
レゾナンス
目は宙をさまよい、呼吸は乱れ、首筋の辺りから大量の汗が噴き出てくる。
「ドラえもーん!」のび太なら、泣いてすがるピンチの場面だ。
子どもを含めた8人を前にした、私の初めての絵本の朗読イベントは、散々なものだった。
イベントが終わって1人になると、夕飯を食べても、温泉に浸かっても、激しい後悔が頭をぐるぐる駆け巡った。
なんで名刺なんて渡しちゃったんだろう…
「朗読家・朗読指導者」と書かれた手作りの名刺がずしりと重くなった。
会社員じゃない「もう一人の私」になりたかった。それで、わざわざ石川県加賀市の山代温泉までやって来たのに。
入り方を完全に間違えた。自分で自分の首を絞めて自爆してしまったのだ。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。最初からやり直したい。
2026年6月23日。
忘れられない日になってしまった。
「おんせん図書館みかん」を初めて訪れたのはその前日のことだった。
さながら、転職活動でもしているような意気込みだった。スーツこそ着ていないものの、鞄の中には、会社と個人の二種類の名刺、朗読指導者としての認定証、朗読を学んだ公式テキスト、朗読してみたい絵本とフル装備で向かった。
「こんにちは」
面接室に入るような気持ちで、挨拶をした。が、面接官がいるべきはずのところにいない。
恐る恐る、カウンターの奥にまわると、だらりと寝転んで、マッサージをし合っているではありませんか。「あ、」とこちらに気づいて、2人の女性が、気持ちよく伸びをしながら立ち上がる。そのぽわんとした空気を吸い込んだ途端、私は、何のためにここに来たのか、一瞬わからなくなった。
なんとか自分を立て直して、事前にシミュレーションを繰り返した挨拶を、実行に移した。
「へえー。」
………。
「あ、朗読といえば、私、今日の夜、絵本の朗読イベントをやるの。上弦の月の日だし、この日に新しいことをやりたいなと思っていたのよ」「あ、この棚のオーナーはね、おもしろい人でね」「ここは絵本を色別に並べたんだよね」
何事もなかったように、次から次へと、おしゃべりが咲いていく。
わあ、すてき、すごい、なんて言いながら、私も、そのおしゃべりの花を摘んでいく。
でも、本当にハッとさせられるような花もあって、夢中になっているうちに、気づけば、花束を握りしめていた。
話していたのは本のことじゃなかった。
本の向こうにある人のことだった。
「もう一人の私」を渇望していた私は、あるとき、「おんせん図書館みかん」を見つけた。そのくせ、実際に行ってみたら、ここじゃなかったってなったらどうしよう、と直前まで不安でいっぱいだった。自分の直感を信じられずにいた。
花束から意識を戻すと、何人かの女性が図書館にやってきて話し出した。
「今さ、こんなこと考えていて」
うずうず。
「あ、ちょっと相談したい事あるの。あとでいい?」
うずうず。うずうず。
ここは私の好きな場所だ、と思った。
流れで、「こちら朗読されている方なんですって」と私の話になったとき、すかさず立ち上がった。手作りの「朗読家・朗読指導者」の名刺を配り始める。
「普段は会社員をしていますが、資格取得をしたので、朗読や朗読指導の活動をしたいと思っていて…。」
「へえー。」
気づけば、夜の朗読イベントにも「行きます!」と答えていた。
その夜のイベントは、読み手とそのパートナーと私。3人だけのプライベートな会だった。
朗読のあとに、絵本を読んだ声のまま、なぜこれを選んだのかを話してくれた。
その物語に、耳をすました夜だった。
帰りがけに、「明日、この(山代温泉)辺りに詳しい人に、町歩きのガイドをしてもらうんだけど、一緒にどう?話がすごく面白いよ」と声をかけてもらった。
こういう誘いに乗るのがわりと好きな私は、二つ返事で行くことにした。
明日の町歩きの前に、コンビニに寄ってノートとペンを買おう。弾む気持ちで、布団にもぐり込んだ。誰かとつながって、思いもよらないほうへと流れていくのが楽しかった。
翌朝。
いざ、山代温泉周辺の町歩きガイドツアー、スタート!参加者は、飛び入りの私をいれて5名。
「温泉街で働く女性たちは訳アリの人が多かった。まだ子どもが幼い頃から、外に出て朝晩働かなきゃならない。子どもたちは、帰らぬ母を待ち、一日留守番をしていた。それを知った町の実力者が、そうした子供を一手に引き受けた。それが24時間の保育園の始まりでした。」
その保育園の周辺に、かつてはアマチュア相撲の名門場所があり、子どもの頃に忍び込んだ思い出まで話してくれた。そこを目の前にして話を聞いていると、きまって、どの場所も血が通うように、生き生きとした。
