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エピローグ パリの隣人が去った日、私は野菜のタルトを食べた。

    もう出ないと、お昼に間に合わない。
    焦る気持ちを抱えながら、SNSの投稿文に手間取っていた。プロジェクトの告知だ。共に手がけた相方に、「今日アップする」と昨夜伝えていた。早々に出かけるつもりではめていた腕時計に目をやると、取り組み始めてから40分が経過している。さすがに時間がかかり過ぎだ。
    集中出来なかった。
    玄関の扉の向こうでずっと続いている隣人の話し声が、気になっていた。ひとりは向かいのマダムだ。その人柄を表すかのような大らかな体格の彼女は、よく通る声でとても滑舌がいい。数人いるみたいだ。何人か女性の声に混じり、少し前に「ボンジュール、マダム」と挨拶する男性の声が聞こえた。家の中に招き入れるやり取りは交わされず、玄関先で話しているようだった。それにしても、結構長い。

    告知文は難しい。情報に不備はないか、誤解を招かないか。最後にもう一度読み返して、投稿を済ませた。

    11月だというのに、セーターを着ればトレンチコートで事足りるほど、外気に冷たさを感じない。
    ようやく出かける支度が整い、ショートブーツを履こうとしたところで、何人もの階段を降りていく足音が、ドアの向こうに続いた。引っ越しという様子ではない。なんだろう?と思いながら、内鍵を解錠しドアを開けると、上から階段を降りてきてさらに下へ向かおうとする二人の警察官とちょうど向かい合わせになった。

    訝しむ気持ちが、ついと言葉になって出た。
    「どうしたのですか?」

    私が声を発した時、すでに下へ数段降りていた男性の警察官がピタッと止まった。後に続く女性の警察官も、それで、私の目の前で立ち止まった。男性警察官は後退りするように、私の立つ位置から一段だけ低いところまで戻ってきた。そして完全には振り向かずに、横顔で言った。「亡くなった方がいます」。

    一瞬、その場の空気が止まった。私はすぐに声を出せなかった。

    それを察してか、男性警察官は階段を降り始めた。
    慌てて「ありがとうございます、ムッシュ」と声をかけると、立ち止まることなく背中越しに「どういたしまして」と返ってきた。

    階段を降りてくる何人もの足音は、随分と上から連なってきた印象だった。最上階に暮らす、一人の男性が頭に浮かんだ。

    戸締りをして、私も階段を降りた。

    通りに面したアパートの大きな扉を開けると、黒い車が目に入った。運転席のドアに控えめに柩車と書かれていた。


    前日は、満月だった。
    それも、ただの満月ではなかった。
    皆既月食に天王星食も合わさった天体現象で、442年ぶりということだった。月食の様子を日本では観測できると、生中継で配信しているYouTubeチャンネルを見かけた。

    駅までの道を早足で歩きながら、前夜観劇したバレエの最後の場面を思い出していた。
    「うたかたの恋」と邦題の付いている『Mayerling』は、第3幕、男女二人の心中でクライマックスを迎える作品だ。プロローグは墓場で始まり、同じ墓場でエピローグが描かれる。

    ついさっき聞いたことと何の関連性は無いものの、YouTubeでチラッと見た月食の中継、ドラマチックなリストの楽曲に乗せられたバレエ、22時半の終演後オペラ・ガルニエを出たところで頭上を爛々と照らしていた満月、そして、事を告げた警察官のその口ぶりが続けざまに頭に蘇った。
    特に、警察官の言い方は、敢えてそこに重みを持たせたようなわざとらしさを感じるものだった。映画のワンシーンのような、芝居がかった印象を受けた。現実を、まるで非現実的な事件かに思える含みを持たせたことで、軽々しさが生まれたその矛盾に、口の中が不味くなる思いがした。

    最寄駅のホームに降りると、ホーム中程に住処を築いているムッシュは、今日もいた。
    挨拶どころか目も合わせたことがない。だけれど、ごくたまにいない日があって、そうすると少し心配になる。もう何年も彼はそこに寝袋を敷いて寝ていて、だから駅員さんは彼の存在を知っている。私だけじゃなく、この駅を日常的に使っている人は、間違いなくみんな彼を知っている。たまにパリ交通公団の警備の人たちが数人で彼を囲み、話しているのを見かける。立ち退けと言われているわけではないようだ。
    いなくなる日は、彼の存在だけではなく、寝床も荷物も全て綺麗になくなる。そして次に見かけると、いつもと同じ位置にスーパーの大きなプラスチックの袋が置かれ、寝袋が敷かれて、大抵は、腰から下が寝袋に入った状態で、上半身を起こして彼は座っている。

