
花のをすくに[肆。つひの満天星]#28
二十八 咲ふどうだん
「これ君の御国治め有ち坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食が如く、御身に受け入れ有つ意あればなり」
(本居宣長『古事記伝』七)
をすくに、とは何か。辞書を引けば「食す国」、天皇が統治する国と説明され、古事記にて月読尊が治める「夜之食国」が起源と考えられる。
食う、飲むの敬語形とも説明されるが、ヲスは「我が物にする」という意味合いの用例が多い。自分の物として飲み、食い、着て、統べるのだ。
しかし現実問題、「国を我が物にする」ということは出来かねる。施政者がどうあれ災害は起こるし、民の行いは思い通りに操れない。
中国で生まれた天人相関説は日本にも伝わった。君主が善政を敷けば天が祝福し、悪政を働けば災害を持って咎めるという思想だ。
それは呪術の仕組みとして扱うことは出来るが、一国に対して通用するほど巨大だったことは未だかつて無い。
国を我が物にするとは、概念の上でしかないのだ。
例外は、神々だけである。
◆
『神幸!』
カラスの群れが高らかに謳った。
『神幸!』選挙ポスターの写真が。
『神幸!』ポリバケツの蓋が。
『御神幸である!』家々の窓が、扉が、花が、木の葉のざわめきが、信号機が、自販機が、駐車場の車が、口々に主神の帰還を讃えた。
樹木で出来た巨蛇の骨格が、人の頭をつけて満天星山から町を見下ろしていた。代わりに山から下りてきたのは、大名行列だ。
あえて似たものを挙げるならば、だが。列を成すのは朱塗りの鳥居や藁人形、はたまた歩く樹や草花だ。どうだん稲荷の旗を掲げ、傘や槍鉾、香炉を持ち、担がれる輿にはクチナシの姿があった。
アロハシャツを着て、ジーンズから白い素足をぶらぶらさせながら、黒地に八重梔子の花と金糸をあしらった羽織を肩にかけている。
膝には縄を解かれ、傷一つない体の慈愛が眠っていた。すやすやと健やかな寝息を立てる頭を、ぽん、とクチナシは軽く叩く。
血走った目を開き、慈愛は背筋を伸ばして立った。びいんっとバネで弾かれたように不自然な動きで、人形よりも無表情である。
【宣る】
慈愛の声は聞く者の頭頂から入って、体の芯を通り、腹の底まで震わせる厳かなものだった。音響を計算され尽くしたホールで、熟練の声楽家が発してもなかなかこうはならない。彼を動かすものが、そう調整している。
餐原に住み、行列を見るすべての人間に届くように。
【いすろこむものども、参集はり伏し額つき聞け】
クチナシの裂けた口を閉じる縫い目は、もはや無い。しかして貴い身分のものは、直接下々に声をかけぬものだ。
故に、側仕えの者が代わって言葉を下賜する。
【爾ら往時、罪咎犯しけむ。予、爾らに長く成し幸ひ賜ひしが、月に日に異に荒び、遂には逆ふりて欲心起こし、負気なくも予の樹根を伐り倒し、或は毀つ。以来予はいと憂し、鬱悒し恚り咎めるなり】
これは祭原の、引いては餐原の祖が犯した罪に対する宣告だ。
【今将許すこと、宥むことならず】
クチナシのアロハシャツに描かれた女性たちが踊っていた。椰子の木々を背景に、神に捧げる神聖な踊り・フラを舞う。
【あな無礼し祥無し人草かな! 故れ……是を以て懲めてつかわす。各も各もさくなだりに、落ち激つ血潮で道を潤し、哭びいさちれ!】
この詔をかいつまめば、「私はお前たちを長らく恵んでやったのに、増長して反逆し、私の樹を切り倒した。私は非常に不愉快で、怒っているので、お前たちを処刑する」……という所だ。
詔を合図に、人々の首がぽんと飛んだ。頭は花と散って血飛沫に染まり、どうと倒れた体は溶けて血の海となる。
