
閉店前のアルバム (4/5) 長く貸していた気がしない
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由季が紙袋を持って家を出たのは、夕方になる少し前だった。
朝から空は低かった。
洗濯物を外へ出すのをやめた真司が、ベランダの窓を閉めながら「今日は降るかもね」と言った。
由季は、うん、とだけ返した。
玄関の隅に置いた紙袋は、出かける直前までそこにあった。
靴を履いてから一度見下ろす。
紙袋の口は、昨夜折ったまま少し歪んでいた。
持ち手に指を通すと、中の角が膝に軽く当たった。
「出かけるの?」
真司がリビングから顔を出した。
手には畳みかけのタオルを持っていた。
「うん。仕事のことで、少し」
「雨、持ってく?」
「たぶん大丈夫」
靴箱の上に置いた折りたたみ傘を、由季は一度手に取った。
軽かった。
鞄に入れれば済むことだった。
「すぐ帰るから」
そう言って、傘は置いた。
*
外へ出ると、湿った風が首元に触れた。
六月の夕方は、まだ明るいのに影だけが先に濃くなっていた。
駅へ向かう人の歩幅はどこか急いでいて、自転車のブレーキ音がアスファルトの上で短く鳴った。
由季は紙袋を左手に持ち替えた。
写真集の角が袋の中で動くたび、かすかに紙が擦れた。
何度も読んだ本ではなかった。
借りたときも、最後まで開けなかった気がする。
ページの端に指をかけても、いつもそこで止まった。
*
商店街に入ると、惣菜屋の前から揚げ物の匂いが流れてきた。
薬局の自動ドアが開く音、雨除けのビニールが風で揺れる音、遠くで誰かが笑う声。
どれも普段と変わらないのに、由季の歩く速さだけがわずかに遅れた。
ギャラリーの前まで来ると、ガラス戸の内側に白い壁が見えた。
前に見たときと同じように、閉店前の光が展示室の奥を淡く沈ませている。
客は二人だけだった。
年配の女性が一枚の写真の前で立ち止まり、隣の男性に小さく何かを言っている。
由季は入口の前で一度足を止めた。
紙袋の持ち手が、指の第二関節に食い込んでいた。
中へ入ると、受付の横にいた佐伯が顔を上げた。
薄い手袋を片方だけ外しかけていたところだった。
由季を見ると、彼はすぐには動かなかった。
それから、手袋を机の端に置いた。
「こんにちは」
「来てくれたんだ」
その言い方は、驚きすぎてもいなかった。
待っていたようにも聞こえなかった。
由季は紙袋を少し持ち上げた。
「これ、返そうと思って」
佐伯の視線が袋に落ちた。
中身が見えるわけではない。
それでも、彼はすぐに分かったようだった。
「……まだ持ってたんだ」
責める響きはなかった。
由季は、紙袋の口元を見た。
折り目のところが白くなっている。
「返すのが、遅くなって」
それだけ言うと、声が壁に吸われた。
佐伯は紙袋を受け取った。
指先が持ち手に触れた。
由季の指と近づいたけれど、触れたかどうかは分からなかった。
袋が彼の手に移ると、由季の左手が急に軽くなった。
佐伯は中から写真集を出した。表紙の端は少し擦れていた。
「懐かしいな」
彼はそう言って、すぐには開かなかった。
受付の机の上に、写真集をそっと置いた。
表紙に手を載せたまま、黙っていた。

展示室の奥で、誰かが床を歩く音がした。
「長く貸してた気がしない」
由季は顔を上げた。
佐伯は写真集を見ていた。
由季ではなく、表紙の擦れた角を見ていた。
「そんなこと、ないです」
「そうかな」
「……表紙、少し擦れてますね」
自分の声が乾いて聞こえた。
佐伯は小さく笑った。
笑うというより、息を緩めるような表情だった。
「でも、ちゃんと戻ってきた」
その言葉のあと、由季は何かを言おうとして、やめた。
写真集は、佐伯の手元に戻っていた。
