
『君への道のり』第一章 始まりの朝
【 あらすじ 】
妻を失った記憶を胸に、静かな日々を過ごしていた藤島一平は、
スマート農業の巨大ビニールハウスで働き始める。
同じ職場で働く三浦麻衣子もまた、穏やかな生活の裏で、
拭いきれない不安と孤独を抱えていた。
ある日、愛犬の異変をきっかけに、張り詰めていた麻衣子の心は
静かに崩れ始める。
過去と現在、そして巡り合わせの中で、二人の距離は次第に交差していく。
これは、悔いの少ない人生を模索する、等身大の大人たちの
静かな歩み直しの物語。
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目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
夏の朝は、どうしてこんなにも早く始まるのだろう。
藤島一平は、天井を見つめながらそう考えた。
カーテン越しに、白っぽい光が滲んでいる。
時計を見ると、五時二十分。まだ鳴るには早い。
だが、二度寝をするほどの余裕も、理由もなかった。
布団から起き上がり、床に置いたままのスリッパに足を入れる。
裸足の裏に、冷えた感覚が伝わった。
ほんの一瞬だけ、身体が現実に引き戻される。
朝の光を遮られた薄暗いリビングへ向かう。
妻が生きていた頃は、
テレビから流れる朝の情報番組の音と、
台所で昼食の弁当を用意する妻の後ろ姿に声をかけるところから、
一日が始まっていた。
今は違う。
電気ケトルで湯を沸かし、
食卓でインスタントコーヒーに口を付ける。
リビングのカーテンを開けることが、
その代わりだった。
窓辺に並ぶ観葉植物が、朝日を浴びている。
フィカス、コーヒーの木、モンステラ、パキラ、カラテア。
どれも、妻が世話をしていたものだった。
葉の縁に霧吹きで水をやる。
妻の死後、インターネットで調べて覚えた
「十日に一度、鉢に水をやる」という習慣。
今日は、その日だった。
乾いた土が、ゆっくりと色を変えていく。
その様子を見ていると、
自分の心も似たようなものだと思う。
乾いて、固まって、
注ぎ過ぎた水は、鉢底から受け皿へ流れ出てくる。
どの程度注げば「正解」なのか。
一平には、まだ分からなかった。
四月に息子が家を出てから、
人の気配が薄くなった二階で身支度を整える。
黒のインナー。
オレンジ色のTシャツ。
その上から青い空調服。
黄色いメッシュキャップを被り、
鏡の前で一度だけ、自分の顔を見る。
四十九歳。
悪くない体つきだと思う。
だが、誇らしさはなかった。
玄関へ向かう前、寝室に立ち寄る。
低いチェストの上の写真立て。
遺影の中の妻は、穏やかな笑顔でこちらを見ていた。
「行ってきます」
声に出すと、喉の奥がかすかに震えた。
返事はない。分かっている。
それでも、一平は毎朝そう言った。
「……良き人たちに、巡り合えますように」
祈りというより、願いだった。
この先に何があるのかは分からない。
ただ、今日という一日を、無事に終えたい。
それだけだった。
黒いSUVに乗り込み、エンジンをかける。
カーナビから、軽快な朝のトークが流れ始めた。
内容は耳に入ってこない。
ただ、音があることに、少しだけ救われる。
住宅街を抜け、市街地を離れるにつれ、
景色は単調になっていく。
玉ねぎ畑が、どこまでも続いていた。
ハンドルを握りながら、
一平はふと、退職した日のことを思い出す。
――セカンドステージって、どこにあるんだ。
自由になったはずだった。
だが、自由とは、
何も決めなくていい、ということではなかった。
遠くに、巨大なビニールハウスが見えてくる。
朝日に照らされ、白く光っている。
一平は、深く息を吸い、アクセルを踏んだ。
まだ、この場所で何が起きるのかは知らない。
ただ――
何かが、始まろうとしている気がしていた。
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