    この日は、頭まで寝袋に潜り込んでいた。でも、ともかく、いた。

    目的地に向かう地下鉄の中で、頭と気持ちを少し整理しようと努めた。
    ドアを開けた時に、目の前にいた警官は、私に何も指示をしなかった。事件性があるならば「しばらく家の中で待機するように」とおそらく言われただろうし、場合によっては、聴取を求められることもあるだろうから、そういう類のものではなかったのだろう。
    2年前に自死を遂げた近しい友人を思った。彼が旅立った時にも、あんなふうに警察官が連なって階段を降りたのだろうか。

    告げられたのは一つの事実だった。それ以上、知る必要はないということなのだ、きっと。


    向かったのは、モンマルトルの丘を越えた、最近続々と新規店の増えるエリアに立つパン屋さんだ。取材依頼をして、同時に、平日にのみ販売されるサンドイッチを買いたかったのだけれど、着いた時にはすでに売り切れていた。
    ひとまず、取材申請だけは取り付け、前の週からもう3回買っている、玉ねぎとポロねぎのタルトを一つずつ、また買った。

    駅への道を戻りながら、充電が切れた掃除機のようにスンと立ち止まった。
    取り掛かっていたプロジェクトの仕上げをするために十分な睡眠を取れていなかったのと、やはり、出がけに降ってきた出来事が、2日経ってから症状を現し始めた筋肉痛のように体をにわかに重くしていた。

    ちょっと息をつこう。

    このままパソコンに向かったところで、思うようには捗らない気がした。まず、ひと息。でも、確実に、ひと息つけるところに行きたい。頭に浮かんだのは、レピュブリック広場近くのコーヒーショップ。今いるところからは、一度乗り換えて、家とは反対方向に向かうことになる。そんな時間の余裕はあるのだろうか……と自問しながらも、もう心は決まっていた。急な坂道を上る足取りに奇妙な高揚感が付き纏っているのを自覚して、体の向かう場所は決まっても、心の行き先は依然、見失ったままだと思った。


    扉を開けると、「あ、こんにちは」と日本人の店主はいつものように言った。そして私は、いつものように、カフェ・クレームを注文した。
    いつものように、と繰り返したが訪れたのはおそらく、夏のバカンス以来初めてだ。世界各国からやって来るお客で連日にぎわう小さなコーヒーショップは、外のテーブルは全部埋まっていたけれど、店内に座っているお客は一人だけだった。
    窓際のスツールに腰掛けようとしたら、「ここ、どうぞ。座ってください」と、”予約席”と書かれた札をカウンター前のテーブルから取り上げて、店主が言った。「いいの?」と聞くと、いいのだと言う。
    最近どーすか、ロンドン行ってましたよね?どうでした?と聞かれて、「すごい楽しかったよ。いろいろ発見があった」と話しているうちにカフェ・クレームが出来上がり、店主が運んできた。

    ひと口含んで、「やっぱここのは違うんだよなぁ」と思った。
    厚みがあるのだ。他所で飲むカフェ・クレームを液体とするなら、この店のカフェ・クレームは液体とは言い切れない。例えば、パスタを作るときに、具を用意しているフライパンに茹で汁を加えて乳化させる手法があるけれど、あれで乳化させたものは液体だろうか? 液状には違いない。でも同時に厚みがある。それに似ている。濃いというのとは違う。とろみ、と言ってしまうと重みを伴う気がする。重みはない。ただ、滑らかで、舌の上での滞在時間が長い、と思う。
    その、舌の上で厚みを感じるカフェ・クレームは、弱っているときに胃に流し込んでも、胃壁に刺激を与えない。舌の上で感じた厚みがそのまま、胃に落ちていく感じがする。その厚みに、一瞬身構えた胃も、力をすぐに解いて、それに連動して、気持ちもほっとする。

    店じまいの時間が近づいてきて、私の向かいに座っていた客が帰った。その後ろ姿を見送り、そろそろ来店する人もまばらになるだろうから、大丈夫かな? と思いながら私は店主に切り出した。
    「あのさ、今はまってるタルトがあって、さっき買いに行ってきたんだけど、よかったら食べない? 玉ねぎのタルトとポロねぎのタルト。半分こしよーよ」
    「いいっすね。いただきます」
    そう言うと、彼は、まな板にも皿がわりにもなる木製のボードを持ってきた。

