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『日本曞玀』の”瓊博士”

    『日本曞玀』の蚘茉で、飛鳥寺建立で「588幎に癟枈から瓊博士がやっおきた」ず解釈しお説明しおいるものは倚いです。
    本圓に倚いです。
    でも、これは明確に「誀読」です。

    ”瓊”の歎史ず”飛鳥瓊”

    しかし、出土する「物瓊」が語る蚌拠を䞊べるず、その「博士」たちの正䜓は、「日本の職工」で、ヘラの工皋が瓊造りにない枡来人であるずいうのはおかしいんですね。

    そもそも、「板状土補品」は日本がルヌツずなっおおり、そしおそれを屋根建材ずしお利甚しおいるのは、日本は南西諞島から来おいたす。
    䜜り方自䜓が、䞭囜匏ではありたせん。
    「飛鳥瓊」は、日本の䞭でどう倉化しお出来たのかが明確であり、癟枈から来たものではありたせん。

    ずいうか、調べるず、癟枈には倧䜓が「南朝掋匏瓊」で、日本が関䞎したずころは「飛鳥瓊」を䜿っおいる、ず。逆に癟枈は日本からの文化技術を受容しおいる偎です。

    癟枈の博士が日本に教えに来たのなら、なぜ「癟枈にない技法ヘラ削り」を日本で教えるこずができたのでしょうか 珟地の地局にない技術を、他囜で教えるこずは䞍可胜です。
    ぀たり、「日本で既にヘラ削りを極めおいた職人」が、瓊補䜜の珟堎を仕切っおいたずいうこずです。

    日本曞玀の蚘茉

    原文を読めば、

    元幎春䞉月立倧䌎糠手連女小手子爲劃是生蜂子皇子與錊代皇女
    是歲癟濟國遣䜿幷僧惠瞜什斀惠寔等獻䜛舍利
    癟濟國遣恩率銖信執率蓋文那率犏富味身等進調幷獻䜛舍利
    僧聆照埋垫什嚁惠衆惠宿道嚎什開等寺工倪良未倪文賈叀子鑪盀博士將執癜昧淳瓊博士麻奈文奎陜貎文㥄貎文昔麻垝圌畫工癜加

    日本曞玀

    ずある。
    「癟枈國の僧䟶が仏舎利を奉玍、癟枈囜の䜿者具䜓的名が奉玍した。」ここたでではいい。癟枈䜿節は「恩率」「埳率」ずいう癟枈独自の官䜍が明蚘されおいたす。
    しかし、その埌のは

    「癟濟國遣僧聆照埋垫什嚁惠衆惠宿道嚎什開等寺工倪良未倪文賈叀子鑪盀博士將執癜昧淳瓊博士麻奈文奎陜貎文㥄貎文昔麻垝圌畫工癜加」

    でも

    「癟濟國遣寺工倪良未倪文賈叀子鑪盀博士將執癜昧淳瓊博士麻奈文奎陜貎文㥄貎文昔麻垝圌畫工癜加」

    でもありたせん。「癟枈國から遣わされた」は、䞋二行の僧䟶ず職工には掛かっおいたせん。ここには、「日本の僧䟶ず日本の職工も同垭した」ずきちんず曞かれおいたす。

    「癟濟國遣」や「癟濟客」、職人なら「癟濟工」、僧䟶なら「癟濟僧」「癟濟法垫」、尌僧なら「癟濟尌」ず曞かれおいたせんからね他囜から来ればはっきり刀るようにそう曞かれたす。

    日本の僧䟶

    「癟枈人ではなく日本人だ」ず明確に刀る人たちもいたす。

    「聆照」が「埋垫」ずいう肩曞きでこの堎面588幎で突劂珟れるこず自䜓が、圌らが日本偎のシステムの䞭にいる蚌拠です。
    「埋垫」ずは、僧䟶を統制し、囜家のルヌル埋を運甚する日本独自の僧官制床僧綱の先駆けずなる称号です。もし圌が癟枈の僧䟶であれば、癟枈の僧䜍䜍階で呌ばれたり、「癟枈法垫」ず呌ばれるはずですが、ここでは日本偎の管理職名で蚘されおいたす。
    「聆照」ずいう名は、埌の日本の僧䟶の系譜においお『䞭囜南朝・梁などの「倧陞」で仏教の根幹である「埋」を盎接孊び、日本に持ち垰った開祖的な存圚」ずしお䜍眮づけられおいたす。圌がリストの筆頭にいるのは、癟枈が日本に奉玍しおきた「仏舎利」ずいう仏教においおセンシティブになるもの仏教における聖遺物。仏舎利ずは、仏教の開祖であるお釈迊様の遺骚であり、入滅埌に分骚されたものを扱うにあたり、「倧陞のルヌルを熟知し、か぀日本の囜益を代衚する最高責任者」ずしおそこに座っおいたからです。

    「恵宿」ずいう名は、日本の仏教史䞊、極めお重芁な「日本固有」の動きを芋せる名前です。
    埌に聖埳倪子の垫の䞀人ずされる「恵宿」は、日本の颚土に根ざし、各地を行脚した䌝説を持぀日本所属の僧䟶ずしお蚘録されおいたす。「癟枈から掟遣された」ずいうのは䞀切曞かれおいたせんね。

    たた、圓時の癟枈の僧䟶は「道」「慧」を冠する名前が倚いですが、このリストに䞊ぶ「什開」「什嚁」などの「什ルヌル・埋」を重芖する名付けは、圓時の倭囜の官僚組織埋什制の前段階に連なる日本偎のネヌミングセンスです。

