
チカコの遺伝子
「ナンダネ」
分娩室で、たった今初めて対面した娘からそんなドスのきいた声が聞こえた気がして、思わずアキはぎょっとした。
生まれたての娘は、ひとしきり泣いた後アキの前に連れてこられると、ピタッと泣き止み、少し眉間にシワを寄せながらこちらを見ている。
アキはこの「ナンダネ」にひどく聞き覚えがあった。
ちなみに「ナンダネ」の「ナン」はあのインドカレーについてくるナンと同じイントネーションだが、意味は「何ですか?」の意味である。
それはアキがよく知る人物の口癖であった。
アキの祖母、チカコ。
別にこちらは何も言っていないのに、いちいち「ナンダネ」と言ってすごみをきかせてくる、アキの実家の一番の権力者だった。
チカコは、アキの父親である息子家族の家と、アキの叔母である娘家族の家を行き来して暮らすという、まったく新しい生活スタイルを確立していた。
日中は娘家族の家で過ごし、夕方になると同じ市内にある息子家族の家にやってくる。
そして息子家族の家で一晩過ごし、次の日の午前中に、また娘家族の家へ向かっていくのであった。
同じ市内というミニマムな世界で、一日の中の数時間という超短期スパンで行うある意味二拠点生活である。
この行ったり来たり生活を送ることで、チカコは両方の家に自分の部屋を持ち、娘家族と息子家族、二つの家に存在感と影響力を絶えず張りめぐらすことを、何十年も続けていたのだ。
こんなシステムが構築できたのは、ひとえにチカコの性格ゆえである。
アキの隣の家に住んでいたおじいさんが亡くなったときに、おじいさんが密かに書き溜めていた自叙伝が見つかった。
その自叙伝には「隣の家に、チカコというすごく気の強い女がいた」と書かれていたそうだ。
特に深い付き合いもない隣の家に住む人の自叙伝に「気の強さ」だけで登場するのだから、相当である。
「かわいい赤ちゃんだねぇ」
ハッとして声の方を見ると、母がとろけそうな笑顔で赤ちゃんを抱きかかえていた。
涙ぐみながら孫を抱いている母を前にすると、アキは「祖母の声が聞こえた」などととても言い出せなくなってしまう。
きっとあれは幻聴だ。
出産の高揚感で、きっと妙なことを考えてしまったんだろう。
「赤ちゃんとの写真撮って」
そう声をかけると、母はアキが横たわる分娩台の横に赤ちゃんを慎重に置き、スマホをかまえた。
「ユカリちゃん」
改めて親子の対面をやりなおすべく、アキは娘の顔をのぞき込んでゆっくりと微笑んだ。
相変わらず少し眉間にシワを寄せた表情のユカリと虚ろな目のアキを映して、静かになった分娩室にカシャッと音が響いた。
***
ユカリが産まれる一か月前に、祖母チカコはこの世を去った。
九十七歳の大往生である。
アキは里帰り中、もしかしたらユカリは祖母の生まれ変わりなのではないか、などと頭をよぎったが、生まれたとき以降、ユカリから祖母の声が聞こえることは一度もなかった。
梅雨の合間の晴れた日に、アキはユカリの一か月健診を終えて自宅に帰ったが、それからの日々は忙しすぎて記憶があまりない。
アキは、もちろんユカリが生まれる前に育児書をしっかり読み込んでいたのだが、ユカリは全然アキの思うように動いてくれなかったのだ。
特に外出するときは大変だった。
家が大好きなユカリは、いつも家から出ると機嫌が悪くなる。
それでも育児書には「家に引きこもるのはよくない」と書かれていたので、アキはユカリを連れていろいろな場所に顔を出した。
しかし地域のハロウィンイベントに向かうとき、大泣きするユカリを乗せたベビーカーに「うるさい」と言わんばかりに舌打ちされた事件をきっかけに、心が折れた。
事件と言うには些細なものかもしれないが、他人から敵意を見せられるとアキは猛獣を前にした小動物のように縮こまってしまうので、アキにとっては決定的な事件だった。
それからのアキとユカリの行動範囲は、自宅から徒歩五分圏内のスーパーと児童館のみに落ち着いた。
児童館なら敵意を向ける人はいないし、家から近いのでユカリも比較的機嫌がいい。
「家に引きこもるのはよくない」を実行するにはもってこいだった。
「何か月ですかー?」
「六か月です」
