
失敗してもいいから、私に触れてほしかった|第10話
抱かないんじゃなくて、
抱けないのかもしれない。
そう思ったら、
夫を責める気持ちは少しだけ弱くなった。
でも、私の寂しさが消えたわけではなかった。
夫にも事情がある。
夫にも弱さがある。
夫にも、言えない怖さがあるのかもしれない。
それは分かる。
でも、分かったからといって、
私が傷つかなかったことにはならない。
私はずっと、
夫と触れ合いたかった。
ただ、それだけだった。
⸻
若い頃の私は、
もっと単純に考えていた。
好きな人とするなら、
きっと気持ちいい。
気持ちよくて、楽しくて、
それでちゃんと満たされるものだと思っていた。
でも、歳を重ねて、
結婚して、子どもが生まれて、
毎日が生活になっていくと、
少しずつ思うようになった。
体の気持ちよさより、
心のつながりがほしい。
すごい夜じゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
ただ、
私に向き合ってほしかった。
夫の体温を感じながら、
ああ、まだ私たちは夫婦なんだと思いたかった。
⸻
うまくいかなかった夜は、何度もある。
途中で空気が変わる。
夫の表情が曇る。
私も、どうしたらいいか分からなくなる。
そういう時、
ふたりの間に急に硬い沈黙が落ちる。
さっきまで近かったはずなのに、
一瞬で遠くなる。
夫はたぶん、焦っていた。
私はたぶん、傷ついていた。
でも、お互いにそれをうまく言えなかった。
⸻
妊活中は、
うまくいかないと、すぐにシリンジへ切り替えることもあった。
それは、ある意味では合理的だった。
険悪な空気を長引かせなくていい。
最後までできるかどうかに振り回されなくていい。
目的だけを考えれば、その方が確実だった。
でも、合理的な方法は、
心まで救ってくれるわけではなかった。
シリンジに切り替えたあと、
私はどこかでほっとしていた。
もうこれ以上、
ふたりで気まずくならなくていい。
そう思う自分がいた。
でも同時に、
静かに寂しくもあった。
本当は、
妊活のためだけじゃなくて、
夫と触れ合いたかったから。
⸻
時には、
AVを見ながらどうにかしようとしたこともあった。
今思うと、
あの時間は少し不思議だった。
なんとかしようとしている。
確かに、ふたりとも努力している。
でもその努力の向き先が、
私には少し苦しかった。
夫が反応するかどうか。
うまくいくかどうか。
最後までできるかどうか。
そこばかりに意識が向いていく。
私は本当は、
“勃つかどうか”だけを見たかったわけじゃない。
もっと力を抜いて、
もっとふざけて、
もっと笑って、
エッチそのものを楽しみたかった。
うまくいかなくても、
それをふたりで笑い飛ばせるような関係でいたかった。
⸻
でも実際は、
うまくいかないたびに、
私たちはお互いを責めるようになった。
夫は夫で、
自分を責めていたのかもしれない。
私は私で、
自分が求めたから悪かったのかもしれないと思った。
重かったかな。
期待しすぎたかな。
傷ついた顔をしたから、余計にプレッシャーをかけたかな。
そんなふうに考えて、
自分の気持ちを小さく畳もうとした。
でも、畳んでも畳んでも、
欲しかった気持ちは消えなかった。
⸻
本当は、
その時に抱きしめてほしかった。
うまくいかなくても、
途中で止まっても、
何もできなくても。
そのまま、
ぎゅっとしてほしかった。
「ごめん」じゃなくてもいい。
「今日はだめだったね」でもいい。
「難しいね」でもいい。
「でも嫌いなわけじゃないよ」でもいい。
そんな言葉があったら、
私はきっと、かなり救われていた。
⸻
どんなエッチがしたいのか、
夫の口から聞いてみたかった。
本当は何が嫌なのか。
何が怖いのか。
どういう時なら安心できるのか。
どういう触れ方なら重くないのか。
そういう話を、
恥ずかしくても、
気まずくても、
ふたりでしたかった。
私は、夫に完璧を求めていたわけじゃない。
うまくできる夫がほしかったんじゃない。
うまくできないことを、
一緒に抱えられる夫がほしかった。
⸻
毎回、最後までしなくてもいい。
ハグだけの日があってもいい。
キスだけで眠る日があってもいい。
お話ししながら、
のんびりイチャイチャするだけでもいい。
途中で笑ってもいい。
恥ずかしくなってもいい。
なんなら、変な空気になってもいい。
そのあと、
ふたりで同じ布団の中にいられるなら。
そのあと、
「まあ、こんな日もあるよね」って笑えるなら。
私は、それでよかった。
⸻
失敗より、
逃げられる方が傷つく。
これはたぶん、
ずっと言いたかったことだった。
うまくいかないことが嫌だったんじゃない。
うまくいかなかったあと、
夫が遠くなることが嫌だった。
黙られること。
不機嫌になられること。
部屋にこもられること。
仕事や疲れを理由に、
話そのものが終わってしまうこと。
それが、私をいちばん傷つけた。
私は、失敗を責めたいんじゃなかった。
ただ、
その夜にひとりにしないでほしかった。
⸻
私はあなたとしたい。
その言葉は、
とても単純で、
とても重い。
誰でもいいわけじゃない。
ただ気持ちよくなりたいわけでもない。
夫だから、したかった。
夫とだから、
失敗しても笑いたかった。
夫とだから、
うまくいかない夜も、
それごと大事にしたかった。
⸻
できないなら、
一緒に考えたかった。
薬を使うことも。
シリンジを使うことも。
ホテルに行くことも。
何もしないで抱き合うだけの日を作ることも。
どれも恥ずかしい話かもしれない。
でも、
恥ずかしいからこそ、
ひとりで抱えるんじゃなくて、
ふたりで持ちたかった。
夫婦なんだから。
そう言うと重いのかもしれないけれど、
私はやっぱり、夫婦だからこそ、
そういう話から逃げないでほしかった。
⸻
私が欲しかったのは、
成功じゃなくて安心だった。
うまくできたかどうかじゃない。
最後までできたかどうかでもない。
私の気持ちを、
面倒なものとして扱わないでほしかった。
私の欲しさを、
困ったものみたいに見ないでほしかった。
私はただ、
夫に触れようとしてほしかった。
たとえうまくいかなくても、
その気持ちだけで、
救われる夜があると思うから。
⸻
失敗してもいいから、
触れてほしかった。
完璧じゃなくていいから、
逃げないでほしかった。
勃たなくても、
抱きしめてくれたらよかった。
うまくできない夜も、
ふたりで笑いたかった。
それは、
そんなに贅沢な願いだったんだろうか。
⸻
夫は優しい。
でも、
優しさだけでは届かない場所がある。
私はそこに、
ずっとひとりで立っていた。
夫に来てほしかった。
手ぶらでいい。
正解なんて持っていなくていい。
かっこよくなくていい。
ただ、
隣に来てほしかった。
そして、
「どうしたらいいかな」って、
一緒に困ってほしかった。
⸻
きっと私たちに必要だったのは、
うまくできる方法だけではなかった。
うまくできなかった時に、
ふたりで笑える余白だった。
気まずさを、
気まずいまま終わらせないことだった。
失敗を、
拒絶にしないことだった。
私はまだ、
夫とそうなりたかった。
諦めたくないと思う自分が、
まだどこかに残っていた。
それが希望なのか、
執着なのかは、
この時の私には分からなかった。
でも少なくとも、
まだ終わりにしたくはなかった。
(つづく)
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