    圌らが日本の僧であるこずは、埌の『元興寺䌜藍瞁起』にもしっかりず曞かれおいたす。


    「聆照」「恵宿」からは日本偎の同垭したメンバヌが曞いおあるので、

    『寺工』の「倪良未倪」「文賈叀子」
    『鑪盀博士』の「將執癜昧淳」
    『瓊博士』の「麻奈文奎」「陜貎文」「㥄貎文」「昔麻垝圌」
    『畫工』の「癜加」

    これも癟枈人ではなく、日本人です。
    『瓊博士』の「麻奈文奎」「陜貎文」「㥄貎文」「昔麻垝圌」を、これらの名前を「癟枈颚」ず解釈するのは埌䞖の思い蟌みに過ぎたせん。
    これらの名は、叀代日本においお特定の技術や職胜を䞖襲した集団が名乗った「技術職皮名専門職の称号」の響きに近いです。䟋えば「文ふみ」が぀く名は、蚘録や蚭蚈を叞る職胜に由来するこずが倚く、日本囜内で叀墳建築などを通じお組織化されおいた「技術官僚」のリストそのものです。

    仏舎利がKey

    さらに読んでいたすが、

    「是歲癟濟國遣䜿幷僧惠瞜什斀惠寔等獻䜛舍利」

    これは、もう少し違うようですね。
    これは「癟濟國遣䜿」癟枈の䜿者を、「幷僧惠瞜什斀惠寔等」぀たり日本の僧が連れおきお、「獻䜛舍利」仏舎利を奉玍した、ず曞いおありたす。
    この連れおきおいる䜿者が次段にある、

    「癟濟國遣恩率銖信執率蓋文那率犏富味身等進調幷獻䜛舍利」に曞かれおおり、「恩率・銖信」「執率・蓋文」「那率・犏富味身」達、ず曞いおありたす。
    これ、「なんで仏舎利が2床曞かれおいるのか」ずいうのが垞に疑問でしたが、これではっきりずしたしたね。

    ぀たり、こう段を分けないずいけないのです。

    是歲癟濟國遣䜿。
    幷僧惠瞜什斀惠寔等獻䜛舍利。
    癟濟國遣恩率銖信執率蓋文那率犏富味身等進調幷獻䜛舍利。

    癟枈の䜿者が掟遣された。
    日本の僧䟶ず共に仏舎利を献䞊した。
    癟枈の䜿者恩率銖信・執率蓋文・那率犏富味身は、皎ず共に仏舎利を献䞊した。

    ぀たり、䜿者ず日本の僧䟶が共に献䞊した仏舎利は、癟枈からの献䞊品だった、ずいう事が曞かれおいるのですね。

    ここで倧事なのが「幷䜵・䞊の叀字異䜓字」の感じです。
    これは、「ならぶ䞊ぶ」や「あわせる合わせる・共に」ずいう意味を持ちたす。぀たり、

    「是歲癟濟國遣䜿」「幷僧惠瞜什斀惠寔等獻䜛舍利」

    は、日本の僧䟶が「共に奉じた」。

    「進調幷獻䜛舍利」

    こちらは、癟枈の䜿者は進調皎の奉玍に合わせお仏舎利も献䞊した事が曞いおあるわけです。


    今回の読みを採るず、次段でなぜ突然、

    「癟濟國遣恩率銖信・執率蓋文・那率犏富味身等」

    ず、癟枈の䜿者だけが具䜓的に曞かれるのかが説明できたす。文章の構造をそのたた䞊べるず、

    1. 是歲癟濟國遣䜿。
      この幎、癟枈囜は䜿者を遣わした。

    2. 幷僧惠瞜什斀惠寔等獻䜛舍利。
      僧惠瞜・什斀・惠寔等も共に仏舎利を献じた。

    3. 癟濟國遣恩率銖信執率蓋文那率犏富味身等進調幷獻䜛舍利。
      癟枈囜が遣わした恩率銖信・執率蓋文・那率犏富味身等は、調を進め、䜵せお仏舎利を献じた。

    ずなりたす。

    正しい解釈

    原文が瀺しおいるのは、「癟枈の䜿節が仏舎利を持っおきお、日本の僧䟶ず共に献䞊した、それを受け取るために、日本が誇る最匷の゚ンゞニア集団ず高僧たち聆照らをズラリず䞊べお応察させた」ずいう光景です。
    『元興寺䌜藍瞁起』の方も芋るず、癟枈に送る僧ず職工の顔合わせでもあったのでしょうかね。

    挢文の統率関係どこたでが動詞の修食範囲かを厳密に読めばあきらかなんですね。

    「是歲癟濟國遣䜿。幷僧惠瞜・什斀・惠寔等獻䜛舍利」
    この幎、癟枈囜は䜿者を遣わした。これに際し、日本偎の僧である恵総・什斀・恵実らも共に合流しお仏舎利を献じた。

    ここで「幷ならびにあわせお」ずいう接続詞が䜿われおいるのは、癟枈の倖亀䜿節の到来ずいう倧事件に合わせお、日本偎で仏舎利の受け入れや管理を担圓する宗教的暩嚁たち恵総・什斀・恵実が「共に」その堎に臚んだこずを瀺しおいたす。
    もし圌らが癟枈から掟遣された僧であれば、ご指摘通り「癟濟法垫」等の囜籍明蚘があるべきであり、それがないこずは圌らが日本に所属する人間であるこずの動かぬ蚌拠です。

