メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

【小説×投資】『正しいずされた行動』 埌線

    【前線のあらすじ】
    地域密着の䞍動産管理䌚瀟に勀める倧浊真奈矎は、長幎管理を担圓しおきた叀い䞀軒家を盞続した、桜井歩倢の暮らしに生じた、䞍自然な違和感に気づく。歩倢は、将来ぞの䞍安から、倧手郜垂銀行の銀行員・本田矎月の蚀葉を信じ、祖母の家をリヌスバックで売华。その資金を、耇数のファンドぞ「分散投資」しおいた。だが、真奈矎の実務家の盎感ず、亡き父の友人である叀曞店䞻・久保田の助蚀は、矎月の語る「定期的なチュヌニング」の実態が、回転売買によっお歩倢の元本を削り取る、合法的な搟取であるこずを突き止める。真奈矎は銀行ぞ乗り蟌み、矎月ず察峙する。だが矎月は、「すべおは顧客が理解し、合意した自己責任である」ず、歩倢の眲名が入った適合性確認曞を盟に、冷たく跳ね返した。法の壁ず、立堎の壁。その二枚を前に、真奈矎は自らの無力を噛みしめながらも反撃の糞口を探りはじめる。


    第7章 かばう人

    十分に長く欺かれ続けるず、人は、欺かれたずいう蚌拠そのものを、拒むようになる。
    (If we’ve been bamboozled long enough, we tend to reject any evidence of the bamboozle.)

    ―― カヌル・セヌガン『悪霊にさいなたれる䞖界』より

    9月の颚が、開け攟たれた窓から、歩倢のリビングぞ吹き蟌んでいた。
    真倏の湿気はすでに匕き、涌しく也いた秋の空気が、郚屋を満たしおいる。だが、゜ファに向かい合っお座る真奈矎ず歩倢のあいだには、重い沈黙が暪たわっおいた。

    真奈矎は、先日あの銀行で矎月に突き぀けたものず同じ蚈算曞を、いた、歩倢の前のロヌテヌブルに、静かに広げ盎した。

    「  嘘です」
    歩倢の唇から、震える声が挏れた。

    倧きな薄茶色の瞳が、怯えず混乱を芋開いお、真奈矎を芋おいる。
    圌女は、テヌブルの蚈算曞から目を逞らすように、膝を䞡手で匷く握りしめた。

    「嘘では、ありたせん」
    真奈矎は、県鏡の奥の瞳に、静かな熱をこめた。

    「歩倢さん。これが、珟実の数字です。あなたがいた払っおいる家賃は、この地域の適正な盞堎を、はるかに超えおいたす。
    さらに、矎月さんが『チュヌニング』ず呌んで繰り返した、商品の買い替え。そのせいで、あなたの元本は、半幎あたりで、400䞇円以䞊も目枛りしおいる。あなたは、運甚をしおいるのではありたせん。合法的に、出血させられ続けおいるんです」

    「違うっ」
    歩倢が、鋭い声で遮った。

    「本田さんは、私のためにしおくれたんです。フリヌランスで先の芋えない私の将来を、いちばん芪身に心配しおくれお。だから、眠っおいたこの家を掻かす方法を教えおくれた。党郚、私が自分で遞んだこずなんです。サむンしたのも  私自身なんです」

    歩倢の声は、悲鳎のように、郚屋に響いた。
    真奈矎は、それ以䞊、蚀葉を重ねなかった。

    歩倢は、目を逞らし、䞡手で自分の二の腕を抱えるようにしお゜ファの䞊で、いっそう小さくなった。

    画像

    その姿が、真奈矎に、ひず぀のこずを教えた。歩倢は、いた、真奈矎ず争っおいるのではない。歩倢は、歩倢自身ず争っおいる。

    「私の刀断は、間違っおなかった。本田さんは、正しい人だった」
    そう蚀いきっおしたわなければ、いた立っおいる床そのものが、足元から厩れおしたう。歩倢を頑なにさせおいるのは、匷情さではなかった。厩れるこずぞの、玔粋な恐怖だった。

    これ以䞊、正論を重ねれば、歩倢は完党に心を閉ざす。救おうずしおいる手が、かえっお、歩倢を孀独な檻の奥ぞ、抌し蟌むこずになる。

    「  分かりたした。今日は、これで、倱瀌したす」
    真奈矎は静かに立ち䞊がり、蚈算曞をブリヌフケヌスに収めた。

    歩倢は、う぀むいたたた䜕も蚀わなかった。
    真奈矎が玄関の扉を閉める盎前、背埌で、小さく錻をすする音が聞こえた気がした。

    真奈矎は、振り返らずに、倖ぞ出た。
    蚀葉では、もう、歩倢を動かせない。
    圌女の目を芚たさせるには、矎月が着蟌んでいる「正しさ」の䞊着を、実䜓の蚌拠をもっお、完党に、脱がせるしかない。

    事務所の自垭に戻った真奈矎は、ブリヌフケヌスの奥から、ひず぀の分厚いクリアファむルを取り出した。あの雚の日、歩倢の家の棚から預かっおきた、曞類の束だった。

    真奈矎は、冷たい蛍光灯の䞋で、玙の束を、䞀枚ず぀めくっおいった。分厚い目論芋曞。契玄の玄欟。顧客に読たせる気など、はじめからないずしか思えない、専門甚語の壁。
    その束のなかに、䞀枚の、薄いコピヌ甚玙が玛れおいた。

    「適合性確認曞」
    真奈矎の指先が、ぎたりず止たった。

    それは、あの銀行の応接宀で、矎月が完璧な笑顔ずずもに「お客様ご自身の意思です」ず盟にした、あの曞類の控えだった。歩倢の、震えるような自筆の眲名が、右䞋の欄に残っおいる。

    真奈矎は、甚玙に刷られた質問の項目ず、歩倢が぀けたチェックを舐めるように芋぀めた。

    『これたでの投資のご経隓はありたすか』
    ――【あり3幎以䞊】に、チェック。

    『資産運甚における、リスク蚱容床は』
    ――【高いリタヌンを求め、元本割れのリスクを受け入れる】に、チェック。

    真奈矎は、奥歯を匷く噛みしめた。
    あり埗ない。

    祖母の家を意図せず盞続し、雚挏りの修理費すら払うのをためらった歩倢が、こんな項目に、自分の意思で䞞を぀けるはずがない。これは、歩倢の実像ずは、完党にかけ離れおいる。

    歩倢はおそらく、矎月のなめらかな声に促されるたた、意味も分からず、ペンを動かしたのだ。矎月は、歩倢の䞍安に寄り添うふりをしながら、自分が法的な責任から逃れるための「完璧な盟」を、歩倢自身のペンで、䜜らせおいた。

    この䞀枚は、「歩倢がリスクを理解しおいた蚌拠」などではない。
    矎月が、歩倢の同意を「䜜り出した蚌拠」  そのものだ。

    真奈矎は、その薄い玙を、指の腹で、そっず撫でた。
    この玙切れが、矎月の最倧の歊噚であり、同時に最倧の急所になる。真奈矎は、その䞀枚を、クリアファむルのいちばん手前に差し蟌み、匕き出しの奥ぞ䞁寧にしたった。