行列が一丁目、二丁目と進むごとに血花が咲いた。眼に触れた端から飛ぶのだから、誰もどうすれば良いか理解する前に死んだ。
免れた者の多くは若者か、外部から引っ越してきた新しい住民だった。無作為に選ばれたのではなく、苗床を一切刈り取っているのだ。
ある者は伏して拝み、ある者は押し入れなど閉所にこもり、ある者は無我夢中で逃げ出す。
生死狂わす神と化していたどうだんは、分霊のクチナシが充分に力を蓄え、戻ってきたことで本来の在り方に立ち返った。
そもそも餐原の地は、祭原の祖先が切り開いた集落が始まりである。神と信仰を彼らは持ち込んでおり、当初は屋敷神として家中で祀っていた。血族が広がると共に彼らは「餐原一族」から祭原と帰に分かれ、神社を建立。
どうだんは産土神であり、土地神であり、当地冥府の支配者だ。死後の世界――花のをすくにが、一時的に地上に現れ、黄人草を呑みこんでいる。
本来ならば死病を流行らせる祟りでも起こすのが妥当であろうが、いかんせん不届き者が多いゆえの措置だ。
詔を伝え終わった慈愛は、金色の片口銚子でクチナシ/どうだんに酒を注いだ。杯を傾けながら、土地神は視線だけで上空を見やる。
主にならって慈愛が見上げると、一面を覆うほど巨大な金魚が泳いでいた。裳裾のように体を包むひれ、塗られたばかりに鮮やかな五色の彩り、清廉な顔つきと豊饒な胴体。あらゆる既存の品種に似ない、美しい金魚が。
クチナシ自らが口を開き、一言告げるのを慈愛は聞いた。訳すならば「約束は果たした」という所か。金魚に守られた男、河野号とその神との。
金魚神は身を翻し、虹のように尾ひれを引きながら去って行った。今ので満足したのだろう。優美な天上の光景に対し、地上は地獄絵図だ。
地獄の片隅で、赤いジャガーが田んぼに突っこみ、黒煙を上げて燃え盛っていた。運転していた|克生は、幸いにも肋骨のヒビだけで済んだ。救急車どころではない、傷を庇いながら歩いて歩いて、ようやく自宅にたどり着く。
「母さん……母さん!」
町の異常に気がつかない訳がない。
母の美智代はどこかに避難したのだろうか、頼むから待っていてくれと思いながら、克生は土足で我が家に上がりこんだ。
「で、だ。話の続きを始めようか、克生」
障子を開けた先に、森之進が座って待っていた。ちゃぶ台には湯気を立てる湯飲みが三つあり、それを淹れた美智代は折り目正しく正座している。
畳には抜き身の日本刀が突き刺さっていた。
おそらく帰家に寄って持ち出してきたのだろう。母に手を出されたくない一心で、克生は向かい合わせにどすんと座った。
黒く艶やかな肌を赤黒く染め、睨みつける視線を相手は意に介さない。
「君は口無しが慈愛くんと育ちゃんを殺したと言い、二人には死の直前の記憶がない。育ちゃんに記憶があっても都合が悪いのは、ぼくにも分かるさ。だがね、慈愛くんが殺されたと仮定するなら、景克先生に知られずよみがえらせるのは無理だ。君はまだ医大生で、秘術の詳細な手順なんて伝授されていなかったんだから」
そんな説明を始めてどうなると思ったが、自由に口をきける立場ではないのは重々承知していた。だが、母の前で暴露するのか、それを。
突き立つ刀を手に取れないかとも思うが、霊術で強化できる森之進が先手を取るだろう。
「あの頃の慈愛くんに対する君の態度を思えば、命を落とす理由はいくらでも思いつく。そして育ちゃんは、自分の命を盾に脅迫してでも、君の行いを正そうと刃物を持ったこともあったんだよ。君は知らないだろうがね」
克生が様子をうかがうと、母も知らなかったようで眼を見開いていた。
「だから、慈愛くんが君のせいで亡くなって、育ちゃんがそれを知ったなら。彼女が自ら命を絶つなんてこと、すぐ分かるんだよ。夫なんだからね」