    さらに、続く文章の構造も完党に氷解したす。

    「癟濟國遣恩率銖信・執率蓋文・那率犏富味身等進調、幷獻䜛舍利。」
    癟枈囜が具䜓的に遣わした恩率銖信・埳率蓋文・那率犏富味身らは、調み぀きを奉玍し、䜵せお仏舎利を献じた。

    なぜ「仏舎利の奉玍」が2床曞かれおいるのかずいうの疑問に察し、「前段は日本偎高僧ずの共同奉玍の儀瀌、埌段は癟枈䜿節による倖亀的な進調に付随する奉玍」ずいう段萜分け文脈の分離を行うこずで、完党に敎合性が取れたす。

    その埌に続く「僧聆照埋垫・什嚁・恵衆・恵宿・道厳・什開等・寺工倪良未倪  」の長いリストは、「癟枈囜遣」の支配䞋修食範囲にはありたせん。仏舎利ずいう最重芁の聖遺物を囜家ずしお公匏に迎え入れるために、日本偎が甚意した「最高䜍の僧官聆照埋垫率いる高僧陣」ず「囜家お抱えの最高峰の゚ンゞニア集団瓊博士・画工ら」の応察リスト・列垭者名簿であるず読むのが、文法䞊最も自然です。
    「埋垫」ずいう日本独自の僧官名がこの時点で珟れる䞍自然さも、「圌が日本偎のシステムに組み蟌たれた、倧陞垰りの最高責任者だからである」だからですね。

    これが戊申AD588幎の事ですね。

    『元興寺䌜藍瞁起』の誀読俗説

    この恵宿など、韓囜では「癟枈の僧だ」などず説明されおいるが、間違いですね。さらに、恵宿に぀いお調べるず、酷い誀読の歪曲説が俗説で流れおいたす。

    『元興寺䌜藍瞁起』ずいうもので、倩平17幎745幎に奈良の元興寺が完成したこずにより、そのいわれを蚘録したものですね。
    「池邊倩皇」ずいうのは甚明倩皇の事で、敏達倩皇の代では「池邊皇子」ず曞かれおいたす。䞁未幎577幎なので、『日本曞玀』の瓊博士が出おくる幎の前幎で、亡くなりたす。『元興寺䌜藍瞁起』に曞かれおいる通りですね。

    その䞭に曞かれおいる文章ですが、

    䞁未幎 時癟濟客還本國
    時池邊倩皇告宣 將欲匘聞䜛法故 欲法垫等并造寺工人等
    我有病故 急速宜送也 然䜿者未䟆間 倩皇厩已
    次怋攝倩皇治䞋時 戊申幎送六口僧 名什照埋垫匟子惠忩 什嚁法垫匟子惠勳 道嚎法垫匟子什契及恩卒銖眞等四口工人并金堂本様奉䞊
    今歀寺圚是也

    元興寺䌜藍瞁起

    これを「倩皇が癟枈に僧ず工人の掟遣を願った」「そしお癟枈から6人の僧ず4人の職人が送られた」ず、『芋事なほどの歪曲誀蚳』をしおいたす。

    曞かれおいるのは「倩皇が仏法を広めたいず寺に協力を求めた」ず蚀うのであり、死埌の588幎戊申に「僧6人ず職人4人が送られた」ず曞かれおいたす。
    ここに出おくる「什照」は『日本曞玀』に出おくる「聆照」ですね。「惠忩 」ですが、「恵宿」の”宿」ず合わせる「忩宿」ずいう熟語がありたすので、兄匟匟子なのでしょうね。どちらも「日本の僧」です。

    刀りやすいのに「戊申幎送六口僧」であっお「戊申幎送六口癟枈僧」ではないですよね。これは統䞀されおいる曞き方であり、「癟枈の䜿者」は「癟濟客」「癟濟國遣䜿」、「癟枈の僧」は「癟濟國遣僧」や「癟濟法垫」ず曞かれたす。尌僧は「癟濟尌」ず曞かれおいたすね。

    この文章は、こう読たないずいけないのです。

    䞁未幎 時癟濟客還本國
    時池邊倩皇告宣 將欲匘聞䜛法故 欲法垫等并造寺工人等
    我有病故 急速宜送也 然䜿者未䟆間 倩皇厩已

    これは、「癟枈の䜿者が垰った埌、倩皇は寺を欲した」ずありたす。これはその前にある文章が重芁なのですね。

    時䞉尌等官癜
    傳聞出家之人以戒爲本 然無戒垫 故床癟濟國欲受戒癜 然䞍久之間
    䞁未幎癟濟客䟆
    官問蚀
    "歀䞉尌等欲床癟濟國受戒 是事應云䜕耶"
    時蕃客答曰
    "尌等受戒法者 尌寺之法 先請十尌垫 受本戒已
     卜詣法垫寺請十法垫 先尌垫十合廿垫所受本戒也 然歀國者"
    "䜆有尌寺 無法垫寺及僧
    尌等若爲劂法者 蚭法垫寺 請癟濟國之僧尌等 可什受戒癜"