「あ、うちもー」
「離乳食とかはじめました?」
何度となく繰り返されるこのやりとりも心地よく、次第にユカリと月齢が近い子のママ友が増えていく。
児童館では時間がゆっくりと流れ、自分の赤ちゃんを前に、ママたちの会話が弾む。
しかし、アキがこの場所でのんびり過ごす幸せをかみ締めていると、大抵それは他の子の泣き声で終わりを告げた。
「うわぁぁぁー!」
「あっ、ごめんなさいごめんなさい! ほらユカリちゃん、かーしーては?」
ユカリは児童館のジャイアンだった。
欲しいおもちゃがあると、力づくで他の子から奪ってしまうし、貸したくなかったら絶対に貸さない。
それによって相手の子は泣いてしまっても、ユカリだけは絶対に泣かなかった。
生まれたときの「ナンダネ」がまた出てきそうなすごみを効かせた顔で、眉間にシワを寄せて相手を見つめるだけだ。
ユカリはそれでいいかもしれないが、アキはもうこうなるといたたまれなくて、大人の手で強制的におもちゃをひっぺがして、泣き出したユカリをかかえてペコペコしながら退散する。
季節が何度めぐっても、きっといつもの顔ぶれでこんな毎日が続いていくのだと思っていた。
「もうすぐ仕事復帰だから、さみしくて」
ユカリの初節句が終わり、卒業ソングがよく流れるようになったころ、いつもの児童館でママ友の一人がつぶやいた。
「うちもなんとか保育園決まったから、来月から復帰です」
ため息をつきながら、隣にいた別のママ友も言う。
話題についていけずにアキは、きょろきょろと首を振りながら、言葉の行方を追った。
「ここに来るのも後少しですね」
その言葉にアキはハッとした。
みんなは今、「育休期間」だったのだ。
仕事に復帰して子どもが保育園に通いだせば、もう平日の昼間に児童館に来ることはなくなる。
ふと見回せば、周りにはハイハイしたり、寝返りをうったりする赤ちゃんたち。
立ち上がったり、手すりを持ったりして歩くユカリとおなじみのメンバーたちは、今ここにいる中では先輩の部類だった。
もちろんもっと大きい子たちもいるが、少数派である。
ここは子どもが「赤ちゃん」の間だけのサンクチュアリ。
母も子も、だんだん卒業していく場所だったのだ。
仕事復帰するママ友たちは「さみしい」「嫌だ」などと言いながらも、どこか楽しそうにも見えた。
アキは急に、どうしようもない焦燥感にかられた。
自分とユカリだけ、ここに取り残されてしまうようで、これまで毎日一緒に児童館に集っていたみんなが新しい世界に行ってしまうのがうらやましい。
「さみしいのはこっちだよ」
心の中で静かにつぶやいた。
「仕事、辞めなければよかったかなぁ」
児童館で聞いたママ友たちの仕事復帰の話を夫に愚痴りながら、アキはスーパーでもらってきた求人誌をパラパラとめくる。
ユカリも十か月をすぎると、最初のころよりずいぶん育てるのが楽になってきたと、アキは思う。
産んでからここまで一心不乱に駆け抜けてきたが、ようやく立ち止まって、空の青さに気づけるようになったくらいだ。
しかし、だからといってママ友たちのように社会に復帰できる場所は、アキにはない。
求人誌を見ても、とりあえずユカリを保育園に入れないことには働けないし、「一歳児の保育園入園は大変」とママ友たちが口をそろえて言っていた保活で自分が枠を勝ち取れる気は、とてもじゃないけどしなかった。
ソファでテレビを見ながら、さして興味もないトーンで夫が言う。
「別にみんなが仕事復帰するからって、急いで働かなくてもいいでしょ」
食卓で広げた求人誌をぱたんと閉じて、アキは言った。
「そりゃそうなんだけど……」
そりゃそうなんだけど、なんだろう。
アキは自分でもその続きの言葉がわからなかった。
きっと夫としては、アキは働かないで家で家事と育児に専念してくれた方が都合が良いのだろう。
「働かなくてもいい」ということは、それはそれで恵まれているとも思う。
ただ、会社に行けば立場があって、仕事の付き合いだと言って自由に飲み会に行けて、家の外にはアキとユカリ以外の人間関係が広がっている夫には、きっとアキのこの心の空白はわからない。
私には何もない。
