
首輪のない犬
あらすじ
少年犯罪による被害者の苦しみ。
18歳の公務員の一人息子を暴走族に殺された塩崎南海男は、加害者少年たちの刑の軽い判決に愕然とする。妻の玲子は嘆きの大きさから立ち直れず衰弱死してしまう。
銀行員の塩崎は、妻の死による人生観の変化から転職し、何とか立ち直りを図る。大学時代の友人の助けもあり、彼は本来の健全な性格に戻る。
そんな時、塩崎はふとした縁であばずれ少女みわと知り合う。みわと会話を重ねる塩崎はみわの賢さに気づき、交際してみわの更生を図ろうとする。
酷い家庭のみわは裕福な塩崎との同居を熱望し、塩崎も同意する。やがてみわは妊娠する。そして婚姻届けの為みわは母親のもとに赴く途中行方不明となる。
みわの失踪は塩崎の性格を変える、彼は社会規律を遵守することを捨て、暴力的になっていく。
豪華なシャンデリアの下の明るいフロアにピアノの音色が流れている。高く澄み切った美しい調べが続き、なだらかな坂を下りるように重低音の実に力強い旋律に移る。ショパンには珍しく低音が聞きどころの前奏曲だ。
弁護士の森口(もりぐち)達郎(たつろう)は広いリビングの一角のソファーに肥えた体を委ねてゆったりとした気分に浸り、目をつぶり滑らかに流れ出るピアノの音符の波に揺られる情感に浸っていた。
武蔵野の十月の爽やかな日曜日ののどかな昼下がり、広い開放的な全面窓の外は洋風に仕立てた芝生の庭が広がり、向こうにプラタナスの巨木が数本枝をそよ風に任せている。ピアノは重低音を3度、強く鳴らし、ポツンと区切り音を打って終わった。
森口はきらめくようなピアノの音色に満足して、身を預けていたソファーから体を起こし拍手した。
サイドボードに寄りかかり胸に手を当て、うっとりと聞きほれていた妻の淑子(よしこ)も感嘆のため息を漏らして手をたたいた。
「なんて素晴らしいのでしょう!ホントに素敵だわ」
上品な中年女性の顔に賞賛の笑顔が浮かんでいる。
「私もショパンが好きでずいぶん練習したけれど、どうしても譜面を追うだけになってしまって・・・ピアノに申し訳なく思っていたのよ。だけど、なみよちゃんみたいに上手な手に鳴らしてもらってピアノも喜んでいますよ。なみよちゃんの手にかかると私にはこのピアノがまるで魂がこもったみたいに聞こえるの・・・素晴らしいわ、なみよちゃん、ホントにありがとう」淑子はピアノに近づきながら言葉を続ける。
「なみよちゃん、あなたの素敵な演奏おばちゃんもう少し聴きたいわ。なんと素晴らしい演奏でしょう!私魅せられましたわ!もっと聞かせてほしいわ。もっと引いて頂戴な、ねえ、みわさん良いでしょう」
淑子は満面に笑みを浮かべながらも真剣な表情で森口の向かいのソファーにしとやかに腰を下ろしている黒を基調とした和服を着こなした若い女性に声をかけた。
「しかし、みわさん、この曲を十歳にならない子がこれほど完璧に弾きこなすとはまったく驚くよ。かなり難しい曲のはずだが」
妻の、なみよへの称賛に相槌を打ちながら森口もうれしくてたまらないといった表情で、譜面を整理して椅子から降りた少女を優しく見ながら相槌を打った。
「有難うございます、このピアノが素晴らしいからですわ。・・・この子は年齢からいうと、かなり大柄なものですから何とか指が届くのでしょうか」
高い天井に届くほど大きく伸びた鉢植えの観音竹の横に置かれた、美しく輝く漆黒のピアノをまぶしそうに見ながら、みわもわが子の出来に微笑んでいる。
「それではお言葉に甘えて。なみよ、おじさまとおばさまにもう少し、聴いていただきましょうね」
彼女は、ピアノの横であどけない笑顔を見せて雀斑(そばかす)の浮いた浅黒い小さい顔にはにかみを浮かべながら立っている我が子に優しく声をかけた。
少女は嬉しそうにこっくりと可愛い頷きを見せ、椅子に上って腰を下ろして横に寄って来た淑子を見上げてと何か小声で話しながら譜面をめくっている。そして淑子に向かって笑顔で可愛いうなずきを送り、ピアノに向いて正しく座りなおした。この幼い子はピアノの演奏が心から好きなのだ。
森口はこの少女を愛おしく見るのだった。ピアノに向かって正確に動く骨太な骨格とまっすぐな背筋、浅黒い顔を覆う雀斑(そばかす)は少女の小さな顔の色黒を強めているが、大きな涼しげな目元と頬のえくぼに、少し突き出た丸い顎の真ん中の小さな窪みは、頬のえくぼと相まってこの少女の表情を妙に好感の持てる顔にしている・・この子の笑顔の感じは全くあいつにそっくりだなあ・・と森口は思う。
十年前に不慮の死を遂げたあいつの癖を思い出す・・この顎の窪みが髭剃りには厄介なんだ、穴の中の毛をよく剃り残すからな・・あいつはさわやかな笑顔で顎の髭の剃り跡を手でなでながらよく言っていたっけ。色黒で凹凸のはっきりした粗削りな顔立ちだが表情豊かな良い男だったが。
「ご主人にはこの前に言ったんだがね、なみよちゃんはピアノの才能は間違いないから、本格的な指導をつけてやったらどうかって」
森口は微笑を浮かべて、向かいのみわに目をやった。
「まあ、彼のことだからこの子の将来設計は十分考えているはずだから、私が口を挟むことも無いだろうが」
子供の無い森口夫妻は、親友の一人娘のなみよを我が子か孫のように感じている。
「エエ、主人もピアノの先生から話を聞いて考えているようです。ただあの人はなみよのこととなるとまるっきり猫かわいがりなんで、スパルタ式の練習になったら幼い子供がかわいそうだからといって決めかねています」
黒っぽい着物の上の透きとおるような白い顔を少しかしげて、みわは微笑(ほほえみ)を浮かべた。若い頃の雀(じゃく)班(はん)の名残をかすかに涼しげな眼の周りに残した、この女性の美貌は静寂に囲まれた深山の湖水のように澄み切った感じで神秘的なほどである。
「彼はニューヨーク出張からはいつ帰るの」
「水曜日の予定です」
「今、財務省は大変だからなあ、ギリシャ危機やら円高で、日本だけではどうしようもない事だがね。何とか対応はしなければならないから。ましてや国際局の幹部だ、忙しいことは間違いない」
森口は最近とみに白髪の増えた財務省一筋の友の顔を思い浮かべた。
様々な事情で若死にした親友の妻と結婚をした堅物の友に森口は言ったことがある。「お前がなみよちゃんが可愛いのはまことにうれしいが、君の子供はいつになるかな?」
森口の普通の問いかけに「俺の子が出来たとする、それはうれしいに決まっているよ。しかしな、そうなれば俺のなみよへの愛情が薄れると思うのだ。俺の愛情が実子に向くのは避けられないことだからな、なぜならそれは人間、いや哺乳動物の本能だからな。そうなればみわも色々と気を使うことになるだろうし、なみよも寂しい思いをするだろう。子供でも存外と敏感な感情があるからな、特に賢い子供は特に気を遣うもんだ。俺はなみよが寂しい思いをすること、それだけは避けたいんだよ。だから俺はなみよがせめて中学生になるまでは実の子は作らないと決めている、なみよもその年になれば俺たちの気持ちもわかってくれると思うし、一回りも年の離れた兄弟を芯から愛してくれるだろうし、俺たち夫婦もできた子供に一心の愛を注げると思うから。ただ、いまの俺、いや俺たちにはなみよの幸せな成長が一番だからな」
堅実な友の正確な理論に森口も納得したことであったし、優しくなみよを見守る森口自身も大いに友のこの言葉が嬉しかったことである。
「本当に主人は真面目一辺倒に働く人ですから、体を壊さないかと・・・・森口さん、このことも彼に言ってやってください、私が言ってもなかなか・・」
「まったく、真面目という漢字が服を着てまっすぐ歩いているような男だからな、昔から」
年齢が三十も放れた若い妻では言いにくいだろう。年齢とともに美しさを増しているが、どこか一抹の憂いを含んだ友の妻の美貌を見つめながら森口は思う。
「朝まで局に詰めて、早朝タクシーで帰ってシャワーを浴びてそのまま眠らずに出勤することも、最近は」
友人の若い妻は心配そうに話す。
「それほどか、それは大変だ。しかし冷静無比の彼のことだ、自分のことは自分で一番知っているよ、大丈夫だ。そんなことよりあなた方にはなみよちゃんの事のほうが大事だよ」
重厚な弁護士はビン毛だけが白くなった豊かな髪を横に見せて、なみよのほうに目を向けた目を向かいのみわに戻した。
淑子が指を一本口に当てて、フローリングの床を滑るようにそうっと近寄ってきて静かにみわの横に腰を下ろした。
清らかな美しいメロヂィがピアノからながれて来ている。ショパンの練習曲の一つで日本では別れの曲の名で知られている.この曲の演奏は技巧よりも哀情を高い質で表す表現力が要求される。
少女はピアノを慈しむかのように体をかがめ、いとも優しく鍵盤をなでる。ある時には激しく鍵盤をたたき、そして育ち盛りののびのびした肢体の背筋をまっすぐな姿勢を正して一心に鍵盤の上で指を踊らす。リズム豊かに力強くまたやわらかく、哀しくも美しいメロディーを繊細に正確に、また激しく大胆に奔放に・・・。
少女の細い指がなめらかに、また激しく力強く、白と黒のピアノの鍵盤の上を奔る。ピアノから流れ出るメロディーは情感が溢れるようだ、これはとても子供の技とは思えない。
この哀感の迫りようは何だ!まるで何かが乗り移っているようだ・・・(同じ正確性でもパソコンのキイを素早くたたく事務的な技巧とはかけ離れた何かがある、その何かとは演ずるものの情であり愛の現われである。この曲に対して絶対的な愛があるのだ、愛の魂がこの切ない別れの情感をピアノの鍵盤からたたき出しているのだ!十歳にしてこの演奏!この表現!これはこの子のもってうまれた才能だ、この子は本物だ!)森口は感嘆した。
魂を揺さぶるように愛しい(いとしい)ものへの別れの感情が溢れるように流れてくる。いつの間にか彼の目に涙がにじんできた。(俺のこの涙はなぜだろう・・・この旋律があの男の、最後の別れの言葉を思い出させたからだろうか・・・あの男の事は何も知らないはずのなみよの情感がそれを呼んだのなら、目に見えない血のつながりの神秘的な絆かなにかは確かにあるのか・・・しかしいろいろな衝撃があったなあ・・・・)
一連の衝撃は十年前に始まった。
一
三月中旬の多摩地方の朝はまだ寒い、午前八時前、出勤前の塩崎はリビングでスーツに腕を通しながら、テレビの天気予報に目をやっていた。画面は若い女性気象予報士が明るい口調で説明している。最近のテレビの天気予報は若いスマートな女性キャスターの場合が多い。彼女は天気図を指し示しながら、ここ二、三日は晴れ間が続くでしょうと、テレビの向こうから笑顔で話しかけている。
「今日も天気か、良かったな、午後は暖かくなるそうだ」
塩崎(しおざき)は朝食の後片付けで、キッチンで水音を立てている妻の背中に話しかけた。
「真一(しんいち)は今日は三浦半島めぐりかなあ」
彼はネクタイを結びながら、一週間の予定のツウリングに出ている息子のために好天気を喜んだ。
