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夫婦なのに、触れられない夜がある|第8話

    約束が守られないことに、
    私は少しずつ慣れてしまっていた。

    「明日やる」

    「今度やる」

    「そのうち」

    「落ち着いたら」

    夫の口から出る未来は、
    いつも少しだけやさしくて、
    でも、なかなか現実にはならなかった。

    最初のうちは、信じていた。

    本当に忙しいんだと思っていた。
    今は余裕がないだけなんだと思っていた。
    もう少し待てば、きっと変わるんだと思っていた。

    でも、待っても待っても、
    その“いつか”は来なかった。

    ⸻

    家のことも、子どものことも、
    小さな約束が少しずつ積み重なっていく。

    ゴミを捨てる。
    子どもと遊ぶ。
    あとでやると言ったことをやる。

    どれも、ひとつひとつは小さい。

    でも、守られない約束が増えるたびに、
    私は夫を信じる力を少しずつ失っていった。

    約束を破られるたびに、
    怒りより先に、ショックが来る。

    ああ、またか。

    そう思ってしまう自分が、
    いちばん悲しかった。

    ⸻

    そしてそれは、
    夫婦のことでも同じだった。

    「いつか」

    夫は、そう言った。

    いつかできる。
    今は無理だけど、いつか。
    落ち着いたら。
    仕事が忙しくなくなったら。
    余裕ができたら。

    私は、その言葉に何度もすがった。

    今じゃないだけ。
    私が嫌なわけじゃない。
    夫婦として終わったわけじゃない。

    そう思いたかった。

    でも、ある日、
    その“いつか”があまりにも遠く感じて、
    私はとうとう聞いてしまった。

    「いつかエッチするの、いつかっていつ?」

    言った瞬間、
    自分の声が少し震えているのが分かった。

    強く言いたかったわけじゃない。

    責めたかったわけでもない。

    ただ、もう分からなかった。

    待てばいいのか。
    諦めればいいのか。
    それとも、期待すること自体が間違っているのか。

    ⸻

    夫は、黙った。

    その沈黙で、
    私はもう半分答えを聞いたような気がした。

    しばらくして、夫は言った。

    仕事が忙しい。
    今はその気になれない。
    そんな余裕がない。

    言葉は、どれも聞いたことがあるものだった。

    でもその日の言い方は、
    いつもより少し冷たく感じた。

    私が何か、
    面倒なことを持ち出したみたいだった。

    触れたいと言っただけなのに。

    夫婦でいたいと言っただけなのに。

    私は、急に自分が場違いなことを言ってしまったような気持ちになった。

    ⸻

    「仕方ないで終わらせないで」

    私はそう言った。

    たぶん、かなり勇気を出した。

    「仕事が大事なのは分かってる。でも、私はいつも後回しなの?」

    本当はもっと、
    ぐちゃぐちゃした言葉が喉の奥にあった。

    私とエッチするのが嫌なの?

    何がそんなに嫌なの?