ふいにアキは自分がとてつもなくちっぽけで、価値のない人間のような気がしてきてしまった。
ユカリのことはすごく愛おしいし、育児が嫌なわけでもない。
でも自分の中にぽっかりと空いた黒い穴を意識したらたまらなくなって、アキは意味もなく焦るのだった。
季節はめぐり、真夏の太陽が照らす中、アキはユカリと二人で、実家に帰省した。
アキたちが麦茶を飲んで一息ついていると、母がユカリを抱っこしながら言う。
「本当におばあちゃんそっくり! 『チカコの遺伝子』ね」
一歳をすぎたユカリの顔は、チカコに激似になっていた。
アキの顔もチカコ似だが、それに輪をかけてユカリはチカコに似ている。
麦茶も飲み終わったので、祖母の仏壇にお線香をあげようと、アキはユカリを連れて仏間に向かった。
仏間では、祖母の仏壇が初盆仕様になっていた。
遺影の祖母は相変わらず威厳たっぷりで、アキに抱きかかえられている一歳児とやはり同じ顔をしている。
仏間を改めて見渡すと、壁に、紐がついた古びた猫の人形がかかっているのが目についた。
あの猫の人形をアキはよく覚えている。
アキが小学生のときの夏休み、祖母が布を買いに行くのについていったことがある。
かわいい布を見ながら、祖母が自分にも何か作ってくれるかなと「この布かわいい」などと言ってみたが、それは当然のようにスルーされた。
ただ、猫の人形を作る手芸キットを何気なく手に取って立ち止まるアキを見て、祖母は言ったのだ。
「欲しいなら、自分で作ってみるといい」
アキはせっかく買ってくれた祖母に恩義を感じ、それからの夏休みは毎日祖母の部屋へ行って、猫の人形を作った。
しかし、見本のようにかわいい猫にはなかなかならず、アキは肩を落とした。
そんなアキを見かねて、祖母はまっすぐとこちらを見据えて言ったのだ。
「アキならできる、ゼッタイ」
何の根拠もない「ゼッタイ」だが、祖母の言葉には有無を言わさない力がある。
それからも、全然思うように作れず挫折しそうになるアキに、祖母は何度も「アキならできる、ゼッタイ」と言って励まし続けてくれた。
「ゼッタイ」と口癖のように力強く祖母に言われると、なぜか根拠のない自信がみなぎってくるから不思議だったことを、アキはよく覚えている。
あれはそのときの人形だ。
夏休みの間、祖母は自分の仕事部屋がある叔母の家から便利な裁縫道具をあれこれ持ってきて、アキに熱心に使い方を教えてくれた。
しかし、どうもアキは、手先の器用さにおいては祖母からの遺伝子をうまく引き継いでいなかったようである。
祖母に熱心に指導されても、見本の写真のようにはきれいにできず、裁縫へのモチベーションはさほど上がらなかった。
祖母もそれを感じると無理強いはしなかったが、アキは作りはじめたからにはと、なんとか完成まではこぎつけたのだった。
そうして出来上がった猫の人形。
アキはその後、人形を祖母にプレゼントしたのだが、こんなに古ぼけてもずっと部屋に飾ってくれていたことに、アキはちょっと嬉しくなった。
「あぽぅ、あぽーぅ」
ユカリがお供え物のりんごを指さしてつぶやいた。
英語の「音が出る絵本」の影響で、ユカリはなぜかりんごのことを「あぽぅ」と言う。
「りんごたべたいね、後でね」
ユカリにそう言いながら線香に火をつけて、アキは手を合わせた。
「そういえばさ、ユカリが生まれたとき、おばあちゃんの声が聞こえた気がしたんだよね。ユカリっておばあちゃんの生まれ変わりなんじゃないかな」
台所で、母がユカリのために買っておいてくれたりんごの皮をむきながら、アキは言った。
「えっ、やめてよ」
母はお皿を出す手を一瞬止めて、怪訝そうな顔をした。
チカコの再来。
母が怪訝な顔をするのも無理はない。
嫁として生前のチカコに散々振り回されてきたのは、この母なのだから。
アキの実家と叔母の家の行ったり来たり生活を、祖母が快適に順調に送ってこれたのは、母のおかげと言っても過言ではない。
母は朝と夕方の祖母の送迎を、毎日車で行っていたのだった。
アキはふふふと笑うと、小さく切ったりんごをユカリの前に出した。
むんずとりんごをつかんで口に入れるユカリを眺めながら、アキのアテレコが始まる。
「ナンダネ、わたしが生まれ変わりじゃ悪いかね」