「寝る前に電話お願いねといっといたのに昨夜電話無かったわ、真ちゃん疲れてたのかしらね」
妻の玲子(れいこ)はタオルで手を拭きながら、リビングに入ってきた。
「電話の無いのが順調なツウリングの証拠だ、何なら真一の携帯呼んでみたら」
塩崎は時計に目をやりながら鞄を取った。年度末が近い、仕事も最後の追い込みに入る。彼の頭の中は会社の仕事の段取りが広がりだした。
「後からかけてみるわ、まだ寝てるかもしれないから」
玲子が、うなずいているとき電話が鳴った。
「真一だな」
塩崎は妻を制して、受話器を取った。
「塩崎真一さんのご家族でしょうか?こちらは神奈川県の浦賀警察署です。私は島村と申します」
案に相違して、電話の向こうから事務的な男の声が聞こえた。
「浦賀の警察の方ですか?こちら塩崎ですが」
意外な電話の相手に塩崎は鸚鵡(おうむ)返しに確認した。
「ええ、私は浦賀警察署の島村と申します、塩崎真一さんのご家族ですね」
「そうですが」と答え、次の言葉を待つ、少し間があった。
「私は塩崎真一の父親です、なにか?」
塩崎は自分の動悸が早くなったのを感じた
「実は・・・三浦半島の道路脇で死体で発見された男性の所持品の運転免許証が東京都国立市平和町塩崎(しおざき)真一(しんいち)、生年月日昭和五十九年十月二日となっていますので・・・・・」
電話の事務的な声は続いている、塩崎はひざが震え出した。
「真一がどうかしたの?」
いつの間にか横に来た、妻の玲子が心配顔で覗きこんでいる。
「交通事故ですか?」
震えを堪えながら聞く塩崎に、相変わらず電話の声は事務的に答える。
「その件もただいま調査中です」相手はゆっくりと事務的に言う。
死体といった相手の言葉が塩崎の頭に激しく響いた。
浦賀署の身元確認要請の連絡に、夫婦共に何かの間違いであって欲しいと、祈るような気持ちで遺体の置かれている病院に駆けつけた。が、変わり果てた息子真一の姿を眼にして塩崎は頭の中が真っ白になった。横で塩崎の上着を握って震えていた妻の玲子が、真ちゃん!と一声叫んで失神し床に崩れ落ちた。
死亡原因は事故ではなかった。
遺体は激しい暴行を受けた跡を残していて、特に顔面は肉親は二度と見ることが出来ないほどである。目をかっと見開き、鼻は歪んだままで周りに黒い血が渇いてこびりついて固まっていた。口は不自然なほど大きく開け、長い舌が顔の右側にたれ下がったままで棲ざましい形相になっていた。喉も大きく切り裂かれて血まみれの肉色を広げている。瞬間、塩崎は(別人だ!)と観たほどであった。
玲子は息を吹き返したがショックに耐え切れず狂乱状態となった。号泣しながら遺体に取りすがり離れようとしなかった。塩崎は放心状態でどうしていいかわからない、見かねた婦人警官が看護婦を呼んで寄り添って介抱したりし始めた。
事態を受け入れることの出来ない塩崎の頭脳は思考停止状態に陥っていた。
しかし、体はすでに大変な事態に反応したのか膝が震えて立っているのがやっとの心境であった。が、ここは強い気持ちでいなければと、息を整えながら浦賀署の処理に応じた。
前日夕方六時ごろ、現場から三キロほど離れたコンビニエンストアの駐車場で、真一に似た少年が暴走族らしい若い男数人に囲まれて言い争いをしていたとの目撃情報が寄せられた。そのことで捜査官は、犯人検挙には期間はかからないだろうとの話はあったが、今の塩崎には頭の片隅に入っただけであった。
真一は今春採用の警察官採用試験に合格していた。郵送されてきた合格通知書を見て、妻の玲子が「真ちゃんおめでとう、よかったネ」というと、照れくささを隠すように、無理に仏頂面を両親に見せていた姿を思い出す。
彼は高校三年間の夏休み、冬休みを通じ地元の郵便局に配達のアルバイトで貯めた郵便貯金通帳を両親に見せてバイクを買いたいと言った。塩崎が通帳の内容を見てみると、ズラリと何万円かの入金の行が並んで支出が一行も無い。全ての備考欄には彼らしく律儀に、国立郵便局何日分とか、鉛筆でキッチリと書き込んである。
塩崎真一名義の貯金通帳は、高校一年生の夏休みのアルバイトの時郵便局の係りに言われて口座開設したもので、新規作成日は平成十一年八月二日となっている。時期が来れば大好きな大型バイクを手に入れ、存分に乗るのを楽しみにこつこつとバイト料を貯めていたのだろう、かなりの金額であった。
そういえば彼の部屋には、バイクのパンフレットや二輪関係の雑誌やCDなどがきれいに整理されて置かれていた。
真一は親から見ても感心するほど几帳面な性格であった。誰に似たのかこの年頃の若者に似合わず、彼の部屋は整理整頓が行き届いていて、塩崎は感心したものである。
実は塩崎も妻の玲子もあまり整理整頓は得意ではない。よく夫婦で冗談半分に「少しは真一を見習ったらどう」と言い合い苦笑したものだった。
塩崎も妻も、真一の大学進学を望んでいたがどういうわけか早くから本人は高校卒業して警察官になることに決めていて、時折の両親の(大学を出てからにしたら)言葉にも揺るぐことは無かった。
妻の玲子はひとり息子の大学進学に備えて、学資保険などにも満額加入しており、あきらめきれないようであった。
塩崎は几帳面で人一倍真面目な息子の性格を考えて、それもひとつの生き方だ組織内で努力して立派な警察官になることだ、とも考えていた。真一の人生だから本人の意志を尊重すべきだろう。大学を出て入社しても使い物にならず、簡単に止めてゆく若者を何人も見てきたせいもあった。
真面目で堅実だった高校生活への褒美の意味もあって、塩崎はバイクの購入を許可した。不足分は塩崎が足しての、豪華な新型の大型バイクを手にした真一の喜びようはひととおりではなかった。
親に足してもらったとはいえ、初めて自分の力での大きな買い物である。姿、かたち、色、性能ともまったくもって申し分なしのバイクである、若者が心弾むのも当然であろう。そんな息子をみて玲子も弾んでいる。
「ツウリングはかあさんも連れてってネ」とか、うきうきとした様子でガレージに運び込まれたバイクにジーパン姿で跨ったり、真一にポーズを取らせていつの間に持ってきたのかカメラを構えて写真をとったりしていた。美しいメタリック塗装の内蔵機能むき出しの大型バイクは、観る人の心を若々しくさせる。
「二人で行ったらホテルでは、恋人どうしと思うかしらネ、ハハハハ」
玲子は真一の横に並んで、腕を組み込んではしゃいでいる。
「どう見たって親子だ、誰も間違わんヨ、型式が一緒だ。車で言えば製造年度が違うだけだヨ、お前等は」
塩崎の言葉にバイクと一緒に来た若いセールスマンは大笑いした。
「製造年度が違うだけと言ったって、二十年も違ったら性能も大きさも全然違うヨ」
めずらしく真一も軽口をたたく。玲子も嬉しそうにそんな息子を見上げていた。
真一は妻似である。丸い目に少し上向いた鼻、柔らかそうな頬の小作りな造作の顔、誰が見ても親子である。
「あなた、バイクをバックに写真撮ってヨ」
玲子は塩崎にカメラを渡した。
「似合いのカップルでしょ」真一の肩に顔を乗せてポーズを取った。
「よせやい」
真一は腕を振りほどいた。
「あたしもヘルメットがいるわよネ」半分ぐらい本気になっている。
「いやだヨ、マジでお断りだ」
苦笑いしている真一に「付き合ってやれよ、たまには親孝行もするもんだ」塩崎も機嫌よく笑った。
四月初めの警察学校入校までの空き期間を利用しての五日間のツーリングの予定表のコピーを両親に見せて、もう少しバイクに慣れてからにしたらと、一抹の心配を持っている母親を安心させている。
塩崎が横から見てみると、道路順路・ホテル名・電話番号・料金等が日にち別に書き込まれており、インターネットから取ったらしい地図も小さく付いている。真一らしい周到さで安心である。
「何かあれば電話するから心配ないヨ」と言って、晴れがましく愛車に跨り、広い背中を見せて出て行った姿と言葉が最後だった。辛い、悲しい想い出となった。
状況から犯人検挙に時間はかからないだろうとの予想に反して、即日解決とは行かなかった。
発見現場は、夜間は人通りの極端に少ない山道のため目撃者は無論のこと、何しろ事件に関する情報が皆無だった。
遺体解剖の結果、致命傷は胸部への鋭利な刃物状のものでの刺し傷か喉の切断かであった。ところが驚いた事に真一の胃の中から人間の耳の一部が見つかった。真一の耳は損傷が無いため、当然、事件に関係する人間のものと判断された。
このことが報道された日の午後、頭に包帯を巻いた少年が母親に付き添われ、浦賀署に自首してきた。そして少年の供実により、犯人グループ残り二名も検挙された。
最初の少年の自首は、報道を見て逃げ切れないとの判断と仲間による口封じ目的の殺害を恐れたためと想像される。
加害少年たちに接見した弁護士のテレビ会見がニュース番組で報道された。塩崎は見たくは無かったが、繰り返し繰り返しの放送はどうしても眼に入るし耳に聞こえる。
「コンビニの駐車場で被害者に道を尋ねられたが、知らなかったので解らないと答えるとバカヤローとののしられたので、腹が立ってトラブルになった。その後、偶然事件現場で被害者と出会ったので、注意しようと思って呼び止めて話をしていると、突然被害者が飛び掛って来て耳を噛み切られたので自分はカッとなって反撃したが相手が死ぬとは思わなかった。今の自分は被害者に遣り過ぎて悪かったと思うと、少年の一人は供実しています」長髪の中年の弁護士が、髪を時々掻き揚げながら無表情にメモをみながらインタビュウに答えて、加害少年達は反省していると強調して発表している。
(ろくでなしの言い逃れのでまかせをわざわざ公的機関を通じて発表している。こんなデタラメな嘘でも何回も聞かされたら、単純な人間は本当と思うかも知れない)塩崎は怒りで体が震え出した。
早速テレビのワイドニュースなんかで、少年心理学者とかが加害者の供述を鵜呑みにして事件への感想をコメントしていた。そのうち多くのメヂィアが犯人の一方的な供述を事実として報道しかねない。
真一は周到に準備しており、必要な順路地図もホテルの案内地図も携えている。判らなければホテルに電話するのが普通だ。真一が尋ねた先はどこかを係官か弁護士は聞いたのか。ただ新品の大型バイクが羨ましくて何か些細なことで言いがかりをつけ、執拗に付け狙いなぶり殺しをしただけだろう。
耳を噛み切ったのも、死を覚悟した真一が犯人の証拠を残すための切羽詰った最後の苦しい動作だろう。これでは真一が浮かばれない、どうしたらいいのだろう・・・・・。
真一の通夜、葬式などは塩崎の勤め先の会社と、近所の人たちが全面的に協力してくれ、一応とどこおりなく進行した。
妻の玲子はあまりのショックに入院したままで、会社の同僚が付き添ってくれている。
身元確認の時、玲子に見せなければ良かったと塩崎は後悔した。
母親が見るには真一の体は損傷が激しすぎた。顔は見分けがつかないほど傷んでいたし、喉の切断は犯人達が絶対の証拠になる噛み切られた耳を取り出そうとした旨供実があった。口が大きく開かれていたのも冷酷な犯人たちが、仲間の耳を荒々しく捜した跡だろう。
母親としては、見も世も無いような悲嘆も無理もないことであった。
塩崎は見た目は平静を努めたが、納棺の釘うちのときはさすがに取り乱した。あとからあとから涙が溢れ、嗚咽が突き上げてきて激しく号泣し続けた。回りの人達も同情のあまり涙をぬぐった。
塩崎は父の死の時にも母の死にも、当然悲しくはあったが高齢である程度予期されたことでもあったので、他の親族のように取り乱すほどでは無かった。
そんな自分を振り返ってみて、俺は以外に感情の少ない人間だなと、思ったことだった。
どれほど大事な人でも死んでしまえば、もう魂は無いたんぱく質と水分で出来た物体だと、思うようなところが塩崎にはある。しかし、ひとり息子の非業の死を前にすれば、とてもそうはいかない。この悲しみにはとても耐えることは出来なかった。塩崎は涙が枯れるまで泣き、また泣いた。 真一が不憫で不憫でどうしようも無かった。
何年間も好きな大型バイクを手に入れるため、こつこつと羽目をはずすことも無く高校生活を過ごし、やっと念願のツーリングに出て二日目での死である。
これから世間という大海原にこぎ出でて、楽しいことや、悲しいことなど、うれしいことや辛いこと、いろいろ経験して、社会の一員となり大きく成長していかなければならない、これからの人生だったのに・・・。
慌しかった式日も過ぎ、気がかりな入院先の妻の所へ面会に行った。
近くの花屋に頼んでおいた見事な胡蝶蘭の鉢植えが窓際で美しく咲いていた。玲子は白い胡蝶蘭が好きだった。
「ひととおり終わったヨ、どうだい少しは落ち着いたかい」
塩崎は妻のやつれように驚きながら、言葉を掛けた。
実際のベットに身をうずめていた玲子は、さしのべた塩崎の手を掴んで半身をおこしたが、急に十歳も老けたように見えた。
当然ではあるが髪は乱れており、血色の良かった顔色は蒼ざめて目の下に隈が出来ていた。
点滴の用具が一式横に立っていた。狭い病室には他に小さな食台があるだけである。
開けられた窓からは少し風が入って来ており、白いカーテンが揺れていた。
「すみませんありがとう、あなたこそ大丈夫なの?随分憔悴してるわヨ、毎日なにを食べているの?」
玲子は意外にしっかりしており反対に塩崎を心配しているようである。
「俺は大丈夫だ」
塩崎はひとまず安心し、妻の手を握ったまま眼を見つめた。
「あなた、ご飯はしっかり食べてくださいね、体が大事なときですから」
玲子は、塩崎の手を両手で包み込み無理に微笑もうとしている。
心配性の彼女は、葬式の後処理などの雑事と家のことをいろいろとくどいほど塩崎に話していた。
「石川さんにくれぐれもお礼を言っといてネ、本当に良くしてくれたわ」
石川さんとは会社が気遣って、玲子に付けてくれた付き添い婦である。
退院したいという妻をなだめて病院をあとにしたが、実際今妻が帰宅すればどうなるか心配であった。
玲子には、小さな骨壷になった真一を見るにはまだ早すぎるだろうし、そのうえ自宅には真一を思い出すものは有り余るほどある、まだ真一の部屋には彼の匂いまで残っている。
自宅に帰りガレージに止めた車から出ると、灰色の壁に立てかけた黄色いサイクリング用自転車が目に付いた。真一が三年間愛用したしゃれた自転車だ。
塩崎も健康のためサイクリングを愛好していた。“人間の健康度は、その人間の太ももの大きさに比例する” これは塩崎の持論だ。親の死ぬ時などもそうだったが、もう残り少ないといわれた人間の太ももは、筋肉がほとんど無くなっている。これは比較的太っている人も同じで、上体には肉が付いていても太ももは極端に小さくなっている。たとえて言えば、ピーマンに割り箸を突き刺した感じだ。
人は太ももが丈夫なうちは元気で居られる、太ももが弱くなって動けなくなったら終わりだ。
『寝たきりになった時のために、貯金をしておこう』これは介護保険などのパンフレットのうたい文句だが、ある医者の言葉はこうだ『寝たきりにならないために、貯筋しておこう』けだし名言だと、塩崎は思ったものだ。
太ももの強化には自転車が手ごろだ。そのため塩崎は、休日などに真一を引っ張り出して、親子二人でよく多摩川沿いにサイクリングに行ったものだ。真一も嫌がらずに空いている日は付き合ってくれた。まあ、そのためには安くないツーリング用自転車を買わされる羽目にはなったが。
晴れた日の親子での、多摩川沿いのサイクリングは気分が良い。
「もう二十キロぐらい来たかな」
額に汗を浮かせて、塩崎は前の真一に声をかけると、真一はスピードを落として父と並んだ。
「父さん、案外タフだな、さすが昔の山男だな」
「俺はおまえ、息子を気遣ってだな、セーブしてるんだぜ」
「ハハハ、口も達者だ、おっさんまだ大丈夫だな」明るい言葉を残して
並走していた真一は腰を浮かしてスピードを上げて見る見るうちに前に離れて小さくなり、木陰に隠れて見えなくなった。
天気の良い休日の多摩川の河川敷はほのぼのとした、それで居て活気にあふれている。人も小鳥もそよ風に揺れる木々も、見えるものすべてが元気そうである。
塩崎は自転車を止めてペットボトルをくわえた、ジョギングの男女が横を通り過ぎた。土手の下のグランドでは、歓声を上げて子供たちがサッカーに興じているし。川辺では釣り人が何人かさおを出している。最近はこのあたりの川もきれいになったようだ、なにを釣っているんだろう。塩崎は気持ちよさそうにペットボトルの茶を飲みながら、周りの風景を眺めている。
いつの間にか戻って来てジャーっと音を立てて真一が自転車を斜めに滑らし、笑顔で器用に横に止まって言った。
「悪いが父さん、向こうで友達に出会った、そいつと一緒に俺行くぜ、遠乗りだ」
「なんだよ、冷たいな」
「ハハハ、父さん、ひとりで帰れるだろう」真一はさわやかな笑顔を見せていた。
「馬鹿野朗」塩崎も笑い出した。
「信号を良く見て帰るんだよ、キミ」
背中を見せた真一の笑い声が響いた。
「おまえ、金持ってるのかい」
「ああ、じゃあね、晩までには帰るよ」
真一はサドルから腰を浮かして声を残して消えていった。
あのときの息子の後姿を塩崎は思い出していた。そして今は真一のものを見るたびに、胸の中が凍りつくように冷たくなるのである。
誰も居ない空虚な自宅に帰った。薄暗いリビングに真一の世話していた熱帯魚の水槽だけが輝いていた。
綺麗なグッピーが数匹、今までどおり優雅に泳いでいる。小さく爪の先ほどしかないがグッピーは生きて動いているが、真一は無機質の小さな骨になってしまった。塩崎は言いようの無い寂しさに襲われた。よく真一がテレビを見ながら長い体をうずめていたソファーのコーナーは水槽の光で影を作っていた。
彼は照明をつけず灰色の部屋の中を歩き、ソファーのコーナーにゆっくりと腰を下ろした。そして意味も無くテレビの画面に目をやっていた。スイッチの入っていないテレビの画面は真っ黒いままで、その下でわずかに電源ランプが灯っている。考えをまとめる気もなく、ただぼんやりと薄暗い部屋に溶け込んでいた。フローリングの床はわずかに灰色の反射を写している。二階で物音がしたようである。いや、音ではなく声のようにも感じた。塩崎には真一が勉強に飽きたときなどに発するため息に感じられた。塩崎は自分の錯覚を吹き付ける冷たい風のように感じた。しばらくそままの姿勢で動かなかったが、やがて、力なく立ち上がった。
二階へ上がり真一の部屋に入った。見慣れた部屋のたたずまいだ。南側の窓を開けて、片隅の学習机に歩み寄った。
何処から入って来たのか机の上の真一の写真の前に供えている赤い林檎に、白い蝶が一羽止まっているのが目に入った。
塩崎が近寄ってもじっとして動かなかった。(不思議だ!生きている蝶かな?)軽く手をさし伸ばすとひらひらと舞い上がり、塩崎の顔の周りを付かず離れず舞うように部屋あの中を飛んだ。思わず捕まえようとした塩崎の手を逃れるように窓から外へ流れ出て風に吹かれて消え去った、整然とした部屋の空間が残った
(真一が蝶に身を変えて帰っていたのか?まさか?)突然、在り得ない思いが塩崎の脳裏をかすめた。
そんなことがあるわけ無い、と想いながらも塩崎は蝶を追ってベランダに出た。フェンスに手を置き身を乗り出して、白い蝶を眼で追ったがもういない。普段の見慣れた光景だが、今はもう塩崎にとっては色彩の無い荒涼が風に吹かれて広がっているだけである。
(そういえば真一は小さい時から林檎が好きだった)塩崎は今の白い蝶が息子の魂と思いたかったのだろう。
あらためて外の風景の中に蝶を捜したがやはりいない。白いものといえば、フェンスの下に枝を広げた白梅のつぼみが寂しく散らばっていたが、蝶は見当たらない。
振り返って部屋の中を見廻した。いろいろな真一の使った物が整然と置かれているだけである。生きているものは何も無い。供えられた果物、本棚の乗った学習机と椅子、白い壁に沿って主の居なくなったベット、壁には二輪の有名ライダーのポスターと真一がメモを書き込んだカレンダー、高校の制服などが並んで掛かっているだけであった。塩崎は思わずベットに近寄り布団をめくってみたりした。何も変わってない、どうしようもない寂しさがこみ上げてくる。
(締め切ってあった部屋にあの蝶はどうやって入ってきたのだろう、いやあれは蝶ではない、真一の魂が両親を心配して蝶に身を変えて帰ってきたのだ。絶対にそうだ、あの子はそんな子だった・・・俺は夢を見ているのだろうか?)塩崎は窓から身を乗り出してもう一度蝶を捜し、そしてたまらなくなって絶叫した。
「真一―!」
白黒の殺風景な風景の中へ声は消えて行ったが、街路樹の枝が寂しく風に揺れているだけである。何か空虚なものを探している手応えの無さを感じ、耐えに耐えていた悲しみと寂しさと空しさが一度に彼を襲った。
塩崎は嗚咽した、真一のベットに腰をおろし手で顔を覆い泣いた。
(真一の魂が空のどこかから見ているぞ、真一がおまえを心配しているぞ、女々しすぎるぞ、塩崎(しおざき)南海男(なみお)!しっかりしろ、良い年の男だろうが!)ひとしきり泣いて立ち上がった塩崎は、何か吹っ切れたような表情になっていた。涙は苦しみを流し出すのだろう。
“魂”とは何だろう、“こころ”とは何だろう、時々塩崎は考えるようになった。悲しみ、喜び、怒りの感情は胸から湧いてくる、決して頭からではない、脳からではない、それはこころから湧いてくるからだ。ならばこころは心臓か、そうではない、心臓は体の隅々まで血液を送り出しているポンプに過ぎない、
脳と心臓はどんな動物でも持っている最も大事な部分だ、しかしこころとは違う。
蝗やバッタにこころがあるか?金魚や小鳥はこころを持っているのだろうか?いや持っていないだろう。こころを持っているのは霊長類だけだろうか?