    金融のルヌルのなかでは、矎月を厩せない。
    ならば、実䜓の䞍動産の偎で矎月がどうやっお、この完璧な仕掛けを成り立たせおいるのか。その泥臭い根を、叩くしかない。

    あの家を、盞堎の7割で買い叩いた䞍動産䌚瀟。
    その実態を掗うために、真奈矎は次の䞀歩ぞず、焊点を絞りはじめた。

    ◆知識の扉なぜ、隙された人は、隙した人をかばうのか
    投資をめぐる詐欺や、䞍適切な勧誘の被害においお、しばしば䞍思議な珟象が起こりたす。呚囲から芋れば明らかな搟取の構図であっおも、被害に遭った本人が、加害者をかばい、説埗を頑なに拒む――そういう珟象です。
    心理孊では、これを説明する考え方ずしお、「認知的䞍協和」ずいう抂念が知られおいたす。
    人は誰しも、「自分はそれなりに賢明で、正しく刀断できる人間だ」ずいう、自分自身に぀いおのむメヌゞを持っおいたす。そこぞ、「自分は悪質な手口に匕っかかり倧切な資産を倱った」ずいう、自己むメヌゞず真っ向から矛盟する事実が突き぀けられるず、心のなかに、匷い苊痛が生たれたす。
    この苊痛から逃れるため、人はずきに、いちばん手早い方法を遞んでしたいたす。事実のほうを、ねじ曲げお受け取る、ずいう方法です。
    「あの人は、私のために、芪身になっおくれた」「あの契玄は、間違っおいなかった」。そう思い蟌むこずでしか、厩れおいく足元を、支えられないのです。
    真面目な人ほど、自分の行動が誀りだったず認める痛みに、耐えきれたせん。そしお、ずきに加害者は――その誠実さそのものを、自分の安党な隠れ蓑ずしお、利甚しおしたうのです。

    第8章 同じ畑の人

    法埋は、蜘蛛の巣のようなものだ。小さな矜虫は捕らえるが、倧きな蜂は、突き砎っお通り抜ける。
    (Laws are like cobwebs, which may catch small flies, but let wasps and hornets break through.)

    ―― ゞョナサン・スりィフト『曞物合戊』より

    10月の颚が、街路を走る車の排気を冷たくはらい地元の䞍動産業界の、あの独特な、也いた匂いを運んできた。

    真奈矎は、シャツの襟元を正し雑居ビルの2階にある「株匏䌚瀟谷口䞍動産」のドアを抌し開けた。
    宀内に響くのは、䜕台もの電話のベル、コピヌ機が吐き出す熱気、ラミネヌトされた物件情報の、むンクの匂い。ここは、真奈矎の勀める䌚瀟ずも日垞的に取匕のある、いわば「同じ畑」の空間だった。

    「あれ、倧浊さん。珍しいですね、わざわざ、こっちたで」

    カりンタヌの奥から立ち䞊がった谷口は、少し䜓に合っおいない、よれたスヌツのゞャケットのボタンを留めながら気のいい笑みを浮かべた。30代半ばの、どこにでもいる実務の人間。創業者の䞀族でありながら、経営にはノヌタッチの平瀟員だ。悪人ではない。ただ、日々のノルマず芪族である䞊叞からの叱責のあいだで、芁領よく曞類を片付けるこずに慣れきった、ごく普通の䌚瀟員だった。

    「谷口さん。少し立ち話でも、いいですか」
    真奈矎は、声を抑えた。

    「昚幎の11月に、あなたが担圓された桜井歩倢様のリヌスバック物件に぀いお。実務の確認をさせおいただきたくお」
    真奈矎が、ポケットから登蚘簿の写しをわずかにのぞかせるず、谷口の額の皮膚が、目に芋えおぎくりず匷匵った。

    気のいい喋り方の奥に、凊理しきれない埌ろめたさが、柱のように沈んでいくのが真奈矎の瞳にはっきりず捉えられた。

    「ああ  あの、案件ですか」
    谷口は、呚囲の目を気にするように声を朜めた。

    「倧浊さんの䌚瀟の、管理物件だったんですよね。事前に、筋を通せなくお、本圓に、申し蚳ない。  でも、あれはうちが䞻導した話じゃ、ないんですよ」

    谷口は、応接スペヌスの怅子を、真奈矎に勧めた。
    真奈矎が腰を䞋ろすず、谷口は蚀い蚳を吐き出すように続けた。

    「郜垂銀行の個人営業郚門にいる、本田さんっお人から盎接持ち蟌たれた案件なんです。あの人は  すごいですよ。䞍動産を手攟しお手元に珟金を䜜りたい、っおいう客を、定期的にうちに玹介※9しおくれる」

    ※9 玹介金融機関ず䞍動産業者の顧客玹介䞍動産業者ず金融機関が、互いに顧客を融通し合う行為。正芏の業務提携に基づく情報提䟛や、報酬の発生しない範囲での顧客の玹介であれば、その行為自䜓に、違法性はない。

    谷口は、手元のメモ甚玙の端を意味もなく折り蟌みながら、呟いた。

    「本田さんは  うちからの案件を、䞀床も断ったこずがないんですよ。倧きい案件は、特に。どんなに耇雑な事情があっおも、契玄の垭には必ず来る。だから、うちの経営陣も、あの人には頭が䞊がらない」

    真奈矎は、ブリヌフケヌスを握る手のひらに、冷たい汗がにじむのを感じた。

    玹介の環わ

    矎月が、䞍動産を手攟させお珟金を持たせた客を、谷口の䌚瀟が安く買い取る。そしお、その売华で生たれた珟金をふたたび矎月が、銀行の口座ぞず匕き戻し、回転売買の手数料を抜いおいく。䞍動産䌚瀟は安い仕入れで儲け、銀行員は運甚の成瞟を䞊げる。䞡者は、客をただ融通し合いシステムの郚品ずしお、機械的に凊理し続けおいた。

    「家賃の蚭定も、地域の盞堎の2倍近い」
    真奈矎は静かに远及した。

    「これでは、圌女の資産は遠からず底を突く。なぜ、こんな無茶な契玄を、結んだんですか」

    谷口は、困ったように䞡手を広げた。

    「倧浊さん、そう蚀われたしおもね。買取の䟡栌も、毎月の家賃の額も、ぜんぶ桜井様ご本人が玍埗枈みだ、ず。そう、本田様から曞類を回されおいるんです。僕らは、その合意に基づいお、ただ契玄曞を䜜っただけ。䟡栌の蚭定は、自由ですから。どこにも、違法な点は、ありたせんよ」

    ご本人も、玍埗枈み。
    矎月が適合性確認曞を䜿っお䜜り出した「停りの同意」の論理が、この䞍動産の垳簿の䞊にも、同じ圢で完璧な盟ずしお、匵りめぐらされおいた。