「またりんご買ってくるんだよ、ゼッタイ!」
「もう、本当におばあちゃんみたい」
眉を下げながら母が笑った。
その日の晩、母に頼まれて、アキは仏間に客用のまくらカバーを取りに行った。
しかし、押入れをあけても見つからない。
仕方なくアキは、手当たり次第に引き出しをあけていった。
「さすがにここにはないだろうな」そう思いながらも一番古い物入れの一番下の引き出しをあけると、中に古びた一冊の本のようなものがあった。
「なんだろう、これ」
何かに導かれるように本を開くと、見覚えのある祖母の字が並んでいる。
それは、祖母の日記だった。
***
「昨日、仕事を辞めてきた。結婚することの、何がそんなにめでたいのか」
その一言から始まった祖母の日記には、結婚生活のこと、子どもの出産、子育て、日々のできごとがざっくりとした言葉で淡々と綴られていた。
祖母は銀行員として働いていたが、結婚を機に退職し、しばらくは専業主婦をしていたようだ。
しかし、アキが知る祖母は、家で洋裁の仕事をしていた印象が強い。
今でいう「在宅フリーランス」だ。
昭和の時代に生きた祖母チカコが、どうやって専業主婦から仕事を得ていったのか、淡々とした中にも悔しさや虚しさ、そして喜びや感動があふれていて、アキは気づけば日記を夢中で読みふけっていた。
「私の洋裁は遊びではない、仕事である」
中でも大好きな洋裁、服作りへの思いは、アキの心に響いた。
「自分もこんなに夢中になれるものがあったらよかったのに」
初めてアキは、祖母に深い憧れにも似た感情を覚えた。
「これからの時代に、女は飯炊きと子守りや掃除だけというのはそぐわない」
今であれば浸透した考え方だが、昭和の時代にこんな先進的な考えをする女性が、どれだけいただろうか。
でもたしかに、祖母ならそれも頷けるとアキは思った。
アキの祖父母の夫婦関係は、当時の日本社会ではちょっと珍しい部類だったかもしれない。
「私はお父さんに育てられた」と叔母が冗談っぽく言っていたように、祖母だけでなく、祖父はいつも積極的に家のことに取り組んでいた。
まぁ、祖父が自分の意思でそうしていたのか、単に祖母の尻に敷かれていたのかはわからないが。
そんな中、アキは日記の中に度々登場する「マリエさん」という名前が気になった。
アキの知る限り、祖母はあまり子どもが好きではなかった。
まだアキが赤ちゃんのころ、母が体調を崩して祖母に世話をお願いしようとすると、「赤ん坊の世話なんておぞましい」と断ったというのだから相当だと思う。
それなのに、マリエさんからの依頼では、祖母の仕事の中では珍しく、子ども服などの子ども関連グッズばかり制作しているようだったのだ。
正直、祖母がそういうものを好き好んで作ることが、アキには意外だった。
アキも服を作ってもらったことはあったが、それはかわいい子ども受けするようなものではなくて、祖母が着なくなった服をリメイクして作った、渋すぎる布地のスカートなどだったからだ。
「アキ―!! まだー?」
しびれを切らしてアキを呼ぶ母の声が聞こえる。
我に返ったアキは急いで部屋を出た。
香ばしい匂いがただよう居間では、両親とユカリがそれぞれ椅子に座ってアキを待っていた。
料理が並んだ食卓を前に、急いでアキも席につくと、夕食がはじまる。
「ねぇお母さん、おばあちゃんの仕事のお客さんでさ、マリエさんって人、知ってる?」
餃子を器用に箸で開き、中の具をユカリのごはんにかけながら、アキは母に聞いた。
「あぁ、その人ならこの前、お線香あげにきてくれたよ」
母は立ち上がると、状差しに無造作に入っていた一枚の名刺のような紙を持ってきた。
ユカリに中身をあげて皮だけになった元餃子をかみながら、アキはその名刺のような紙を受け取る。
「定食屋 うさぎ」
名刺にはお店の名前と住所、そしてお店のSNSのアカウントに飛べるらしいQRコードが載っていた。
母は立ち上がったついでに冷蔵庫からラー油を取り出し、父の前に置くと、再び自分の椅子に座った。
「おばあちゃんにすごくお世話になったって言って、わざわざ来てくれたんだよ」
「そうそう、俺らも知らない方だったからさ、亡くなったときお伝えもしていなくてな」
