
『君への道のり』第十五章 同じ暑さの中で
翌朝のハウスは、昨日ほどの蒸し返しではなかった。
空には久しぶりに薄黒い雲が日差しを遮っている。
それでも、空気は重く、身体にまとわりつく。
一平は、収穫作業を進めながら、無意識に腕時計が気になる。
何げなく周囲を見渡した。
ベージュ色のキャップとオレンジ色の空調服。今日は、あった。
三浦麻衣子は、いつも通りの動きで台車を押し、列に入っている。
特別な様子はない。
昨日のことなど、なかったかのようだ。
しばらくして、プランター列に入るタイミングが重なった。
通路の中央で、二人の距離が近づく。
「……昨日、大変だったみたいですね」
麻衣子が、作業の手を止めずに言った。
声は低く、抑えた調子だった。
「ええ……でも、大事なくて良かったです」
一平も、それ以上は言わない。
倒れたこと。
事務所に運んだこと。
細かい話は、必要なかった。
「無理、させすぎちゃいけないですよね」
麻衣子は、実を確認しながら続けた。
誰かを責める口調ではない。
自分に言い聞かせるようでもあった。
「……ですね。でも仕方ないですよ」
それ以上、言葉を足す気にはならなかった。
一平は、それだけ答えた。
沈黙が落ちる。
だが、居心地は悪くない。
昨日の暑さを、二人とも知っている。
「藤島さん」
名前を呼ばれ、一平は顔を上げる。
「昨日、ありがとうございました」
麻衣子は一平を見ず、
それでも、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
作業中に見せる、控えめな笑顔だった。
「いえ…なんも、自分が特別なことした訳じゃないですよ」
本心だった。
その場にいた人達が、それぞれ行動した。
麻衣子は、軽く頷き、次の列へ進んでいく。
距離が、少しずつ離れる。
一平は、自分のペースで作業を進めた。
赤い実に、指を伸ばす。
昨日と同じハウス。
同じ作業。
それでも、
同じ場所で、同じ出来事を知っている人がいる。
それだけで、
この作業場は、
ほんの少しだけ違って見えた。
一平は、次の実を見極める。
判断は、静かに続いていく。