    真奈矎は、ゆっくりず立ち䞊がり硬く螏みしめた。
    䟡栌は合意されおいる。玹介の手続きに、瑕疵はない。

    䞍動産䌚瀟も、銀行も、それぞれの持ち堎で、ただ「合法的な手続き」を、こなしおいるだけだった。ひず぀ひず぀の環は、どれも、きれいに掗緎されおいる。どこを切り取っおも違法ずいう名の綻びは、ない。

    でも  その合法の環がすべお連なっお、ひず぀の茪になったずき。真面目に生きようずした、ひずりの人間の暮らしが、跡圢もなく抌し朰される、巚倧な機械ぞず姿を倉える。

    「  事情は、分かりたした。お時間を取らせたした」
    真奈矎が螵を返しかけたずき、谷口が、䜎い声で、それを呌び止めた。

    「倧浊さん。  あたり、深远いしないほうがいいですよ」
    真奈矎は、振り返った。谷口は、メモ甚玙から目を䞊げず、続けた。

    「本田さんの埌ろには、あの巚倧なメガバンクが぀いおる。それに  正盎に蚀いたすずね。僕も、あんたり思い出したくないんですよ、あの案件のこず」

    谷口は、そこで、初めお真奈矎の目を芋た。
    気のいい笑みは、もう、どこにもなかった。

    「桜井さんの前にも、本田さんから回っおきた客が䜕人かいたした。そのうちのひずりが  どうなったか、業界の噂で耳に入っおきたしおね。家を倱っおお金も尜きお。あたり、いい話じゃなかった」
    谷口は、メモ甚玙を、くしゃ、ず握り朰した。

    「僕は契玄曞を䜜っただけだ。䜕も違法なこずはしおない。  そう、自分に蚀い聞かせおたす。毎日、ね」
    真奈矎は、䜕も答えなかった。

    ただ、静かに䞀瀌しおオフィスを出た。
    雑居ビルの階段を降りる真奈矎の胞を、冷たい無力感の壁が重く圧しおいた。

    画像

    盞手は、法の死角を完璧に知り尜くし、その内偎に立おこもっおいる。
    でも――谷口の、あの最埌の目。あれは、ただシステムの郚品に、なりきれおいない人間の目だった。

    街を歩く真奈矎の前で、冷たい秋の陜が立ち䞊ぶビルのガラスに、無機質に乱反射しおいた。

    第9章 完璧な人の畑

    人は、生きおいくために、自分のしおいる仕事を、重芁で、善いものだず、芋なさなければならない。
    (Every man, in order to live, must consider his activity to be important and good.)

    ―― レフ・トルストむ『埩掻』より

    10月の、深倜だった。
    遮光カヌテンを完党に閉め切った矎月の自宀は、無機質な静寂に満たされおいた。

    圌女は、機胜的に敎えられたワンルヌムのデスクの䞊で、スチヌムアむロンを、ゆっくりず滑らせおいた。明日、顧客の前に立぀ずきにたずう、シワひず぀ない、癜いボりタむブラりス。湯気が立ちのがり、繊維の乱れが均䞀に抌し朰されおいく。その単調な反埩だけが、匵り぀めた神経をわずかに、平らな状態ぞず戻しおくれた。

    矎月にずっお、この完璧に敎えた衣服はただの身だしなみではなかった。過酷な戊堎で、自分を守るための鎧だった。
    アむロンを終え、ブラりスをハンガヌに掛けるず矎月は、手元のタブレット端末に芖線を萜ずした。明日のアポむントメントのリストが時刻の数字ずずもに敎然ず䞊んでいる。

    今月の、目暙達成率――120パヌセント。
    支店内の゚ヌスの座は、今月も保たれおいた。
    しかし、その数字を眺める矎月の瞳の奥には、深い疲れが、柱のように沈んでいた。

    矎月は、地方の決しお裕犏ではない家の出だった。芪族のなかでただひずり、自分の知胜ず努力だけを頌りに、この倧手郜垂銀行の総合職ずいう怅子を勝ち取った。いたも故郷で暮らす母の、重い介護ず医療の費甚を圌女の高い報酬が䞀人で支えおいる。

    矎月にずっお、この銀行での地䜍は、虚栄を満たす食りでは決しおなかった。それは、䞀歩でも螏み倖せば底のない泥のなかぞ転げ萜ちおいく   圌女の生掻の「床」そのものだった。萜ちるこずは、母ずずもに壊れるこずを意味しおいた。

    だからこそ、数字を䞊げ続けるこずは圌女にずっお、「匷欲」ではなかった。それは、ただ、「生きる」ず同じ蚀葉だった。
    矎月は、自分を詐欺垫だず思ったこずが、ただの䞀床もない。

    か぀おの圌女には、理想があった。真面目に顧客の資産を守り、圹に立ちたいず本気で願っおいた時期が、確かに、あった。
    だが、銀行が瀺す評䟡制床の構造を、骚の髄たで理解した時その理想は、音もなく厩れた。

    組織が求める「手数料の最倧化」ず、顧客が望む「利益の最倧化」。
    その二぀は制床の根のずころで、最初から、䞡立しないように蚭蚈されおいる。

    「顧客のためになるこず」ず「成瞟になるこず」を、芋分けようずするず手が止たる。手が止たれば数字が萜ちる。数字が萜ちれば、私の床が抜ける。
    その冷たい歪みに気づいた日、矎月は自分の内偎で、ひず぀の結論を䞋した。

    画像

    か぀お、ただ䞀床だけ手を止めたこずがあった。高霢の顧客に、明らかに合わない商品を勧めようずした瞬間、矎月は曞類を閉じた。

    「この方には、向きたせん」ず䞊叞に告げた。
    その月の成瞟は、目暙を倧きく割れた。

    翌朝、郚長宀に呌ばれた。「顧客のために」ずいう蚀葉が、数字の前では䜕の意味も持たないこずを、あの䞀時間で矎月は骚たで理解した。

    顧客の利益ず、自分の成瞟。
    その境い目にこだわっお立ち止たるのは、   玠人の甘さだ、ず。
    矎月がしおいるのは、すべお銀行の正芏のシステムを䜿った、完璧に合法な資産運甚の助蚀だった。

    「分散投資」も「定期的なメンテナンス」も、教科曞に茉っおいる、たっずうな金融理論だ。それを䜿っお手数料を埗お䜕が悪いずいうのか。䞖界は、そういうルヌルで回っおいる。自分はその仕組みのなかで、歩倢のような、将来を䞍安に思う人間に「正しい資産圢成をしおいる」ずいう、最倧の安心を売っおいる。
    曞類には、すべお本人の眲名がある。䜕も間違っおいない。

    そのずき、桜井歩倢ずの数日前の面談の堎面が、矎月の脳裏にふず浮かんだ。あのずき歩倢は、い぀になく萜ち着かない様子で口にした。

    「あの  家の管理をしおくれおいる、倧浊さんずいう人が銀行のこずを、いろいろ気にしおいお」ず。
    矎月は、怅子の背もたれに身䜓を預け、冷たい黒曜石のような瞳を现めた。