ラー油を醤油皿に注ぎながら、父も口をはさんだ。
「そういえばさ、俺が子どものころ、餃子が出た次の日は、朝ごはんのみそ汁に餃子が入ってたんだよなぁ」
「みそ汁に餃子?」
なぜか話題が餃子に移った。
「昔は今みたいに電子レンジとかなかっただろう?だからその、温めるには効率がいいんだろうし、それはわかるんだけどさ。なんか俺は、どうしてもそれがその、苦手で」
今ここにはいない、十中八九その「餃子を入れた人」に謎に気を使いながら父は言う。
「学生のとき、ようやく母さんに言ったんだよ、『みそ汁に入れるのやめてくれ』って。そしたら、『あれ、そうかね』ってさ」
思わず突っ込みたくなって、アキは口をはさんだ。
「いや餃子入りみそ汁は嫌でしょ。もっと早く言えばよかったのに」
「それがなんか、言えなかったんだよなぁ」
少し困ったように笑いながら話す父を見ながら、アキも祖母のことを思い出していた。
「でもおばあちゃんが餃子を作ってたってことが、そもそも意外だけどね」
アキの記憶の中の祖母に、料理のイメージは一切なかった。
あるのは夕飯時に祖母の部屋に行くと、大きな座椅子にドカッと座り、スーパーのお惣菜の唐揚げをつまみながら日本酒を飲む姿。
「おばあちゃんといえば、お惣菜の唐揚げのイメージだけどな」
「そういえばさっきの名刺の定食屋さんね、唐揚げがおいしいらしいよ。ユカリちゃんはお肉が好きでしょう。明日帰りに寄ってみたら?」
「ふーん」
名刺のQRコードを読み込んでみると、座敷に小さい子用の椅子もあって、子連れにもやさしそうだ。
「じゃあ行ってみようかな」
お店にも行ってみたいが、祖母の日記に出てきた「マリエさん」が気になるアキは、翌日の昼食を「定食屋 うさぎ」の唐揚げに決めた。
海沿いの大きな道路沿いに、その店は古びた看板を掲げていた。
店の前に3台分だけある駐車場は、ランチタイムが終わりに近づいているこの時間でも2台埋まっていて、ギリギリ滑り込めた。
「ごちそうさまでした」
「はい、ありがとうございましたー!」
アキたちと入れ替わりに店を出る客を送り出す、明るい張りのある声が、中から聞こえる。
そして、アキより少し若いくらいの女性が店内からひょいと顔を出した。
「いらっしゃいませー! 何名様ですか?」
「二人です」
「お姉ちゃん、お座敷に二名様ー!」
女性はユカリをちらっと見ると、店内に声をかけて、アキたちを招き入れた。
こぢんまりとした店内は新しくはないが、掃除が行き届いていて清潔感がある。
アキたちは案内されるがまま、店内にいたもう一人の女性がおしぼりとお茶を並べている小上がりのお座敷席に移動した。
アキは先ほど案内してくれた女性を呼び止め、注文した。
「唐揚げ定食一つと小ライス、子ども用の取り皿ももらえますか?」
「はーい。お母さん! 唐揚げ定食一つ!」
女性は返事をしながら後半は厨房に向かって呼びかけた。
見ると、厨房にもう一人女性がいる。
背中を丸めた、六十代後半から七十歳くらいかと思われる、白いかっぽう着を着た小太りの女性だ。
「あの人がマリエさん」
アキは直感的にそう思った。
しばらくして、厨房にいた白いかっぽう着の女性が唐揚げ定食を運んできた。
「唐揚げ定食一つと小ライスね。あと、これはお嬢ちゃんの」
そう言って、子ども用の豆椅子に座ったユカリの前に、かわいいうさぎの絵がついたプラスチックのお皿とお茶碗、コップを並べた。
そして目尻を下げて、人の良さそうな笑顔でユカリを見つめる。
「かわいいねぇ」
アキはじっとりと手に汗をかきながら、勇気を出して声をかけた。
「あの!」
「ん?」といった様子で女性が微笑みながらアキの方を見る。
「あの、突然すみません。もしかして、マリエさんですか?私、大山チカコの孫で……」
アキはまくし立てるように早口で言った。
一瞬の沈黙。
そして、マリエさんは大きな口をあけて驚きと嬉しさが入り交じったような顔をしてうなずきながら言った。
「あぁー! はいはい、存じてますよ。チカコさんの! まぁまぁまぁ!」
身を乗り出してマリエさんはこちらへ近づいてくる。
