
【対話の外縁:後編】対話が支配に変わるとき、何が起きているのか
前編で見たように、言語の意味は決して固定されたものではなく、常にずれと遅延を孕んでいる。本来対話とは、その不確定な言葉の上に成立する営みである。
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しかしこの前提が見落とされたとき、対話は理解の場ではなく、別の性質を帯び始める。とりわけ言葉の不確定性は、時に一方的な解釈や評価を正当化する余地となり、対話の配置そのものを歪めていく。
この変質は抽象的な議論の中だけで起きるものではない。むしろ日常的な関係の中でこそ、より見えにくい形で現れる。
夫婦、恋人、職場の同僚など、人間関係が上手くいかなくなったとき、大抵の場合人は話し合おうとする。
時にそれが言い争いに発展することもあるが、出発点としては誤解や言葉の不足を埋めようと試みてのことだ。互いに正しさや間違いを整理し、誠実に向き合おうとする考え自体は理知的なものである。
実際多くの関係では、問題が生じた後も対話そのものは続いている。そして表面的には会話が成立しているように見える。
しかしある段階から、奇妙な違和感を覚えた経験はないだろうか。話し合いをしている筈なのに混乱だけが増えていき、説明すればするほど自分の立場が弱くなっていく。
ここで起きているのは意見の相違や感情のすれ違いではなく、対話構造そのものの変質である。気が付くといつからか、「話し合いは行われている……筈だった」という事態に陥ってしまう。
説明する側と評価する側が固定されるとき
対話が機能しなくなる最初の兆候は、立場に非対称性が生じることだ。一方が「説明する側」に立ち続け、もう一方がそれを「評価する側」に立ち続ける。
「説明する側」は自分の行動や感情について理由を求められる。何故そう感じたのか。何故そう行動したのか。そして、どうして相手の期待に応えられないのかを問われる。
一方で「評価する側」は、その説明を受け取るかどうかを判断する位置にいる。説明に対して納得できるか。配慮が足りないのではないか。誠意が感じられないのではないかといった具合だ。
この位置に立つ者は、自分自身を説明する必要がない。仮にこういったバランスが一時的なものであれば問題は小さいが、固定化した役割分担が繰り返されると、対話は別の性質を帯び始める。
説明する側は常に弁明を求められ、評価する側は常に判断を下すという歪んだ性質がそれだが、こうなった時点で対話は既に対等ではない。
「考えてほしい」という言葉が返されるとき
この構造が分かりやすく現れるのが、「考えてほしい」、「尊重してほしい」という言葉の応酬だ。
少し前に知人の女性もこの問題で悩んでいた。そのとき彼女は自分の恋人に、「私の気持ちを無視しないでほしい」と伝えたそうだが、相手からは「俺の気持ちも無視されている」と返された。
一見するとこれは、互いが自分の感情を表明し、対等な主張をぶつけ合っているように見えるかもしれないが、よく見るとここには非対称な構造がある。
注意するべきなのは、感情を伝えることと、相手の感情表明を評価として返すことは、同じ形式のやり取りではないという点である。
一方は「自分に起きていること」を差し出しており、もう一方はそれを受け取らず、「あなたは足りない」という判断として返している。
表面的には同じ言葉の形を取っていても、対話の中で担っている役割は対称ではない。
最初に気持ちを伝えた側は説明者である。何故傷つき、辛いのか。どうして配慮が必要なのかを語っている。
それに対して返ってくる「俺の気持ちも無視されている」という言葉は、相手の説明を受け取らずに評価として突き返す形を取っており、説明する側は常に「足りなさ」を指摘される位置に置かれ、評価する側は常に「満たされない被害者」として振る舞うことができる。
結果として話の終着点は、「あなたは配慮していない」、「あなたは足りない」という場所へと縛り付けられてしまい、その繰り返しによって上下関係の固定化が起きていく。
現実が否定され、人格に置き換えられる瞬間
対話が更に歪むと、現実否定と人格否定の組み合わせという次の段階へと進む。
これも先の知人の実体験の続きだが、彼女は身体の痛みや体調不良について説明をした際、相手からは「医者には(痛みの原因について)なんて言われたの?」と聞かれたそうだ。
その時点では医師も原因が分からなかったため、正直にそう伝えると、「何故(病院へ行ったのに)未だに痛いのか分からない」、「医者の話をちゃんと聞いていないのではないか」、「あなたの理解の仕方に問題があるのではないか」と返されたそうだ。
この瞬間、論点はすり替えられている。現実の話は一度も受け取られないまま、話題は「説明の仕方」、「理解力」、「姿勢」といった人格の問題へと移動する。
これは、単なる受け取り方の違いではなく、現実を否定した上で、その責任を相手の人格に帰属させる構造である。
本来の論点は「痛みが続いていること」と「現時点では原因が特定できていない」という二点である筈だが、この構造に入ると説明は罠になってしまう。
どれだけ丁寧に話しても「説明の仕方が悪い」、「理解が足りない」と評価され、結果として説明した側が責められる位置から逃れられなくなる。