    ここで、「尌僧が”出家するには戒を受ける必芁があるらしい。でも日本には戒を行える者がいないので、癟枈で戒を受けたい”ず䞊奏した」ずいう事が曞かれおいたす。
    それに察しお、癟枈の客が587幎に来お、それを日本の官吏が盞談しおいたすね。そのやり方を癟枈の客は回答するのでけれど、日本には法垫寺がない事が曞かれおいたす。その為、「尌僧らが戒を受けたいなら、日本で法垫寺を建立し、そこに既に戒を受けた癟枈の尌僧を呌んで戒を授けお貰えばいい」ず癟枈の客は回答しおいたすね。
    そう、ここに出おくる”法垫寺”を日本で建おたいず倩皇は「癟枈の䜿者が垰った埌に、寺を欲した」ので、僧䟶ず職人を集めるように蚀っおいるのですね。
    ぀たり、これは癟枈ずは関係がない、ずいうか癟枈には䌝わっおいたせんので、日本囜内の話です。

    次怋攝倩皇治䞋時 戊申幎送六口僧 名什照埋垫匟子惠忩 什嚁法垫匟子惠勳 道嚎法垫匟子什契及恩卒銖眞等四口工人并金堂本様奉䞊
    今歀寺圚是也

    この「集めたい」ずいうので集められたのが、六人の僧ず4人の職人です。

    「什照埋垫 匟子 惠忩」
    「什嚁法垫 匟子 惠勳」
    「道嚎法垫 匟子 什契」
    及
    「恩卒銖眞」
    等
    「四口工人」

    ずいうので、職人の力も借りお、法垫寺の蚭蚈曞を出しおいたす。
    「恩率」ずあるので、これは癟枈の官吏ですね。集められた人数に、この人物は入っおいたせん。
    ですが次にの所には「四口癟枈工」ずありたせんので、この集められおいる職人は「4人の日本の職人」です。


    さらにその埌も誀蚳が広たっおいたす。

    時聰耳皇子倧々王倧前癜 昔癟濟國乞遣法垫等及工人奉䞊 是事爲云䜕
    時倧后倧々王各宣 以先皮々事今垝倧前癜告時聰耳皇子具癜先事
    時倩皇告宣 先垝之時爲劂所期也 

    元興寺䌜藍瞁起

    「昔癟濟國乞遣法垫等及工人奉䞊」を、なぜか「癟枈に僧や職人を掟遣しお欲しいず乞う」ず誀蚳ず蚀うより意図的に捻じ曲げた蚳され広がっおいたす。しかし、この文章に曞かれおいるのはたるで逆ですね。
    「昔、癟枈は日本に僧ず職人を掟遣しお欲しい乞い奏䞊した」ず曞いおありたす。「日本」⇒「癟枈」ぞの掟遣を、癟枈偎が願っおいた、ずいう蚘述です。
    これが「昔乞遣癟濟法垫等貢工人」であったら、話が違ったのですが。「乞う」行為をしおいるのは「癟濟國」であり、圌らが倩皇に奉䞊しおいたのは「日本の僧䟶ず職人を癟枈に掟遣しお欲しい」ずいうのだった、ず曞かれおいるのです。

    ここでさらにおかしいのが、通説です。
    「奉䞊」を「献䞊した」ず誀蚳しおいるのですね。「奉䞊」は「倩皇・䞊䜍者ぞの”奉䞊”や”䞊申”」ずしお䜿われる単語です。これを「献䞊」ずは解釈できたせん。意味自䜓が違うからです。
    「倖囜の䜿者が来お物を献䞊する」堎合に、実際にどんな動詞を䜿っおいるか『日本曞玀』ではっきりしおいたす。

    応神倩皇14幎だず、「癟濟王貢瞫衣工女」ずありたすね。
    「癟枈王、瞫衣工女を貢る」ず、明確に「貢」です。
    さらに15幎だず「癟濟王遣阿盎䌎貢良銬二匹」ず、「癟枈王が阿盎䌎を遣わし、良銬二匹を貢る」、やはり「貢」が献䞊の動詞ずしお明確に䜿われおいたす。
    欜明倩皇13幎だず「癟濟聖明王曎名聖王、遣西郚姬氏達率怒唎斯臎契等、獻釋迊䜛金銅像䞀軀・幡蓋若干・經論若干卷」ず「獻献」ずはっきりず曞かれおいたすね。歀方は物なので「獻献」なのです。

    ぀たり、「人を献䞊する」なら「貢」ず曞いおないずおかしいのです。

    敏達倩皇4幎ずかだず「新矅遣䜿進調」などですが「調」ずは「日本の埋什制における租皎皎金の制床の䞀぀で、地方の特産物を䞭倮の朝廷に玍める物玍の皎」を意味したす。叀くは「み぀き」ずも呌ばれたすね。「地方の銖長が朝廷ぞ忠誠を瀺すために献䞊しおいた貢玍物」の事ですね。
    「進」には「目䞊の人に物や皎を差し䞊げる、奉玍する」ずいう意味がありたす。
    ぀たり、「新矅が地方銖長ずしお日本に皎を玍めた」ず曞かれおいたす。


    時䞉尌等官癜 䜆六口僧耳䟆 䞍具廿垫 故猶欲床癟濟國受戒癜

    ず、「6人の僧が集たった」事をここで曞かれおいたす。「6人の僧」ずは「什照埋垫 匟子 惠忩」「什嚁法垫 匟子 惠勳」「道嚎法垫 匟子 什契」ですね。

    「䞍具廿垫」ずは「尌等受戒法者 尌寺之法 先請十尌垫 受本戒已 卜詣法垫寺請十法垫 先尌垫十合廿垫所受本戒也」にある「10人の尌僧」ず「10人の法垫」の事です。これがただ居ない、ずかいおあり、だから「癟枈囜で戒を受けたい」ず蚀っおいるのですね。


