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『里山のゴーストライター』第3話:六本の脚が刻む、真実の重み

    「足音を殺してください」

    塔野が振り返らずに言った。

    私は圭介の肩に手を置き、二人で息を止めた。 カイトのドローンも、いつの間にか静かになっている。

    暗闇の中、北斜面の細いコナラに向かって、私たちはじりじりと近づいていった。


    最初に気づいたのは、匂いだった。

    甘い。重い。発酵したような、むせかえるような甘さ。 さっきの乾いた老木のそばでは、まったく感じなかった匂いだ。

    次に、音が聞こえた。

    「カサッ」

    乾いた、小さな音。 硬いものが、樹皮に食い込んでいるような音。

    圭介が私の袖をつかんだ。

    「パパ……何かいる」

    震えていた。怖いのではない。 全身で「何か」を感じ取って、体が勝手に反応しているような、そんな震えだった。

    私も、同じだった。


    塔野がライトをゆっくりと上げた。

    光の先に、それはいた。

    コナラの幹の中ほど。樹皮の割れ目に深々と脚を食い込ませ、全身で踏ん張っている、一匹のカブトムシ。

    大きい。図鑑で見るものより、ずっとずっと大きい。 角が、月明かりの中で鈍く光っている。

    圭介が声にならない声を上げた。

    「……」

    言葉が出ないのは私も同じだった。


    「圭介、脚を数えてみろ」

    塔野が静かに言った。

    圭介はゆっくりと、ライトの光の中で目を凝らした。

    「……前、二本。中、二本。後ろ……」

    数える声が、わずかに上ずっている。

    「後ろ、二本。……ぜんぶで、六本だ」

    「そうです」

    塔野は膝をつき、圭介と同じ高さで木を見上げた。

    「脚は六本。節が三つ曲がっていて、爪が二本ずつある。これが、神様が昆虫に与えた、最小にして最強の設計です」

    圭介は答えなかった。 ただ、カブトムシから目を離せなかった。

    私も、離せなかった。

    あの夜、息子がタブレットで見せてくれた「完璧な絵」。 脚が四本の、美しすぎるカブトムシ。

    あれと、目の前にいるこいつは、まったくの別物だ。

    こいつは、不格好だ。泥臭い。角の付け根に傷がある。脚の節が不規則に曲がって、今にも樹皮をへし折りそうな力で踏ん張っている。

    美しくはない。でも――

    生きている。

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    「佐藤さん」

    塔野が、私の方を向かずに言った。

    「息子さんは、今、何を見ていると思いますか」

    私は圭介を見た。

    口を半開きにして、ライトの光の中のカブトムシを食い入るように見つめている。タブレットも、ゲームも、AIも、今この瞬間、圭介の頭の中には存在していない。

    「……本物を、見ています」

    「そうです」

    塔野は立ち上がった。

    「AIが描く画像には、この『必死さ』がありません。六本の脚が樹皮に食い込む、この力が。今夜ここで、息子さんが目に焼き付けたものは、どんなデータにも上書きされない」

    100万円の、意味がわかった気がした。

    場所代じゃない。 体験代だ。 息子が一生忘れない、本物の記憶への対価だ。


    「パパ」

    圭介が、ぼそっと言った。

    「AIのカブトムシ、なんか……かわいそうだね」

    「かわいそう?」

    「だって、生きてないじゃん」

    私は思わず笑った。声が出るほど笑った。 塔野も、珍しそうに口の端を上げた。

    「息子さん、いいこと言いますね」

    カイトが「それ、俺のSNSに書いていいですか」と言った。 塔野に即座に「ダメだ」と返された。


    そのとき、山の下の方から、光が見えた。

    一つではない。三つ、四つ。 激しく揺れながら、こちらに向かって上がってくる光。

    塔野の表情が、一瞬で変わった。

    「……来ましたか」

    「何ですか、あれ」と私は聞いた。

    塔野は答えず、カイトに目で合図を送った。 カイトが青ざめた顔でタブレットを操作しながら、小声で言った。

    「すみません……さっき興奮して、ドローンの映像をSNSにアップしてしまって。位置情報、消してなかったかもしれないです……」

    塔野が深く息を吐いた。

    私は光の主たちを見た。 荒っぽい足音。乱暴に揺れるライト。 あれは、私たちと同じ目的でここに来た人間じゃない。

    「圭介、私の後ろに来い」

    息子の肩を引き寄せた。

    圭介は怖がるでもなく、コナラの幹のカブトムシをもう一度だけ振り返った。

    「大丈夫かな、あのカブトムシ」

    「……塔野さんが守ってくれる」

    私は、自分でも驚くほど迷いなくそう言っていた。

    塔野はすでにバックパックに手を入れ、何かを取り出していた。


    ▶︎ 第4話:招かれざる光と、守るべき境界線へ続く

    #創作大賞2026 #コミックエッセイ部門

     
     
    埼玉を拠点に、カブトムシ・クワガタの採集と飼育を20年以上続けてきました。フィールドの経験を採集ガイドや子ども向け昆虫本としてKindle出版。数秘術をベースにした「人生の答え合わせ」シリーズでは、1980年代生まれの女性に向けて自分を見つめ直す本を書いています。

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