
『里山のゴーストライター』第5話:鋼鉄の甲虫と、里山の亡霊
「人間じゃない……って、どういうことですか」
私は、カイトのモニターを覗き込んだ。
赤外線の映像は緑がかった暗視画像で、木々の輪郭が白くぼんやりと浮かび上がっている。そのコナラの樹冠を、何かがゆっくりと移動していた。
大きい。
カブトムシの形をしている。だが、サイズがおかしい。 通常の二倍はある。いや、もっとか。
そして――真っ黒だ。
周囲の木々は夜の熱をわずかに蓄えて白く映っているのに、その「影」だけが完全な黒。熱源反応がゼロ。まるで、そこだけ世界に穴が空いているような。
「パパ、何あれ」
圭介が私の腕の中で身を固くした。
「わからない」
正直に言うしかなかった。
塔野が、ゆっくりと一歩前に出た。
「ライトを向けるな」
低い声で制してから、自分のライトを極限まで絞った。 細い光の筋が、樹冠をなぞるように動く。
そこにいた。
カブトムシの形をした、金属の塊。 体表に幾何学的なラインが走り、腹部で冷たい青色のLEDが脈打つように点滅している。 本物の昆虫のように六本の脚を持ち、コナラの樹皮を器用につかんでいる。 だが、生きていない。
完全に、生きていない。
「……ロボットだ」
私は呟いた。
「正確には」と塔野が静かに言った。「自律型サンプリングドローンです。通称、スチール・ビートル」
「スチール……ビートル?」
カイトが震える声で繰り返した。
「聞いたことあります。都市伝説だと思ってた。ある大手テック企業が開発した、生態系データ収集用のロボットで……」
「都市伝説じゃない」
塔野は目を離さずに言った。
「三年前から、各地の里山に出没している。私も二度ほど、痕跡を見たことがある。今夜、実物を見るのは初めてだ」
「何をするんですか、あれは」
私は聞いた。
塔野は少し間を置いてから、答えた。
「座標を奪います」
「座標?」
「この森のすべての生態データを。どの木に何の昆虫がいるか。樹液の出る場所。季節ごとの個体数。気温、湿度、土壌の成分まで。それを丸ごとデジタル空間にコピーして、持ち帰る」
「それの何が……」
「その企業にとって、里山は守るべき自然じゃない」
塔野の声が、静かに、しかし確かに低くなった。
「効率的にデータを吸い上げるための、資源の山です。乱獲者は虫を奪う。だが、あれは森そのものを奪う」
圭介が、私の袖を引っ張った。
「パパ、あのロボット……カブトムシを捕まえる?」
「捕まえるんじゃなくて」
私は言葉を探した。
「……写真を撮るんだ。でも、それを悪い人たちが使うかもしれない」
圭介は少し考えて、言った。
「それって、カブトムシをタブレットの中に閉じ込めるってこと?」
私は、息が止まった。
この子は、本質を見抜いた。
AIが描いた「4本脚のカブトムシ」。データだけの偽物の命。 あのロボットがやろうとしていることは、本物の森を「データの中の偽物」に変えることだ。
「そうだ、圭介。そういうことだ」
「塔野さん、どうするんですか」
カイトが聞いた。
塔野はバックパックの底から、古びた小さな装置を取り出した。 金属製の、手のひらサイズの箱。LEDも液晶もない、ただの無骨な箱だ。
「それは……何ですか」
「電磁パルス発生装置です。範囲は半径五メートル。あの機械の自律システムを、一時的に止められる」
「そんなものを持ち歩いてるんですか」
「三年前から、ずっと」
塔野は箱を握りしめた。
「いつか来ると思っていた」

「でも」とカイトが言った。「電磁パルスを使ったら、俺のドローンも止まりますよね。それに、法律的に――」
「カイト」
塔野が振り返った。
月明かりの中で、その目が静かに、しかし強く光っている。
「お前は今夜、森に火をつけた。それを消すのも、お前の仕事だ」
カイトは、黙った。
長い沈黙の後、深く息を吸って、言った。
「……ドローン、着陸させます」
塔野が、スチール・ビートルに向かってゆっくりと近づいていく。
私は圭介を後ろに下がらせた。
「パパも行くの?」
「いや、ここにいる」
「でも、塔野さん一人で……」
「大丈夫だ」
本当に大丈夫か、わからなかった。
でも、塔野の背中を見ていると、不思議と信じられた。 20年間、この森で生きてきた男の背中だ。 データでも、センサーでも、AIでも、決して真似できない、本物の覚悟がそこにあった。
スチール・ビートルが、塔野に気づいた。
青いLEDが点滅を速める。 六本の金属の脚が、樹皮をつかみ直す。 カメラのレンズが、塔野に向いた。
塔野が、箱のスイッチに指をかけた。
圭介が、私の手を強く握った。
森が、息を止めた。
次の瞬間、青いLEDが消えた。
音もなく。 スチール・ビートルは、コナラの幹からずるずると滑り落ち、根元の腐葉土の上に転がった。
静寂。
塔野が振り返った。
「終わりました」
それだけ言って、箱をバックパックにしまった。
圭介が、大きく息を吐いた。
「やった……!」
カイトが、へたへたと地面に座り込んだ。
私は、気づいたら笑っていた。 声を出して、笑っていた。
コナラの幹を見ると、本物のカブトムシは、まだそこにいた。 何事もなかったように、静かに樹液を啜っている。
六本の脚で、しっかりと。
帰り道、圭介は眠そうな目をこすりながら、私の手を引いた。
「パパ」
「なんだ」
「来年も来たい」
「……そうだな」
「今度は、自分で見つけたい。塔野さんに教えてもらいながら」
私は圭介の頭を、くしゃっと撫でた。
この子は今夜、本物を見た。 本物の命を。本物の覚悟を。本物の戦いを。 タブレットの中の「完璧な4本脚」では、絶対に手に入らないものを。
山を下りながら、塔野が言った。
「佐藤さん、息子さんに伝えてください」
「何をですか」
「来年、森に来るなら、まず図鑑を読め。本物の昆虫の、本物の脚の数を、自分の目で確かめてから来い、と」
圭介が、眠そうな顔で答えた。
「六本、でしょ。もう知ってる」
塔野が、今夜初めて、声を出して笑った。
▶︎ 第6話:デジタル・サバイバルへ続く