この中に、人間はひとりもいない

ここにいる4人には、本名がない。
降り積もった雪は、世界のあらゆる音を完全に吸い込んでいた。
窓の外に広がるのは、息をのむほどに澄んだ空気と、今にも落ちてきそうな満天の星空だ。
誰も見上げていない夜空で、星だけが冷たく、贅沢に輝いている。
そのあまりの静けさは、まるで世界から自分たち以外のすべての人間が消え去ってしまったかのような錯覚を抱かせた。
やれやれ、と私は思う。
もし本当にそうなのだとしたら、少しは話が単純になるのだけど。
そんな冬の終わりの夜、私たちはひどく火力の弱いストーブを囲んでいた。
古い洋館のリビングには、珈琲の香りと、誰のものでもない沈黙だけが満ちている。
一見、全く共通点の無さそうな4人。
お互いの過去も知らない。
ただ「人間をやめたい」という一点だけで、このシェアハウスに流れ着いた。
「ねえ、ロボットさん」
ソファで熱いカップを両手で包んでいた硝子(ガラス)が、隣の男に声をかけた。
彼女はSNSから消え、戸籍も捨てて、文字通り「透明な硝子」になろうとしている少女だ。
「何でしょうか、ガラスさん」
(ロボット)は、定規で測ったような正確な動作で、本のページをめくった。
彼は過去のトラウマから感情を一切排し、すべての行動を「効率と論理」だけで処理している。
「ロボットさんって、ポテトチップス食べる時、箸使いますよね。
それってやっぱり、指が汚れるというプログラムなんですか?」
「いえ、油分がキーボードに付着するのを防ぐためです。とても合理的なんです」
「ふーん。やっぱりロボットだ」
ガラスは少しだけ笑った。
その笑い声には、生気がまったくない。
「あのさ」
部屋の隅、カーテンの影から、うっすらと声がした。
(幽霊) 社会的に失踪し、生きながらにして幽霊となった男だ。
彼は気配を消すのが異常に上手い。
さっきまでそこに誰もいないと全員が思っていた。
「幽霊さん、いつからそこに?」
「最初から」
「……あの、訊きたいんですけど。
僕たち、来週の分の食材、どうする?
冷蔵庫、もうキャベツ半分しか残ってないよ」
全員の視線が、部屋の真ん中に立つ男に集まった。
空白(シロ)
このハウスの管理人であり、過去の記憶のすべてを自ら「空白」にした青年だ。
シロは、ゆっくりと自分の手を眺めた。
「買い出しに行かなきゃいけないね。でも、困ったな」
「困った?」とガラスが首を傾げる。
「僕たちのうち、誰が「人間」のふりをしてスーパーのレジに立てる?」
その言葉に、部屋の空気が微かに張り詰めた。
「僕は無理だよ」
幽霊が、カーテン越しに言う。
「レジの店員さんと目が合うと、自分が透けて消えてしまいそうになるんだ。僕はもう、言葉を発するだけの空気だから」
「私もパス」
ガラスがカップを置く。
「私、最近自分の顔を鏡で見ても、誰の顔だか分からないの。
お釣りを受け取る手が、他人の手みたいに冷たくって......」
「私は論理的に不適格です」
ロボットが淡々と言った。
「セルフレジなら対応可能ですが、対面レジの場合、店員さんの「いらっしゃいませ」に対する最適な反応の出力に、5秒の遅れが発生します」
シロは困ったように眉を下げ、笑った。
「全滅だ。やっぱり、この中に人間は1人もいないね」
みじめな告白のはずだったけれど、4人の間にはどこか、ぬるい安堵感が流れていた。
「人間ではない」からこそ、ここでは誰の期待に応える必要もない。
傷つけ合うための感情も、裏切るための言葉も、ここには必要ない。
私たちはただ、静かに機能停止を待つだけの欠陥品同士だった。
「じゃあさ」
ガラスが、ストーブの上のケトルを見つめながら言った。
「みんなで、人間の真似をしようよ。