「チカコさんのお孫さん?じゃあこちらはひ孫ちゃん?まぁまぁ本当にそっくりだこと!」
アキとユカリを見比べながら、懐かしそうにマリエさんは目を細めた。
「チカコさんには本当にお世話になってねぇ。ほら、このワンピースもチカコさんに作ってもらったもの。もう古くなって普段着にしちゃってるけど」
マリエさんはそう言って、かっぽう着の下から橙色のワンピースをちら見せする。
「私は裁縫がからっきしダメでね。この子たちの」
マリエさんは、振り向いてお店の女性二人を指さした。
「保育園や学校に入るときのバッグやら巾着やら、あとはお洋服も、チカコさんはいろいろ作ってくれたのよ」
突如として指さされた女性二人は、気恥ずかしそうに笑った。
「チカコさんの服は、いつも着やすいのに洒落ててね、私は大好きだったわぁ。あ、冷めないうちに食べて食べて!」
ひとしきりしゃべった後、ハッとしたようにマリエさんは唐揚げ定食を勧めてくれた。
大きな唐揚げをユカリ用に小さく切り分けながら、アキの心の中には何とも言えない誇らしさが広がるのだった。
「今日は来てくれてありがとね」
食事を終えて会計するときも、マリエさんは出て来てくれた。
「私も女手一つでこの子たちを育ててきたけど、昔は今より女が働くには本当につらい世の中だったわ」
しんみりとした顔で何かを思い出すように、マリエさんは話しだした。
「私も何度もくじけそうになったけど、チカコさんがいつも励ましてくれてね。チカコさんの声を聞きたくて、ちょくちょく依頼しに行ってたのもあったかもね」
「そうなんですか」
「ええ、あなたのおばあさんはすごいわよ。あの時代に技術一つで仕事をはじめて、こんなに私を幸せにしてくれたんだから」
そう言って笑いながらマリエさんはユカリの頭をなでた。
「私、チカコさんの引退前の最後のお客だったのよ。娘の入学式用に作ってくれた、親子でお揃いの紺のワンピース、すっごくかわいかったんだから」
アキはなんだか照れ恥ずかしい気持ちになったが、祖母のことを褒められるのは嬉しかった。
ぐいっと手を引っ張られたかと思うと、足元で飽きてきたユカリが今にも店外に飛び出そうとしている。
「これ、お店のSNSなんだけど、全然反応ないのよね。もしよかったら『おいしかった』とでも書いといて」
いたずらっぽく笑いながら、アキが実家で見たものと同じ名刺を渡し、マリエさんは手を振った。
アキはユカリに引っ張られながら、会釈して店を後にした。
家に帰る車中で、アキはマリエさんの言葉を一つ一つ反芻していた。
祖母がこの世を去っても、祖母の作った作品と、祖母の思いは今もこの世に残っている。
そのことが、とてつもなく尊いことに思えた。
好きな服作りを仕事にして、それで人に喜んでもらって、後世に作品を残した祖母。
自分もそんな生き方をしたい。
しかし「好きなこと」を考えたとき、アキには何も思い浮かぶものがなかった。
アキにとってこの一年は、ユカリがすべての世界だったのだ。
好きだった少年マンガもいつの間にか読まなくなって、読むのはお気に入りブロガーの子育てエッセイマンガくらい。
テレビドラマも最後にハマって見たのはいつだったか。
最近は子ども向け番組ばかりである。
流行りの曲も知らない。
アキの中で流行りの歌なのは、子ども向け番組の「今月のうた」である。
趣味?自分に趣味なんてあっただろうかと、アキはわからなくなっていた。
その日の夜、長いドライブで疲れたユカリがいつもより早く寝ると、アキはまた祖母の日記を開いた。
パラパラとページをめくっていると、懐かしい絵が目につく。
紙一面に筆ペンで大きく描かれた、だるまの絵。
多趣味だった祖母は、晩年、達磨や七福神など縁起物の絵を描く「縁起絵師」という習いごとをしていた。
アキが小学生のころ、夏休みの暇つぶしに祖母の部屋に行くと、祖母が筆ペンで何枚も達磨の絵を描いて練習していたことがある。
アキは気まぐれに、自分もやってみようと祖母の横で真似して達磨の絵を描いてみた。
するとそれを見た祖母が「うまいじゃないの」と褒めてくれたのだった。
祖母はほとんど人を褒めない。
そもそも肯定的なことをめったに言わない人だ。