    倧浊真奈矎。
    実䜓のない数字の䞖界に、泥臭い実務の人間が銖を突っ蟌んでくる。
    あの女は、矎月が築いた完璧な仕組みを脅かす、明確な邪魔な存圚になり぀぀あった。

    矎月は、すぐに動くべきだず刀断した。
    歩倢を、こちら偎の「正しさ」に぀なぎ止め真奈矎を、完党に切り離さなければならない。矎月はい぀もの、なめらかで包み蟌むような声を頭のなかで意識しながら、歩倢ぞのメッセヌゞの文面を組み立おはじめた。

    ┄┄┄┄
    『桜井様、お仕事はお忙しいですか。少し気がかりなこずがあり、ご連絡いたしたした。先日お話しされおいた倧浊様のこず――ご専門の違う方が善意で口を出されるず、かえっお混乱を招くこずがございたす。お蟛いでしょうけれど、ご自身で遞ばれたあの䞀歩をどうか信じおさしあげおください。私はい぀でも桜井様の味方です』
    ┄┄┄┄
    送信のボタンを、指の腹で、静かに抌す。
    歩倢の「ちゃんずしなければ」ずいう真面目さを、そっず刺激し真奈矎の介入を「芪切の顔をした、邪魔者」ずしお凊理させるための䞀手だった。

    矎月は、スマヌトフォンの画面を䌏せ、アむロンの䞻電源をパチリず切った。自分のしおいるこずは、どこたでも正しい。
    そう、自分に蚀い聞かせるように、矎月は冷えきった自宀のなかで、深く、長い息を吐いた。

    明日もたた、シワひず぀ないブラりスを身にたずっお圌女は、自分の戊堎ぞ赎くのだ。

    第10章 逌

    私たちを砎滅ぞ誘うずき、闇の手先は、たず、たこずの真実を語り、眪のない玄束で、私たちを匕き寄せる。
    (To win us to our harm, the instruments of darkness tell us truths.)

    ―― りィリアム・シェむクスピア『マクベス』より

    10月の終わり。
    真奈矎は、ふたたび谷口䞍動産の怅子に、座っおいた。
    カりンタヌの奥は、盞倉わらず、電話のベルずコピヌ機の熱気で、隒がしい。だが、応接スペヌスだけは、奇劙に音が遠かった。

    真奈矎は、谷口に自分の考えおいるこずを、順を远っお話した。矎月を、銀行の応接宀でも完璧に敎えた台本の陰でもない、「実䜓のある堎所」ぞ、匕きずり出したいこず。そのために、ひず぀の嘘の逌が必芁であるこず。

    谷口は、長いあいだ黙っおいた。
    手元のボヌルペンを、意味もなく指のあいだで回しおいる。
    やがお、圌は口を開いた。

    「  倧浊さん。それ、僕に、加担しろっおこずですよね」

    「ええ」
    真奈矎は誀魔化さなかった。

    「あなたに、嘘の片棒を担いでほしい。本田さんぞ、嘘の案件の情報を流しお、圌女をひず぀の堎所ぞ呌び出しおほしいんです」

    「もし、ばれたら。僕はこの業界で終わりだ」

    「分かっおいたす」
    谷口は、ボヌルペンを机に眮いた。
    それからしばらく、自分の手のひらを芋぀めおいた。

    「  この前、倧浊さんが垰ったあず。僕ずっず考えおたんですよ」
    圌の声は、䜎かった。

    「桜井さんの前に、本田さんから回っおきた客がいたっお話。あれね噂じゃなかったんです。同じ業界の知り合いから、盎接聞いた話でね。その人、家を売っおお金を運甚に回しお  2幎も経たないうちに党郚なくなった。いたどこで、どうしおいるのかも、分からない」

    谷口は、顔を䞊げた。
    「僕は契玄曞を䜜っただけだ。䟡栌は合意されおた。違法なこずは、䜕ひず぀しおない。――そう蚀い続けるのにね、倧浊さん。だんだん自分の声が、聞こえなくなっおくるんですよ」

    事務所の喧隒が、二人のあいだを流れおいった。

    「  䜕を、すればいいんですか」
    谷口は蚀った。

    「埋め合わせには、ならないですけどね。せめお、自分の声がもう䞀床、自分に聞こえるように」
    真奈矎は、逌の䞭身を谷口に䌝えた。

    「最近、たずたった資産を盞続し倧芏暡な資産運甚に぀いお、内密のセカンドオピニオンを求めおいる富裕な人物がいる」――そういう、架空の倧口顧客だ。

    真奈矎は、この逌を矎月が最も信頌しおいる経路から流すこずにした。
    すなわち、矎月自身が顧客を安く買い叩かせるために䜿っおきた、この谷口の䞍動産䌚瀟ずいう玹介の環だ。

    画像

    谷口は、自分の䌚瀟の名矩で矎月ぞ、その倧口案件の情報を流した。さらに、すでに自瀟の所有物件ずなっおいる歩倢の旧宅に぀いお、「物件の珟況確認※10」ずいう名目で、鍵を合法的に手際よく手配した。所有者である自分の䌚瀟が、自瀟の物件を点怜する。それは䜕ひず぀、䞍自然なこずではなかった。

    ※10 珟況確認䞍動産䌚瀟が、自瀟で所有・管理する物件に぀いお、建物や蚭備の傷み、雚挏りの有無などを、定期的に、あるいは必芁に応じお点怜する実務。所有者みずからが行う管理行為。

    矎月にずっお、この環は自分が䜕床も成功させおきた、完璧なルヌトだった。谷口から倧口案件の連絡が入れば、確認など取る必芁はない――そう思い蟌めるだけの実瞟が、このルヌトにはあった。

    慢心が慎重さを、音もなく塗り替えおいた。
    自分が他人をコントロヌルするために䜿っおきた道具そのものが、自分を呌び寄せる眠に倉わっおいるずは、矎月は露ほども疑わなかった。

    真奈矎は、「富裕な客は隣接する広い土地の賌入も怜蚎しおおり、芪族や他の関係者に知られぬよう、䞭立的な堎所での内密の顔合わせを望んでいる」ずいう、実務的な筋曞きを甚意した。

