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【長編小説】カフェ・シトラス 18[第六章_サボテンとライムと、それからたくさんの甘い蜜を③]

    前回は↓から


    第六章_サボテンとライムと、それからたくさんの甘い蜜を③


     こっくりと風味がひろがるバターと、きゅうりの塩気のバランスが整ったキューカンバーサンドは完璧だった。見た目はきゅうりだけだから、私みたいな野菜嫌いには敬遠される食べ物だろう。主食として選ばれることはないサンドイッチだ。実際食べてみるとバターが多いのでとても満足感があって、一緒に出されたハムとチーズのオムレツは無くてもいいくらいだ。

    「こどもの頃ね、キヨちゃんは色をとってもこわがっていたの。白と黒以外の色から常に逃げてて、赤いランドセルなんて、まともに見ちゃうと、もう、道にうずくまっちゃって。……よく白い車でお父さまが送ってくれたわ。アタシたちも一緒に」

     こちらがもたもたと食べているうちに、さっさと食べ終えていたケイコさんはコーヒーを飲みながらぼんやり宙を眺めた。

    「僕がこわがりだったから、起きた事故だったんだ」

     どんな事故だったか未だに誰にも訊けていないことを思い出す。

    「……もしかして、店長のおでこの傷もそれと関係ある?」

     ケイコさんはとても悲しそうな、苦しそうな表情をした。店長の背中を支えているときに見せたものと同じだ。

    「あれは、本当にキヨちゃんに悪いことをしたわ。……こわいって言ってるのに、たくさんの色が使われているジャングルジムに無理矢理、登らせようとしちゃって」

     親友二人に促され、店長少年はカラフルなジャングルジムに挑むことになった。三段登ったところで目に入ったのは、当時一番恐れていた「赤」だった。それを見た途端、彼はパニックを起こし、ジャングルジムから尻もちをつくように落ちてしまった。

     幸い、落ちたことによるけがはなかったけれど「赤」によって混乱した彼は逃げだすように公園から走り去ろうとした。当時、学年一位のタイムを記録したという、すばしっこい足が向かったその先には、フェンスが朽ち金網がぶら下がっている危険な場所があった。

     色にあふれた公園から一刻も早く脱出したかった店長少年は、かまわずそこに走っていってしまい、そのとがった先端がおでこに刺さり傷を負ってしまった。

    「傷から血がたくさん出ちゃってね。キヨちゃんは自分の真っ赤な血を見てさらにパニックになっちゃったの。ヒロちゃんがなんとか捕まえて、大人が来るまで持っていたハンカチで傷口を押さえていてくれたんだけど……アタシは、なぁんにもできなくて……キヨちゃんもヒロちゃんも血まみれで、ハンカチもすぐに真っ赤になっちゃって。――とにかく、いま思いだすだけでも、すごい光景だった」

     いつも店長が使っている真っ白なマグカップを撫でながらケイコさんはそっと笑みを浮かべた。その表情から悲痛さはいまだ消えていない。

    「ジャングルジムのてっぺんって、色彩豊かな公園がとってもきれいに見えるじゃない? ヒロちゃんと『キヨちゃんにも見せてあげたいね』って、話してただけだったんだけど」

     コーヒーをひとくち飲んでから「いま思えば、やり方がちょっと強引だったわよね」苦く笑ったケイコさんは立ち上がり、ホールに消えたけれど、すぐにオレンジを手に戻ってきた。

     ジャングルジムの素晴らしさは私もよく知っている。高いところが苦手なきょうちゃんを地面に置き去りにして、いつもよりほんの少しだけ近くに見える空を見上げていた。ジャングルジムのてっぺんに吹く風は、地面のそれよりずっと気持ちよく感じられた。

    「でね、傷がよくなってきたあたりで、オレンジジュースを絞ってあげたの。きれいなものを見せてあげる前に、まずは色はこわくないってことを教えてあげようってヒロちゃんと相談して」