そんな祖母から褒められたことが、あまりにもレアな経験で、アキの心の中に強く残っている。
「絵を描くことは、好きかもしれない」
ふとそう思い立ったアキは、タブレットとタッチペンを引っ張り出して、娘の寝顔を描いてみた。
若いころ、アキはマンガやアニメが好きなちょっとしたオタクで、よくこうして好きなキャラクターの絵を描いていたことを思い出す。
「けっこうかわいく描けたんじゃない?」
マンガタッチにデフォルメした娘の寝顔を、SNSにアップしてみた。
同時にタイムラインを眺めていると、昨日場所を調べるためにフォローしていた「定食屋 うさぎ」の投稿が流れてきた。
「昔お世話になった人のお孫さんが来店してくれました」
投稿には、紺地に白い丸襟が印象的な、親子のペアルックのワンピースの写真が添えられていて、アキは今日のマリエさんの話を思い出す。
たまらなくなって、アキは投稿にコメントした。
「唐揚げ定食、おいしかったです」
翌朝、起き抜けにスマホを見ると、「定食屋 うさぎさんからフォローされました」という通知が来ていた。
***
ユカリのイラストを描いて、SNSにアップする。
いつしかこれは、アキの新たなライフワークになった。
ユカリを見ながらイラストを描いていると、自然と祖母のことが頭に浮かび、「祖母も子どものころはこんなに無垢でかわいかったのだろうか」と、アキはついつい想像を膨らませてしまう。
そんな子育ての合間に作る創造的な自分時間に、アキは充実感を感じはじめていた。
「まんまぁ」
「ママ」という意味だったのか「まんま(ごはん)」という意味だったのかわからないが、どっちにしろユカリにとっては同義である。
早起きして絵を描いていたアキは手を止め、急いで朝食の支度を進めた。
そこからの時間は早い。
仕事に行く夫を見送り、洗濯、掃除と進めていると、あっという間に昼をすぎていた。
ユカリに昼食のパンを食べさせていると、スマホが震えた。
「定食屋 うさぎさんからメッセージが届いています」
アキはスマホに手を伸ばしたが、すぐにユカリの泣き声が聞こえたので、とりあえず一緒にお昼寝マットに寝転んで、ユカリを寝かしつけることにした。
トントンと同じリズムで背中を軽く叩いていると、ユカリのまぶたはだんだんと閉じていく。
「さて、と」
完全にユカリが眠ったことを確かめると、アキは起き上がってスマホを取りに行った。
SNSを開くと、マリエさんからのメッセージが届いていた。
「先日はどうも。チカコさんのお孫さんよね?絵を描くのね、すごくかわいいです」
「すごくかわいい」という言葉を脳内で反芻し、アキは嬉しさで飛び上がりそうだった。
何て返そうかしばらく考えた後、ようやく指で返信を打つ。
「ありがとうございます、チカコの孫のアキです。絵を描くのが好きで、空いた時間に娘の絵を描いています」
すると、すぐに返信がきた。
「そうですか。うちのお店のアイコン?っていうんでしたっけ、ここの丸いところに載せる絵も描いてほしいです」
見ると「定食屋 うさぎ」のアイコンは、お店の看板の写真になっていた。
続いてブルッとスマホが震え、マリエさんからのメッセージがきた。
「あなたの絵みたいな、かわいい絵にしたいわ。おいくらでやってもらえる?」
アキは絵を描いてお金をもらったことはない。
自分なんかの絵でお金をもらうなんて、恐れ多いことだった。
「私でよければ、描かせてください。でも、お代はいりません」
すると、少し間をおいてまたマリエさんから返信がきた。
「せっかくの技術を安売りするものではないですよ。私をあなたのお客にしてください」
アキはハッとした。
祖母の最後のお客さんだったこの人は、自分の最初のお客さんになろうとしてくれている。
直観的にアキは、祖母が好きなことを仕事にしていたように、自分にもこの一枚から未来が開けるかもしれないと感じた。
そして覚悟を決めて、こう送った。
「では、お受けさせていただきます」
「自分の絵でお金をもらう」
そう考えると、アキは急に緊張してきた。
昔取った杵柄で一応デジタルイラストは描けるものの、完全に趣味としてやっていたので、仕事として通用するのか不安しかない。
