
エッセイ:わたしとわたしの○の中
私は小説に救われ、エッセイに救われ、短歌に救われ、私も書く側に、誰かを救う側にいきたいと思ってきた。
同時に、絵を描く人に憧れ、写真を撮る人に憧れ、ハンドメイドをする人に憧れ、私も何かを創る側にいきたいと思ってきた。
つまりは自分が他人からどう見られるか、自分の作品が他人からどう見られるかを常に意識してきたということだ。
何かを作ろうとしている人の中には、同じような状況に陥っている人も多いのではないかと思う。
ここではたと我に返る。
全ての人を気にし続けることに意味はあるのか?
ここで少し私の過去を振り返らせていただきたい。
私は余裕がなくなると、全てのことにイライラしてしまうことがあった。
些細な言動、マナーを守らない態度。
とにもかくにも知っている人も知らない人も、関わりの深い人も浅い人も全てに対してイライラした。
そんな周りの全てのことに対してイライラしてしまうという悩みを抱えていたとき、心理士さんに
「気にする範囲を狭めましょう」
と教えてもらった。
大事にする範囲を決めて、その範囲外のことは自分とは関係のないことだと思いましょう、と。
もしかして、今の状況もこのアドバイスが活かせるのではないか。
近年の私は自分が好きだからやるということ以上に、誰かに好かれたいという気持ちが先行していた。
誰かって誰?
その誰かって重要?
自分の○の中にいる人を大切にしながら、届けたい人に届けたいものを届ける。
それが一番大事なことではないか。
そう気づいた私は、改めて○の中を見つめることにした。
家族、恋人、友達………。
そうしてできたのがこの3つの小さな連作。
本当は他にも大切な人や大切にしたいものがあるけれど、今回はわたしの基盤を作ってくれた人たちのことを描いた。
これは、
わたしとわたしの○の中にいる人々との記録。
頑張れと口に出すのも愛
口に出さずビスコを渡すのも愛
私もう縦に成長しないけど
またヒレ肉が1枚多い
好きだって伝えた母の副菜は
得意料理のように何度も
当然のように差し出されるポテチ
まだ誰も手をつけないままの
ありがとう
夜中に布団をかけ直しぎゅっと首まで包んでくれて
いつまでも追いかけていた
いつの日か追い越せる日が来ると思った
おめでとう
四人で住んだこの家を出て新しい家に住む人
優しげな目は私から離されて
そうね家族を作っていくのね
クリームの苦手な私のためにある
手土産の中のフルーツタルト
どこまでも幸せでいて
もう横に並んで座ることがないなら
かばんからこぼれ出てくるポップコーンみたいに
ふいに訪ねてきてよ
すらすらと書けるあなたの住所には
マップなしではたどりつけない
シンクにはお皿がたまる
片付けてくれるタイプの愛が帰って
親友と遊ぶ時にはお揃いの時計を外す
ゆるさないでね
毎日のようにしている電話から
君の暮らしが漏れ込んでいる