人間は弱い動物だ、それはこころを持っているからだ。人間は感情の動物だ、感情のない人間はいない。
科学者は感情をつかさどる部分は左脳とか右脳とかいっている、しかし、と塩崎は思う、
脳がこころを制御できるか、いやNOだ。どんな優秀な脳でも、こころは制御できない、もしも脳で感情を制御できる人間がいるとすれば、それは人間ではないロボットだ。
“こころ”“魂“はいつから人間の体に宿るのだろう、母親の胎内にいるときか?、それとも昔から言う、”物心つくころ“だろうか。人間が死んだらその人間のこころは何処へ行くのだろう。
人間は”生まれ“老い”病み“死ぬ”、これは宿命である。真一は間のふたつを省いて逝った。辛い現実である、受け止めることは難しい、しかしいくら嘆いても真一は生き返らない。
この苦悩を乗り越えるにはどうしたららいいのか・・・・。
塩崎は難しいことは、あまり考えたくない男である。眼に見えるもの、この世にあるものしか信じないほうである。難しく言えば唯物論に服を着せたような人間だ。簡単に言えば(在るか無いか判らん物が信じられるか)と言うタイプだ。
しかし、最愛の我が子の急逝に直面し、魂とか心とかえらく観念論的に物事を考えるようにし始めた。
おそらくこれは、この男に備わった危機に直面したときの柔軟な対処方法だろう。そうしなければ暴発しかねないのだから・・・・・。
塩崎は神仏を信じてはいない。もし神が居るならば世界中に悲惨な事件など起こらない、もし起こったにしても、優しい救済の手が差し伸ばされるはずだ。考えても見よ、世界中でどれほどの無垢な人々が暴虐の犠牲になっていることか。鬼も目をそむけるような悪魔の仕業がどれだけ繰り返されていることか、神が居るならば許すはずがないではないか、
塩崎は今まで考えもしなかったようなことを、命脈もなしにいろいろと考える・・・・・。
玲子は、だんだんと気力を無くしてゆくのが、塩崎には痛いほど判った。
彼女は、真一の死で希望を失い、裁判所の判決で生きる勇気も失った。
この国で生きて行くのが、この世にいるのが嫌になったかのようであった。
真一の死を無駄にしないためにも、せめて、残忍な犯人たちへのそれなりの罰をのぞんでいた。何も死刑にせよといっているのではない、被害者の苦しみ痛みを認知させなければならないと思うだけだ。
事件は未成年者の犯罪であるから管轄の家庭裁判所で審議された。家裁では事件をリンチ殺人事件だと審議し、その凶悪性を勘案し、殺人・死体損傷・死体遺棄による刑事訴追が妥当と判断し管轄の地方検察庁に逆送措置を採った。検察控訴により地方裁判所での公判に移った。しかし担当地裁の裁判長は家庭裁判所の判断とはまったく逆の判断を下した。(犯罪事実はあるにしても、発端は些細ないい争いから始まった若者同士の喧嘩が主因であり、幼い感情のエスカレートが偶発的に起こした事件である。これは双方にとって悲劇である。ならば、これからも将来ある少年の更生が重要であるので、温かく見守ってやらなければならない。判決には温情が加味されるべきである)
玲子にとって真一はかけがえの無い愛しさの対象だった、それを社会に冷酷に奪われた感覚に侵され、ただ社会から阻害された寂寥感だけが残った。
もともと玲子は人一倍優しい性格だった。
大学で看護学を習得していることもあって、ボランティア活動に熱心だった。とくに神戸大震災のときなど十日間連続で家を空け、その間コンビニ弁当ばかりだった塩崎が帰ってきた玲子に文句を言ったことがあった。
「二三日だと、思っていたんだがなあ」
「すみません、あんまりひどいんで、思わず日にちがかかっちゃたみたい」
「神戸はそんなに大変なのかい」
「してあげたいことが、いっぱいありすぎてね、家(うち)も気にはなっていたけど」
「俺一人ならどうって事は無いんだがね、真一がさびしがってなあ」
「真ちゃん、ごめんなさい、これからおいしいものいっぱい作るからね」
抱きついて離れない真一の顔を、優しく覗き込んで話しかけていた。
玲子が神戸から帰ってしばらくして、神戸から玲子宛にはがきが届いていた。裏面いっぱいにカラフルな蛍光ペンの花のモザイク模様を背景に丹念に小さな字がびっしりと並んでいた。
あまり綺麗なはがきだったので、それとなく塩崎が読んで見ると、ボランテェア先からのお礼状のようだ。
(別れの夜、塩崎さんがフルートで吹いてくれた、“月の砂漠”のなんとすばらしかったこと、思い出しています。
他の楽器の伴奏もなしの、フルートのメロヂィだけで、どうしてこれほどの感動を与えれたのか、不思議です。塩崎さんが演奏いるとき、父は聴きながら泣いていました、母も泣いていました、みんな泣いていました、私もなぞって歌いながら、涙が溢れました。
みんなの胸に染み入る音色でした。みんなが塩崎さんの、あの演奏で勇気をもらいました。本当にありがとうございました。おかげさまで私たちも、だんだんと落ち着いた日常に戻っています。ありがとうございました)
手紙の内容は、心からの感謝の念がこもっていた。玲子の優しさの現れだと塩崎は感心したものだった。
玲子は学生時代、吹奏楽部に属していたので、真一が生まれる前はよくフルートを吹いていた。なかなかの腕前で、塩崎も好んで聞いたことだ。そういえば“月の砂漠”を聞いた事がある、童謡だが、フルートの音色に良く合う曲だ。
被災して、非現実的な生活を強いられている時こそだから、哀愁を帯びた単調な旋律が感動と勇気を与えるのだろうか。
自宅の植え込みに瀕死の野良猫が迷い込んで来たことがあった。
サツキの根元に白い猫が横たわっていた。塩崎が覗き込むとで、特段の怪我はないようだが、塩崎が近づいても立ち上がる力もなく苦しそうにいびきをかいていた。
ここで死なれたら困ると、塩崎が棒か何かで突っつき追い出そうとすると、後ろで玲子が言った。
「可哀相よ、もうすぐ死ぬんだから。人とか犬とかに追っかけられてばかりの一生だったと思うよこの猫、だから最後だけは静かに死なせてあげてよ」
玲子は少し涙ぐんでいるようだ、塩崎もそれもそうだなと思った。
まもなく猫は死んだ。ごみとして出すのも気が引けて、おかげで塩崎はどこかの山に埋めにいかなければならないはめになった。
おまけに、猫の死骸を埋めての帰りに、山道で足を滑らし、右足に軽い捻挫を負ってまった。
「ちょっ、さっそくたたったのかよ、ちゃんと埋めてやったのに」
塩崎はスコップをかついで、びっこをひきながらぼやいたが、塩崎は玲子の優しい気性が好ましかった。
法曹界で使われる言葉に“罪を憎んで人を憎まず”と言う格言がある。
誰が言い出した“名言”だろう、ただし人間に感情が無いことが前提である。しかし、人間には感情がある。
哀しみ、憎しみの感情を押さえきれずに、のたうつように苦しんでいる遺族に取っては、ただの戯言だ。
人としての痛みを知らない、ただ体が大きくなっただけの残忍な若者に、被害者の痛み、その家族の哀しみを知らしめなければと思うだけだ。そうでなければ真一の死は犬死になる。
玲子も、裁判所の加害少年に対する人権尊重は、今まで見聞きした事件の対応などで、そこそこは判っているつもりであった。が、これほどとは思いもよらなかったのだろう。
社会秩序を守り、納税義務を果たし、より良い社会、家族の構築に努めている真面目な人間の命の値段など、社会に害毒をもたらす凶悪犯の貴重な命に比べたら何分の一かだ。
特に凶悪犯が少年ならば将来善良な人間をまだ何人かは殺せるかも知れない、大事にしなければ。
世の中にもし悪人がいなければ裁判所は必要でなくなる、裁判所存続のためにも悪人は大事にしなければ、といわんばかりではないか。まるでブラックジョークだが。
少なくとも玲子は判決をそう受け取ったのである。
玲子は、裁判所は正義の味方だと信じていたからこそ、裏切られた失望は大きかったのである。
塩崎もこの判決は、無味乾燥な人間だからこそ下せる判決だと思えた。
裁判官にもいろいろな人間がいるだろう。しかし、おそらく本件の判事は、学生時代は活字ばかり睨んで感動も無い時代を過し、司法試験に備えて関係法規類や過去の判決文を丸暗記し、入省してからは重箱の隅をつつくように裁判をゲーム化して処理する。
それでも人間だから一応人情はある。しかし、その少ない人情は加害者のみに向けられ被害者には無かった。
被告席におどおどとした仕草を見せて座り、裁判官に対して従順な態度に終始し、時に悔恨の涙を見せる、そうゆう凶悪犯の一面を全人格だと錯覚する世間知らずな裁判官。
そもそも軟体動物の蛸だって、取り付いた岩によって色形を変えるのではないか。どんな動物でも危機に際しては、相手を欺く自衛本能を働かすものである。ましてや悪賢い人間である。
そこを見抜けない、いや見抜こうとしない司法関係者が多すぎる。
最前列で位牌を持ち、“同情すべき被告”を、涙しながら見つめる遺族を疎ましく思う裁判長もその一人だろう。
本件担当の女性裁判長は典型だった。遺族の真一の写真持ち込み禁止の理由に、彼女の特徴が如実に表されていた。
1 被害者の写真は、純真な少年たちの精神面に動揺を与える恐れがある(純真な少年たちとは加害者たちのことである!)