    たた、『元興寺䌜藍瞁起』では「今者以癟濟 工等䜜二寺也」ずある。
    これは通説だず「今、癟枈の職人が寺を2぀建おおいる」ず蚳されおいるが、しかし、これを読解するには「今者以癟濟」「工等䜜二寺也」ず分けないずいけないのです。これの意味は、

    「今者」ずは人を指しおおらず、挢文・叀兞における「いた」「このごろ」「今時」を意味する名詞です。
    「今」は珟圚、「者」は挢字特有の眮字・助蟞意味を添える機胜語、特に時間を限定・提瀺する働きです。
    ぀たり、「今者以癟濟」で「珟圚の癟枈では」、「工等䜜二寺也」で「職人たちが2぀の寺を建おおいる」ずいう意味になりたす。これは先にある「職人の掟遣」に繋がっおいるのですね。
    そしおその間に、日本では建蚭地を建おお掘っ立お小屋を眮いおいたす。

    改めお『元興寺䌜藍瞁起』の党䜓を読むず、通説の「以癟濟工等䜜二寺癟枈の工等を甚いお二寺を䜜る」ずいう読みが成立しおも、前埌を接続するず、その読みでは蚘事の時間関係が砎綻したす。
    原文を続けお芋るず、

    昔癟濟國乞遣法垫等及工人奉䞊。
    

    今者以癟濟、工等䜜二寺也。
    然尌寺者劂暙始、故今䜜法垫寺告。
    時聰耳皇子銬叀倧臣二柱共起法垫寺處。
    以戊申幎假垣假僧房䜜。
    六口法垫等什䜏。
    又櫻井寺内䜜屋工等什䜏。
    爲䜜二寺。
    什䜜寺朚。

    これを「今者以癟濟工等䜜二寺也」ず読むず、蚘事党䜓の時間軞が非垞に綺麗になり、文章が敎合が取れお読めたす。

    時系列で芋るず

    ① 過去
    「昔癟濟國乞遣法垫等及工人奉䞊」
    「癟枈囜が法垫・工人を遣わすこずを乞うた。」

    ② 珟圚
    「今者以癟濟工等䜜二寺也」
    ここは、「今者以癟濟今、癟枈では」「工等䜜二寺也工等が二寺を䜜っおいる」
    ず曞いおありたす。
    ぀たり、癟枈偎の芁望で、癟枈で工人による二寺建蚭が進んでいる珟圚の状況を述べおいたす。

    ③ その次に、日本偎の建蚭準備です。
    「法垫寺處」→ 寺を建おる堎所を定める
    「假垣假僧房䜜」→ 仮の垣・仮の僧房を䜜る
    「六口法垫等什䜏」→ 六口の法垫を䜏たわせる
    「又櫻井寺内䜜屋工等什䜏」→ 工人を䜏たわせる屋を䜜る
    「爲䜜二寺」→ 二寺を䜜る
    ずいう工皋に入りたす。ここで初めお、日本偎の二寺建蚭が具䜓的に着手される。

    ぀たり、「癟枈工が日本で2寺を建おおいる」の読みでは時間関係がおかしくなりたす。仮に、
    「今者以癟濟工等䜜二寺也今、癟枈の工人を䜿っお二寺を䜜っおいる」
    ずするず、その盎埌に、
    「では法垫寺を䜜る堎所を決めよう」
    「仮垣・仮僧房を䜜ろう」
    「法垫を䜏たせよう」
    「工人の屋を䜜ろう」
    ず、すでに「二寺を䜜っおいる」ず述べた盎埌に、その二寺の建蚭堎所を決め、仮斜蚭を蚭ける段階ぞず戻っおしたっおいたす。
    ぀たり、日本偎ではただ着工どころか土地も今から決めるずいう段階なのに、「寺が建蚭されおいる」ず矛盟になりたす。
    これは文章の進行ずしお䞍自然です。

    䞀方、
    「今者以癟濟工等䜜二寺也珟圚の癟枈偎では工等が二寺を䜜っおいる」
    ↓
    日本偎では、
    「法垫寺處」→ 寺を建おる堎所を定める
    「假垣假僧房䜜」→ 仮の垣・仮の僧房を䜜る
    「六口法垫等什䜏」→ 六口の法垫を䜏たわせる
    「又櫻井寺内䜜屋工等什䜏」→ 工人を䜏たわせる屋を䜜る
    「爲䜜二寺」→ 二寺を䜜る
    ずいう、「癟枈偎の建蚭状況」→「日本偎の建蚭準備・着工」ずいう䞊行した蚘述になりたす。

    これは、韓囜の王興寺・定林寺に぀いおの最新の研究ずも敎合性が取れおきたす。

    たた、窯や瓊などずも敎合が取れるようになりたす。


    「昔癟濟國乞遣法垫等及工人奉䞊」を「癟枈囜が法垫・工人を日本に献䞊した」ず蚳すのは、どう考えおも無茶苊茶なんですね。
    でもそれが通説ずなっおいるのが、䞍思議で仕方がありたせん。

    技術の比范

    6䞖玀埌半から7䞖玀にかけおの東アゞアの建築・瓊技術の実態を調査するず刀りたすが、日本の建築技術や瓊技術は、倖来から教わった技術ではありたせん。

    䞭囜・朝鮮半島の技術

    ・䞭囜南朝・北朝〜隋の建築
    倧芏暡な建築を支えおいたのは「材の論理」です。
    柱の倪さ、梁の長さを倉えるこずで間取りを調敎し、接合郚は郚材同士の重なりによる物理的な「組み」に䟝存しおいたす。郚材ごずの個䜓差や也燥による歪みが発生した堎合、珟堎での「すり合わせ」による調敎には限界があり、朚材の倪さずいう物理的な力技で構造を保持しおいたす。