そこで言葉を切って、森之進は温かい緑茶をすする。「喉渇いてないかい?」と勧められたが、とてもそんな気分ではなかった。
「もちろん、君の言い分は信じていたさ。生前の景克先生も言っていたが、彼が急死したこと、君がよみがえりを選ばなかったこと、そして慈愛くんと話して考えが変わった。筋が通っていたし、真実こうだ」
茶飲み話のように軽い調子で、森之進は殺意の臭いを発した。ツンと冷たく金属的な感じは、刀が帯びる剣気というものかもしれない。
「ああ、〝問いかけ〟も大きかったな。クチナシは人としても神としても中途半端だから、自ら命を殺める権利を持ちえないんだ。あの時点では、だけど……だから最初から、君の嘘は成立しなかった」
ことりと、空になった湯飲みを「ごちそうさま」と置いて、森之進は刀を抜きつつ立ち上がった。
美智代はひ、と短く声を上げて身をのけぞらせる。とっさに、克生は少しでも彼女を庇えそうな位置へ立った。
「おばさんは下がってください。お召し物が血で汚れますよ」
「母さん、頼むから森之進を刺激しないでくれ。早く逃げるんだ」
猟銃は途中で捨ててきた。克生の手にある武器はアーミーナイフ一つだ、剣道三倍断、剣を持った相手に素手で勝つには三倍の実力が要ると言う。
ナイフ一つが三倍の差をどこまで埋めてくれるものか。霊術という奥の手を持った森之進を相手には、大した違いはないだろう。
「そうそう、潔く首を差し出してくれれば、ぼくは満足だ。おばさんのためにも、あまり苦しまないようにするから」
自分がどうなって良いとまでは言わないが、母だけは守らなくては。息子が死の恐怖を抑えこむ背後で、美智代は速い調子で深呼吸をくり返していた。膝の上に乗せた拳を振るわせ、彼女は不意に大きく身を乗り出す。
「わたくし、とても音痴なの」
二人の怪訝な視線が美智代に差した。
「人間音痴なのよ。周りに合わせて、自分を主張することが本当に苦手。ピアノが弾けるだけのつまらない女。だけど息子ぐらい、守らなくちゃ」
すっくと美しい所作で立ち上がり、「待って」という声を無視し、美智代は克生の前に立ちはだかった。小柄なりに真っ直ぐ森之進を睨みつける。
「困ったな。父にはよく『お前には人の心がない』と怒られたものですが、貴女は育ちゃんを産んで、育ててくださったお母さまだ。さすがに殺したくはありません」
森之進は素直に刀を鞘に収めた。ほっと美智代の肩から力が抜け、どっと汗が化粧を滲ませる。そして彼は克生のアーミーナイフを指さした。
「という訳で自害してくれ、克生。君が生きていることは、もう一分一秒たりとも許せない」
「ぉをっ――」
自分でも意味が分からない雄叫びを上げ、克生は母親を押しのけて襲いかかる。ナイフの刃先を突き立てて、自分と美智代の命を守るしかない。
障子が多量の液体をぶつけられて揺れた。
大きく重いものが転がる振動が続く。
森之進は袈裟懸けに斬った克生からナイフを奪い、延髄に突き刺した。神速の居合いは、美智代も克生も何があったか分からなかっただろう。
霊術の後押しは、代償もタダではない。こめかみがズキズキと痛み始め、鼻血がだらりと垂れた。それを拳で拭って、森之進はぺこりとお辞儀した。
「それでは、失礼致しました。さようなら」
後には口をぽかんと開けたまま崩れ落ちた美智代と、克生の死体、そして延髄から引き抜かれたアーミーナイフが残される。
勝手知ったる廊下を黙々と歩き、ふと森之進は引き返した。一旦閉じた障子を開くと、美智代が喉にナイフを突き立て、息子の隣に横たわっている。
「ああ、やっぱり育ちゃんのお母さまだなあ」
森之進は、再び妻に会ったかのように、恍惚と微笑んだ。