    楽しくやろうよ。

    上手くできなくてもいいじゃん。

    抱いてほしいって言うの、すごく勇気がいるんだよ。

    あなたに求められたいだけなんだよ。

    でも、全部は言えなかった。

    言ってしまったら、
    もう戻れない気がした。

    もし本当に、
    私とするのが嫌だと言われたら。

    もし本当に、
    私にはもう欲情できないと言われたら。

    それを聞いてしまうのが怖かった。

    ⸻

    私は、夫に聞きたかった。

    でも、答えを知るのが怖かった。

    だから代わりに、
    少しだけ違う言葉を選んだ。

    「好きだからしたい」

    それが、私の中でいちばん本当だった。

    ただ性欲を満たしたいだけじゃなかった。

    誰でもいいわけじゃなかった。

    夫だからしたかった。

    好きだから、触れたかった。

    好きだから、近づきたかった。

    好きだから、拒まれるのがこんなに痛かった。

    ⸻

    でも夫には、
    その言葉がうまく届かなかったのかもしれない。

    夫は不機嫌そうになった。

    言い訳のような、
    反論のような言葉をいくつか残して、
    自分の部屋にこもってしまった。

    扉が閉まる音がした。

    その音を聞いた瞬間、
    私の中で何かがすっと冷えた。

    また逃げられた。

    そう思った。

    もちろん、夫からすれば、
    逃げたつもりではなかったのかもしれない。

    自分を守るために、
    距離を取っただけだったのかもしれない。

    でも私は、
    そこにひとりで残された。

    言いたかったことも、
    聞きたかったことも、
    全部途中のまま。

    ⸻

    そのあと、LINEが来た。

    同じ家の中にいるのに、
    画面越しに夫の言葉を読む。

    そこには、
    今は仕事が忙しくて、
    心身ともに性に割く余裕がない、
    というようなことが書かれていた。

    性に割く。

    その言葉を見た瞬間、
    胸の奥がきゅっと縮んだ。

    私と触れ合うことは、
    夫にとって“割かなきゃいけないもの”なんだ。

    余裕があるときに、
    体力が残っているときに、
    時間が余ったときに、
    ようやく検討されるものなんだ。

    そう思えてしまった。

    ⸻

    分かっている。

    夫が本当に忙しいことも。
    疲れていることも。
    余裕がないことも。

    分かっている。

    でも、分かっているからといって、
    私の寂しさが消えるわけじゃない。

    夫の大変さを理解したら、
    私の痛みがなかったことになるわけじゃない。

    私は、仕事とセックスの優先順位を比べたかったわけじゃない。

    ただ、
    私の気持ちも同じテーブルに乗せてほしかった。

    忙しい。
    疲れてる。
    今は無理。

    その言葉で終わりじゃなくて、
    じゃあどうしたらいいかを、
    一緒に考えてほしかった。

    ⸻

    求める側だけが傷つくの、しんどい。

    その夜、私はそう思った。

    断る側は、
    「今は無理」で終われる。

    でも、誘った側は終われない。

    言わなきゃよかったかな。

    重かったかな。

    気持ち悪かったかな。

    また困らせたかな。

    夫に触れたいと思った自分を、
    まるで悪いものみたいに反省してしまう。

    そんなの、本当はおかしい。

    でも、拒まれるたびに、
    私は自分の欲しさを小さく畳むしかなかった。

    ⸻

    私はLINEで、
    悲しい、と伝えた。

    長い言葉にはできなかった。

    本当は、
    悲しいだけじゃなかった。

    寂しかった。
    悔しかった。
    虚しかった。
    恥ずかしかった。

    そして少し、怖かった。

    このまま一生、
    私たちはエッチできないのかな。

    このまま一生、
    私は夫に求められないままなのかな。

    そんなことを考えながら、
    私はスマホを伏せた。

    ⸻

    その夜、
    何かが解決したわけではなかった。

    夫が急に変わったわけでもない。

    私の寂しさが、
    きれいに伝わったわけでもない。

    むしろ、
    言ったことで余計に分かったことがあった。

    私は、セックスがしたいだけじゃなかった。

    私は、
    この話から逃げない夫がほしかった。

    気まずくても、
    恥ずかしくても、
    うまくできなくても、
    一緒に考えてくれる夫がほしかった。

    「今は無理」で終わらせるんじゃなくて、
    「じゃあどうしたらいいかな」と言ってくれる夫がほしかった。

    ⸻

    私は夫を責めたいわけじゃない。

    嫌いになりたいわけでもない。

    むしろ、好きでいたい。

    好きでいたいから、
    ちゃんと向き合ってほしい。

    好きでいたいから、
    私の気持ちをなかったことにしないでほしい。

    好きでいたいから、
    “いつか”のまま放っておかないでほしい。

    ⸻

    いつかって、いつ?

    その問いの答えは、
    その夜も出なかった。

    ただ、ひとつだけ分かった。

    待っているだけでは、
    私の心がもたない。

    求めるたびに傷ついて、
    傷つくたびに黙って、
    黙るたびに夫から少しずつ離れていく。

    そんなふうに、
    好きな人のことを嫌いになっていくのは嫌だった。

    だから私は、
    もう一度だけ言葉を探そうと思った。

    責めるためじゃなくて。

    諦めるためでもなくて。

    まだ夫婦でいたいから。

    まだ、好きでいたいから。

    (つづく)

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    夫は優しい。 でも、私はずっと寂しかった。 夫婦仲は悪くない。 でも、触れられない夜がある。 2児の母になっても、女でいたい。 求められたい。 でも、そんな本音をうまく言えない。 誰にも言えない夫婦の寂しさを、夜のすきまに書いています。

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