ガイドに参加した地元に暮らす人も、その場所の歴史や由縁、個人的なエピソードに熱心に聞き入っていた。
その後に、自分に起きた変化に戸惑った。
総湯に行くと、入り口の木の門に触れずにはいられなくなった。足元の、青みがかった石に、つい心を通わせていた。
お寺の前を通りすぎる時には、自然と立ち止まってお辞儀をするようになった。屋台が出ていた昔の情景を想像して、その賑やかさを味わった。
町が、語り始めていた。
白状すると、山代温泉に着いてすぐの町の印象は、「駅からのバスは杖をついたご老人ばかりだし、空き店舗も目立つし、時間が止まっているような、何か隠し事でもあるような、ちょっと陰のある温泉街だな…」というものだった。おそらく、温泉宿に一泊してお土産でも買って帰るような滞在だったら、その印象はそれほど変わらないままだったと思う。
「今日の夜、朗読イベントやってみたらいいじゃない」
この提案を柄にもなく受けたのも、町歩きの後で、物語の力みたいなものに感じ入っていたからだと思う。この流れが面白かった。だからこのまま身を委ねてみたくなった。
そして迎えた夜。
私の初めての朗読イベントは、大失敗だった。
私がやりたかったのは、これじゃない。朗読をしながらその思いだけが、頭をよぎっていた。
動揺して二の句が継げなくなった。みんなの顔をみた。見かねて、みんなが話し始めてくれた。
黒豆せんべいを食べながらの雑談はよかった。流れで、町歩きの話になって、「ねえ、知ってた?」と、それぞれが、今日仕入れたばかりの話を披露した。
「いちばん印象的だったのは、ガイドしてくれた方が、『地球のくれた、あったかい水に入らないなんてもったいない』って、ぼそっと言ったことかな。」
「おおー。」
それぞれに印象的な話は違った。
それでも話したくなる気持ちを抑えられないのが、わかりすぎるくらい、わかった。
こうしておしゃべりしていると、町歩きがまだ続いているみたいで嬉しかった。
私がやりたかったのは、朗読のお披露目じゃなかった。この流れを止めないことだった。
短い加賀滞在が終わった。
帰ってすぐに、泉鏡花の「みさごの鮨」を読んだ。山代温泉が舞台の小説だった。
「みさごの鮨」読んでみるといいですよ。
ああ、これは、あそこのことを書いているのかな、なんて想像しながら読むと楽しいんです。
町歩きの時にそんな話を聞いていた。だから、まだ加賀にいた自分が残っているうちに読みたかった。
読んでみると、町歩きで聞いた話と、泉鏡花の物語が重なって、当時の山代温泉の光景が目に見えるようだった。もう一度、山代温泉を歩くことができた。
一緒に町歩きしたみんなは、「みさごの鮨」をもう読んだかな。
読んだら、また雑談したい。
「みさごの鮨」のここは、あそこのことだよね、なんて言い合いたかった。
でも、古い小説だからか、気軽に手に取れる本がなかった。書店でも見つけられず、図書館までわざわざ借りに行った。
だったら。
ふと思いついた。
私が、気軽に手に取れる本にしてみたらいいんじゃない?
いいじゃん。いいじゃん!
それなら、みんなも喜んでくれそう。
何も始まっていないのに、もうわくわくしていた。どうせ作るなら、町歩きで知ったことを短いコラムにして、巻末に入れるのはどうだろう。誰かへの贈りものを考えるみたいに、思いつきが次々と浮かんできた。
そこから、初めてのZINE作りが始まった。
作り方なんて知らなかった。
思い通りにいかなくて半泣きになりながらも、手は止まらなかった。
加賀で受け取ったものを、そのままにしておきたくなかった。
ちゃんと受け取ったよ。
ここで止めないよ。
私なりの応答が、ZINEだった。
寝食を忘れて夢中で作業した4日目の夕方。
とうとう、初めての入稿を終えた。
はああ、と長い息がこぼれた。
このZINEが形になったら、もう一度、「おんせん図書館みかん」に行けると思った。
「まだ未完(みかん)なんですけど」なんて言いながら、できたてのそれを手渡す。
みんなが想像通りに喜んでくれるかは、わからない。「へえー」と言われるだけかもしれない。
ずっと、会社員じゃない「もう一人の私」になるには、自分が何者で、どんなことができるのか、証明しなきゃいけないと思ってた。名刺を差し出すことしか思いつかなかった。
2026年6月23日。
あの日から、私は語り始めた。

私は、どうやら「レゾナンス」とは少し違う扉を開けてしまったようです。こちらは、本棚の奥の小さな部屋。オネエと、本の話をしています(笑)。よかったら、ノックしてみてください。