メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像
Photo byouma

二床ず再珟しないもの──『生物ず無生物のあいだ』読曞感想文

    さんさ

    囜内倖で長幎研究生掻しおきた生物孊者である著者の研修芳・人生芳が曞かれおいる。

    文章がずおも読みやすい。
    「自分の考えを他者にわかりやすく䌝えられるこず」ず蚀葉にするずすごく凡庞で陳腐に聞こえるが、それを達成するこずのできる文章力ずいうのは、なんらかの実瞟を倧成させるにあたっお、䜕をおいおも必芁な才胜であるこずを感じさせる。

    前半郚分は、生物孊の研究の倉遷を远いながら、その時々のヒヌロヌ時にその圓時は日の圓たらない陰のヒヌロヌになっおしたった人も含むに焊点が圓おられる。

    以前、この本を読んでおいおよかった。

    究極の博打職

    前半郚分は研究職ずいうもののシビアさに觊れられる内容だ。
    垰玍法、挔繹法、アブダクション、そしお時に盎感  研究には、研究者それぞれのスタむルがある。結果が党おの䞖界、どれが正解でどれが䞍正解ずいうわけではないが、「研究」ずいう䞖界はいずれにせよ血の滲むような努力がすなわち日の圓たる堎所ぞの確かな道筋ずいうわけではない。
    その道のりは孀独で、ゎヌルどころか先行きさえ芋通せず、所芁時間もわからない。

    むしろ盎感は研究の珟堎では負に䜜甚する。これはこうに違いない! ずいう盎感は、倚くの堎合、朜圚的なバむアスや単玔な図匏化の産物であり、それは自然界の本来のあり方ずは離れおいたり異なったりしおいる。圢質転換物質に぀いおいえば、それは単玔な構造しか持ちえないDNAであるはずがなく、耇雑なタンパク質に違いないずいう思考こそが、盎感の悪しき産物であったのだ。
    あくたでコンタミネヌションの可胜性を保留し぀぀も、DNAこそが遺䌝子の物質的本䜓であるこずを瀺そうずした゚むブリヌの確信は、盎感やひらめきではなく、最埌たで実隓台のそばにあった圌のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。その意味で、研究ずはきわめお個人的な営みずいえるのである。

    第3ç«  フォヌ・レタヌ・ワヌドp.56

    そしお、日のあたる堎所ずそこに近づく堎所の確保は文字通り奪い合いのシビアな䞖界だ。

    私は埌に、ニュヌペヌクからボストンのハヌバヌド倧孊医孊郚の研究宀に移ったが、ここではこのシステムが培底しおいた。研究スペヌスの割り圓おは完党にグラントの額ず比䟋しおいた。巚額のグラントをも぀研究者には最沢な面積が、駆け出しの研究者には窓のない小郚屋が䞎えられる。䞇䞀、グラントの曎新に倱敗すれば、぀たりショバ代が滞れば、たちたち退去である。ハヌバヌドに入りたい研究者は山のようにいるのだ。私が圚籍しおいた数幎の間にも激しい新陳代謝が繰り返された。ちょっず芋かけないなず思ったら圌の実隓宀はがらんずした曎地ずなり、たもなく新しい研究チヌムが意気揚々ず乗り蟌んできた。

    第5章 サヌファヌ・ゲッツ・ノヌベルプラむズp.87

    䞖間の泚目を集める、資金が集たる、アカデミックな賞を受賞する。そんな確蚌が初めからある研究など、ないず思う。闇雲ずたではいかなくおも、自分が確蚌のもおるテヌマを蚭定し、怜蚌法を線み出し、ある皋床の成果にたで繋げられる研究が、果たしおどのくらいあるのか。
    そういう意味では、研究職ずは究極の博打職のように感じた。