    そしお、矎月を  あの家具の運び出された、空っぜの歩倢の旧宅ぞず呌び出した。すべおの、準備が敎った。

    11月の終わりの倕暮れ。
    あの「正しさ」をたずった人間を迎えるための、空っぜの法廷が静かに、その扉を開こうずしおいた。

    ◆知識の扉数字ずいう暩嚁の、たったひず぀の盲点
    高床に掗緎された珟代の金融の䞖界で最も匷い歊噚ずなるのは、「数字の論理」です。利回り。手数料率。資産配分の最適化。そうした無機質な蚀葉の連なりは、それ自䜓がある皮の客芳性をたずい、専門家ではない人に察しお、反論を蚱さない暩嚁ずしおはたらきたす。
    ずりわけ、日々の営業ノルマや組織内の評䟡制床に匷く瞛られた人にずっお、システムが瀺す数字を最倧にするこずは、自分の地䜍を守るための最も合理的で、疑う䜙地のない「正しい行動」ぞず盎結しおいきたす。
    しかし、この数字の論理には、ひず぀だけ盲点がありたす。
    それは――どれほど完璧に蚈算し尜くした数匏の倖偎にも、぀ねに「人間の生々しい暮らし」ずいう実䜓が存圚しおいる、ずいうただそれだけの事実です。
    垳簿の䞊の数字をきれいに敎えるために、ひずりの人間が築いおきた䜏たいや、仕事堎や、日々の暮らしが、限界たで抌し朰されおいく。その歪みだけは、どれほど掗緎された契玄曞の束を重ねおも、芆い隠すこずができたせん。

    第11章 空っぜの法廷

    人は、自分自身の顔で語るずき、最も、自分から遠い。仮面を䞎えおやれば、その者は、真実を語りだすだろう。
    (Man is least himself when he talks in his own person. Give him a mask, and he will tell you the truth.)

    ―― オスカヌ・ワむルド『嘘の衰退』より

    西日が、傟いた角床で、がらんずした宀内に差し蟌み、舞う埃の粒を金色にきらめかせおいた。真奈矎は、歩倢の旧宅の䞭倮に立っおいた。

    締め切られた四角い空間に、わずかなカビの匂いず冷えたコンクリヌトの底冷えが挂っおいる。薄手のゞャケットの生地を透かしお晩秋の冷気が、真奈矎の肌に盎に觊れた。

    郚屋の隅々に、暮らしの「あった跡」だけが残されおいる。
    床には、歩倢が圚宅で仕事をしおいた重いデスクの脚の深い四぀の凹み。
    壁には、䜕かを貌っおいた堎所だけが䞍自然に癜く残り、たわりの幎月の偏った日焌けず、䞍栌奜なコントラストを描いおいた。
    抌し入れの戞は開け攟たれ、ただ四角い暗がりだけが、真奈矎を芋返しおいる。

    そしお、倩井の隅。
    あの6月の長雚の日に真奈矎が芋぀けた、手のひらほどの雚挏りの染みが、䜕の手入れもされぬたた、どす黒く也いた茪郭を持っお、そこに圚った。

    真奈矎は、ポケットに䞡手を入れたたた、その時を静かに埅っおいた。
    カチ。玄関の鉄補の扉が、開く音がした。

    䞉和土たたきを硬く叩く、高䟡な黒いパンプスの響き。それだけで、入っおきた人物が誰であるかが、宀内の沈黙を震わせお䌝わっおきた。

    「倧浊様。お埅たせいたしたした。谷口様から、こちらで倧口の資産家様ず、お䌚いできるず䌺っお参ったのですが  」

    矎月は、ブラりスの襟元を敎えながら郚屋の奥ぞ、歩みを進めおきた。
    だが、郚屋に真奈矎ひずりしかいないこず、そしお家具がひず぀もない「空っぜの状態」を芋た瞬間、その完璧な埮笑みが、ぎたりず、止たった。

    客など、最初からいない。
    矎月は、その蚈算機のような頭脳で、即座に状況を悟った。圌女は、瞳に冷たい䞍快の色を走らせ、埮笑みは厩さぬたた無蚀で螵を返した。

    「お匕き止めは、したせん」
    真奈矎の、平らな声が、空っぜの壁に反響した。

    矎月のパンプスの爪先が、ドアノブの手前でわずかに止たる。

    「どうぞ、お垰りください。私には、あなたをここに瞛り぀ける暩利も、あなたを脅すための、䜕ひず぀もありたせん。それは本圓です」
    真奈矎は、ゆっくりず、続けた。

    「ただ  ここたで来お、私が䜕を握っおいるのか、確かめもせずに垰る。それは、あなたの流儀ではないでしょう」

    沈黙が、あった。
    やがお、矎月はゆっくりず振り返った。その顔には、もうアドバむザヌずしおの枩かみはなかった。冷たく敎った茪郭だけが、西日に照らされおいた。

    「  無駄なこずを」矎月は蚀った。

    「倧浊様。あなたに、私を裁く暩限など、䜕ひず぀ありたせん。今日も、明日も。それはご自分が、いちばんよくお分かりのはずですが」

    「ええ。分かっおいたす」
    真奈矎は頷いた。

    「だから、裁くためにお呌びしたのではありたせん。ただ、芋おいただきたかったんです。あなたが曞類の陰で匄んできた、その蚈算匏が  珟実に、䜕を匕き起こしたのか。その目で」

    真奈矎は、ポケットから手を抜き矎月を促しお、䞀郚屋ず぀歩かせはじめた。手入れの行き届いたロヌファヌが、叀い床を硬く鳎らす。

    「ここは、台所でした」
    真奈矎は、錆び぀いたシンクの跡を指さした。

    「あなたが、谷口䞍動産ず組んで蚭定した地域の盞堎の2倍近い家賃。その実䜓のお金が、毎月この堎所から消えおいきたした」
    真奈矎は、歩を進め隣の郚屋ぞ入った。

    「ここは、歩倢さんが仕事をしおいた郚屋です」
    床に残る、重いデスクの四぀の凹み。
    壁の䞍自然に癜い日焌けの跡。

    「圚宅で働いおいた圌女にずっお、家を远われるこずは䜏たいず、仕事堎を同時に倱うずいうこずでした」
    真奈矎は、いったん蚀葉を切り、ブリヌフケヌスから䞀枚のノヌトを取り出した。

    「数字を順番に申し䞊げたす」
    真奈矎の声は䜎く、平らだった。

    「お祖母様が遺したこの家の垂堎での䟡倀は、およそ3,200䞇円でした。しかし、あなたが間に入れた䞍動産䌚瀟の買取䟡栌は2,300䞇円。家を売った、その䞀床きりの取匕で圌女は、もう900䞇円を倱っおいたす」

    矎月は、䜕も蚀わなかった。

    「その手取り2,300䞇円に盞続したわずかな珟預金を足しお、運甚にたわした原資が玄2,500䞇円。  そこから先があなたの畑です」
    真奈矎は、ノヌトの、次の行ぞ指を移した。

    「運甚を始めお半幎の時点で、家賃ず回転売買の手数料が重なり、原資はすでに400䞇円あたり削られおいたした。残りは、2,100䞇円ほど。そしお、そこから、さらに半幎。あなたは『チュヌニング』をやめなかった。割高な家賃も止たらなかった」
    真奈矎は、ノヌトの、最埌の行を読み䞊げた。

    「いた、圌女の口座に残された運甚残高は、実質的に1,600䞇円を䞋回っおいたす。3,200䞇円の䟡倀があったこの家から始たり、売华で生たれた損差ず、家賃ず手数料が重なった結果です。1幎で資産は半分を䞋回った」

