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ふざけた夜だけ、やっと本音が言えた|第11話

    失敗してもいいから、
    触れてほしかった。

    そう思ったあとで、
    私はふと思い出した夜がある。

    私たちにも、
    一度だけ、
    ちゃんとうまくいった夜があった。

    正確に言うと、
    完璧にできた夜ではない。

    うまくできるかどうかよりも、
    うまくいかないことすら、
    ふたりで笑えた夜だった。

    あの夜だけは、
    夫婦というより、
    少しだけ恋人に戻れた気がした。

    ⸻

    それは、旅行先でのことだった。

    子どもを親に預けて、
    久しぶりに夫とふたりで出かけた夜。

    私たちは居酒屋に入った。

    いつもなら、
    子どもの食べられるものを考えて、
    こぼさないか気にして、
    眠くならないか時計を見て、
    子供が泣けば抱っこする。

    でもその日は違った。

    目の前にいるのは、
    父親としての夫ではなくて、
    ただの夫だった。

    そして私は、
    母親ではなく、
    少しだけ妻に戻っていた。

    ビールだったのか、ハイボールだったのか。
    細かいことはもう曖昧だけれど、
    たしかに私たちは酔っていた。

    少し声が大きくなって、
    少し気が大きくなって、
    普段なら言えないことも、
    その夜だけは笑いながら言えた。

    ⸻

    たぶん、最初に調子に乗ったのは私だった。

    お酒の力を借りて、
    私は夫に言った。

    「ねえ、うちらセックス下手だよね」

    口にした瞬間、
    自分でもちょっと笑ってしまった。

    本当なら、かなり危ない言葉だと思う。

    言い方を間違えたら、
    夫を傷つける。

    自分も傷つく。

    一気に空気が悪くなる。

    でもその夜は、
    なぜか責め言葉にならなかった。

    夫も少し笑った。

    その顔を見て、
    私はさらに調子に乗った。

    「もっと気持ちよくしてよ」

    「私が好きなの、全然やってくれなくない?」

    「どんなエッチが好きなの?」

    「男っぽいところ見せてよ」

    今思えば、
    かなり言っている。

    普段の私なら絶対に言えない。

    言えたとしても、
    言ったあとで自分が恥ずかしくなって、
    変な空気になる。

    でもその夜は違った。

    笑っていた。

    ふざけていた。

    でも、ふざけているだけじゃなかった。

    その奥には、
    ずっと聞きたかったことが混ざっていた。

    ⸻

    本当は、
    ずっと知りたかった。

    夫はどうしたいのか。

    何が嫌なのか。

    何が楽しいのか。

    何なら気持ちが動くのか。

    私はいつも、
    自分ばかりが求めている気がしていた。

    私ばかりが勇気を出して、
    私ばかりが傷ついて、
    私ばかりが「どうしたらいいんだろう」と考えている気がしていた。

    でもその夜は、
    その重たさを少しだけ笑いに変えられた。

    「下手だよね」

    その一言が、
    なぜか私たちを少し近づけた。

    ⸻

    そしてその夜の夫は、
    いつもの夫と少し違った。

    いつもなら、
    性の話になると逃げ腰になる。

    黙る。
    ごまかす。
    疲れてると言う。
    仕事があると言う。
    空気が重くなる。

    でもその夜の夫は、
    逃げなかった。

    むしろ、
    私の言葉に少し火がついたみたいだった。

    負けん気、というのかもしれない。

    「言ったな?」

    そんな顔をして、
    いつもより少し強気になった。

    その顔を見たとき、
    私は驚いた。

    そして、少しうれしかった。

    ああ、こういう顔もするんだ。

    夫にも、
    ちゃんと男っぽいスイッチみたいなものがあるんだ。

    そんなことを思った。

    ⸻

    そのあとのことを、
    細かく書くつもりはない。

    でも、
    その夜はたしかに熱があった。

    いつものように、
    途中で空気がしぼむ感じがなかった。

    気まずさに負ける前に、
    笑いがあった。

    不安に飲まれる前に、
    勢いがあった。

    夫はちゃんとそこにいた。

    私の前から逃げなかった。

    いつもなら難しく感じることも、
    その夜は不思議とできた。

    普段なら、
    「できるかな」
    「無理かな」
    「まただめかな」
    と考えてしまうところを、
    その夜だけは考えすぎなかった。

