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【霧のあわい】第五話 存在理由(最終話)

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    ピークギャレリアの地下から出発する中環行きの十五番バス乗り場は、休前日の夜のせいか混雑していた。
    観光客たちの間を縫って空いていた席に腰を下ろし、窓に頭を預ける。普通話や韓国語が激しく頭上を飛び交う車内で、私は静かに目を閉じた。

    私たちは名前も連絡先も聞かずに別れた。互いを知り合うことを恐れたわけではなかった。ただ、すれ違うことでしかこの出会いに意味を持たせることはできなかった。

    別れ際に黒縁の眼鏡の奥で瞳を揺らしながら、少しだけ微笑んで彼はこう言った。

    「また何処かでお会いしましょう」

    私は静かに頷いて、ゆっくりと踵を返しバス乗り場の方向へ歩き出した。

    ポケットの中でキーホルダーがカチリと鳴った。名前を呼ばれたような気がして思わず振り返ると、遠くで彼の視線とぶつかった。

    それは数秒。

    そこにはもう「すくい上げて」という惑いも、「行かないで」という未練もない。

    ただ、同じ嵐の夜をやり過ごし、同じ入り江で息を吸った旅人への、静かな敬意だけがあった。私が小さく顎を引くと、彼もそれに呼応するように頷いた。

    バスが急カーブを曲がるたび、窓の外には百万ドルの夜景が、光の飛沫となって流れていく。
    雲間から顔を出した月は、乳白色の霧を透かし、アスファルトの道を青白く照らし出していた。

    ポケットの中の錨を指先でなぞる。
    かつて自分を縛り付けていた五グラムの指輪はもうない。代わりに手に入れたのは、自分の意志で下ろし、自分の意志で引き揚げるための、小さな、けれど確かな重みだ。

    「一燈を提げて、闇夜を行く……」
    誰の言葉だったか。

    司書として幾千の言葉に囲まれている私の脳裏に、その一節が静かに浮かび上がる。離婚という荒波、名前も知らない彼との一時の停泊。
    これからの道がどれほど暗く、曲がりくねっていたとしても、もう闇夜を憂うことはない。

    掌に残ったあの三十六度の体温と、窓の外で並走する月明かりがあれば、それが自分を導く唯一の燈になる。十五番バスは、エンジンの唸りを上げながら、夜の底へと力強く舵を切った。
    私はもう、後ろを振り返らない。
    目の前の轍を、自分だけの光で照らしながら。


    ピークトラムを待つ間、僕は夢と現実の狭間にいるような浮遊感に漂っていた。
    僕と世界の間に見えない膜があるかのような、無音の凪の只中にいた。ピークトラムの木の椅子に腰を掛け、静かに目を閉じる。背中に感じる重量が、これが現実であることを思い出させた。

    僕たちは互いを何も知らないまま別れたわけではなかった。
    あの山頂でそれぞれの剥き出しの感情をそっと掌に乗せて、その温度と感触を確かめ合った。名前や連絡先など重要なものではないと言ったら嘘になるだろう。でも記号と数字すら必要としないほど、互いの最深部に触れ合えた今夜の奇跡を、陳腐な日常で酸化させたくはなかった。

    「また何処かでお会いしましょう」

    この言葉に彼女は静かに頷いた。
    僕はきっと冷たい忘川河で千年を耐え抜いて、今夜起こったすべての記憶を来世に連れていくことを願うだろう。遠くなっていく彼女の背中をずっと見つめながら、震えるような溜息をこぼした。

    彼女は月洞門を潜ると急に立ち止まり、こちらを振り返った。

    それは数秒。

    そこにはもう「分かってほしい」という惑いも、「引き留めて」という未練もない。

    ただ、同じ暗い夜波を越え、同じ入り江で息を吸った同航者への、静かな敬意だけがあった。僕が小さく顎を引くと、彼女もそれに呼応するように頷いた。

    発車ベルが鳴り響き、ゆっくりとピークトラムは動き出す。巻き戻しの映像を見ているように景色は後ろから前に流れていく。

    膝の上に乗せた『傾城の恋』の表紙を指先で撫でる。かつて僕と僕の夢を繋ぎ止めていた錨のキーホルダーはもう無い。でも、それよりも遥かに強い力で僕を未来に向わせる確かな物語を、今夜僕は手にした。

    「もし、未来を見つめるのが怖いなら、後ろ向きに歩けばいい」

    彼女は僕にそう言った。正面にはピークギャレリアが霧にかすみ、小さくなっていく。右肩に現れ始めた月明かりが、スポットライトのように僕の横顔を照らし出した。

    未来がどんなに怖くても、僕は明日を憂うことなく歩いて行ける。僕の轍には、彼女と出会った月洞門で交わした視線と、無言の頷きの承認が刻まれているから。

    指先に残ったあの三十六度の体温と、その承認。それは自分を導く唯一の燈になる。トラムは滑るように夜の底へと僕を運んでいく。
    僕はもう、自分の未来から眼を逸らさない。
    目の前の轍を、自分だけの光で照らしながら。

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