    矎月の芖線が、ノヌトの䞊を䞀床だけ滑った。だが、その衚情は動かなかった。真奈矎は、最埌に立ち止たり、倩井の隅を芋䞊げた。

    「そしお、これです」
    修理されなかった雚挏りの跡が、どす黒い歪んだ茪郭を持っお、ふたりの頭䞊に、重く、圚った。

    「35䞇円の修理費。それすら捻出できずにいたのは――あなたが、圌女の資産の党䜓像を芋えなくさせ、すべおの資金を商品のなかぞ瞛り぀け、合法的に削り取り続けたからです」

    矎月は、その染みを冷たい瞳で芋䞊げた。
    そしお、錻先で小さく笑った。

    「  だから、それが䜕だず蚀うのです」

    「ええ、そう蚀うず、思っおいたした」
    真奈矎は、ブリヌフケヌスから䞀枚の、薄いコピヌ甚玙を取り出し、矎月の県前に突き぀けた。

    歩倢の眲名の入った、「適合性確認曞」だった。
    「ここに蚘された、『投資経隓、3幎以䞊』『高いリスクを、容認する』ずいう回答。これが、あの知識のない歩倢さんの実像ず、完党に矛盟しおいるこずを  あなたは、誰よりもよく知っおいるはずです」
    真奈矎は、その玙を、矎月の目の高さで、止めた。

    「あなたを守っおきた、この䞀枚の玙は。芋る者が芋れば、あなたが蚀葉巧みに『停りの同意』を䜜り出した、䜕よりの蚌拠に倉わりたす」
    その瞬間、矎月の完璧な仮面が音もなく剥がれ萜ちた。

    圌女は、あの芪身なアドバむザヌの声を完党に捚おた。
    そしお、初めお底の知れない冷たく平らな声で、語りだした。

    「   だったら。どうだず蚀うの」
    矎月の瞳に隠しきれない焊りず、冷たく底のない激情が走った。

    「歩倢さんは説明を聞いお玍埗しお眲名した。私はルヌルをひず぀も砎っおいない。銀行の評䟡システムが、『貯蓄から投資ぞ』の空気が、私にこの数字を求めおいるのよ。私は萜ちるわけにはいかないの。母がいる。   あなたのような玠人に私の䜕が分かるっおいうの」

    画像

    矎月の、冷たく平らな声が叫ぶように、䜕もない郚屋に䞍気味に響き枡った。その、声の䜙韻が消えるか消えないかのうちに。ガチャリ、ず玄関のドアノブが回った。

    倕暮れの光のなかに立っおいたのは、桜井歩倢だった。
    真奈矎は、知っおいた。歩倢を、ここぞ呌んだのは真奈矎自身だった。
    谷口が「珟況確認の立ち䌚いを、借䞻だった方にもお声がけするのが慣䟋です」ず䌝える圢で歩倢に連絡を入れおもらった。

    「空っぜになったお家を、最埌に䞀床ご芧になれたす。倕方に、珟況確認がありたす」ず。そう䌝えお、この時刻に呌んでいた。

    真奈矎の胞の奥で、冷たいものが、わずかに疌いた。
    これは、自分が仕組んだこずだ。歩倢に、矎月の本圓の声をその耳で、聞かせるために。救うために、自分は歩倢を䜿った。その埌ろめたさを、真奈矎は逃げずに匕き受けた。

    歩倢は、矎月がここにいるこずを知らなかった。
    その耳には、いた矎月が攟った蚀葉が――「歩倢さんは、眲名した」「あなたに私が分かるの」ずいう、あの冷たく平らな本心の声がはっきりず、生々しく届いおいた。

    矎月は、歩倢の存圚に、気づいた。
    䞀瞬――本圓に䞀瞬だけ、矎月の挆黒の瞳の奥で、䜕かが揺れた。

    だが、それは動揺ではなかった。少なくずも、真奈矎の目にはそう芋えなかった。それは、むしろ確認の衚情だった。歩倢に、すべおを聞かれた。その事実を、自分の「正しさ」のなかぞ収たるべき堎所ぞ、収め盎す――そういう衚情だった。

    矎月は、恐ろしいほど萜ち着いた所䜜で剥がれ萜ちた仮面を、䞀枚ず぀組み立お盎した。そしお、䜕事もなかったかのように、完璧な姿勢を取り戻すず歩倢に向けお、もう䞀床だけ、あの聞き芚えのある「枩かい」声を発した。

    「――桜井様。ご䞍安なこずがあれば、い぀でもご連絡ください。私はい぀でも、あなたの味方ですから」

    それは、芝居ではなかった。
    矎月は、本気でそう信じおいた。
    歩倢は、これからも自分を頌っおくる。なぜなら、自分は䜕ひず぀間違ったこずをしおいないのだから。

    そのこずが――動揺しお去る悪人よりも、はるかに深く真奈矎の背を冷たくした。矎月は、䞀床も振り返らず空っぜの家から立ち去った。

    残された郚屋に真奈矎ず歩倢の、ふたりだけが西日の圱のなかに、取り残された。誰も、䜕も、蚀わなかった。
    やがお、歩倢の手がそっず空っぜの郚屋の壁をなぞった。日焌けの跡が、䞍自然に癜く残る、その壁を。貌られおいた䜕かの、か぀おの茪郭を指先でたどるように。それ以䞊、䜕もしなかった。

    倩井の修理されなかった雚挏りの染みだけが、沈黙のなかで二人の䞊に静かに圚り続けおいた。
    真奈矎が、この日手に入れた、たったひず぀の「勝ち」。

    それは、矎月の台本を剥ぎ取りその平らな声を、歩倢に聞かせたこず
    ――ただ、それだけだった。

    そしおそれは、誰の目にも觊れず倱われた資産も、家も、䜕ひず぀、取り戻すこずのできない、あたりにも苊い圢をした、勝ちだった。

    第12章 正しいずされた行動の果お

    人は、滅がされるこずはあっおも、敗れはしない。
    (A man can be destroyed but not defeated.)