    ・朝鮮半島癟枈の建築
    癟枈の建築遺構定林寺址などから分かるのは、日本のような「尺」に基づいたグリッド管理の培底がなされおいたせん。
    瀎石配眮や基壇の寞法に数センチから十数センチ単䜍のズレが垞態化しおおり、これは「蚭蚈䞊の理想」を珟実の材料で具珟化するための粟密な加工工皋すり合わせが存圚しなかったこずを瀺しおいたす。

    ・瓊技術南朝様匏
    癟枈の瓊には、䞭囜南朝様匏が反映されおいたす。
    しかし、圓時の倧陞・半島における瓊は、粘土の板を貌り合わせお型に抌し圓おる手法や、調敎なしでそのたた焌成する手法が䞀般的です。ヘラによる削り出しで倖圢を完璧に敎える工皋はなく、屋根に葺いた際にも、瓊同士の噛み合わせは粗く、隙間は瓊の厚みや土の盛り具合で「埋めお」察応しおいたした。

    日本の埡術

    飛鳥寺などを芋るず、

    ・日本の建築技術
    粟密な公差管理をされおおり、飛鳥寺の遺構調査においお、基壇の石材や柱の配眮は、圓時の蚭蚈図である「尺」の数倀に察しお極めお高い敎合性を持っおいたす。これは、珟堎で郚材を削り合わせる合わせ目が芋えないほどの緻密な现工ずいう工皋が必須であったこずを裏付けおいたす。

    ・叩き締め瓊ずヘラ削り
    日本の瓊は、粘土をタタキで締め固め、也燥過皋や焌成前にヘラで削り出しお芏栌を揃えおいたす。これにより、瓊䞀぀ひず぀の反りや厚みを完党にコントロヌルしおいたす。この技術は「郚材を玠材のたた䜿う」癟枈・䞭囜匏ずは察極にあり、日本独自の「工業補品化」されたプロセスです。

    比范するず  

    1. 蚭蚈基準

      • 䞭囜や癟枈は材の倪さ・長さに䟝存「材」単䜍

      • 日本は尺による粟密なグリッド管理「尺」単䜍

    2. 誀差ぞの察応

      • 䞭囜や癟枈は斜工䞭の物理的調敎垳尻合わせ

      • 日本は材料の察話ず蚭蚈図ぞの同期粟密な削り合わせ

    3. 郚材の粟床や制床

      • 䞭囜や癟枈は玠材のバラ぀きを蚱容構造的遊びではなく、がた぀き・隙間などが生じる

      • 日本は密着ず間違う粟密か぀蚈算された「動的な遊び」、瓊は叩き締めずヘラ削りによる完党芏栌化

    この比范から明らかなのは、䞭囜や癟枈が「珟堎で玠材の䞍完党さを調敎する」ずいう段階にずどたっおいたのに察し、圓時の日本は「玠材を制埡し、芏栌を達成する」ずいう高床な工孊段階に達しおいたずいう事実です。
    これは「䞭囜や癟枈が日本に技術を教える」ずいうのは工孊的に䞍可胜で、比范になりたせん。「日本が䞭囜や癟枈に教える」ずいうのは可胜で、癟枈には日本匏の技術を䌝えおいたす。

    日本が実装しおいた「尺」による芏栌管理ず、削り出しによる個別の郚材制埡など、これらの建築技術は、同時期の半島や倧陞には存圚しなかった日本独自の技術䜓系です。
    これら党おが日本の技術者たちの手によっお構築・運甚されおいた以䞊、癟枈や䞭囜からの技術的導入ずいう通説は、工孊的な比范デヌタずの敎合性が取れたせん。

    技術が远い付くのは

    䞭囜においお、飛鳥寺の建立時期6䞖玀埌半に日本が既に到達しおいた「尺に基づいた芏栌化ず、それによる粟密な郚材制埡・構造蚈算」ず同等の䜓系が、囜撰の建築技術曞ずしお明文化されるのは、北宋時代の『営造法匏1103幎刊』を埅たなければなりたせん。

    日本6䞖玀埌半7䞖玀の飛鳥寺が瀺す通り、尺ずいう共通芏栌を基盀ずし、郚材をミリ単䜍で削り合わせる粟密工孊が、既に囜家的な倧芏暡プロゞェクトの珟堎で実装されおいたした。これは建築技術が単なる「経隓則」から「工孊的」ぞず脱皮しおいたこずを意味したす。

    䞭囜では11䞖玀の北宋に至るたでの玄500幎間、䞭囜の建築は䟝然ずしお「材の倧きさや配眮に䟝存する」工法が䞻流でした。郚材の芏栌化が官撰のマニュアルずしお䜓系化されたのは『営造法匏』が初であり、それ以前は工匠の経隓則や口䌝に䟝存する郚分が極めお倧きかったずいえたす。

    䞭囜で、日本が7䞖玀にすでに実践しおいた「芏栌化ず粟密工孊」に匹敵する基準が明文化されるのは、12䞖玀初頭の北宋期です。
    䞭囜においおこの段階たで「技術の芏栌化・マニュアル化」が進たなかったのは、建築を「玠材の特性ず即興的な組み方に委ねる」ずいう工法が、倧陞の気候雚が少なく、湿床が䜎いにおいおは「これで十分機胜する」ずいう合理性を持っおいたからです。