     宝物庫でみつけたのであろう、ステンレス製のレモンの絞り器をひらひらと振り「あずちゃんにもつくってあげる」とオレンジには少しちいさい絞り器で果汁を絞ってくれた。

    「とってもおいしいから飲んでみない? って訊いたら、すこし考えて、うなずいてくれてね。キヨちゃんはそのときからオレンジジュースが大好きになったの。でも、いまだに赤とトマトジュースはちょっぴりこわがるのよね。だからドリームにもトマトジュースを置くのをやめたの」

     トマトジュースがこわい。知らなかった情報に、私は蒼白となった。背中に冷たいものが走る。

    「自分の意思ではじめて色を口にしたのが、オレンジジュースだったみたいでね。おいしいってオレンジジュースをたくさん飲んだ翌日に、今日みたいに高熱を出しちゃったの」

     昨夜、夕食の献立を確認した片岡が一瞬、眉をひそめて店長を見た。「おいしそうだよね」という笑みにほっとした表情をしていたけれど、あの怪訝な表情はそれを思い出してのものだったのかもしれない。

     つまり、今日の発熱は私のせいだ。大切な店長を知らずのうちにまた傷つけてしまった。

    「あずちゃん? どうしたの? ……まさか、あずちゃんまでお熱? さっきマスク外したから?」

    「わ、私……昨日のお夕飯に、トマトジュースとトマト缶を使って、真っ赤なミネストローネをつくっちゃって。最近ね、シトラスでお夕飯を三人で食べてるの。 ……店長、色のことなんて言ってなかったし、おいしいって、ヒロキと競うようにおかわりして食べてたんだけど」

     そういえば、ピザトースト用にトマトソースをつくったその翌日も少しだけ様子がおかしかったかもしれない。「あらま」ケイコさんは驚いた顔をしている。

    「ね、トマトは? マグロは? いちごは? さくらんぼは? 今日もらったりんごは、出さないほうがいいの?」

     トマトは普通にサンドイッチに入っているし(でもトマトを切るのは私の役目だ)、お寿司屋さんに行った時もマグロの握りを食べていた。たしか大トロも中トロも赤身もパクパクと食べていたはずだ。ケーキやパフェのてっぺんの特別ないちごやさくらんぼを「あずにあげるよ」と食べさせてくれたのは、苦手だったから?

     食べる手が完全に止まってしまった。熱を出してしまうほど苦手な食べ物を、知らずのうちに食べさせてしまったなんて。恐ろしさのあまり、手にしていたフォークを落としてしまった。かつて包丁を手にした時のように、ふるふると手がふるえてしまっている。

    「あずちゃんがパニックになってどうするの。血に似た赤い液体が少し苦手なだけで、他は平気なはずよ。好き嫌いも牛乳以外はほとんどないし、体質的にアレルギーもないの。……それよりも、あずちゃんはお料理がつくれるようになった自分を褒めてあげるべきよ。 タバコでも吸ってきたら? お酒はダメだけど」

     首を横に振って、震える身体をおさえる。

    「禁煙……は、まだ無理だけど、こういう時に、タバコを吸うのはやめたの」

     こんな不安に襲われている時にタバコを吸ったら余計苦しくなるだけだとシトラスで過ごすうち学んだ。目の前に置かれていたオレンジジュースを一口飲む。とびきり甘い、店長が好きそうな味がした。

    「すごい進歩じゃないの。だからライスジャーがあったのね。お米はどうやって炊いてるの? もしかして倉庫にあるおっきな炊飯器? アタシもあずちゃんのごはん食べてみたい」

    「三人で食べる分だから、お鍋で炊いてるの。スーシェフの間野さんにごはんなんて、恐れおおくてつくれない」

     憎まれ口をたたきつつも、震えは止まらない。視界がにじんできているから、涙も流れてしまっているのだろう。

    「キヨちゃんにおかゆでもつくってあげたら? こういうときは白い食べものをつくってあげたら、キヨちゃんはとっても元気になるの」

     背中を撫でてくれたケイコさんにたまらず抱きついてしまう。「だいじょうぶ、よ」いつも甘やかしてくれる声に、嗚咽を漏らしこどもみたいに泣いてしまった。


     真っ白な天井に月明かりがうすく伸びていた。店長の熱が下がるまでシトラスに泊まるというケイコさんがずるくて抗議したところ、一緒に泊まらせてもらえることになった。真っ白なベッドの真ん中に横たわり、ケイコさんの腕に頭を乗せて、お腹の上にはもう片方の長い腕がのっている。