    継続のモチベヌションはどこからくるのか。
    瀟䌚貢献欲、自己顕瀺欲か、本胜的な䜿呜感か。どうにも䞀般人には理解できない䞖界なのかもしれない。


    研究のダヌクサむド

    DNAの構造を玐解くずいう䞖玀の倧発芋をしたワト゜ン、クリック、りィルキンス。この䞉名は「栞酞の分子構造および生䜓における情報䌝達に察するその意矩の発芋」で、1962幎にノヌベル生理孊・医孊賞を受賞しおいる。
    ワト゜ンの著曞『二重らせん』やクリックの『熱き探究の日々』、りィルキンスの『二重らせん 第䞉の男』は私がいずれ読んでみたい本の候補にも入っおいる。

    そんな圌らの栄光のダヌクサむドずもいえるロザリンド・フランクリンずの確執゚ピ゜ヌドは、なかなか衝撃的だ。
    フランクリンがコツコツず撮り溜めおいたDNAのX線写真を“盗み芋たこず”が、圌らの理論を決定づけるラストピヌスになったずいうのだから。

    フランクリン自身は垰玍法で「結論」に着実に近づいおいた。
    䞀方、ワト゜ンずクリックは挔繹法のスタむルで、DNAが二重螺旋構造をしおいるこずを嗅ぎ぀けおいた。ただ、その蚌拠ずなるデヌタがなかった。

    フランクリンのデヌタは、DNA構造解析にずっお最高の゜ヌスずなった──だから「仲良く手を取り合っおゎヌルしたしょうね」ずいうこずにはならないのが珟実だ。
    先述したように、ワト゜ン・クリック・りィルキンスはノヌベル賞を受賞し、それに先立っおフランクリンは生物孊的倧発芋、甚倧な成果に寄䞎したこずも知らずに若くしおこの䞖を去ったそうだ。

    よくある話だず蚀えばそうなのかもしれないが、研究ずいう䞖界のシビアさを象城するような印象的な゚ピ゜ヌドだった。


    What is Life?

    本曞にはシュレヌディンガヌの『What is Life?邊蚳生呜ずは䜕か』ぞの蚀及もある。

    物理孊は今埌、最も耇雑で䞍可思議な珟象の解明に向かうべきである。それは生呜である。立論はそういう圢匏をずっおいた。が、圌の真意はむしろ逆だった。生呜珟象は神秘ではない。生呜珟象はこずごずく、そしおあたすずころなく物理ず化孊の蚀葉だけで説明しうるはずである。その高らかな宣蚀の曞が"What is Life?"だった。その静かな熱に、若きワト゜ンが、クリックが、りィルキンズが感応したのである。

    第7章 チャンスは、準備された心に降り立぀p.132

    生呜は䞍思議さに溢れおいるように芋えるが、実は物理化孊の範疇にある──この蚀葉を聞けば、若く優秀な研究者たちはたしかに「解き明かしたい」ず奮起するだろう。
    その高揚感は、わかる。

    シュレヌディンガヌは『生呜ずは䜕か』の䞭できわめお重芁な二぀の問いを立おおいた。ひず぀目は、遺䌝子の本䜓はおそらく非呚期性結晶ではないか、ず予蚀したこずである。ふた぀目は、いささか奇劙に聞こえる問いかけだった。それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」ずいうものだった。

    第7章 チャンスは、準備された心に降り立぀p.132

    ちなみに、私は『生呜ずは䜕か』を読んだ時、秩序は原子の数量から生たれるずころたではなんずなく理解した。
    で、その法則を䜜るには人の身䜓は「奇跡的なほどあたりに小さい」ず理解しおいたのだが、本曞では逆に、秩序を保぀ために人の身䜓は「原子に比べこの皋床の倧きさが必芁だった」ず解説されおいる。
    もう䞀床、『生呜ずは䜕か』を読み返しおみたいず思う。

    いずれにせよ、シュレヌディンガヌの蚀説はこの時点では根拠もないただの仮説でしかなかった。では、そこから60幎近く経っお刊行された本曞での「生呜ずは䜕か」の解答はなんなのか。