    お酒のせいかもしれない。

    旅行先だったからかもしれない。

    子どもがいなくて、
    母親のスイッチを少し下ろせていたからかもしれない。

    でも理由が何であれ、
    その夜の私たちは、
    確かに近かった。

    ⸻

    私は、その夜がうれしかった。

    激しかったから、というだけではない。

    うまくできたから、というだけでもない。

    夫が、
    私に向き合ってくれた気がしたから。

    ふざけながらでも。
    勢い任せでも。
    少し酔っていても。

    それでも、
    そこにはちゃんと夫がいた。

    私を困ったものみたいに見なかった。

    私の欲しさから逃げなかった。

    私の言葉に、
    ちゃんと反応してくれた。

    それが、
    たまらなくうれしかった。

    ⸻

    終わったあと、
    私たちはたぶん笑っていた。

    「つかれた!」

    「激しかったね」

    そんな感じだったと思う。

    色っぽい余韻というより、
    部活のあとみたいな疲労感だった。

    お互いに、
    変な達成感があった。

    でも私は、
    その空気が好きだった。

    完璧なムードではなかった。

    映画みたいな甘い夜でもなかった。

    でも、
    気まずくなかった。

    責め合わなかった。

    夫が遠くならなかった。

    私はひとりで傷ついたまま、
    布団の中に取り残されなかった。

    それだけで、
    十分すぎるくらい救われていた。

    ⸻

    ああ、これでいいんだと思った。

    私が欲しかったのは、
    きっとこういうことだった。

    完璧なセックスじゃない。

    毎回うまくいくことでもない。

    すごく色っぽい夫でも、
    何でも分かってくれる夫でもない。

    下手だねって笑いながら、
    それでも近づけること。

    うまくいったねって笑いながら、
    同じ疲れ方ができること。

    気まずさを、
    ふたりで笑いに変えられること。

    それが、
    私がずっと欲しかった安心だった。

    ⸻

    でも。

    その夜は、
    その一回だけだった。

    そこが、いちばん寂しい。

    あんなふうに笑えたのに。
    あんなふうに近づけたのに。
    うまくいかないことさえ、
    ふたりの味方にできた気がしたのに。

    どうして私たちは、
    あの感じを続けられなかったんだろう。

    理由は、たぶんいくつもある。

    あの夜は旅行先だった。
    子どもを親に預けて、
    久しぶりに夫とふたりで飲んで、
    私は少しだけ母親のスイッチを下ろしていた。

    お酒の力もあったと思う。

    普段なら飲み込む言葉を、
    その夜だけは笑いながら言えた。

    夫も、いつものように逃げなかった。
    私の言葉に少し火がついたみたいに、
    ちゃんとこっちを向いてくれた。

    でも家に帰れば、また生活が始まる。

    おもちゃが転がったリビング。
    畳みきれない洗濯物。
    明日の保育園の準備。
    子どもの寝息に気を遣う寝室。

    さっきまで子どもの歯磨きをしていた人間が、
    急に男と女になる。

    それができる夫婦もいるのだと思う。

    でも私たちは、
    どうもその切り替えが下手だった。

    親から恋人へ。
    生活から夜へ。
    家族から夫婦へ。

    その境目で、
    いつも少しつまずいていた。

    だからあの夜は、
    奇跡みたいだった。

    奇跡みたいだったけれど、
    奇跡は日常にはならなかった。

    それでも、
    あの夜があったから、
    私は完全には諦められなかった。

    できるじゃん。

    私たち、
    できる時あるじゃん。

    そう思ってしまった。

    それは希望でもあり、
    新しい寂しさでもあった。

    あの夜みたいに笑えたら。
    下手でも、気まずくても、
    ふたりで笑いながら近づけたら。

    私はたぶん、
    完璧な夜より、
    そういう夜がほしかった。

    あの一回があったから、
    私はまだ、
    夫との未来を完全には諦められなかった。

    (つづく)
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    夫は優しい。 でも、私はずっと寂しかった。 夫婦仲は悪くない。 でも、触れられない夜がある。 2児の母になっても、女でいたい。 求められたい。 でも、そんな本音をうまく言えない。 誰にも言えない夫婦の寂しさを、夜のすきまに書いています。

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