
幼児のままで
子供の頃嫌いだった食べ物が、大きくなって食べられるようになったという事例はよくある。これを成長として捉えていいものだろうか。実際この現象は、幼児期に敏感であった舌の機能が弱っていくことから起きるらしい。その視点であれば、衰退ともとれるものだろう。このような成長と衰退の食い違いは、人間にとってもっと大きなところで起きていると思う。
その一つとして、考え方に関しては同じようなことが言える。社会のモラルやマナーを身につけてそれを遵守する、相手の視点に立って思いやる心を磨く。そういう側面でならば、紛れもない成長と言っていいだろう。それらは良しとして、問題なのは衰退とも捉えられる考え方だ。例を挙げるとキリがないが、ここではリスクリターンの考え方に着目して述べていきたい。幼児期には、先の未来を考えずに行動する機会ばかりであっただろう。生まれて間もない頃の人間なのだから当然だ。それが年を重ねていくとどうだろう。様々な経験を踏まえて、「限りある時間を、財産を割いてでもやる価値があるものだろうか?」というクッションを挟んで考えることが身についていく。これを自分は衰退として捉えるべきものだと思う。ここで重要になるのは、ハイリスクハイリターンである事象を自分がどう選択するかだ。正直、正解かどうかなんてものは結果論でしか語れない。だからこそだろうか。幼児期に持っていた、ある意味楽観的な、のびのびとした考え方を羨ましいと思うのは。成長は新しい体験でしかできないと、自分はそう思っている。大人になって十分自分は成長したなという錯覚に陥り、可能性を捨て去ってしまっているような気がする。「身についた」のではない、「身につけざるを得なかった」そう捉えることもできるのではないだろうか。
想像力に関しては、衰退の色が顕著に現れている。いつか読んだ哲学書の中にあった一文、「子どもは小さな哲学者である。」この言葉はまさに想像力の衰退を意味するものだろう。いつからか「なぜ?」というプロセスを無視して、「そういうものとして定着しているのだから考える意味が無い」と割り切ってしまう場面が増えたように感じる。これもまた、成長の機会を減らす要因として向き合わなくてはならないことだ。
大人になるというのは、成長することと必ずしも同義ではない。むしろ大人になることが、自分の成長を止め、衰退を加速させるトリガーにもなり得る。人生を経てアップデートされた自分に頼り切るのではなく、たまには幼児に立ち戻って成長と衰退を行き来する。そんな柔軟な思考を主軸として生きていきたい。