    ―― アヌネスト・ヘミングりェむ『老人ず海』より

    12月の声を聞いた街に、容赊のない朚枯らしが吹き荒れおいた。
    真奈矎は、い぀もより厚手のりヌルコヌトの襟を立お、地元の静かな通りを歩いおいた。手入れの行き届いたレザヌロヌファヌが、冷たく也いたアスファルトを硬く叩く。

    あの倕暮れの察峙から、数週間が過ぎおいた。
    谷口からの実務的な事埌の連絡によっお、真奈矎の元には、いく぀かの冷たい事実が届いおいた。

    矎月に察する明確な凊分や曎迭の動きは、銀行の内郚監査においおも䞀切行われなかったずいう。提出された適合性確認曞には歩倢の自筆の眲名があり、手続きはどこたでも合法な曞類で塗り固められおいた。矎月は䜕も倱わなかった。
    今日もシワひず぀ないブラりスを身にたずい、別の応接宀で、将来ぞの焊りを抱いた別の誰かの前に座っおいる。

    真奈矎が真実のすべおを暎き、完璧な仮面の䞋の平らな声を匕っ匵り出したずしおも、その真実をひずかけらの凊眰ぞず倉える術は、矎月のいる金融のルヌルのなかには、最初から存圚しおいなかった。

    芋抜いたのに、裁けなかった。
    ひず月前の真奈矎であれば、この無力感を胞の奥に柱たせたたた、ただ倜道を歩いおいただろう。実䜓のない数字の䞖界に、自分の手は届かない。そう自分に蚀い聞かせお、匕き受けるこずだけを、自分の圹目にしおいたはずだった。

    だが、真奈矎は立ち止たらなかった。
    金融ずいう矎月の畑では勝おない。それは、あの銀行の応接宀で二枚の壁を前にした日に、すでに思い知らされおいる。

    でも  真奈矎はあの日からずっず考え続けおいた。矎月ひずりを裁けないこずず、矎月の手口を攟眮するこずは同じではない。

    矎月の搟取は、矎月ひずりでは成り立たない。
    歩倢のような客を盞堎より安く買い叩く䞍動産䌚瀟があっお、はじめおあの「玹介の環」は回る。家を安く手攟させ、その珟金を金融商品ぞ移し替える  その入口の䞀蟺は、金融ではなく䞍動産の取匕で組たれおいる。

    そしお、䞍動産は真奈矎の畑だった。
    真奈矎は、谷口䞍動産のオフィスをもう䞀床蚪ねた。

    幎の瀬の慌ただしさのなか、谷口はよれたスヌツのたた、真奈矎を応接スペヌスの安䟡な怅子ぞ通した。真奈矎は、ブリヌフケヌスから䞀冊のクリアファむルを取り出し机に広げた。歩倢の家の登蚘簿。盞堎3,200䞇円の物件を2,300䞇円で買い取った、その売買の蚘録。地域の適正な賃料の二倍近くに蚭定された家賃の数字。

    「谷口さん」
    真奈矎は、静かに切り出した。

    「矎月さんを、金融の偎から裁くこずは誰にもできたせん。それは、もう分かりたした。けれど、このリヌスバックの取匕そのもの  買取䟡栌ず家賃の蚭定。これは、䞍動産の取匕です。私たちの畑の話です」
    谷口は、机の䞊の数字を長いあいだ芋぀めおいた。

    「  これを、衚に出すんですか」

    「ええ」
    真奈矎は、ごたかさなかった。

    「宅地建物取匕業には、消費者を守るための説明矩務がありたす。リヌスバックをめぐる消費者被害は、いた囜民生掻センタヌや囜土亀通省が繰り返し泚意を呌びかけおいる領域です(※12)。歩倢さんのこの契玄が、どれほど䞍圓な条件で結ばれたのか  それを、䞍動産取匕の枠組みで正匏に問題ずしお申し立おるこずは、できたす」

    ※12 リヌスバックをめぐる消費者保護自宅を売华し、その埌も賃借しお䜏み続けるリヌスバックに぀いおは、買取䟡栌が盞堎より䜎く、家賃が割高に蚭定されやすいこずなどから、消費者トラブルが報告されおいる。囜民生掻センタヌや囜土亀通省は、契玄内容を十分に確認するよう、消費者ぞの泚意喚起を行っおいる。たた、宅地建物取匕業者には、取匕にあたっお重芁事項を説明する矩務が課されおおり、䞍圓な取匕実態に぀いおは、行政指導や業界団䜓を通じた是正の筋道が存圚する。

    「それをやれば」
    谷口は、也いた声で蚀った。

    「うちの䌚瀟の、買取のやり方が調べられるこずになる。䞋手をすれば、行政指導が入る。僕の立堎も  ただではすたない」

    「わかっおいたす」
    真奈矎は、頷いた。

    「だから、無理にずは蚀いたせん。これは、あなた自身が決めるこずです」
    谷口は、机の䞊のボヌルペンを指のあいだでゆっくりず回した。あの倏の日ず、同じ仕草だった。回し終えるず、圌はそれを静かに机ぞ眮いた。

    「  この前、空き家で本田さんを埅぀手䌝いをしたずき」
    谷口は、蚀った。

    「僕はね、倧浊さん。あれで、少しだけ自分の声が聞こえるようになった気がしたんですよ。ほんの、少しだけね」
    圌は、顔を䞊げた。

    「でも、あれは結局、本田さんを䞀床、空っぜの郚屋に立たせただけだ。䜕も倉わっちゃいない。あの人は、明日も同じこずをやる。  僕は、それを知っおいお芋おいるだけだった」
    谷口は、机の䞊の登蚘簿に手のひらを眮いた。

    「うちの買取のやり方を、衚に出しおください。協力したす。䟡栌の根拠も、本田さんから案件が回っおきた経緯も僕が知っおいるこずは、党郚蚌蚀したす。  埋め合わせには、ならない。桜井さんの家も、お金も戻りはしない。それでも  次に、うちの䌚瀟が誰かを安く買い叩こうずしたずき。同じやり方が、前のようには通らなくなる。せめお、それくらいは」

    真奈矎は、谷口のその蚀葉を、静かに受け止めた。
    これは、勝利ではなかった。矎月は、䜕も倱わない。歩倢の資産も、戻らない。
    久保田の蚀ったずおり、矎月の座る垭は空くこずがない。

    でも、矎月の手口が機胜するための回路  その䞍動産偎の䞀蟺に、真奈矎は自分の畑の道具で、楔を打ち蟌むこずができる。次に矎月が、谷口の䌚瀟を䜿っお同じ環を回そうずしたずき、それは以前ず同じようには、回らない。

    制床の倩秀を、ひっくり返すこずなど誰にもできない。でも、その倩秀に茉せられる前に螏みずどたれる人を、ひずり、たたひずりず、増やしおいくこずは  できる。

    数日埌、真奈矎は、駅前の小さな喫茶店の前で歩倢ず䌚った。
    あの日、矎月のむき出しの本心を、その耳で聞いた歩倢は、もう、自分の足でしっかりず地面を螏みしめお立っおいた。

    真奈矎は、谷口ず進めおいる手続きのこずを歩倢に䌝えた。倱われた祖母の家も、削り取られた数癟䞇円の元本も、完党に戻っおくるこずはない。安易な救枈など、珟実の前にはなかった。

    それでも  歩倢の契玄の䞍圓性が、䞍動産取匕の蚘録ずしお、正匏に残るこず。その蚘録が、次に同じ立堎に立たされる誰かのための、ひず぀の足がかりになるこず。
    歩倢は、柄んだ冬の空気のなかで、静かに前を芋぀めた。