2 加害少年たちは、懇切丁寧に扱われなければならないのに、被害者の写真はそれを妨げる恐れがある。
3 裁判は被害者のために行うものではない、ゆえに写真の持ち込みはできない。
4 被害者の遺族も、加害少年たちの更生を考えるべきである、写真の持ち込みはそれに反する行為である。
以上が少年裁判における関係者(被害者家族も含まれる)の配意の義務だと彼女は言うのだ。
『行きずりの人間を嬲り殺し、罪を逃れるためにでまかせを言い募る少年が純真だと!
戦後の孤児が、空腹に耐えかねてパンを盗んだのとは訳が違うぞ!』
被害者の遺族でなくても普通はこう思うだろう、ましてや最愛のひとり息子を殺されたものにとってはとてもやり切れる話ではない。
塩崎真一がリンチ殺人事件で死んだことなど、小さな事件なのだろうか?・・いやいや家族全員が巨雷に打たれたような事なのだ。
世間にとってはすぐに忘れるような事でも、当事者にとっては一生忘れる事など出来はしない。呻き、悶えながらこれからの人生を送らなければならない。
犯罪が起こった、悲惨な犯罪である・・当事者にとっては大変な悲劇だろう。その悲劇のつけの大半を何の罪も無い被害者側に押し付け、残忍な加害者をかばおうとする判決だ。
犯した罪に対してそれに見合う罰を与えることが、法治国家の正義ではないのか。
今の裁判所に、正義求めるのは無理だろうか。なら被害者らはやり場の無い思いを何処に持っていったらいいんだろう。
塩崎は理不尽な国家権力の前で、自分の無力を思い知った。
要するに、被害者とその家族の苦しみ、哀しみ、絶望感など、血を吐くような思いなど、解からない。いや、解かってはいけないと考えている人間たちが、裁判の絶対権力を握っているのだ。
塩崎は傍聴席から裁判を観て、犯人グループの下品な風貌と軽薄な態度に嫌悪感を覚えた。
人ひとり殺し、その家族を絶望の淵に落としこんだと言うのに、まるで万引きで捕まったかのような感じだ。
また、裁判所の無防備な警備にも少なからず驚いた。裁判所内へは誰でも自由に出入りできるし、法廷室の傍聴人席へも同様だ。また、被告席と傍聴人席との仕切りも高さ一メートルも無いおもちゃのようなものである。
塩崎がその気になれば犯人のひとりや二人は刺し殺せそうである。
二回目の傍聴から玲子は塩崎の手か衣服のどこかを掴んで離さないようになった。まるで塩崎の心の中を見透かしたかのようである(もしもあなたが無茶なことをしたら私は生きていけないの、思いとどまってよ、お願いだから)
そのとおりだ、もしも塩崎が裁判所内で激情に駆られ傷害事件でも起こした場合は、玲子は間違いなく死ぬだろう。それぐらいの分別は塩崎にもある。
結審し、判決が下った(この言葉自体が、封建的社会の名残だが)。
その日の午後、端正な顔をした女性裁判長は薄い唇を動かし、早口で事務的に判決を言い渡した後、いとも優しく思いやりの言葉を加害少年たちにかけた。
「これを機会に、あなたたちが真面目な人間に成長されることを、私は心から願っております、希望をもって生きてください」そして、傍聴席で泣いている玲子を一瞥し席を立った。
塩崎は一瞬、この裁判長に殺意さえ覚えた。
玲子はうつ病がひどくなった。
夜の眠りが極端に浅くなり、時として二,三日まったく眠れないことも有ったようだった。
塩崎のほうは日日の張り詰めた仕事があり、それによって気を紛らわすことも出来たが、玲子はひとりで家にいるから、どうしても真一のことばかり考えるのだ。
男と女の違いも有るだろう。母親は受胎した命を自分の身体の中で、血液を流して養分を送り、はぐくみ育ててから産んだ愛しい分身である。父親の感覚とは違うかもしれない。
彼女は自律神経も変調をきたし、突然脈拍が激しくなったり呼吸困難の発作が起こったりしだした。
医者の話では、この病気の原因は精神的なものが多いから何か生きがいを持つように導いてあげるのが一番だと言う。
塩崎はどうしようと悩んだ。趣味のフルート演奏などの関わりとかも薦めてみたが長続きしなかった。とてもそのような気になれないようだった。あれほど感性の豊な女性が美しい音楽にも反応しなくなった。
塩崎は何かと休みを取り、妻を海外旅行とか陶芸教室とかに連れてゆき、気を和まそうと努めたが玲子の気分はふさぎ込んだままだった。
玲子の容態は治療を重ねたが、一進一退であり、以前にもまして塩崎のそばに居たがるようになった。
突然泣き出すことなどもあり、定期的な通院にも夫の付き添いが有ったが良いとの、医師の助言などがありだした。塩崎は思い切って上司に長期休暇を申し出た。玲子には塩崎しか頼るものはないのである。
「すみません、あなた。私がふがいないばっかりに」
言いながらも、嬉しそうだった。
ある日、塩崎に病院から電話があり、主治医が話したいことが有る旨連絡があった。
自宅に妻を残し病院に向かった。診察室では見知った主治医ではなく若い医者が居た。医者は、レントゲン写真をパネルに広げて見入っている。
「私は消化器科の担当医です。塩崎玲子さんのご主人ですね」入ってきた塩崎を見ていった。
「そうです、塩崎です」
塩崎はレントゲン写真と医者とを等分に見ながら、いすに腰をおろした。横に背の高い若い看護婦が立っている。
「実は、奥さんの胃の写真から、腫瘍が見つかったものですから、生体検査といいまして、腫瘍の一部をかきとり、良性か悪性かの組織検査をしました」
塩崎のほうを向き直って話す。
「はあ・・・」
塩崎は手を握り締めて、若い医者の顔を見た。玲子は胃の話などはいっさいしなかったが・・・。
「申し上げにくいんですが、検査の結果は悪性腫瘍でした」
「はあ・・・、癌ですね、治療方法はどうなりますか」
「体力等いろいろ勘案してですね、いろいろな検査はいるんですが、他の臓器への転移が無ければ摘出が最良と思います」
「胃を切り取るということですね」
「そうです、全部摘出にはならないと思うんですが」
医者は写真を指差し説明を始めた。
「ただ、かなり進行していますから、ご家族の方は万一の覚悟はしていただいて置いた方が・・・」
医者は塩崎のほうに向き直り、低い声でゆっくりといった。
塩崎は医者の説明を聞きながら、玲子にどう話そうか考えていた。
帰宅への電車の振動を身体に感じながら、右から左へ流れている灰色の景色を目に映し踏切の鈴の音を耳に入れながら、つり革を握って立ち尽くした。なんの考えも浮かばなかった、電車が止まるたびに周りの人が入れ替わったりした。学生服姿の三人の高校生が乗り込んできた、低い声だが屈託の無い会話を交わしている。授業の内容のようだ、時々明るい笑い声がはじけたりして元気そうである。真一もこんな学生服だったな、遠い昔のように塩崎は思い出していた。
帰ると、玲子は夕食の支度をしていたらしくエプロン姿で出迎えた。努めて元気そうに笑顔を見せている。
「お帰りなさい、お風呂を先にするの?ご飯はもう出来ているけど」
「風呂を先にしようか」
塩崎は妻の顔を見るに忍びなかった。湯につかりながら彼は思案していた、(今晩言うのは止めよう、明日にしよう、理由は胃潰瘍の手術だな)。
バスローブ姿でテーブルに付くと、玲子が冷蔵庫からビールを取り出して言った。
「あたしも少しいただこうかしら」
微笑を見せている。珍しいことに痩せた顔に少し化粧をしていた。
「そうだな、君も付き合うかい」
塩崎は二つのコップにビールを注いだ。
「乾杯」
塩崎はコップを合わせてから、一気に飲み干した。
「あなた、病院の結果はどうだったの」
微笑を含んだ目で塩崎を見ていった、塩崎はギョッとなった。
「お医者さんはなんていったの・・隠さなくてもいいの、知っているんだから」優しいまなざしで訊く。
「知っていたのか、俺が先生に呼ばれたことを」
「胃がんだって言われたの?塩ちゃん。本当のことを言っていいの、私は大丈夫だから」
塩崎は、これは到底隠せる話ではないと悟った。
「胃の中に小さな腫瘍があるんだって、一部の摘出で治るという話だ」
話しながら塩崎は不意に、それこそ突然嗚咽がこみ上げてきた。彼は妻の手を両手で包み涙を流した。
「大丈夫だって、肺がんは難しいけど胃がんは簡単に直るって言うよ。泣かないでよ、塩ちゃん」
玲子は笑顔を向けて、塩崎に慰めの言葉をかけたが、寂しそうな目からはみるみる涙があふれた。
「あなた、塩ちゃん、ごめんなさい・・心配かけて」
「いや、誤らなければいけないのは俺のほうだ、もっと気をつけてやればよかったんだ」
いつしか二人は抱き合って涙した。
「あなた・・お願い・・抱いて」
玲子は塩崎を見つめて言った。死を予感した玲子は、最後の生きている証を求めたのだろう。
塩崎は無言で、妻を抱き上げ寝室へ歩いた、驚くほど軽く感じた。
ひさしぶりの交歓に疲れたのか、玲子は横で安らかな寝息を立てていた。やつれて小さくなった顔は、蝋のように白くなり、鼻梁がとがっていた。その寝顔を見ながら塩崎は、もう少し玲子を愛おしんでやればよかったのにと、後悔した。
恋愛時代の天真爛漫な玲子、新婚時代の可愛い所作の玲子、いろいろな時の玲子が塩崎の脳裏によぎる。
新婚当時のある晩、塩崎が会社から帰宅すると、妻の玲子がエプロン姿のままリビングのソファーに腰をうずめて泣きべそをかいている。おどろいて肩に手をおき覗き込む塩崎に、彼女は丸い大きな眼に涙を浮かべて言った。
「中島さんが、もって来たくれたお魚を料理していたけど、どうしても頭が切れないのよ、なんかお魚の顔が、隣の吉野のお婆さんに見えてきて・・・あたし気持ちが悪くなって・・・」
中島は玲子のハイキング仲間だ。彼が磯釣りで珍しく大漁だったらしく、おすそわけでの電話があり、魚好きの塩崎のために玲子が欲しがると、わざわざ届けてくれたのだそうである。
玲子は塩崎の帰宅までに、三枚におろしておくつもりで、頭を落とそうとしているうちに、魚の顔と、吉野のお婆さんの顔と混同してきて、気持ちが悪くなったのだった。
塩崎がキッチンをのぞくと、白い小さなまな板の上いっぱいに、磯魚の“ブダイ”が、笑うように歯を見せて横たわっている。頭の下は玲子の奮闘の傷跡を残していた。なるほど“ブダイ”は骨の硬い魚だ、わかい娘には無理だろう。
確かに、浜育ちの塩崎は魚が好きである。塩崎が喜ぶと思って玲子は挑戦したが手に合わなかった。
そういえば、隣の吉野のお婆さんはかなりの反っ歯である。言われてみれば婆さんの横顔はブダイに似ている、特に笑ったとこなんぞはそっくりだ。塩崎は吹き出したものである。
「笑っちゃだめだよ、塩ちゃん」
彼女は泣き笑いを小さな顔に浮かべ、塩崎に抱きついて来た、弾むような大きな乳房の感覚を思い出す。
それからしばらくの間、出勤する塩崎は決まったように毎朝八時過ぎに家の前に箒をかけている吉野の婆さんが、塩崎に笑顔を向けて朝の挨拶をくれるのだが、こちらは挨拶を返しながら、こみ上げてくる笑いを呑み込むのに苦労したものだった。新婚間もないころの、たわいも無いシーンを思い出す。
若い身体に宿ったがんは進行が早かった、リンパにも転移しており手術は手遅れだった。
玲子はこのことを覚悟していたようだった。(隠していてごめんなさい)というような意味をたびたび塩崎にもらした。何ヶ月も前から自覚症状があったのだろう、(もう家には帰れないのね)ともいった。寂しそうだった。
急激に病状が悪化した。衰弱が著しくなった。
痛み止めのモルヒネを断続的に打つようになった。意識が戻れば塩崎の手を求めた。
(あなた、ごめん、こんな弱い私を)とつぶやくのだった。
事切れる前の脳の混濁が始まると(白いチョウチョウが飛んできた)とうわ言をいった。玲子、玲子、なんだと聞く塩崎に(・・白いチョウが・・)とつぶやきあえぐように数回呼吸をして、小さく口を開けたまま動かなくなった、頬には涙の流れた跡があった。
(・・白い蝶・・)というつぶやきが、妻の玲子の最後の言葉だった。彼女は胡蝶蘭が好きだったので、塩崎が病室に白い胡蝶蘭の鉢植えを置いていた。光を失っていく目が、白い花びらを蝶と観たのだろう。
人生に対して、希望と勇気を失った人間の衰弱は早い。塩崎の物心を問わない、懸命の
介護も絶望感には勝てなかった。
やさしさに満ち溢れた人間ほど、愛するものを失った衝撃は大きいのだろうか。玲子は真一の死を、耐えることが出来なかった。塩崎のいたわりも及ばなかった、彼は母と子の絆の強さと、己の無力を知った。
社会の全てのものに、愛おしさと優しさを持って生きて来た、愛の人間の末路は哀れだった。その社会に、夢と希望と勇気を奪い取られ、衰弱し、消耗し、消え去った。
塩崎は妻が哀れでならなかった。こんなひどいことが許されていいのか!
