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閉店前のアルバム (3/5) 夜の台所

    前回の話はこちら

    玄関を開けると、台所の方から味噌汁の匂いがした。

    由季は鍵を皿の上に置き、靴を揃えた。
    廊下の奥で、真司が振り返る気配があった。
    換気扇の低い音と、鍋の蓋が小さく鳴る音が重なっていた。

    「おかえり。遅かったね」

    「うん。商店街の方に寄ってた」

    コートをハンガーに掛けた。
    袖口が、外の湿気を含んで重い。

    「雨、大丈夫だった?」

    「まだ降ってなかった」

    「そっか。もうすぐ降りそうな匂いするよね」

    真司はそう言って、味噌汁をひと混ぜした。
    豆腐が鍋の中でゆっくり沈む。

    由季は鞄を椅子の背に掛け、手を洗いに行った。

    蛇口をひねると、水が白く跳ねた。

    白い壁。薄い光。額縁のガラス。

    高瀬さん、と呼ばれた声が、水音に混じった。

    由季は石鹸の泡を流しながら、排水口へ落ちる水を見た。

    「今日は焼き魚でいい?」

    真司の声がした。

    「うん。ありがとう」

    真司はいつもの青い縁取りの皿を二枚出していた。
    箸置きと小鉢が、食卓の上に並んでいる。
    昨日とほとんど変わらない位置だった。

    由季は冷蔵庫から作り置きの和え物を出し、小鉢に移した。
    白ごまがひと粒、指の腹にくっついた。
    流しで洗おうとして、水に触れた瞬間、ギャラリーの照明が短く浮かんだ。

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    現像室の赤い灯りに似ていた。

    「商店街、何かあった?」

    真司が箸を並べながら訊いた。

    由季は小鉢を置く手を止めた。

    「仕事で、チラシの確認があって」

    「展示の?」

    「うん。ギャラリーの」

    そこまで言って、続きは出てこなかった。
    名前も、写真も、閉店前の空気も、言葉にすると別の形になりそうだった。

    真司は「へえ」とだけ言って、椅子に座った。

    「この前、校正してたやつ?」

    「そう」

    「ちゃんと印刷できてた?」

    「うん。たぶん」

    曖昧な返事だったのに、真司はそれ以上訊かなかった。
    テレビの音量を少し下げ、いただきます、と小さく言った。

    食卓の上で、焼き魚の皮が箸の先で崩れた。

    湯気が上がる。

    由季は味噌汁の椀を持ち上げた。
    味はいつもと同じだった。
    喉を通るまでに、少し時間がかかった。

    *

    食後、真司が風呂の準備をしている間、由季は一人で食器を洗った。

    皿に残った油が、洗剤の泡で薄くほどけていく。
    スポンジを動かすたび、陶器の縁がかすかに鳴った。

    水が皿の表面を滑り、白い流しの中へ落ちる。
    その音が続いている間だけ、手は迷わずに動いた。

    けれど、水音の隙間に、佐伯の手元が入ってきた。

    写真の角を持つ指先。
    額縁に少し触れたあと、すぐ離れる動き。
    手袋を畳み直す、無駄のない静かさ。

    昔も、彼は写真に触れるときだけ、指先の動きまで静かだった。

    由季は泡のついた皿を持ったまま、流しの前に立っていた。
    水だけが流れ続けている。

    「由季?」

    背後から真司の声がして、肩がわずかに動いた。

    「水、出しっぱなし」

    「あ、ごめん」

    蛇口を閉めると、台所が急に静かになった。
    冷蔵庫の低い音だけが残る。

    真司はそれ以上何も言わず、タオルで手を拭いて風呂場へ向かった。

    食器を拭き終えても、布巾を手放せなかった。

    白い皿を棚に戻す。
    小鉢を重ねる。
    箸を引き出しへ入れる。

    引き出しを閉めたあとも、布巾の湿り気が指に残っていた。

    *

    夜が深くなると、雨が降り始めた。

    寝室の窓に、細い雨粒が当たる音がした。

    真司は先に眠っていた。
    横向きになった背中が、暗がりの中で静かに上下している。

    由季はしばらく天井を見ていた。

    真司が寝返りを打った。
    かすかな音が暗い中に立ち、それが消えると、由季はそっと起き上がった。

    廊下の床は冷たかった。
    リビングの明かりはつけず、押し入れの前だけ、スマホの小さな光で照らした。

    襖を開けると、古い布団袋と季節外れの家電の箱が、薄い埃をかぶって並んでいた。

    朝、真司が出したカメラバッグは、奥の方に戻されていた。
    由季はそれを引き寄せた。

    革の匂いがした。
    乾いて、古い紙にも似ている。

    金具に指が触れると、ひやりとした。

    長い間開けていなかったファスナーは、途中で一度引っかかった。

    バッグの中には、レンズクロスと黄ばんだ保証書と、空のフィルムケースが入っていた。
    振ると、軽い音もしない。

    その奥に、黒い背表紙が見えた。

    由季は指を止めた。

    厚みのある写真集だった。
    表紙の角が擦れている。
    手に取る前から、その重さを知っていた。

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    佐伯が貸してくれたものだった。

    大学の終わりに近い頃、部室の窓際で渡された。
    読んでみて、と彼は言った。
    由季の写真に似ている人がいるから、とも言った気がする。

    由季は写真集をバッグから出した。

    重かった。
    紙の重さが、手首にゆっくり乗る。
    表紙を撫でると、埃が薄く指についた。

    返していなかった。

    その事実だけが、今さらのようにそこにあった。

    開きかけて、やめた。

    ページの間から、何かが滑り落ちた。

    床に落ちる前に、由季は反射的に受け止めた。

    小さな展示案内の紙だった。

    色は褪せている。
    折り目が二本、斜めに入っていた。

    会場名と日付。
    佐伯透、という名前。
    今よりずっと細い字で印刷されている。

    卒業前の春だった。

    机の上には、就職関係の書類が広がっていた。
    親からの着信履歴が携帯の画面に残っていて、卒業制作の写真は封筒に入れたまま、壁際に立てかけてあった。

    佐伯から届いたメールを、何度も開いた。

    展示があります。よかったら。

    それ以上、長い文ではなかった。

    由季は返信欄に、行きます、と打った。
    すぐに消した。
    見に行きたいです、と打って、それも消した。

    画面の光だけが、机の上の紙を青くしていた。

    携帯を伏せると、部屋は暗くなった。
    翌朝になっても、返信は送られていなかった。

    雨はまだ降っている。

    *

    寝室の方から、真司が寝返りを打つ小さな音がした。

    由季は展示案内の紙を、写真集の上にそっと置いた。

    折り目を指でなぞる。
    何度も開いて、何度も畳んだ跡ではなかった。

    ただ、一度しまわれたものが、その形のまま残っていた。

    写真集を開けば、どのページを見ていたのか思い出すかもしれない。
    佐伯が言った写真も、もしかしたら分かるかもしれない。

    この写真、少し寂しいね。

    声だけが、短く戻った。

    由季は写真集の表紙に手を置いた。

    開けなかった。

    押し入れの中から、朝見たカメラバッグの革の匂いがまだしていた。
    フィルムカメラを借りた日の重さが、手のひらの奥に戻る。

    シャッターを切る前の、息を止める一瞬。

    由季はゆっくり立ち上がった。

    棚の下から、使っていない紙袋を一枚出した。
    薄い茶色の、店名の入っていない袋だった。
    写真集はその中にちょうど収まった。
    展示案内の紙は、写真集の最初のページに挟んだ。

    紙袋の口を折る。
    折り目がつく音が、雨音の中ではっきり聞こえた。

    由季はリビングの椅子に腰を下ろし、紙袋を膝の上に置いた。

    窓の外で、雨がベランダの手すりを濡らしている。
    紫陽花の葉も、きっと重たく垂れている。

    部屋の中は暗い。
    真司は眠っている。
    食器は棚に戻っている。

    紙袋の持ち手を、指で挟んだ。

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    日常の中にひっそりとある感情を、物語として形にしています。 再会、懐かしさ、静かな未練、選ばなかった未来、あの頃の自分。 「選ばなかった未来」に、一瞬だけ触れてしまうような話。 少し切なく、けれどどこか温かい余韻が残る・・・。 そう感じてもらえるような作品を目指しています。

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