しかし、マリエさんはアキに描いてほしいと言っている。
マリエさんとのやりとりで、イラストは「唐揚げ定食を食べるうさぎ」に決まった。
とりあえずその日からアキは、ユカリのお昼寝の時間、ユカリが寝た後の夜の時間にひたすらイラスト案をこねくりまわし、アイコンの絵の制作にあたったのだった。
一週間ほどたって一応仕上がったものの、「お金をもらう」というプレッシャーからアキはなかなかマリエさんに完成した絵を送れないでいた。
そのため、変わったか変わらないかよくわからないような微調整を繰り返しながら、さらに一週間寝かせてしまっている。
あまり待たせるのも悪いので、そろそろ本当に送らないと、と思うも「がっかりされたらどうしよう」と思うと送れない。
そしてある日のユカリのお昼寝中、送信ボタンを押そうかどうしようか迷っていると、ユカリの方から声が聞こえてきた気がした。
「アキならできる、ゼッタイ」
頭の中に直接響く、あの、ユカリが生まれたときに聞こえたような声。
アキがユカリの方を振り向くと、ユカリは変わらずすぅすぅ寝息をたてて寝ていた。
子どものころ、猫の人形を作ったときのことをふいに思い出して、アキはつぶやく。
「あのときも、おばあちゃんの言う『ゼッタイ』は、『絶対』だったもんなぁ」
しばしの沈黙の後、アキは深呼吸を一つして、うなずいた。
「大丈夫、自分には祖母の、チカコの遺伝子が流れているのだから」
そう思うと、急に体の中から自信がみなぎってくるように感じる。
勢いに任せて、アキは送信ボタンを押した。
その日の夜、スマホを見ると、マリエさんから喜びのメッセージが届いていた。
「すごくかわいくて素敵! 頼んでよかったわ、ありがとう」
アキは布団の上でガッツポーズをして、タオルケットにくるまって静かにジタバタした。
「私、やれそうな気がする」
心の中に、じんわりとアキの「やりたいこと」が芽生えた瞬間である。
後日、マリエさんから謝礼が振り込まれ、定食屋うさぎのアイコンは、アキが描いたうさぎのイラストに変わった。
マリエさん曰く、アイコンを変えてからフォロワー数が少しだけ増えたという。
自分が作ったものが人に喜ばれて、さらにそれを仕事にする喜び。
アキはこれから本格的にイラストを仕事にしていきたいと、意気込んだのだった。
***
祖母が生きていたとき、アキと祖母には微妙な距離感があった。
祖母がふいに「お小遣いをあげる」と言っても「何の理由もないのにお金なんてもらえない」などと言って突っぱねる、妙に潔癖な子どもだった自分は、さぞかわいげのない孫だったろうとアキは思う。
お小遣いをつっぱねたあの日、「あげるっていうんだからもらえばいいじゃない」と言って祖母はわかりやすく不機嫌になった。
その日の夕方、アキが塾のお迎えに来た母の車に乗ると、車内には先に叔母の家から乗ってきたらしい祖母がいた。
狭い車内でお互い反対側の窓の外を見つめていた、あの永遠のように長く感じた時間。
沈黙の中で、雨で曇った車窓に指で絵を描きながら、アキは横目で相手の様子をうかがった。
今思えば、そんなどっちでもいいことで意地を張らず、もっとかわいい孫として祖母と仲良くできていたらよかったのにとアキは思う。
イラストの仕事をはじめてから、嬉しいこともしんどいことも経験した今、アキは自分の中に祖母の存在を強く感じるようになった。
生きているときはそんなに気が合わないと思っていたのに、二度と会えなくなった今、無性に話したくなった。
もしも今、元気に祖母が生きていたら、聞いてみたいことがいっぱいあったのにと思う。
「ママ、えがじょうずね」
一緒にダイニングテーブルでお絵描きをしながら、三歳になったユカリが言う。
白い紙いっぱいにダイナミックに描くユカリの絵を見ながら、アキは祖母が筆ペンで描く達磨の絵を思い出す。
「ユカリちゃんも上手だよ。毎日描いてるから、どんどん上手になるね」
えへへと自慢げに微笑みながら、ユカリは言う。
「ユカリもママみたいにかけるようになる?」
「なれるよ」
「ゼッタイ?」
「うん、ゼッタイ」
涼しくなった初秋の風に、バルコニーの洗濯物がはためいた。