受付の机の端には、空になった紙袋が残っている。
由季は来場者ノートの端に目を落とした。
知らない名前がいくつか並んでいる。
日付の横に、短い感想が書かれていた。
丁寧な字、急いだ字、最後まで書き切らない線。
その中に、自分の名前を書くことはできなかった。
「少し、見ていく?」
佐伯が言った。
由季は展示室の方を見た。
白い壁に並んだ写真は、夕方の光を受けて静かに沈んでいた。
閉店まで、それほど時間はない。
帰らなければならない時間も、まだ来てはいない。
「少しだけ」
そう答えると、佐伯は頷いた。
二人は並んで展示室へ入った。
*
前に来たときより、壁の白さが暗く見えた。
天井のライトは変わらないはずなのに、外の空が曇っているせいか、写真の中の影が濃く浮かんでいる。
由季は一枚ずつ見た。
駅、川沿い、古い団地の階段、雨上がりの舗道。
どれも特別な場所ではないのに、足を止めると、そこに置かれていた時間だけがこちらへ寄ってくる。
佐伯は説明しすぎなかった。
「これは、去年の冬」
「ここ、駅の裏側なんだ」
短い言葉を、写真の横にそっと置いていく。
由季は頷いたり、目を細めたりした。
一枚の前で、佐伯が足を止めた。
それは、夜明け前の駅の写真だった。
正確には、駅そのものではなく、ホームの端から見える線路と、遠くの踏切の灯りが写っていた。
空はまだ明けきっていない。
電車の来ないホームには、人影がない。
けれど、誰かが少し前までそこにいたような湿度だけが残っている。

「ここ、覚えてる?」
佐伯の声は低かった。
由季はすぐには答えなかった。
同じホームの端に立っていた朝が、音もなく戻ってきた。
まだ暗い駅。
始発を待つ誰かの靴音。
カメラのストラップが手首に触れる感触。
佐伯が貸してくれたフィルムカメラは、思っていたより重かった。
冷たい金属の角を持て余していると、彼が手を伸ばして、構え方を直してくれた。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
そのあとの現像室の赤い灯りも、一緒に浮かんだ。
狭い部屋で、息を潜めるようにして印画紙が浮かび上がるのを待った。
佐伯は隣で、由季の写真を長く見ていた。
「この写真、少し寂しいね」
「……少し」
由季は写真を見たまま言った。
佐伯は、それ以上聞かなかった。
写真の中の線路は、遠くで薄く光っていた。
「変わってないですね」
由季が言うと、佐伯は写真の方を見たまま首を傾けた。
「場所?」
「空気が」
言ってから、由季は口を閉じた。
佐伯は、分かるよ、とも、分からないとも言わなかった。
「朝になる前って、どこでも少し似てるから」
由季は頷いた。
*
展示室の奥で、時計の針が小さく動いた。
由季は写真から目を離し、受付の方へ視線をやった。
佐伯は写真集のことにも、卒業前の展示のことにも触れなかった。
由季も、言わなかった。
受付の机の端に、空になった紙袋が残っていた。
写真の前から離れるとき、由季の足が遅れた。
佐伯は気づいていたと思う。
それでも振り返らなかった。
ただ、次の写真の前で待つように立っていた。
その距離が、昔と同じだった。
写真の前で、佐伯が足を止めた。
「これは」
彼は少し考えるようにしてから言った。
「商店街の裏です。雨の日に」
写真には、狭い路地が写っていた。
軒先から雨が落ち、地面に小さな波紋ができている。
奥に古い傘立てがあり、誰かが忘れていったような透明傘が一本だけ差してあった。
由季は、その傘を見た。
雨の日に一緒に歩いたことがある。
一本だけ傘があった。
ただ、二人は同じ傘には入らなかった。
並んで歩くには近すぎて、離れて歩くには雨が細かすぎた。
そのときの靴音だけが、今も残っている。
