
『青い時間(シニネン・ヘトキ)の中で』② 第2章 魚の都合で生きていく
← 第1章『生ある限り竿を振る』から読む | 連作マガジン『青い時間の中で』
比較的、仕事の少なかった週だった。 それでも、労働時間は四十六時間に達していた。 その直後には、毎週恒例となっている十三時間のパイクフィッシングの遠征が待っていた。
さらに翌朝は、午前五時の起床。 私はシートラウトを追うために、また海へと向かっている。
今になって振り返れば、この時点で私の生活のバランスは、すでにどこかおかしくなっていた。だけど、その頃の私にはそんな自覚はなかった。ただ純粋に、シートラウトが釣れないのは自分の技術が足りないからだ、と思い込んでいたのだ。
意識の大半は、すでにどこかへ飛んでいた。 寒さも、空腹も、眠気も、もちろんある。 体中があちこち痛むけれど、それらを一つひとつ気にするような心の余裕は、もう残されていなかった。
ぼんやりとした視界の向こうで、朝日だけがバルト海の海面に優しく滲みだしていく。 心なしか、この日は海が少しざわついて見えた。前日に吹いていた、東風の影響かもしれない。
岬の先端へ向かう。 足元から数メートル先までは、岩がゴロゴロしている浅瀬(シャロー)だ。その先で、水深が一気に深く落ち込んでいる。こうした急激な地形変化は、まだ水温の低いシーズン初期に狙い目だと言われている。
なぜ、そこが良いのか。 自分の経験から学んだのか、それとも誰かから聞いた話なのか、もうはっきりとは覚えていない。ただ、長く釣りを続けていると魚が通りそうなルートは、なんとなく感覚で分かるようになってくる。
この日も、軽い直感を頼りにして立ち位置を決めた。 ラインをリールから引き出す。 最初の一投。 機械的にラインを手繰り、冷たい水の中でフライを泳がせていく。 「そろそろ回収しないと、底の岩に引っかかるな」 そう思った、まさにその瞬間だった。
ガツン。

手元に、しっかりとした重い衝撃が走った。 一瞬、底の岩を叩いた思った。しかし直後、その考えを打ち消すように、確かな生命感が伝わってきた。 反射的にロッドを立てる。 魚を岩の多い場所から、素早く引き離した。
アタリの力強さに比べると、上がってきた魚は少し拍子抜けするほど小さかった。 けれど、紛れもないシートラウトだった。 シーズンが始まってから
五日目。 ようやく手にした、今シーズン最初の一尾だ。
大きさなんて、どうでもよかった。 前回のシーズンでは、二週間にわたって一度も魚の反応がなかったのだ。 まず、この広い海に、確かに彼らがいること。 それを確認できたこと自体に、何よりも大きな意味があった。
「釣れるじゃないか」
そのとき最初に浮かんだのは、そんな驚くほどあっさりとした感想だった。 シートラウトは群れで動く魚だ。私は次の魚を期待して、すぐにキャストを続けた。
けれど、現実はそんなに甘くはなかった。 そこから一時間、何も起きない。 海はまた静まり返り、結局この日の釣果は最初の一尾だけだった。
通勤中の電車の中、ずっと考えていた。 なぜ、今日だけ魚がそこにいたのだろう。何が昨日までと違っていたのか。
思い当たる理由は、たった一つしかなかった。 風向きだ。
昨日は珍しく東風が吹いていた。 ベイト(餌になる小魚)が岸へと寄せられ、それを追ってシートラウトも岸辺に近づいたのではないか。
仮説としては、十分にあり得る。 けれど、問題はその先だった。もし本当に東風が鍵なのだとしたら、私が魚に出会えるチャンスは極端に少なくなってしまう。この時期のこのエリアで東風が吹くことは滅多にないからだ。基本は冷たい北風か、北西の風。そして、この釣り場はそのどちらの風が吹いても、静かな風裏になってしまう場所だった。
翌日も、同じポイントに入った。 予想通り、風は北に変わっていた。海面はまるで鏡のように静まり返っている。 魚からの反応は、何もなかった。
水温は六度。 天気は晴れ。 釣りを始めた時間も、昨日と同じ。 違うのは、ただ風向きだけ。
これほど小さな違いだけで、結果が全く変わってしまうのか。それとも、まだ自分の知らない別の理由があるのだろうか。 答えは分からない。それでも私は、毎朝同じ場所へ通った。 シートラウトのことを知る方法は、そうやって愚直に海へ通うこと以外にないと思ったからだ。
四月中旬。 北欧の春は、まだ遠かった。 今年は例年より氷が解けるのが早かったものの、水温は四度から六度の間をせわしなく行き来している。天気や風向きによって海の状態は目まぐるしく変わり、魚の動きも一向に安定しない。
こちらの体調も、お世辞にも万全とは言えなかった。 水曜日までに、仕事で三十二時間近くをすでに費やしている。朝五時に起きる生活は、人間の肉体にとって決して自然なことではない。
それでも木曜日と金曜日は、ありがたいことに日勤だった。 勤務時間は九時間。 少なくとも朝と夕方の二回、水辺に立てるチャンスがある。そのことだけが心の救いだった。
木曜日の夕まずめ。 仕事を終えると、急いで家へと向かう。 スーパーで買い出しをして、大急ぎで夕食を作る。家族に食事を用意し、後片付けを終わらせる。
すべての家事を終えると、子供たちを連れてまた外へ出た。 時計を見ると、もう二十時十五分になっていた。 朝起きてから、じつに十五時間。 ほとんど休んでいない。けれど、頭の中にあったのは、あの冷たいバルト海のどこかにいるシートラウトのことだけだった。
今の職場は本当に忙しい。 勤務中に一息つく暇もなく、休憩時間も十分とは言えなかった。
だけど気がつけば、 仕事の予定も、 睡眠時間も、 家事の段取りすらも、 すべてを釣りのためにパズルのように組み直し始めている自分がいた。
最初は、ただの技術の問題だと思っていた。 フライの選び方が悪いのか。 流し方が違うのか。 立ち位置が少しズレているのか。
けれど、この一週間、必死に海へ通うなかで、少し考えが変わり始めていた。 シートラウトは、確かにそこにいる。それはあの日、悴む手で抱き上げた最初の一尾が証明している。
問題は魚の数だけではない。 彼らが岸に寄り、狂ったように餌を食べ始める「時間の窓」が、あまりにも短すぎること。それこそが本質だった。
現地の釣り人は、よくこんな風に言う。
「千回キャストして、ようやく一匹釣れる魚」
最初は、いささか大げさな表現だと思っていた。 けれど実際に通い始めると、その言葉の意味が少しずつ、肌で理解できるようになってきた。 ボートで沖へ出れば、魚はいる。決して、おとぎ話の幻なんかじゃない。
けれど、この足で岸から狙うとなると、話はまったく変わってくる。 魚が岸に寄ること。 そこに餌となる小魚がいること。 彼らの捕食スイッチが入ること。
そして、その瞬間に自分がロッドを持って現場に立っていること。
そのすべてが重なり合わなければ、魚を手にするという現実は生まれない。 どの釣りにも共通する、普遍的で便利な技術は確かにある。シートラウト釣りにも磨くべき技術はある。
だけど、その技術を発揮する前に、越えなければならない壁があるのだ。
「魚が釣れる瞬間に、そこに立っていること」
それができなければ、どんなに素晴らしい道具を使い、どんなに上手に投げても、すべては意味を持たない。
今シーズン、二回目の夕まずめ。 太陽が冷たい水平線へ沈んでいくまで、海は何も語りかけてはくれなかった。
だけど、日没から十分ほどが経った頃、ようやくそのときが訪れた。 コツン、という小さなアタリ。慎重に引き寄せる。
けれど、上がってきたのはシートラウトではなかった。 バルトニシンだった。
ところが、そのたった一尾のニシンを境に、海の空気が一変した。
日没から十五分。
二十分。
三十分。
まるで合図でもあったかのように、ほんの短い時間だけ、海の中の生き物たちが一斉に活発になり始めた。 次々とフライへと、暗闇の中から襲いかかってくる。 その様子を見ながら、私の中に一つの確信が生まれていた。
「魚は、一日中あてもなく泳ぎ回っているわけではないのかもしれない」
むしろ逆なのだ。 風のやわらかい穏やかな日ほど、彼らが活発になる時間はぎゅっと圧縮される。

日の出前の、わずか三十分。 日没後の、わずか三十分。 すべての勝負は、その刹那的な時間帯に集中している。 もし、この仮説が正しいのだとしたら、こちらが取るべき選択は一つしかない。私の生活すべてを、その時間の隙間にアジャストさせることだ。
現在の日の出は、午前五時半前後。 起きて準備を整え、冷え切ったヴオサーリの釣り場へ到着するまでに約四十分。 逆算すると、起きるべき時間は午前四時半だ。一分でも遅れれば、あの「窓」は閉まってしまう。
魚に合わせて、釣りをする。 そのつもりだった。 だけど気がつけば、事態は完全に逆転していた。
私は魚の都合に合わせて、自分の「生きるサイクル」そのものを根底から作り直し始めていたのだ。
翌日から、一日はさらに慌ただしくなった。 わずかな睡眠時間。 仕事の合間に頭の中で巡らせる、潮や風の計算。 休日という概念の使い果たし。 私の生活のすべての歯車が、シートラウトという銀色の病を中心に、静かに、けれど確かに回り始めていた。
その変化の行き着く先が、どこへ向かっているのかは分からない。 ただ、一つだけ確実なのは、まだ何も分かっていないということだ。 バルト海のシーズンは、まだ始まったばかりなのだから。
『青い時間(シニネン・ヘトキ)の中で』
次回、第3章「眠りを削り、野生に近づく」は、明日のお昼13:00(日本時間)に更新予定です。どうぞお楽しみに。
[ ← 第1章を読む | 連作マガジンで目次を見る ]