神はいるのかいないのか、もしも神がいるのならば、こんな理不尽なことを、なぜ見過ごすのか。これが、玲子に対して神の与えたもうた試練なのか、なんの咎めによりこんな思いやりのない、試練を課すのだ。彼女になんの罪があるのか。
彼女は弱いから試練に耐え切れなかった・・・そうか、神にとっては、弱いことは許されないことなのか。人に優しいことは許されないのか。塩崎に憤怒の激情がこみ上げた。
それならば、この俺はこれからは、神に反することをするぞ、俺に試練を科せ!
優しい善良な人間を殺すな、殺すなら俺を殺してみろ!
だんだん塩崎は社会で起きる事象に対する考え方が、変わってきている。
物理的にいえば、とにかくあらゆる風景の色が、薄くなったように感じている。ということは、彼がだんだん心にうるおいの無い人間になって来ている証だろう。
二
妻の初七日を済ませ、出勤した。まったく久しぶりの仕事始めだ。
不思議なことに、後ろめたいことは何もないはずなのに、なんとなく銀行の通用門の敷居が高いのである。三十年近く勤めたサラリーマンの悲しい性である。
見慣れた灰色の廊下を歩き、横を歩く同僚やすれ違う先輩後輩男女行員に挨拶をかわし、監査室に「おはよう」と挨拶をしながら入り、使い慣れたグレーの事務机にかばんをおいて周りを見回した。先に来ていた課員たちがさまざまな顔で挨拶に近寄って来た時・・丁度タイムが鳴った。
挨拶をかねた朝礼が終わって席につくのを待っていたように、人事部付きの若い係長が入ってきて悔やみの挨拶をし、そして言った。
「霧島(きりしま)人事部長がお呼びです」
塩崎が顔を見ると彼は目をそらした。
その日の仕事の準備でざわざわしている課内で、5,6人の女性課員が塩崎を心配そうに見ていた。
人事部長は塩崎が入っていくと、腰を低くして悔やみの挨拶をしながらソファーを勧めた。苦労人の霧島は一通り慰めと励ましの言葉を部下に優しくかけてから立ち上がり言った。
「人事異動の発令です」
自分の机から辞令書を取った。塩崎は霧島の前に直立した。
「監査部営業課長、塩崎南海男、本日付をもって京東倉庫株式会社副社長に出向を命ずる、平成十三年十二月四日 代表取締役前田幸一」
ゆっくり読み上げて塩崎に渡した。
霧島はまた塩崎にソファーを勧めた。彼は塩崎のショックを和らげようとしていた。
「君もいろいろ遭りましたからねえ。一年ぐらいゆっくりして、また帰ってきたらいいと思います。あそこの吉田社長はうちの人間でいい人です、私のほうからもよく言っておきましょう」吉田社長は塩崎も知っている、おとなしそうな人だったとの印象がある。
人事部長は気を使ってくれるが、しかし、人生観の変わった今の塩崎に気落ちは無い。今や自身の出世などは無意味になった彼にとって、この辞令はむしろ渡りに船だった。
「霧島部長、あいさつ回りに出ましょうか」
塩崎は気の毒がっている人事部長を急かした。
しかし、二十数年勤めた銀行だ。人生観が変わったといっても花形の金融マンから倉庫番への転身だ、見慣れた通勤途中の風景も見納めと帰りの電車の中ではさすがに感傷的になった。これまでにも何度も転勤はあった、新しい勤務先への希望と期待が湧いたものだが今回はそんなものには縁遠い。
勤務先が横浜の港区になったのをしおに、塩崎は国立の持ち家を処分して通勤に便利なマンションに移り住んだ。
男ひとりの生活だ、そう広い間取りは要らない。私鉄沿線の下町の、古ぼけた二LDKの賃貸マンションに、沈み込むように生活を始めた。
遅い帰宅でも暖かく待っている妻と子がいる、閑静な住宅地に建っている瀟洒な造りのわが家。整った庭にはキンモクセイと白梅などが育っている。花の匂いが塩崎は好きだった。それらの全てが無くなった、というより感じなくなった。妻も子も家も消えてしまった。生きがいを何処に求めたらいいのか・・・。
帰宅途中の夕方塩崎はうどん店に入った、最近はほとんど外食だ。
うどん店は大型のチェーン店で中は広々としており清潔な感じで、とにかく注文が早いのが良い。それに塩崎は麺類が好きだ、うどん、そば、ラーメン、スパゲチィなんでも良いほどだ。
食欲をそそる匂いに満ちたフロアに数人の若いウエートレスが、黄色いキャップにエプロンすがたで、広いにぎやかな店内を忙しそうに動いている。
長いす席に座った塩崎の前に、注文のうどんはすぐ運ばれてきた。食べ初めて気が付いたが、いつに増して騒々しいのは、座敷席に陣とって居る数人の若い男女の嬌声であった。時には店内の空気が揺らぐほどである、そこのテーブルには生ビールの空ジョッキも林立している。スキンヘッドの戦闘服姿の大柄な若者が、横着にテーブルに足を置いたりしていた。畏怖しているのだろう、店の従業員の注意は無い。周りの数組の客も知らぬふりして静かに食べている。
塩崎も早く済まして出て行こうと、考えながらうどんを啜っていると、二人の小柄な少年が入って来るのが眼に入った。そして二人は空いている座敷の方へ歩いて行き、ひとりが連れの靴を脱がして言っている。
「お兄ちゃん、ここが空いてるよ、ここに座りなヨ」
背丈が大きい子が弟だろう、小柄な兄を世話がって居る。よく見ると青い野球帽の兄はダウン症と塩崎には思われた、純真無垢な愛嬌のある表情、動作、短い手足はダウン症の特徴だ。
騒々しかった若者グループは、隣のテーブルに座った兄弟をしばらくは黙って見ていた。
まだ中学生に見える弟は、兄にメニューを見せて選ぶのを手伝っているようだった。
ウエイトレスが注文をとってさがると、兄弟は周りを見回して初めて隣の連中に気がついたようであった。弟が少し小柄な兄に寄り添うように座り直した。兄は丸い目できょとんとスキンヘッドを見ている。
塩崎は何も無ければ良いがと、離れた席から其処に視線を投げかけつつ胃袋にうどんを流し込んでいた、何とはなしに心配になったものである。
心配は当たった。スキンヘッドが笑いながら兄弟に近寄ると、兄の前にしゃがみ、ひょいと手を伸ばして青い帽子を獲って自分の頭に乗せた。そして仲間の方を振り向いて、おどけて馬鹿みたいな顔を見せてポーズをとっている。連中大笑いで携帯に写している者も居た。
兄弟は恐怖して黙ったまま寄り添った。仲間の受けに図に乗った馬鹿は、なんと小柄な兄を後ろから抱き上げ、仲間に撮れ撮れと踊りだした。兄は弟に心配を掛けたくないのであろう、黙って屈辱に耐えているのが塩崎には解った。弟は真っ青な顔をして中腰になっている。
周りは黙ったままである、塩崎はウエイトレスに合図し、寄ってきたエプロン姿の少女にささやいた。
「あすこ、危ないよ、店長居ないの?」
数組の客は何事もないような、それでいてちらちらと見ながら、レジを済ませて出て行く客もいる。
黄色いキャップにワイシャツにネクタイ姿の、細身の店長らしい男が、騒動の輪に行った。気弱そうに頭を下げたりして何か話していた。
「何がご迷惑だ!なんの文句があるんだ、てめえ。身障者を可愛がって何が悪い!オー、」馬鹿が怒鳴りだした。店長は助けを求めるように血の気の引いた顔で、助けを求めるように後ろを見たりしている。
「身障者は、大いに可愛がらねばならぬぞ、のう皆の者、ホレホレ」
大口を開けて、抱いたままの兄を振り回しながら馬鹿が笑っていた。
弟がさすがに兄の腕を掴んで抱き取ろうとした、泣いている。塩崎は見かねて席を立って近寄った。
「なんて事をするんだ、もう離してあげなさい、泣いているじゃないか、ひどすぎるよ、することが」
「てめえになんの関係あるんだ、親父、」
塩崎をじろっと見ながら、兄を降ろした。店長は塩崎のうしろに逃げた。馬鹿はスーツ姿の塩崎を値踏みするように睨んでいる。
「君達、ここはもう帰ったほうがいいよ」
落ちていた帽子を弟に渡しながら、二人を促した。
弟は兄の手を掴んで座敷からフロアにすべり降りると、二人分の靴を胸に抱いて、兄をせかすように出口に向かった。二人の目には、恐怖、屈辱、怒り、悲しみの涙が滲んでいた。
二人にとっては、大衆食堂のうどんでも月に一度か二度の、晴れのご馳走だったかも知れない。
おそらくこの子たちの親は、なけなしの金を使って、たまにはの旨いものを子供たちだけにでも味あわせかった。子持ちのシシャモのように腹を膨らませ、月に一度の人並みの食事に満足して帰ってくる顔を、心待ちにしていたことだろう。
塩崎はわるどもの視線を背中に感じながら席に帰り、うどんを一口啜って箸を置いた。味を感じ無くなったからである。座敷のほうから声があがっている。
「よしなよ、ジョージ!」女の声が言っている、(あの馬鹿はジョージという名か、まったく似合いの名前だ)塩崎は長居は無用だ、と思い伝票を取っていると、座敷の連中がぞろぞろ出口に向かっている。残ったひとりの少女が塩崎の後ろを通り、レジに行って勘定をすませていた。そしてなにを思ったのか塩崎の背中に歩き寄り、うしろから耳にハッキリと囁いた。
「しばらく出ないほうがいいよ、ここに居たほうがいい」
塩崎が振り向くと、もう背中を見せて出口へ歩いている。ジーパンの丸い尻が揺れていた。
連中のひとりが出口から顔を覗かせ、じろっと塩崎を一瞥してからジーパンの少女に大声で言った。
「早くしろよ、ミワ」