     ドリームをコウコさんひとりに任せてお店を休んだケイコさんは、すでにすうすうと寝息をたてて眠っている。朝早くから呼び出してしまったことに、ようやく申し訳ないという気持ちが私に芽生えていた。

     朝アパートに持ち帰ったバニティポーチとサボテンと一緒にシトラスに戻ると、秘密の階段を上がる前に片岡から電話があった。「ケイから電話があったけど『絶交中だから黙ってきいてろ』って言われた」不機嫌な声がしたすぐあとに「あずさは落ちついたか?」と優しい音がしたから私は「うん」と笑った。

    「あのね、シトラスにサボテンをつれてきちゃったの。こっちの方が日当たりもいいし、気持ちいいかなと思って」

    「留守番させておけばいいだろう? 犬猫じゃあるまいし」

    「だってサボテンは、私なんでしょう? ひとりぼっちにして、すねたり、枯れたりしたら困るじゃない?」

    「……たしかに」

     おかしそうに笑う気配がしてすぐに「そろそろ戻るよ」とさみしげな声がした。出張先でお得意さまの接待中に抜けて電話をくれていたのだ。

    「飲みすぎに注意してね。 ……飲みすぎて、ホステスさんのおしり触らないようにね」

    「あずさだけだから、安心しろ」 

     笑みがこぼれるほど甘い音がして、胸のなかが蜜で満ちるのを感じた。

     電話が切れたあと、浮き立つ心を落ちつけるために、喫煙所でタバコを吸いながら、背の低い缶ビールを一本飲んだ。この甘い声音に、以前はサボテンのように針を光らせ警戒していたというのに、ずいぶんとげんきんなものだ。

     真っ白なベッドは拡張したケイコさんのベッドほどではないものの、三人で寝転がっても狭くはなかった。そもそも私とケイコさんが一緒に眠るときはくっついて眠るから、狭いベッドでも問題ない。いつもはケイコさんの腕に包まれると安心してすぐに眠れるのだけれど、今日は熱を出させてしまったという罪悪感から寝つけずにいた。

     ケイコさんの規則正しい寝息をききながら店長の方をチラと見ると、薄く開いた目と目が合った。腕の中で身をよじって横を向き「ごめんなさい」とたまらず、小さな声で謝ると彼は首を横に振った。熱の出ているあたたかな手が伸びてき、私の指を絡めとった。

    「……あず、大好き、だよ」

     いつもの軽口かもしれないけれど、うれしい気持ちでうなずいた。

    「ずっと、ここに……シトラスに、いてね」

     解熱剤の効かない熱に浮かされた声にもう一度うなずいて、涙をこらえるために目をぎゅっとつぶって、両手で店長の手に指を絡めた。


     二日目の朝に店長はまた高熱を出してしまった。けれど、夕方には平熱に戻り、ぼんやりしながらも厨房まで下りて来られるようになったから、お夕飯に三人で湯豆腐を食べた。ぼんやりしているとまるでこどもみたいで、ケイコさんがあれやこれやと世話を焼いているのが、おやこのように見えてしまって、若干の戸惑いを感じた。

     お塩をかけるのが好きと店長がいったので一切れ目はピンクの岩塩をふって、二切れ目は生姜と塩昆布をのせて食べた。しらすと青菜を入れたおかゆもペロリと食べてくれた。

     三日目の朝には完全に解熱し、オレンジジュースを飲んで、はちみつをかけたバナナヨーグルトと皮をきれいに剥いたリンゴを食べるとすごく元気になって「今日は三人でお店やろう」とふわふわな笑顔でレジに立ってくれた。鳥のオブジェに寄り添わせるように置いたサボテンをみつけると、トゲをツンとつついてから、優しく指先を滑らせた。

    「昔の、ヒロの頭みたい」

    「二人でなでまわすから、くすぐったいって言って、ヒロちゃんは嫌がってたけどね」

    「……坊主頭、だったの?」

    「スポーツ刈りっていうのかな? 前髪だけある感じ。うなじからてっぺんまで撫であげると、ツンツンがささって手が気持ちよくて。僕も自分の髪の毛でやってみたんだけど、どうしてもヒロみたいなツンツンの手触りにはならなくって」

     開店前のひとときにはちみつライムのレモネードを三人で飲んでサボテンを観察した。仲良し三人組のこどもの頃はどんなだったのだろうと想像がふくらむ。「へぇ」相槌を打って、撫でると固く、寝癖がつくと洗わない限り元に戻らない片岡の髪の毛を思い出す。思い出すと、急に会いたくなってしまった。

     あと半日。あと半日で会える。思うとまた胸に蜜がひろがっていく。


    「あずちゃん、キャベツの千切り、お願いできる?」

    「照り焼きチキンサンドなんて、名前だけでもめちゃくちゃおいしいから、僕も今度つくるよ」

    「私のには半熟卵をいれてね」

    「いいわよ。あずちゃんの大っ嫌いな、パセリもたぁっぷり入れてあげるわ」

     ケイコさんの意地悪に負けじと笑みをうかべる。

    「パセリは葉酸がたっぷりで、妊活にはぴったりのお野菜だから。お気づかい、どうもありがと」

     余裕たっぷりで返すと店長がおかしそうに笑った。「妊活」というパワーワードにケイコさんは「はあ?」と鬼の形相をした。

     一足先にレモネードを飲み干して、ショーケースの照明をつける。レジの釣銭は店長がいるから確認しなくていい。鍵を開けてそぉっとドアベルが揺れないように扉を開けて、CLOSEからOPENに札を返す。今日も秋晴れのいいお天気だけれど、夕方から雨だから気を付けてくださいとオレンジ屋さんが言っていた。

    「帰り、雨かもしれないって」

     こっそり片岡にメッセージを送ってから、入口の落ち葉を掃きあつめる。道行く人に「おはようございます」と挨拶をふりまいて、近くのオフィスビルの、いつものお客さまを出迎えた。

    「あずさちゃん、おはよう。店長さんの体調はよくなった?」

    「おはようございます。おかげさまで今日から復活してます」

     お客さまと一緒にお店の中に戻って「おはようございます、ご心配おかけしました」店長のにこやかな声をきく。体調を心配する会話のとなりで素早く手を洗って、手袋をしてオレンジを絞る。

     かちゃん、じゅうっ、かたん。
     かちゃん、じゅうっ、かたん。

     リズムもいつも通り、姿勢正しく。オレンジが大好きな店長がすぐそばにいるからか、ショーケースの中のまんまるたちもなんだかいつもより色艶がいい。

     今日のオレンジもとても甘くていい香りがする。「おまたせしました」手早く準備して渡すと、常連のお客さんは笑みと共にオレンジジュースを手にした。

    「今朝は店長さんにも会えてうれしかったよ。二人とも元気そうで、本当によかった。 ……病み上がりに、無理しちゃダメだよ?」

     店長にも公平に接してくれる、とても善良なお客さまだ。

    「いってらっしゃいませ」

     二人で声を合わせ、背中を見送るとなんだかうれしさがこみ上げてきて、カラン、という音のすぐ後に店長の顔をのぞきこんでしまった。

    「店長、おかえりなさい」

    「……ただいま。大好きなあずが今日もかわいいから、僕はとっても幸せだよ?」

     嘘なんだか本当なんだか。

     おかしくなって笑うと、視界のすみっこにいたサボテンも、針をふるわせて笑ったような、そんな気配がした。


    第六章_サボテンとライムと、それからたくさんの甘い蜜を 完

    つづく

     
     
    小説と短歌と読書だけで生きていきたいひと。 でもムリだから、お菓子とパンをつくってたべる社畜公募勢。 短歌同人誌「琥珀糖」所属

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