    藁半紙のような包み紙には油が染みている。ちょっとした拍子に割れ目が入ってしまいそうな直径10センチ大のタルトをそおっと取り出す。
    媚びのかけらもない容姿のタルトは、趣あるボードと相性が良かった。見るなり、彼は言った。
    「よさそうっすね」

    たぶん好きだと思うんだよなぁ、と密かに反応を楽しみにしていた。
    いただきます、と言いながら左手を受け皿に右手でつまみあげ、口に運ぶなり彼は言った。
    「うまい」
    そして続けた。
    「うん、うまい。こういうのがいいっすよね。ほんと。これでいいんっすよ。だってこれでうまいんだもん」


    生地の色は、少し灰色がかっていて、全粒粉にそば粉でも加えていそうだ。それに具は、玉ねぎと胡麻。ポロねぎの方は松の実がふんだんに散らしてあり、生地とネギと実の3アイテムのみで構成されているように思える。味付けはされていても、フィリングも、チーズも、おそらく入っていない。これが、実に美味しい。余計なものに邪魔をされないダイレクトな風味を、口の中で存分に感じる。「それぞれの個性を引き出したら、これで良いんだよな」と、自分を原点に戻してくれるような味わいだ。タルト生地の縁は、手で内側に折り畳むように成形されていて、型も使っていないことが見てとれる。その飾り気のない姿がさらに「これで良いんだよな」という思いを後押しする。何かを言われる前に、先手で言い訳をしてしまうかのような保険アイテムが、このタルトにはない。素朴で力強いおいしさに魅了される。

    玉ねぎにしろポロねぎにしろ、具材と言える具はねぎだけのタルトは、何よりもタルトの生地が美味しかった。具は、粉の風味を際立たせるためのスパイスのように思えた。店で、生地はヴィーガンだと聞いた。ということは、バターも卵も加えていない。たしかに、サクサクッとした可憐な歯触りではなく、ザクザクッと力強ささえ感じる硬質なうまさ。そば粉でも入っていそうだけれど実際は使われていなくて、セミ・コンプレの小麦粉に、エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを合わせているという。
    具の詰められたタルトを食べて、具よりも生地にこれほど惹かれた経験がまずない。こんなにも粉の風味がするなんて。このタルト生地は、生地だけで食べても間違いなくおいしいだろう。

    それで、ロンドンで行った、パン屋さんが経営しているレストランで食べたホームメイドパスタの話をした。粉の風味を味わってほしいという意図が感じられるその一皿に、私はとても興味が湧いて、こういう、飲食店と料理の在り方っていいよなぁと、カウンター席に座りながらお尻の辺りがむずむずするくらいにワクワクしたのだ。なんていうんだろうなぁ、おいしさの素がつながっている気がして、そのおいしさの素を広げて提供しているように思えたから。

    店主が新たにコーヒーを出してくれて、「ロンドン、人気の店はどこも活気があって、料理は楽しい時間を作るために介在するものっていう印象を何度も受けて、それがすごく楽しかったよ」なんて話を、淹れたてのコーヒーの香りを鼻先に、なんとはなしに嗅ぎながら、した。



    これ以上ないくらいシンプルで美味しいものを食べた時、「これでいいんだ、他に何もいらない。うん、これでいいんだよ」と一人頷く時、その美味しさで得られているのは、救いじゃないだろうか。
    「ほっとした」「肩の力が抜けた」「張り詰めていた気持ちが解れた」「思わず笑みがこぼれた」。いろいろある。美味しいものを口にして緩む瞬間。癒しという言葉がよく当てはめられるかもしれない。
    でも、シンプルであればあるほど……
    シンプルだから成り立つ美味しさに頷く時、得ているものは癒しのもう少し先で、それは、救いと呼ばれるものじゃないかと思うのだ。
    ずっと日常に根付いてきた、なんの飾り気もない、なんの変哲もないもの。そこに宿るもの。

    日常に根付く美味しさを求めるのは、きっとそこに、救いがあるからだ。そんな気がしている。



    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    フードコラムニスト。パリ↔︎東京。日々おいしい居場所を求めてさまよっています。連載「パリのサンドイッチ調査隊」「真似をしたくなるサンドイッチ」(& Premium)。Podcast「今日のおいしい」。その他連載はこちら→https://linktr.ee/akikokawamura

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