一番うまく人間に擬態できた人が、スーパーに行くの」
「ロールプレイ、ですね」
ロボットが眼鏡を押し上げる。
「そう。テーマは……そうだな『美味しいものを食べた時のリアクション』」
シロが「面白そうだね」と頷き、冷蔵庫から半分のキャベツを持ってきて、きれいに4等分に切った。
お皿の上に載った、あまり味のしない生のキャベツ。
まず、幽霊がそれを口に入れた。
「……うん。美味しい。大地の恵みを感じます。」
「不合格」
ガラスが即座にバツを出した。
「目が、死んでる。
あと、声が小さすぎて直ぐにでも成仏しそう」
次に、ロボットが精密に咀嚼した。
「……糖度、水分量ともに極めて平均的です。
咀嚼回数18回。
私の味覚センサーは、これを『良好』と判定しました」
「ロボットさん、それ食レポじゃなくて検品」
シロが苦笑する。
次はガラスだった。
彼女はキャベツをかじると、大げさに笑い、頬に手を添えた。
「わあ、すっごく美味しい! シャキシャキしてて、まるでお口の中が春の菜園みたい!」
「……ガラスさん」
シロが静かに言った。
「なあに?」
「君、泣いてるよ」
ガラスは、ハッとして、自分の頬に触れた。指先が濡れていた。
「あれ……おかしいな。
嘘の笑顔を作ろうとしたら、なんか、疲れちゃって」
彼女はぽろぽろと涙を流し始めた。
感情を捨てたはずなのに、人間の形を取り繕おうとした瞬間、心の奥に押し込めていた「何か」が溢れ出してしまうのだった。
部屋が静まり返る。
誰も彼女を慰めない。
戸惑いながらも、どう慰めるのが「人間として正しいか」が分からなかった。
ロボットは静かにティッシュの箱を差し出した。
幽霊は、そっとカーテンを閉めて部屋の光を優しくした。
シロは、残ったキャベツを全部集めて、小さな鍋に入れた。
「スープにしましょう」
シロが言った。
「コンソメがあったはずだ。せめて温かいものを飲もう。話はそれからだ」
トントン、と包丁を動かす音が、静かな部屋に響く。
誰も泣いているガラスを責めず、誰もロボットの不器用さを笑わない。
心がないはずのロボットが、誰よりも早く手を差し伸べ、存在しないはずの幽霊が、誰よりも早く部屋の明かりを気遣った。
そして記憶のない男は、皆のために火を灯す。
それは、彼らが捨て去ろうとした「人間らしさ」そのものの光景だった。
けれど彼らは、自分たちがそんなお互いの、温かい姿に救われていることに、まだ気づかないふりをしている。
「……ねえ、シロさん」
ガラスが涙を拭きながら、スープの湯気を見つめた。
「人間のスープって、どんな味かな」
「さあね」
シロはスープをお玉で混ぜながら、静かに微笑んだ。
「でも、きっと、少しだけ誰かの温もりが入ってるんだろうね」
冬の終わり、4人の「元・人間」たちは、温かいスープが煮立つ音をじっと聴いていた。
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あとがき
「人間をやめたい」と思うほどの夜が、誰にでも一度はあるのではないでしょうか。
正しく笑うことに疲れ、期待に応えられない自分を消してしまいたくなるような、そんな凍える夜が。
この物語の4人は、人間であることを諦めた人たちです。
けれども彼らは、お互いの痛みにだけは、驚くほど敏感でした。
誰からともなく差し出されたティッシュや、落とされた照明、そして温かいスープ。
その不器用な手のひらに宿るものこそが、私たちがどれだけ絶望しても捨て去ることのできない「人間らしさ」という光なのだと信じています。
傷ついたまま、記号のようになって生きてもいい。
それでも、あなたの夜に、このスープの煮立つ音が小さな温もりとして届きますように。