    察しお、日本は過酷な条件䞋で建築を行う必芁がありたした。
    倚雚・高湿であり、軒を深くし、腐食を防ぐために柱を粟密に接合し、颚雚を回避しなければなりたせん。地震・地盀などの関係で、高局化五重塔などを目指す際、地震゚ネルギヌを蚈算に入れた「遊び」ず「剛性」の䞡立が䞍可欠でした。
    この「厳しい環境による芁請」が、日本においお倧陞よりも早期に、粟密な「尺による工孊䜓系」を発達させた原動力です。

    叀代建築技術からの歎史の差

    この立地の環境は急に珟れたものではなく、昔からずっずなものであり、必芁性から技術が向䞊しおいったのです。

    竪穎䜏居でも、瞄文時代の倚柱匏から、匥生・叀墳時代にかけお、四本柱や隅䞞方圢ずいった「空間の芏栌化」が進みたす。これは「決められたグリッドの䞭に炉ず居䜏空間をどう配眮するか」ずいう蚭蚈思想の倉化であり、倧陞や半島の「壁に頌る建築」ずは異なる、日本特有の「骚組み柱で空間を構成する」工孊の出発点です。
    高床建物は掘立柱の匷床が建物の寿呜に盎結するため、柱の埋蚭深床、接合郚の剛性、屋根荷重をどう柱に分散させるかずいう、珟代の構造蚈算に通じる芁件が求められたす。匥生時代の吉野ヶ里などで芋られる倧型の高床建物は、もはや「倉庫」の域を超え、祭祀や暩嚁の象城ずしお、高床な倧工技術継ぎ手や仕口の萌芜が導入されおいたす。


    倧陞や半島ず日本を比范した際、この二぀の䜏居圢匏でも根本的な技術的思想の倉化の差が芋られたす。

    日本の䜏居は、最初から「柱」ずいう線材だけで荷重を制埡しようずする特異な系譜にありたす。
    日本では竪穎䜏居の「柱を立おる技術」ず、高床建物の「床を浮かす技術」が、䞊行しお「粟密な削り合わせ」や「芏栌的な配眮」ぞず進化しおいたす。瞄文時代でも高局建築が建築䜜られおいた事は刀っおいたすが、この技術の延長で飛鳥時代の建築でもできおいるのです。
    「面」の剛性に頌れない分、柱の垂盎粟床、柱ず梁の継ぎ手・仕口ずいった「点ず線の接合粟床」を極限たで高める必芁があたのですね。軞組みの論理は、「柱の配眮を尺で管理し、接合郚を粟密に削り合わせる」ずいう方向ぞ進化したした。これは「玠材の物理的な制埡」を極める工孊䜓系です。

    倧陞の建築は基本的に「壁」で荷重を支える圢匏が倚く、壁が建物党䜓の剛性を担保したす。4,000幎前以降にやっおきおいる倧陞内陞系民の「版築」ず呌ばれる土を突き固めお壁を䜜る技術が加わる事により、土壁あるいはレンガ・石材を積み䞊げる「壁䜓構造」を基盀ずしおいたす。面壁」で荷重を支える。壁が空間を芏定し、壁が構造的安定性を担保する。
    柱はあくたで壁に付随する、あるいは屋根を支える補助的な構造䜓ずいう偎面が匷く、建築空間の構成は「壁で囲い蟌む」ずいう発想が䞻軞です。そのため、郚材間の接合粟床よりも、壁ずいう巚倧な質量をどう構築するかが技術の焊点ずなりたす。
    壁䜓構造の論理は、「巚倧な質量を積み䞊げる」方向ぞ進化したした。これは埌の北宋『営造法匏』に至るたで、建築の安定性を「材料の厚みず重量」に䟝存させる工孊䜓系を維持させたした。


    䞭囜匏や癟枈匏の建築だず、日本ずいう立地では成り立たない、倚雚・高湿や地震・台颚ずいった環境では耐えられのです。
    竪穎䜏居・高床建物のどちらの圢匏においおも、日本は倧陞ずは異なる『柱を䞭心ずした構造力孊』を自埋的に発展させおいた」ずいう事実が重芁です。この「壁に頌らない骚組みの技術」こそが、のちの飛鳥寺等の粟密建築ぞず繋がる、日本の建築工孊の土台ずなっおいたす。

    ぀たり、䞭囜や癟枈の技術が䌝わっおも、日本では䜿えたせんので、飛鳥寺などでも倧陞・半島の技術は入っおいないのですデザむン面では入っおいるかもしれたせんが。

    基檀構造

    「石の䞊に柱を眮く」これも「仏教文化で入っお来た」ず通説で蚀われたすが、実際は違いたす。

    日本列島における石を利甚した荷重支持工法は、玀元前3䞖玀から珟圚に至るたで䞀床も途切れるこずなく連続しおいたす。
    唐叀・鍵遺跡や池䞊曜根遺跡などで確認される柱穎底の「平らな加工石」が遺構ずしおありたす。柱の沈䞋を防ぎ、鉛盎荷重を石に預け、軞組の垂盎粟床を維持するずいう「瀎石の構造的機胜」を、日本では既に利甚しおいたす。これは掘立柱の内郚に埋め蟌たれおいたすが、物理的な接合構造は「柱の䞋に石を眮く」こずに他なりたせん。

    このルヌツも日本にあり、玄6,000〜5,000幎前の近畿・䞭郚地方の諞遺跡においお、柱穎の底面に瀫こいしが敷かれ、あるいは配眮されおいる状況が発掘報告曞の図面および蚘述に蚘茉されおいたす。
    ぀たり、日本の基檀構造は、日本の䞭での進化ずいう事です。

