
【連作小説】今日も大学は平和です。#5
第4話:バレンタイン、あるいは縦書き〜先輩の接近〜
2月14日13時15分
今日は、西暦1500年に彗星の軌道を観測し、
経度を求めようとした
ヨハネス・ヴェルナーの誕生日である。
天文学にとっては非常に意義深い日であるが、
私には人生を左右する
もっと重要なイベントが待っていた。
今日は邪悪な大学の事務方によって設定された、
卒業論文の最終提出日である。
邪悪なのは事務方ではなく大学の方である。
先週の卒業研究発表会において、
近年発見された宇宙の加速膨張は、
第5の力によるものとする仮説を発表したところ、
頭のかたい教官陣から論文の大幅な書き直しを命ぜられた。
そのためこの1週間睡眠不足で、
特に昨夜は徹夜となったことは、
卒論経験者には言わなくても伝わっていることと思う。
おかげで今日は全く頭が働いていない。
昼休み直後の午後1時過ぎに
事務室に完成した卒業論文を持参し、
押印してもらって受理して頂いた。
同級生で集まる卒論打ち上げに参加すると
返事をしていたが、体力が残っていない。
申し訳ないが、
ドタキャンのメールをして家に帰って寝よう。
研究室に戻ると、
自分の机の上にファンシーな袋が載っていて、
「チカへ」と書かれたカードも
添えられていることに気がついた。
「チカ」とは私の呼び名であるが、
代々名前に親がついているので、
父も祖父もチカと呼ばれていたに違いない。
なので、実は父や祖父宛の可能性は排除できないが、
文脈上、私宛であろう。
通字が親といえば四国を平定した長宗我部氏が思い浮かぶが、
祖父曰く、先祖が第一次十河城の戦いで、長宗我部軍に
大砲を用意した功績により、元親から親の字を与えられた、
という史実は全くないとのことである。
袋を開けて中に入っていた箱を開けてみると、
パン・オ・ショコラが入っていた。
フランス語ではpains au chocolatである。
あ、1個だけなのでun pain au chocolatである。
眠すぎて単複を間違えてしまった。
ということは配布用ではなく、私個人宛ということか。
「ん?」
箱を開けたときに中から紙が落ちたようだ。
拾って見てみると油性ペンで、
「ツノマル ムンル」と書いてあるが、
ツノマル氏に心当たりはない。
ムンルが下の名前とすると外国人っぽいからハーフか?
そういえば年度初めに、
隣の生物多様性のゼミに、
留学生が配属されて紹介されたことを思い出した。
ネットでムンルを検索してみると、
モンゴル語で「勇ましい」といった意味を持つ
男性の名前のようだ。
きっと「イサム」みたいなノリであろう。
彼はモンゴル人とのハーフに違いない。
ときどきすれ違うが、
確かに朝青龍関に似ている気がする。
伝統的にはモンゴル人は遊牧民だから、
定住が必要な小麦の栽培はせず、
パンも作らないはずだ。
それにもかかわらず、
パン屋の息子にパン勝負を挑むとは。
ムンルだけに非常に勇気ある行動だ。
私も全力で立ち向かわないと失礼だ。
これは文永の駅以来の戦いになる。
あれ?弘安の駅の方が後だったか?
眠すぎて記憶も漢字もあやふやだ。
それに何かいろいろ違和感があるが、
頭が働かない。
やはり、今日は持ち帰ってまず寝て、
明日スッキリした頭で、対策を練ろう。
少し遡って12時55分
チカとの関係は、何も進展がないまま、
バレンタインデーを迎えてしまった。
本人を前にすると、
ぶっきらぼうなしゃべり方になってしまうのが、
良くなかったかもしれない。
でも、それも今日で終わり。
この自信作をプレゼントしたら、
一気に関係が進むこと間違いなし!
だといいなぁ。
最初はフツーに手作りチョコにしようと思ったけど、
それだと、他の女の子と
同じになりそうなのがイヤだった。
幸いなことに、
私の対称性の破れについての卒研発表は、
よくあるテーマだからか、
先生達からあまりコメントされることなく終わり、
卒論も締切よりだいぶ前に提出することができた。
ちなみに対称性って、
ひっくり返しても同じに見えるということ。
......まあ今はどうでもいいか。
おかげで、バレンタインのアイデアを
練る時間ができたのは良かった。
チカの家は、地元では有名なおしゃれパン屋
「Boulangerie Tsukamoto」。
でもみんな読めないから
「ツカモトパン」と呼ばれている。
それならチョコ入りパンを作ったら
一番いいアピールになるじゃん、
と思ってパン作りに挑戦してみたけど、
意外に時間がかかって、昼過ぎになっちゃった。
研究室のドアを開けても、誰もいない。
印刷の音も聞こえないので
みんな提出して帰っちゃったのかなと思ったけど、
チカの机の脇にはバッグパックがある。
お昼ごはんを食べに行ったかな?
事務室に卒論を提出しに行ったかな?
どうやって渡すか悩んでいたけど、
サプライズで机の上に置いておくことにしよう。
ラッピングから取り出した箱を開けて、
紙に自分の名前を書いて入れる。
またラッピングしてチカの机に
メッセージカードと一緒にのせておく。
戻ってきたチカがプレゼントに感動し、
私たちの関係も一気に進むこと間違いなし!
やばい、顔がにやけてきた。
おなかもすいたし、
私もちょっとカフェテリアでお昼ごはんを食べてこよう。
13時35分
そろそろチカが戻ってきて感動しているころかな?
と思って研究室のドアを開けてみたけど、誰もいない。
チカの机からバッグパックもプレゼントもなくなっている。
ニアミスか〜。
最近徹夜続きだったみたいだから、
提出したら即、帰るよね。
打ち上げも来れないだろうな。
でも焦ることはない。
ず〜っといい感じだったし、
これくらい勘違いしようのないバレンタインプレゼントなら、
明日には付き合えている!
といいなぁ。
翌日2月15日13時05分
ツノマル氏のpain au chocolatは絶品、
というわけではなかったが、
正直おいしかった。
味はちょっと甘すぎて、形もちょっと歪ではあったが、
慣れないパン作りに失敗を重ねて、
その中で一番いいものを包んでくれた感がある。
お返しに朝早くから気合いを入れて
ショソン・オ・ポムを作り、
商品ではないが宣伝のため、
店の箱に入れて持ってきた。
なお、フランス語ではun chausson aux pommesである。
読んでわかる通り配布用ではなく、
1個だけである。
研究室のドアを開けて、自分の机に行き、
ショソン・オ・ポム入りの箱と、
昨日の「ツノマル ムンル」と書かれた紙を置いて、
椅子に座る。
さて、どうやって渡そうかと少し考えていたら、
「おはよ〜ございま〜す」
と誰か部屋に入ってきた。
午後なのに。
邪悪なゼミの同級生マソラさんの声である。
声は邪悪ではない。
ちなみに、マソラさんは一浪した高校の先輩であるため、
こちらから話すときは未だに敬語である。
うちの店名が印字された箱に気づき、
もともと丸い目をさらに丸くしている。
自分へのプレゼントと勘違いしている顔だ。
誤解を解こうと箱を開けて、
これまでの経緯を説明しようとしたら、
「アップルパイ?手作り?嬉しい!」
と、ぴょんぴょん跳ね回る。
風圧で「ツノマル ムンル」と縦に書かれた紙が
ひっくり返って床に落ちる。
横書きの「シノムラ マソラ」に変わっていた。
ひっくり返ったら同じではなかったーー
対称性が大きく破れていた。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません