
大学院講義メモ:価値観が揺らぐとき、人は抵抗する
ー抵抗の奥にある傷や問いについて考えた話ー
今日の大学院の講義は男性学だった。
テーマは「男性の特権と抵抗、そしてバイスタンダー介入」。
講義では、男性特権や社会構造について学んだが、私の中に一番残ったのは「抵抗」という言葉だった。
心理学では、自分にとって受け入れがたい感情や記憶、欲求、事実に触れそうになったとき、それを避けようとする無意識の働きを抵抗と呼ぶ。
講義では、特権や差別の問題を指摘されたとき、人はしばしば抵抗すると説明されていた。
自分は差別するつもりなどなかった。自分なりに努力してきた。そんな思いがあるからこそ、自分の見えていなかった構造や立場を指摘されると、人は簡単には受け入れられない。
私はその話を聞きながら、最初は男性たちのことを考えていた。
なぜ人は向き合えないのだろう。
なぜ話し合えないのだろう。
なぜ自分の傷を認められないのだろう。
そんなことを考えていた。
けれど講義が終わったあと、少し違うことに気づいた。
私はこれまで、傷と向き合えないのは誰かに責められるからだと思っていた。
弱さを見せたら否定される。
失敗を認めたら評価が下がる。
傷ついていることを認めたら弱い人間だと思われる。
だから人は傷から目を背けるのだと思っていた。
でも本当にそうだろうか。
振り返ってみると、私自身が難病になったとき、誰かに責められたわけではなかった。
それでも私はすぐには病気を受け入れられなかった。
家族社会学を学び、自分の家族のあり方を見直し始めたときもそうだった。
恋愛について考え直していたときもそうだった。
誰かに否定されたわけではない。
それでも私は抵抗していた。
なぜだろう。
今思うのは、私たちが本当に恐れているのは他者からの批判ではなく、自分自身の内側にある厳しい声なのかもしれないということだ。
「そんなことで傷つくな」
「もっと頑張れるはずだ」
「弱音を吐くな」
「受け入れられない自分が悪い」
そんな声は、誰かが今言っているわけではない。
いつの間にか自分の中に住み着き、自分自身を裁いている。
だから傷と向き合うことは苦しい。
傷そのものが痛いだけではない。
傷を見つけた瞬間に、自分自身からの批判が始まるからだ。
講義の中で、アリス・ミラーの
「過去の傷と向き合い、検証する機会を持たない限り、他者の苦しみを認めることはできない」
という言葉も紹介された。
私はこの言葉がとても印象に残った。
これまで私は、なぜ人は自分の傷と向き合うことがこんなにも難しいのだろうと考えることがあった。
そして同時に、人と人とが分かり合えなかったり、すれ違ったりする場面もたくさん見てきた。
しかし今回の講義を聞きながら、もしかするとこの二つは別の問題ではないのかもしれないと思った。
自分の傷に触れることが苦しいとき、人は無意識のうちにそこから目を逸らそうとする。
すると他者の痛みや苦しみにも触れにくくなる。
逆に、自分の弱さや傷ついた経験を少しずつ受け止められるようになると、他者の苦しみにも以前より想像力を向けられるようになるのかもしれない。