
『里山のゴーストライター』第2話:消えた「トーチ」と、AIの死角
男の名前は、塔野といった。
歩くのが速い。ライトも持たず、暗闇の斜面をまるで昼間のように進んでいく。 私と圭介は、その背中を必死に追いかけた。
「パパ、木の根っこ!」
「わかってる、わかって――」
ズルッ。
私は見事に滑った。膝に泥がついた。圭介がクスッと笑う。 怒れなかった。息子が、こんなに生き生きとした顔をしているのを、久しぶりに見た気がした。
塔野の助手だという大学生――カイトと名乗った――は、私たちの後ろでドローンのコントローラーを操作しながら歩いていた。 モニターの青白い光が、暗闇の中で彼の顔を照らしている。
「佐藤さん、安心してください。このドローンの赤外線センサー、めちゃくちゃ高性能なんで。カブトムシの熱源も拾えます。今夜のポイント、データ的には完璧ですよ」
得意げな声だった。
前を歩く塔野は、振り返りもしない。
「カイト、プロペラの音を下げろ。森の呼吸が聞こえなくなる」
「でも塔野さん、センサーが――」
「下げろ」
一言。カイトは口をつぐんだ。
この人、ただ者じゃない。 私は確信した。
十分ほど歩いたところで、塔野が足を止めた。
木立が開け、一本の大きな木が月明かりの中に浮かび上がっている。幹の直径は1メートル以上あるだろうか。どっしりとした、貫禄のある老木だ。
「あれです」と塔野が低く言った。「私が20年、守り続けてきた木です」
圭介が目を輝かせた。「カブトムシ、いる?」
「……いるはずだった」
塔野の声が、わずかに揺れた。
彼はゆっくり近づき、木の幹にライトを当てた。 私も覗き込んだ。樹皮は乾いていた。べったりとした樹液の光沢も、虫たちが集まる甘い匂いも、何もない。
しんと静まり返った、ただの老木だ。
「……塔野さん」とカイトが言った。「センサーにも反応、ありません。このポイント、ハズレです」
圭介の肩が、少し落ちた。
「やっぱりいないか……」
その小さな声が、胸に刺さった。
100万円払って、何もいない。笑えない。いや、笑うしかない。
だが、塔野は動じなかった。
膝をつき、木の根元の土を指でそっとなぞる。じっと、じっと見ている。まるで木と会話しているようだった。
「……ボクトウガが、動いていない」
独り言のように呟いた。
「ボク……何ですか?」と私は聞いた。
「この木に穴を開けて、樹液を出させる虫です。彼らがいなければ、カブトムシは集まらない。」
塔野は立ち上がり、暗闇の奥を見据えた。
「脚本が、書き換えられたようだ」
「え?」
「私が描いたシナリオ通りに、森は動かない。それだけのことです」
そう言って、彼は何でもないことのように笑った。

「佐藤さん、ドローンのライトを消してもらえますか」
「カイトに言ってください、私は――」
「パパ、消してって言ってるよ」
圭介が横からカイトを見上げた。カイトは苦笑いして、ドローンのライトを落とした。
完全な暗闇。
その瞬間、匂いが変わった。
さっきまでと違う。もっと濃い、むせるような甘さ。風の向きが変わったのか、暗闇の奥から流れてくる。
「パパ……この匂い」
「わかる」
圭介と私は、同時に鼻を上げた。
塔野がゆっくりと北側の急斜面を指差した。カイトのドローンが「価値なし」と判定した方向だ。そこには、細くて地味なコナラの木が数本、月明かりの中にぼんやりと立っていた。
「センサーには映らない。データにも載らない」
塔野は静かに言った。
「でも、森は正直です。あちらです」
圭介が私の手を引いた。さっきより強く、引っ張るように。
「パパ、行こう」
この子は今、データより鼻を信じている。
私は泥だらけの膝を叩いて、立ち上がった。
暗闇の奥、細いコナラに向かって、三人と一機は静かに歩き始めた。
▶︎ 第3話:六本の脚が刻む、真実の重みへ続く