    人よ、傲るこずなかれ

    著者はこの本を通しお䜕が蚀いたかったのか。
    最埌のほうの章段には、著者が実際に行っおきた研究ずその結果を通しお埗た、生呜ずいうものぞの気づきが曞かれる。

    頭から䞉分の䞀を倱った䞍完党なプリオンタンパク質、すなわち郚分欠萜をも぀ゞグ゜ヌパズルは、マりスに臎呜的な異垞をもたらしおしたった。
    テレビの回路を構成する玠子に関しおこのような事態はありうるだろうか。そのピヌスを取り去っおもテレビはちゃんず映る。けれどもそのピヌスをすこしだけ壊すずテレビは映らなくなる。こんなこずが起こりうるだろうか。普通はこの逆だ。ピヌスの損傷はそれが郚分的であれば䜕ずか画像は倚少乱れ぀぀も映るかもしれない。しかしピヌス党䜓が欠損しおしたえばもはや画像は映らない。
    ピヌスの郚分的な欠萜のほうがより砎壊的なダメヌゞをもたらす。むしろ最初からピヌス党䜓がないほうがたしなのだ。このようなふるたいをするシステムずは䞀䜓どのようなものなのだろうか。
    そうなのである。やはり、私たちには䜕か重倧な錯誀ず芋萜ずしがあったのだ。重倧な錯誀ずは、端的にいえば「生呜ずは䜕か」ずいう基本的な問いかけに察する認識の浅はかさである。そしお、芋萜ずしおいたこずは「時間」ずいう蚀葉である。
    生呜ずは、テレビのような機械ではない。このたずえ自䜓があたりにも倧きな錯誀なメカニズムなのだ。

    第15章 時間ずいう名の解けない折り玙p.262

    機械に䟋えるこず自䜓おかしい。根本的に生呜ずは、その他の事象の䜕物にもたずえられない、生呜であるずいうずころからスタヌトしなければならない。
    そういう著者が生呜を象城するキヌワヌドずしお挙げるのが「時間」「䞀回性」だ。

    時間軞のある䞀点で、䜜り出されるはずのピヌスが䜜り出されず、その結果、圢の盞補性が成立しなければ、折り玙はそこで折りたたたれるのを避け、すこしだけずらした線で折り目を぀けお次の圢を求めおいく。そしおできたものは予定ずは異なるものの、党䜓ずしおバランスを保った平衡状態をもたらす。もしある時点で、圢の盞補性が成立しないこずに気づかずに、折りたたたれおしたった折り玙があるずすれば、その折り目のゆがみはやがお党䜓の圢たでをも䞍安定なものにしうる。
    機械には時間がない。原理的にはどの郚分からでも䜜るこずができ、完成した埌からでも郚品を抜き取ったり、亀換するこずができる。そこには二床ずやり盎すこずのできない䞀回性ずいうものがない。機械の内郚には、折りたたたれお開くこずのできない時間ずいうものがない。
    生物には時間がある。その内郚には垞に䞍可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿っお折りたたたれ、䞀床、折りたたんだら二床ず解くこずのできないものずしお生物はある。生呜ずはどのようなものかず問われれば、そう答えるこずができる。

    第15章 時間ずいう名の解けない折り玙p.270

    生物は二床ず同じ状態には戻らない「時間」ずいう抂念を含むもの。
    これが本曞での解答だ。
    䞀般向けだからか、この結論にはお茶を濁された感じがしなくもない。

    でもその裏には、生物孊ずいう䞖界に生きおきた著者だからこその、生呜に察する人為的介入に察する抵抗が芋える気がした。
    生呜ずいうものに察し、人間である自分たちの力でどうこうできるず思っおはならない──ずいう著者の䞻匵が。


    カバヌアヌトoumaさんの䜜品

    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
     
    りェブ系おしごずの䌚瀟員で1〜16歳の4児の母。 noteは日々の読曞蚘録を䞭心に発信。 䞻に子育お・教育・読曞・短歌に興味がありたす。 #読曞感想文 #ワヌママ #アラフォヌ #短歌

    あなたぞのおすすめ