
【霧のあわい】第三話 36℃の入江

ビクトリア・ピークの獅子亭観景台。
両側に忠実な家臣を従えた白壁の月洞門は、乳白色の霧にぽっかり浮かんだ月のようだ。
朱と翠に塗られた亭子の手すりに両手をつく。薬指の指輪が石の手すりにぶつかり、カチリと冷たい音を立てた。
それは今や愛の証などではなく、私を日常という名の接岸壁に繋ぎ止める、重すぎる鎖だった。
とろりとしたシャツの袖が風に煽られ、皮膚に冷たく張り付く。湿った空気を肺いっぱいに吸い込むと、身体の中に海が満ちてくるようだ。
その時、隣に気配を感じた。
長い前髪を風に揺らし、守るようにきつく首元に手を置いた男。
視線が、霧のスクリーン越しにふと重なった。
数秒。
それは、私が彼の瞳の奥に自分と同じ欠落を見つけるのに、十分な時間だった。
考えるよりも先に、私の口から言葉が溢れ落ちた。
「……お一人ですか?」
「……お一人ですか?」
思わず同時に口をついて出た、その言葉にはっとする。
彼女は目を見開き、それから、微かに口角と目尻を緩めた。それは微笑と呼ぶにはあまりに淡く、けれど、絶望の淵で差し出された唯一の光だった。
「結論から言えば、そうです」
彼女はどこか自嘲するかのようにそう答えた。
「でも、思考の海で溺れそうになって、ここに来ました。あなたも?」
「僕は、自分の碇をどこに下ろすべきか、分からなくなって。……公務員になりたいんです。誰かを守る仕事がしたい。でも、誰からも『お前には無理だ』と言われ続けて、自分の重みが分からなくなっていました」
霧雨は、二人の境界線を曖昧にしていく。
「あなたなら、きっと出来る」
彼女の言葉は、淡くも静かで確かな手つきで僕の心に触れた。
「私は、自由になりたい。でも、一人で漕ぎ出す勇気がなかなか出なくて」
「……あなたは、もう出航している」
僕は、自分の急所を守る手を下ろし、彼女を見つめた。
「ここで僕と出会ったことが、その証拠です」
僕たちの間に流れるのは、恋という名の時間ではない。
それは、人生という過酷な航路をゆく者同士が、一時の凪を分け合いながら、重荷を下ろし、代わりに別の積荷を搭載するための、短い停泊時間だった。