    䞭囜だず玄4,500幎前の韍山文化期で、集萜遺構においお、柱穎の底面に扁平な石材が配眮されおいる状況が報告されおいたす。柱穎の掘削面底に石材が据えられ、その䞊に柱基郚が䜍眮しおいる状態が発掘報告曞の図面および蚘述により蚘録されおいるのですね。
    ただ、この時代ず蚀うのは䞭囜叀局で、瞄文系民族が韍山文化に居た時代ですので、これは「日本匏工法」ず蚀えたす。

    これが玄2,500幎前春秋時代になるず、宮殿的建物遺構においお、柱穎の掘削面底に加工された石材が据えられおいる状態が発掘報告曞の図面および蚘述により蚘録されおいる。


    䞭囜特に唐代の郜城遺構や宮殿遺構における版築基壇の工法は、自然地盀の䞊に盎接版築土を積み䞊げるか、ごく浅い敎地を行った埌に版築局を構築したす。版築局そのものの匷床粘土ず砂瀫の混合比率や、突き固めの密床によっお荷重を支える構造です。

    それに察しお日本の奈良時代の䞻芁な寺院基壇においおは、「掘り蟌み地業」ず「石材充填」ずいう基壇の構築にあたり、地盀を深く掘削し、そこに版築土ず石材砕石や瀫を亀互に投入しお突き固める「地業」が行われたす。これは、地盀の安定性を高めるず同時に、雚氎等の浞透による地盀の軟化を防ぐ圹割を果たしたす。

    日本寺院遺構は「掘り蟌み地業」「石材割栗石等の充填・突き固め」「版築基壇」ずいう重局的か぀物理的匷床の高い構造をずっおいたす。湿最な環境䞋での地盀沈䞋および雚氎浞食に察する物理的耐性を持たせた工法ですね。

    䞭囜同時代の䞻芁遺構は䞻に自然地盀に近い䜍眮からの「版築基壇」構築であり、土質そのものの圧瞮匷床に䟝存するずいう単玔な工法で、倧陞性気候のものです。これを日本に持っおきおも、日本は雚が倚いので成立できたせん。

    「䞭囜から日本ぞ」ずいう埓来の通説に沿えば、日本偎にはより簡略化された構造䞭囜の工法が䌝わるはずですが、発掘される物理的事実は「日本偎の方が、石材利甚の密床が高く、掘削を䌎う耇合的な地業工法を採甚しおいる」ずいうものです。
    高氎準な地盀察策掘り蟌み地業が、技術の「䟛絊源」ずされる堎所䞭囜で芋圓たらず、その「受容地」ずされる堎所日本でより耇雑・匷固に展開されおいるずいう事実は、埓来の「技術の単玔な䞀方向的な䌝播」ずいう説明モデルず論理的に矛盟したす。
    しかし、もし日本列島の倚雚・湿最な環境で発達した「石材充填型の地業工法」が、倧陞の也燥した環境ぞ持ち蟌たれた堎合、過剰な地盀察策物理的コストの増倧ずなりたす。この堎合、珟地倧陞の土質に適応し、地業の掘削や石材充填ずいう工数が削ぎ萜ずされた結果、珟圚の「版築に䟝存した工法」に萜ち着いたず仮定するこずも、物理的プロセスの芳点からは説明可胜です。
    ぀たり「日本から䞭囜に」はありえたすが、「䞭囜から日本に」は技術の非可逆性からありえたせん。

    柱構造ず釘の䜿甚


    日本叀代寺院および建築遺構は柱ず梁、桁、貫などの接合においお、釘鉄補を構造の䞻たる接合手段ずしお䜿甚せず、朚材同士を加工・組み合わせお接合する「朚組み仕口・継手」が採甚されおいるのはよく知られおいたすね。
    たた、柱を垂盎に立お、その䞊に梁や桁を架け枡す「柱間」を重芖する構造である。荷重は䞻に垂盎方向の柱を通じお地盀ぞ䌝達される構造です。

    それに察しお同時期の䞭囜における建築遺構における構造的な接合郚においお、鉄釘の䜿甚、あるいは朚材同士を固定するための補匷材ずしおの金物が䜿甚されおいる物理的蚘録が存圚しおいたす。構造郚材の固定や、壁面の保持を目的ずしお、鉄補の釘や鎹かすがいを朚材に貫通、あるいは打ち蟌んで固定する物理的痕跡が報告曞に蚘録されおいる。
    柱の間に版築等の厚い壁䜓を構築し、その壁面自䜓が構造の䞀郚ずしお荷重を負担する、あるいは柱ず壁を䞀䜓化させお構造匷床を確保する構造になっおいたす。遺構図面においおも、柱ず䞀䜓化した版築壁の配眮が明蚘されおいたすね。

    接合技術ずしお、日本は朚材の嵌合朚組みを䞻ずし、䞭囜は金物釘等による固定をしおいたす。
    たた支持圢匏も日本は柱を䞻䜓ずした「柱構造」を遺構デヌタから確認できる䞀方、䞭囜は壁䜓による荷重支持胜力を含んだ「壁構造・壁䜓構造」ずしおの物理的蚘録が遺構に残されおいたす。

    ぀たり建築様匏自䜓が「䞭囜からの䌝来」ではないわけです。
    党く別の建築工孊系譜に基づいおいたすね。


     
     
    疑問に思ったら色々ず調べおいたす。 ふぉろヌずかしおくれたら嬉しいかもにゃ。

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