    「私の名前が、その蚘録に残るんですね」
    「ええ。あなたが嫌でなければ」

    歩倢は、少しの間、考えおいた。それから、小さく、しかしはっきりず頷いた。

    「残しおください。私  ずっず、将来が怖くお。自分で考えるこずをやめお、その怠けを『信頌』っおいうきれいな蚀葉にすり替えおいた。あの家が空っぜになっお、ようやくそれが分かったんです。  だから、私みたいな人が、次に同じ堎所で立ち止たれるなら。私の名前くらい、いくらでも䜿っおください」

    それは、倱ったものの倧きさに比べれば、あたりにもささやかで  しかし、確かな䞀歩だった。

    真奈矎は、歩倢の鞄からのぞく、地元の安䟡な賃貞アパヌトの間取り図に、目を留めた。家ず仕事堎を同時に倱った歩倢は、今床は、自分の身の䞈に合った小さな仕事郚屋を自分の意思で探しはじめおいた。

    「いい郚屋が芋぀かるたで、いくらでもお付き合いしたす。それが、私の仕事ですから」
    真奈矎がそう告げるず、歩倢は、今日たででいちばんやわらかい埮笑みを浮かべお頷いた。
    歩倢を芋送り、ひずりになった真奈矎は、導かれるように、あの静かな堎所ぞず足を向けた。
    叀い玙ずわずかな埃の匂いが静かに堆積する、久保田曞店。

    ストヌブの䞊で、薬猶が、チリチリず现い湯気を立おおいた。真奈矎は、これたでの実務の顛末を、ただ静かに報告した。亡くなった父も、もし生きおいたらこうしおこの人に、難しい話を聞いおもらったのだろうか。ふず、そんなこずを思った。

    久保田は、真奈矎の話を口を挟たずに聞いおいた。そしお、長く閉ざしおきた自分の過去の扉を、半分だけ抌し開けるようにしお語りだした。

    「真奈矎ちゃん。私はね、――倧昔。あの、本田さんず、同じ垭に、座っおいたんだよ」
    薬猶の蓋が、かたかたず小さく鳎った。

    「䌚瀟の求める成瞟ず、目の前の生身の人間を助けるこず。そのふた぀の境い目が、毎日の実務のなかで、少しず぀溶けるように芋えなくなっおいく。あの仕組みのなかに長くいるずね。人は、自分が嘘を぀いおいるずいう自芚さえ倱っおしたうんだ」

    久保田は、老県鏡を倖し、自分の也いた手のひらを芋぀めた。

    「私は、ある日、自分の内偎が完党に麻痺しおいくのが怖くなった。それで、その垭を立っおここぞ逃げおきた。――真奈矎ちゃん。ひず぀だけ、知っおおいおほしいこずがある。私が降りおも、あの仕組みは䜕ひず぀止たらなかった。私が空けた垭には、次の日の朝には、たた別の、優秀で真面目な誰かが圓然のように座ったんだ。あの垭が、空いたたたになるこずは、決しおない」

    䜕の慰めにもならない、冷たい䞖界の構造だった。
    真奈矎は、その蚀葉を静かに匕き受けた。
    そしお――匕き受けたうえで口を開いた。

    「久保田さん。垭は、空かないんだず思いたす。あなたの蚀うずおりに。本田さんがい぀か降りおも、次の誰かが必ずあの垭に座る。それは、私にも止められたせん」

    真奈矎は、湯呑みを䞡手で包んだ。
    「でも  あの垭の、向かい偎になら。私は、手を䌞ばせたす」

    久保田が、老県鏡の奥の目をわずかに䞊げた。
    「あの垭に座る人を、なくすこずはできない。でも、あの垭の向かいに座らされる人  歩倢さんのような人を、座る前に螏みずどたらせるこず。それなら、できたす。今回、谷口さんず䞀緒に残す蚘録はそのためのものです。次に、同じ環に巻き蟌たれかけた誰かが䞍動産の偎で、ほんの少し早く立ち止たれるように」

    真奈矎は、湯呑みのなかの揺れる茶の衚面を芋぀めた。

    「私は、本田さんを裁けたせんでした。これからも裁けない。それは、はっきりずわかっおいたす。私にできるのは、あの人の手口の䞍動産偎の䞀蟺を、自分の畑の道具で断぀こずだけです。たったそれだけのこずです。  でも、たったそれだけのこずなら、私にはできる」

    画像

    久保田は、しばらく、䜕も蚀わなかった。
    やがお、圌は、薬猶の湯を、真奈矎の湯呑みに静かに泚ぎ足した。

    「  地図のほんの隅っこを枡しただけの぀もりだったよ」
    久保田は、独り蚀のように蚀った。

    「それを、君は、ずいぶん遠くたで広げおみせた」
    圌の声には、咎める色も、慰める色も、なかった。

    ただ、長く降り続いた雚がようやく䞊がったあずのような、静かな也いた響きが、そこにあった。

    真奈矎は、久保田曞店を出た。
    すっかり倜の垳が䞋りた街の冷たい空を芋䞊げる。あの、家具の消えた空っぜの家。誰もいなくなったあの郚屋の倩井には、今も修理されなかった雚挏りの染みが、どす黒い事実の痕跡ずしお残されおいる。誰も、あの嘘を法で裁くこずはできなかった。

    でも、真奈矎は、もうあの染みを敗北の印だずは思わなかった。
    あれは、垳簿の䞊の完璧な数字が珟実の暮らしのうえに残した、ただひず぀の消せない傷跡だ。そしお、その傷跡を読み取れる者がいるかぎり  同じ傷を、次の誰かの倩井に䜜らせないための、手がかりにもなる。

    私は、芋た。私は、理解した。
    そしお、私にはあの人を、法で眰するこずはできない。

    その厳然たる自分の無力を、真奈矎は逃げるこずなく、はっきりず自分の蚀葉にしお匕き受けた。そしお、その無力の隣にもうひず぀の蚀葉を䞊べお眮いた。

    裁けない。でも、断おる。次に同じ環が回りだそうずしたずき、その䞀蟺を自分の畑で、断぀こずはできる。

    その「匕き受け」ず、その「断぀」ずいう、ふた぀の蚀葉の重さだけが、圌女が、これからも地に足の぀いた仕事を、泥臭く続けおいくための確かな足堎だった。

    正しさの顔をしお、真面目な人間を絡め取る。
    それが、正しいずされた行動の果おだった。

    でもその果おから、もう䞀床歩きはじめる道も、確かにある。
    真奈矎は、谷口ず亀わすべき次の打ち合わせの段取りを頭のなかで、ひず぀ず぀、組み立おはじめた。冷たい倜颚が、街路を吹き抜けおいく。真奈矎は、その颚のなかぞ迷いのない䞀歩を螏み出した。

    埌線了


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
    普段わざわざ詳しく知りたいずは思わないこず、身近にありすぎお玠通りしおしたう、逆に遠すぎお深く考えるこずもないこず。 私はナれか、そういうものにばかり惹かれおしたいたす。 その思いがけず面癜い「事実」や「気づき」を簡単な物語にしおいたす。 気楜に読んでいただけたら嬉しいです✚

    あなたぞのおすすめ