「トイレだよ」
彼女は出口横のトイレに入るらしい。
塩崎はレジへ勘定に行った、レジには先ほどの店長が立っていた。
「先ほどはどうもすみませんでした」
店長はまだ青い顔をして、塩崎に頭を下げている。
「あの子供たちの分も私が払っておこうか?いくらだい」兄弟が注文した分も併せて聞いた。
「いやいや、とんでもありません、お客さんの分もサービスさせてください、お願いします、本当に助かりました」
店長は恐縮している。塩崎の分もただにし、感謝の意を表したいらしい。反対に無料券などサービスしかねない。
「気持ちだけは貰っておくよ」
塩崎は自分の食った天ぷらうどん代を、遠慮する店長に払って外に出た。
「オー、ボケ親父、待ってたぜ」
二人の男が車の陰から近寄ってきた、ひとりはスキンヘッドだ。瞬時に周りに目をやったが他の連中は見当たらなかった。
「気に食わなければ、謝るよ」
塩崎は無理に笑顔を作って言った。尋常では済みそうも無い、とても話して解かるような人間ではないだろう。
塩崎は忙しく思考を働かせ、初めて対面した異様な事態の乗り切り方を探っていた、不思議と恐怖心は無い。(こいつらの弱点はどこだ)塩崎は冷静に相手の気迫を読もうとしている。しかし、考える時間など無かった。
突然、左肩につんのめるほどの激しい衝撃があった、瞬間、塩崎は体面を投げ捨てた、正面の相手が掴み掛かってきた、塩崎も突進した、がつん!と額がぶっつかった、(真一を殺したのはこいつらだ!)憤怒が衝きあがって来て彼は暴れる野獣になった、相手の体を傷つけることしか頭に無かった。
何度か相手と共に地面に転んだ、何度か息の詰まるような殴打を受けた、薄れて行く意識の中で遠くから聞こえて来る「警察だよ!警察だよ!」
女の叫び声である。急発進する数台の車があったようだ。
コンクリートの地面に顔をくっつけて見る風景は初めてだ。コンクリートってのは、じかに触るとえらく冷たいものなんだなあ。坂の上に数人の人が並んで、遠巻にのんびり眺めているように見える。(面白い見世物だろうが、救急車を呼べよ!早く)意識が闇に消えて行った。
白い天井がボヤーと眼に入った・・遠くの方から低い話声が聞こえている。
「気が付いたようです・・・」
眼鏡の若い医者が覗き込んで来た(救急病院だなここは、道理で薬の匂いがする)
「随分と頑丈な方です、短時間なら大丈夫です」話し声は目の前の口から出ている言葉だ、段々はっきりして眼玉を動かして周りを確かめた。横に刑事が居るらしい、意識が戻った。随分痛みつけられたなと思い出し、塩崎は自分の体の事を知りたかった。
「先生、脳と内蔵の方は大丈夫ですか?」なかなか声が出ない、やっと出た嗄れ声に自分でも驚きながら聞いた。どちらでも傷んでいると、治療が長引くし後遺症が残る。
「左手首と左肋骨四本骨折右肋骨二本、この二本はひび割れです。それから鼻骨の骨折が認められます。その他、顔面頭部中心に多数の打撲傷、擦過傷があります。脳、肺、内臓の被傷は今のところ所見されていません。精密な検査はこれからですが、頑丈な体です」
若い医者は塩崎の体の丈夫さをまた誉めた。なるほど左手はギブスを被っているし、顔にはおおきなガーゼが載せられている。
刑事の聴取を受けるのに備え寝返りを打とうとして痛さにうめいた。確かにあばら骨が折れている、しばらくは横向きには寝られない。
「そのままで結構ですよ」刑事が塩崎の見えやすい所に顔を移しながら言った。塩崎が片目で見ると(左眼は塞がっている)色の黒い角刈りの顔がみえる。
「私は横浜署の刑事の矢野と申します、連れは同じくで山崎刑事です。災難でしたな塩崎さん」横にもうひとりいるらしい。
ひととおり二人の刑事の質問に答えてから塩崎は聞いた。
「刑事さん、今日は何曜日ですか?」窓の外は日が差している。
塩崎の思考がだんだん正常に戻ってくる。
「塩崎さんは二日二晩意識不明でしたよ、今日は月曜日です」
お大事にと最後に言って、二人の刑事は出て行った。
塩崎は長いこと病室にいたような感じのする中年の太った看護婦に聞いた。
「看護婦さん、下の世話は貴女が?」
嗄れ声でもお礼は言っといた方が良い。点滴の準備をしながら彼女は答えた。
「良く出来た娘さんですね、塩崎さんのお子さんは。来た晩から付きっきりでしたよ、塩崎さんが無意識に暴れ出すので大変でした。ものすごい力でしたよ塩崎さんは、お医者さんが何人かかっても抑えきれないぐらい。皆言ってましたよ、この人レスラーじゃないかっていうくらい。兎に角、並外れた筋力だって、それで仕方なく麻酔処理をしたんです。娘さんも涙ぐんでいましたよ、それでも必死で手伝っていました。随分疲れたと思いますよ」
丸い顔をした中年の看護婦は、笑顔で塩崎を覗き込んできた。
塩崎は看護婦の言葉の意味は解せなかったが、財布は無事だったか(保険証、免許証は財布のなかだ)看護婦が俺の名前を知っているんだからと思いひとまず安心した。
この時点になって、やっと塩崎の思考が正常に覚醒してきた。
「空になったらベルを押してください」
点滴の注射針を塩崎の腕に固定し、容器の説明をして、病室から出ようとする看護婦の丸い背中に塩崎は慌てて嗄れ声を送った。
「看護婦さん、お子さんとは?」俺に家族は居ないのだが・・・。
「刑事さんと入れ違いに、お風呂に入りたいと出て行きましたよ。ほんとに良いお嬢さんですネ」
看護婦は塩崎のそばに2,3歩近寄り笑顔で言った。
静かにドアの開く音がして、看護婦は振り向いた。“ただいま”というような小さな女性の声が聞こえた。
「あら帰って来ましたよ。お帰りなさい、お父さん眼を覚ましてますよ」
塩崎は看護婦の言っている意味が、まったく持ってさっぱり解からない。
「お世話になります」
花束を抱えた若い女性が入って来て、にこにこと看護婦に挨拶しているが塩崎の初めて見る顔である。看護婦は出て行く、塩崎は狐につままれたように、ぽっかんと呆気にとられて、花束を抱いた娘を見ている(狐か?この子は!)。
狐が塩崎に顔を寄せてきた。
「驚いた?塩崎(しおさき)南海男(なみお)さん、死ななくてよかったよ、本当に」
花束を枕もとに置いて横の椅子に静かに座った。とろんとした眼にそばかすが浮いた、色白の丸い顔をしている。柔らかそうな髪は無造作に後ろで束ねている、さわやかなシャンプーの匂いがした。
塩崎は不思議な気分になった。とにかく妙なことが起こっている。まだ、麻酔が効いて夢うつつなんだろうか。
「君は誰です?そもそもどうして僕の名前を知っているの?」
事態を呑み込めない塩崎はお礼より先に嗄れ声を搾り出し、まず聞いた。娘は微笑んだまま塩崎を見ている。
「それより、お礼を先に言うべきでした。随分とお世話をかけたようで・・・ありがとうございます、しかし、どうしてこんなに親切に介抱してくれるんです、ありがたいけど」この少女が俺の下の世話をしたのか、と思うと塩崎は尻のあたりがこそばゆくなった。
「びっくり驚くのは当たり前だよ、塩崎さん。名前を知ってるのは保険証からだよ、あんたはあたしを知らないのは当たり前だ」
聞いたことがあるような口調ではある。しかし、銀行の部下のOLとは違う、口調がくだけすぎている。なにを言っていいか判らない塩崎は、ただ黙って娘を見ていた。
「実わね、塩崎さん。あたしはこの前の五平(うどん店)で塩崎さんに感心したんだよ、いや、憧れたのかねえ」
とろんとした眼で中年女のように、若い娘はあっさりと言った。口調とは裏腹にかわいい笑顔だ。塩崎は最近時々入っている、うどん店のことを思い出している(ウエイトレスなのかなこの娘、気をつけて見たことがないから覚えてないが)。
「こんなところでなんだけど、言いにくいこと先に言うよ、あたしはいろいろ経験したから、強い人が好きなんだよ、それと塩崎さんは上等のスーツを着ていたし」
娘はえらくちぐはぐな言葉をきょとんと話す。塩崎のスーツはなるほど高級品だ、胸板の厚い体格の良い塩崎に、妻の玲子は上等のものを着せたがった。
「僕が強いですか、チンピラにぼこぼこに殴られてこのざまだ、見ていたんでしょう」
訳がわからないまま、塩崎もぞんざいな娘の口調に合わしだした。声を出しにくいせいもある。
全部見られたんだから気取ってもしかたがない。手も鼻も痛いが、静かにしておればどうということは無い。辛いのは肋骨の骨折だ、息をする度ギーギーと耳に聞こえて笑いも出来ない。しかし、この嗄れ声はどうだ、ずいぶん声が出しにくい。これは全身麻酔のせいだな、言葉を端折るのも仕方が無い。
「あたしが強いと言った意味は、クマみたいに強いと言うんじゃ無くって、人間としての強さだよ」と顔の割には大人びた言葉を小さい唇から出す。
「僕は、自分では弱虫だと思ってるからね、お世辞でもうれしいよ」
だんだん打ち解けてきた塩崎は方頬だけで笑った。相手を気楽にさす妙なムードをこの若い娘(こ)は持っている、どう視てもうどん店のウエイトレスではないようだ。
「お世辞なんかは言わないよ、ほんとだよ」
真剣に、意外に強い目で塩崎の片目をみつめた。
