そんなの見間違いだろ」
「俺もそう思ってた。でも何回か見てる」
彼はグラスの氷をカラカラと鳴らしながら、ぽつりと言った。
「人が多すぎる場所でしか見ないんだよ。混雑の中に紛れてる。」
その話は、怖いというより、どこか不気味
そして妙な現実感があった。
それから数日後の朝。
私は駅から会社に向かって歩いていた。
周囲には同じように通勤する人たちが、同じ方向へと流れている。
前を見れば、無数の“後ろ姿”。
スーツ、コート、リュック、髪型。
人は違うのに、どこか均一に見える。
そのとき、ふと彼の言葉がよぎった。
——この中にいるのか?
少しだけ、嫌な気分になった。
結局、その日は何もなかった。
誰も振り向かなかったし、
当然、“顔のない人”も見なかった。
ただ、
あのときすれ違った人たちの顔を、
この日に限って一人も思い出せないんだ。