
[4分エッセイ]もはや、誰もAIの使い方を教えてもらいたいと思っていない話
みなさん、こんばんは。
今日も楽しくAIと壁打ちしていますか。
最近、noteのタイムラインを眺めていて、ふと気づいたことがあります。
もはや、誰も「AIの使い方」を教えてもらいたいとは思っていないのではないか。
少なくとも、私のnote界隈を見渡すと、そんな空気を強く感じます。
少し前、それこそ半年ほど前までは、「AIで何をすれば良いか分からないあなたのために」といった指南書のような記事で溢れかえっていました。
「プロンプトのコツ教えます」「これであなたもAIを使いこなせる」といった言葉が飛び交い、ちょっとした熱狂がありましたよね。
現在も生き残ってAI指南記事を書き続けているユーザーは、ほんの一握りのような気がします。
当時、AIの使い方を「教える側」だった人たちの多くは、次第にnoteに居場所を見出せなくなり、静かに去って行きました(「教える側」の人は、書いたら書きっぱなし。自ら交流してコミュニティを形成しないので、ビューもスキも頭打ちになるからでしょう)。
つまり、noteという村において、AIの使い方を「教える」「教わる」というフェーズは、すでに終わりを迎えた。
当然といえば当然かもしれません。
何かわからないことがあれば、「これどうやって使う?」とAIに聞けば、24時間いつでも、(指示さえ間違わなければ)正確に、そして優しく教えてくれます。
その代わり、noteでよく見かけるのは、「私はこんな風にAIを使っているよ」という、自分なりの使い方の提示です。
「私はこんな風に使っているよ」と「AIで何をすれば良いか分からないあなたへ」は、一見似ているようでいて、実は全くの別物です。
前者は純粋な自己表現であり、後者は一方的な啓蒙(あるいは電子教材)だからです。
自己表現の延長で「言語化」もよく目にします。
己の意図をAIに正確に伝えるために、言語化できるのとできないとでは結果に雲泥の差が出てしまいます。
その「言語化」だけでどうにもならないのが画像生成です。
画像・漫画は、構造化された指示が顕著に求められる分野だからです。
しかも、画像生成は基本的に一発勝負。
ワンショットのプロンプトへ正確に、過不足なく情報を入力しなければ、複雑なポーズやコマ割り、漫画の吹き出し、文字のフォント指定のような表現は原則としてできません。
(文章なら、段階的に学習させるChain of Thoughtが使えますが、画像生成モデルが有するコンテキスト・ウィンドウは画像を生成する機能に極振りされているため、一度出力した画像がコンテキストを占有してしまいます。なので、次の指示で構図を変えようとしても上手くいかないと言う理屈です)。
……つまり、AI生成の漫画が描ける人は、考えていることを言語化でき、さらに構造化もできているということになります(もしくは、AIにそれらを生成させることができる)。
AIの生成物を見るだけで、その人のAI熟練度が可視化されてしまう恐ろしい時代になりました。
……脱線したので話を戻します。
noteのユーザーさんは、自分の記事や創作に強いこだわりを持っている方が多いですよね。
だから、マニュアル化された「正しい使い方」よりも、誰かがAIと悪戦苦闘しながら見つけた「その人だけの使い方」に、強く惹かれるのだと思います(noteが一次情報を重視するのと合致します)。
「教えてあげる」はAIに任せておけばいい。
今の私たちにとってホットな話題は何か考えてみました。
人間側がAIに対して、自分の「偏愛」や「葛藤」をどれほどぶつけられるか。そして、感情がないはずのAIを相手に、どれだけ「人間らしく」悩み、考え、共創していけるか。
そういう、もっと人間っぽさにシフトしてきているような気がします。
マニュアル通りに動かすことよりも、自分だけの「相棒」としてどう関係性を築いていくか。
その試行錯誤の軌跡こそが、読みたいと思ってもらえるAIの記事なのかもしれません。
皆さんは、noteでどんなAIの記事を読んでしまいますか?
もし良ければ、コメントで教えてください。
それでは、次の記事でお会いしましょう。