
『里山のゴーストライター』第4話:招かれざる光と、守るべき境界線
光が、三つ。四つ。
山の斜面を駆け上がってくる。
穏やかな探索の光じゃない。 闇を暴力的に切り裂き、獲物を追い詰めるような、剥き出しの欲望の光だ。
「パパ、あの人たち……」
圭介が私の腕にしがみついた。 さっきまでカブトムシに向けていた目が、今は恐怖で固まっている。
「大丈夫だ」
そう言いながら、私の足は一歩後ずさっていた。
「カイト」
塔野の声は、驚くほど静かだった。
「ドローンのログを見せろ」
カイトがタブレットを操作する手が、震えている。
「……すみません」
絞り出すような声だった。
「さっき、興奮して。画像を数枚、SNSにアップしてしまいました。位置情報を、消し忘れて……」
沈黙。
塔野は何も言わなかった。怒鳴りもしなかった。 ただ、深く、長く、息を吐いた。
その一息の重さが、怒号よりずっと怖かった。
「カイト、お前は今日、森に火をつけた」
「……はい」
「それを、忘れるな」
それだけ言って、塔野はバックパックに手を入れた。
光の主たちが近づいてくる。 荒っぽい笑い声。枝を踏み折る音。 木を蹴る音まで聞こえた。
「なんなんですか、あの人たちは」
私は塔野の背中に問いかけた。
「業者です。あるいは、心ないコレクター」
塔野はバックパックから、見たことのない道具を取り出した。 薄い、透明なフィルムのようなものだ。
「彼らにとって、昆虫は命じゃない。換金できる記号です。SNSの断片から場所を割り出し、根こそぎ持っていく」
「根こそぎ……」
「一晩で、何十匹も。来年、再来年、この森からカブトムシが消えても、彼らは気にしない。次の森に行くだけです」
圭介が私の手を、さらに強く握った。
「あのカブトムシも、捕まえられちゃうの」
私は答えられなかった。

「ライトを全部消してください」
塔野が低く言った。
「え、でも真っ暗に――」
「消してください。今すぐ」
有無を言わさない声だった。 私はヘッドライトを消した。カイトもドローンのライトを落とす。
完全な暗闇。
目が慣れてくると、月明かりだけが頼りだ。 塔野のシルエットが、コナラの木の前に立っているのが見える。
彼は素早く、幹の入り口付近のクヌギの枝に、あのフィルムを巻き付けた。
「塔野さん、それは何ですか」
「特定の光を反射するフィルムです。ドローンの赤外線に強く反応する」
「つまり……」
「囮です」
塔野は振り返った。月明かりの中で、その目が静かに光っている。
「カイト、ドローンを起動しろ。赤外線は使うな。奴らのドローンのセンサーを、あちらの枯れたクヌギに誘導する」
「偽のポイントに……?」
「AIが完璧だと判定した、ハズレの木だ。存分に使わせてもらう」
カイトがドローンを飛ばした。 プロペラ音が静寂を裂き、フィルムを巻き付けたクヌギの上空へ向かう。
赤外線が反応した。
光の群れが、ざわめいた。 声が飛び交う。「あっちだ」「データに出てる」「急げ」。
そして、光たちは向きを変えた。
コナラから離れ、斜面の下の枯れたクヌギへ。 どんどん遠ざかっていく。
圭介が息を飲んだ。
「うまくいった……?」
「まだだ」
塔野は動かない。光が完全に遠ざかるまで、微動だにしない。
罵声が聞こえた。「何もいないじゃないか」「情報が違う」「使えない」。
やがて、光は山を下りていった。
静寂が戻ってきた。
コナラの幹に、カブトムシはまだいた。 何事もなかったように、樹皮に脚を食い込ませて、樹液を啜っている。
圭介が、長い息を吐いた。
「よかった……」
私も同じ言葉しか出てこなかった。
「よかった」
塔野はフィルムをクヌギから外し、静かにバックパックにしまった。 カイトが、まだ青い顔で言った。
「塔野さん、俺……」
「今夜のことを、明日書け」
「え?」
「お前が火をつけて、何が起きたか。どうやって消したか。全部書いて、発信しろ。それがお前の仕事だ」
カイトは黙って、深く頭を下げた。
帰り道、圭介が私に聞いた。
「パパ、塔野さんって、何者なの?」
私は少し考えて、答えた。
「森のゴーストライターだ」
「ゴーストライター?」
「物語を書く人だよ。でも自分の名前は出さない。森が主役だから」
圭介は「ふーん」と言って、また歩き出した。
その背中を見ながら、私は思った。
この子は今夜、本物の脚本を見た。 データじゃない。センサーじゃない。 人間の勘と、経験と、覚悟で書かれた脚本を。
山を下りながら、塔野が一度だけ振り返った。
「佐藤さん」
「はい」
「息子さん、いい目をしています」
それだけ言って、また前を向いた。
私は、100万円の領収書より重いものを受け取った気がした。
だが、そのとき。
カイトのドローンのモニターが、不意に反応した。
「塔野さん……」
カイトの声が、震えている。
「あれ……人間じゃ、ないです」
モニターに映し出されたのは、熱源反応を持たない、巨大な昆虫のシルエット。 コナラの樹冠を、音もなく移動している。
塔野が、足を止めた。
「……来たか」
その声には、驚きはなかった。 まるで、いつかこの日が来ることを、知っていたように。
▶︎ 第5話:鋼鉄の甲虫と、里山の亡霊へ続く