「雨、多いですね」
由季は言った。
「そうですね」
佐伯は写真を見たまま答えた。
「晴れている日より、見えすぎないので」
見えすぎない。
何が、とは聞けなかった。
佐伯も続けなかった。
*
展示室の奥から、受付のほうへ戻る足音がした。
スタッフらしき若い女性が、閉館の準備を始めていた。
パンフレットを揃える紙の音が、静かな部屋に小さく立つ。
見たい写真は、まだ残っていた。
奥の壁にも数枚。
入口近くの棚には、小さなアルバムも置かれている。
けれど、パンフレットを揃える音がするたび、鞄の重さが戻ってきた。
「そろそろ」
由季は言った。
佐伯は受付の時計を見た。
「もうこんな時間ですね」
「すみません、閉店前に」
「いえ」
彼は首を横に振った。
「来てくれて、ありがとうございます」
受付の机の上で、写真集の表紙が薄い光を受けていた。
由季が持ってきた紙袋は、畳まれないまま空になっている。
外へ出ると、小雨が降っていた。
いつの間に降り始めたのか分からなかった。
商店街のアーケードの切れ目から、細い雨が斜めに落ちている。
舗道はまだ濡れきっていない。
由季は鞄の中を探した。
折りたたみ傘は入っていない。
家を出るとき、靴箱の上に置いてきた。
分かっているのに、手は鞄の底をしばらく探った。
ハンカチ、財布、会社の鍵、スマホ。
佐伯が傘を持ち上げた。
黒い傘だった。
柄の部分が少し古びていて、使い慣れたものだと分かる。
「駅までなら」
その先は言わなかった。
由季は傘を見た。
開けば、二人で入れる大きさだった。
肩が触れるほどではない。
けれど、歩幅を合わせなければ入れない距離だった。
「大丈夫です」
由季は言った。
佐伯は一瞬だけ手を止めた。
それから、傘の柄を持ち直した。
「気をつけて」
「はい」
それだけだった。
名前は呼ばれなかった。
由季はアーケードの端まで歩き、そこから小雨の中へ出た。
細い雨が髪と肩に触れる。
濡れるほどではない。
けれど、駅まで歩けば、服の表面に雨の匂いが残るだろうと思った。
振り返らなかった。
商店街の明かりが、濡れた舗道に細く伸びていた。
*
家に着くころには、雨はほとんどやんでいた。
玄関を開けると、リビングからテレビの音が漏れていた。
真司はソファに座って、マグカップを持っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「降られた?」
「少しだけ」
「傘、持っていけばよかったのに」
真司はそう言って、責めるでもなく笑った。
由季は靴を脱ぎ、濡れた髪の端を手で払った。
「すぐやんだから」
「お茶、淹れる?」
「うん」
リビングに入ると、食卓の上に畳みかけのタオルが置かれていた。
朝、真司が持っていたものと同じだった。
由季は椅子に腰を下ろし、空になった左手を膝の上に置いた。
真司が台所で湯を注ぐ音がした。
紙袋は、もうなかった。
「仕事のこと、大丈夫だった?」
マグカップを置きながら、真司が聞いた。
「うん。大丈夫」
それは嘘ではなかった。
真司は「そっか」とだけ言って、画面の方へ視線を戻した。
深く踏み込もうとしているわけではなかった。
ただ、由季が言わないことを、そのまま置いておく人の顔だった。
由季はカップを持ち上げた。
お茶の匂いの向こうに、雨の匂いがまだ残っていた。
「お茶、薄かった?」
真司の声で、由季は顔を上げた。
「ううん。ちょうどいい」
「ならよかった」
真司はリモコンを取って、番組を変えた。
画面の中で、梅雨入りの話題が流れている。
明日も午後から雨が降るらしい。
由季はマグカップを両手で包み、窓の方を見た。
ベランダのガラスには、部屋の灯りがぼんやり映っている。
その向こうで、紫陽花の葉が夜の色に沈んでいた。