「人間みんな生まれついた星を持っているんだって。塩崎さんの星と、あたしの星がぴったし出会ったんだよ。奇跡としか言いようが無いねえ、これはもう神さまの思し召しだ」本気とも冗談とも付かぬ言葉を真顔で小さい唇から次々と出す。
「星と星がうどん屋で出会ったのかい」
あっけにとられた塩崎は片目で娘を見た。
「場所はどこだっていいじゃない、あたしは真面目にそう思ってるんだよ。ついでに言うけど、憧れていた人にやっと出会ったってとこだな」
ついでにしては、大変な事を言う。
塩崎は不思議な動物に出会ったような感じがした。
(この子は、外見や言葉遣いに似合わず、レベルが高いかな、それとも無邪気な子供か。しかしそれにしても、さっぱり判らないの女性だ)
「とりあえず下着と花を買ってきた、全部で3500円くらいだった。それとお風呂に私入ったから、おつり5千何ぼお返しだ」
彼女はポリ袋をベットの隅に置いて、ジーパンのポケットから紙幣と小銭を掴み出した。驚いた塩崎は起きようと片目でうめいている。少女が点滴用具に気を配りながら、器用に助け起こした。
「お医者さんがネ、大丈夫だもうすぐ目を覚ますって言ってくれたからネ、悪いけど財布から一万円借りて買ってきたよ。塩崎さん金持ちだね、万札どっさり入ってるよ、あたしの思ったとおりだ」
ベットに座った塩崎は思わず笑い出してしまった、そして痛さにギブスの手で胸をおさえた。
「咳とくしゃみがだめだってサ、看護婦さんが言ってたよ」
彼女は笑いながら塩崎の背中を優しくさすった。しかしそこはコルセットが巻かれている。肋骨の骨折は、骨折部分を血の塊が包み、それが時間とともに肉になり、軟骨に変わり最後に骨となって接合するという医師の説明である。治療途中胸部への振動はなるべく避けなければならない、だからくしゃみとか咳は禁物である。
「それより僕の財布はどこだい」
塩崎は嗄れ声をしぼりだす。
「ここだ」
なんと娘は、塩崎の枕の下から財布を出して来た。塩崎がかなわぬ手で、中を確かめると異常は無いようである。彼女はにこにこして言う。
「大丈夫だよ、盗ったりしないよ」
「そうじゃなしに、お礼をしようかと思って、大変なお世話をかけました」
言葉を改めながら、塩崎はとりあえずは五万円ぐらいかな、と考えながら片手で万札を抜いていると、少女は正直、嬉しそうである。目を輝かして見ていた。
「今はいいよ。あたしこれから仕事だ、明日の晩四時ごろまた来るよ、いいだろ?」
「夜の仕事ですか」
塩崎は五万円渡そうとしていると、彼女は手のひらを塩崎に向けて拒否した
「いいってば」
つづけて言う「ウンそうだよ、土曜日休んだからママ怒ってるだろうな、携帯にも出なかったし」
「僕の介抱のためでしょ、受け取ってもらえませんか」
塩崎の口調えらく丁寧になって来た。
「いらない、それよりなんか要るものあるんじゃない?明日来るから」
「すみませんほんとうに親切に甘えてしまって、出来たら洗面道具をお願いします。かまいませんか?」塩崎は本当に恐縮している。
「そいじゃ、また一万円借りてくネ」
無理に押し付けられた万札のうち一枚だけジーパンのポケットに押し込み、残りは塩崎の財布の上に置いた。が、塩崎が片手で、もたもた捌いているのを見て、さっさと財布に入れて、ハイと塩崎ひざの上においた、細いしなやかな若い手だった。
「あお向けに寝るのを手伝おうか、疲れただろ」
よく気のつく娘である。
「いや、しばらくこのままがいい」
また塩崎も言葉を端折りだした。
「そいじゃ、また明日見に来るから」
見送る塩崎を残し、若い女は出て行く、ジーパンの丸い尻が揺れていた。
(この子は一体?・・)塩崎は考え込んでいた。と、ひょっこり引返して来て丸い小さな顔を塩崎の眼に近寄せて言った。
「あんねえ、今は二晩寝てないからそばかすが目立つけど、普通はもっと綺麗だからね、あたしは」
ぺろっと舌だしてからにっと笑い、小走りに出て行った。乳房がセーターの中で揺れていた。塩崎は危うく吹き出すところだった、愛嬌に満ち満ちた後姿を見ながら笑いを飲み込むのに苦労した。
(シマッタ、何てことだ!名前も何も聞かなかった!)思いもよらない女の出現と、予想外ばかりの会話の進展に、そこまで気が廻らなかった。もしも二度と現れなかったら、どうしよう!と思わすほど、少女は強烈なインパクトを塩崎に与えた。(本当に狐じゃないのか、あの子は!)たったの数時間で塩崎の心の隙間にスルリと入り込んだのである。
太った看護婦が入ってきた、手に花瓶を持っている。
「娘さんに頼まれました、ここに置きましょう」
花束を生け、脇の棚に置いた。
「いくら若くても、二晩徹夜はえらかったでしょうね。しかし、しっかりしていますね。ナースステーションに寄って、お願いしますと挨拶されて、帰りました。近頃珍しい娘さんです」
看護婦は嬉しそうに誉めながら点滴針を処理した。
塩崎はベットに上向きになって考え込んだ、考える時間はいくらでもある。
そもそも、あの子はどうしてこれほど、親切にしてくれるんだろう、看護婦の話からも他人では到底出来んことだ。
俺を気に入ったと言っていたが、俺の何処だろう。うどん店での行動だと言ってはいたが、それだけでは根拠が弱い。あれはただ見かねた揚げくの行動だ、要するに塩崎には他の人よりも多少恐怖心が少なかっただけだ。
それでは、金目当てだろうか?世間の常識から言えばこの可能性が高い、おそらくはそうだろう。
しかし、五万円は受け取らなかったからそれだけでも無さそうだし・・・・嘘みたいな話が現実にあるんだろうか。まあゆっくり考えよう、とにかく今の俺には時間はたっぷりある。
翌日は朝から検査の連続だった。付き添いが居ない車椅子の移動の連続は、独り身はまず、財布の置き場所からして困る。便所も非常に不便を囲ったし、初めての食事もやっとこさというところだ、一口ごとに茶で流し込まないと喉を通らない。とにかく寝返りを打てないのが、これほど辛いとは思わなかった。ベットでもどこでも、寝返りを自由に打てるほどの幸福が、他にあるかと思うほどである。
午後3時過ぎごろからやっと開放された。
夕方には来る、と言って帰った少女をいつしか塩崎は心待ちにしている。しかし考えてみると塩崎は妻を亡くして一年も経っていない。げんきんな自分に少なからず驚きを感じていた。
晩になっても彼女は来なかった。何か損をしたような、大事なものにスルリと逃げられた気分だ。
塩崎は思い直した。どうせ若い娘が気まぐれを起こしたか、金目当てに取り付いてきたかのどっちかだ。家に帰って気が変わったんだろう。
しかし、お礼の5万円は受け取らなかったがなぜだろう?ずいぶんと親身になって看病してくれたらしいが、これも判らない、なぜだろう?・・・おそらくは、もう来ないだろう。
考えてみればこれが普通である、当たり前のことだ。現実には夢みたいなことはおこらない。第一玲子が死んで間がないじゃないか、アホウ!
次の日も忙しい。検査はむろんのこと、治療代のこと、保険のこと、塩崎は傷害保険には会社時代の義理保険もあってかなり入っている。書類を読んだり、署名したり、無論検査もで、いろいろ済ませて夕方車椅子を押されてやっと病室に帰った。やれやれだ。
彼女が座っていた!
スラリと立って来て、看護婦に代わって要領よく塩崎を介抱してベットによこたえた。ふっくらした乳房がブラウスの上から、体のあちこちに当たる、塩崎は正直嬉しかった。若い娘は看護婦に笑顔で挨拶している、「お世話になりました、昨日は急用で来れなくって」今日は髪も綺麗にくしを使っている
「あなたがいらっしゃると、お父さん顔色がとたんに明るくなりますよ」
看護婦は二人を親子だと信じている。看護婦が出て行くと、
「お帰り。昨日は寝すぎちゃって、お店が終わったのが朝の一時で、いろいろして二時ごろ寝たんだけど、晩の八時にママに起こされるまでずーっと眠ってた、一昼夜眠ってたようなもんだ。お店にいる時もここは気になっていたけど電話も掛けられなくって・・・ごめん」素直に謝っている。
塩崎はこの再会に胸に広がる嬉しさを隠せず相好を崩した。
「すみません、本当うにありがとう」
「洗面用具、それからちり箱、タオルを5枚と・・これ洗っておいたからね、チッシュ5箱、それと別に・・と、印鑑、要るだろ、それから・・と、」
印鑑だけを、ベットにあぐらを組んでいる塩崎に手渡し、おおきな紙袋を脇に置くと、ちいさなビニール袋をベットに置いた
「トランジスターとシェイバー・・と、要るだろ、それから手鏡」
片目をまるくしている塩崎の前に、魔法使いのように次々と広げている。(この子は本当に良い子だ)塩崎は年甲斐も無く淡い恋心さえ覚えた。
「これでは、とても一万円では足りんでしょう」
手鏡を取りながら塩崎は聞いた。
「ハハハ、ラジオとシェイバー以外は百円ショップだ、大した額にはなんない」
少女は屈託なく笑った。
若いのに出来上がっている、良いしつけを親から受けているナ、塩崎は感心しながら手鏡を覗いて驚いた。
「うわ!お化けか!こりゃあ、凄い顔だ」
ほとんど、もとの顔が残っていないほどで、よくこれで生きておれたと思った。(淡い恋心もクソもあったもんじゃない、化け物じゃないか、この顔は!良くぞ生きて居れたもんだ!)あちこち変色した顔は倍ぐらいに腫上がり、かろうじて開いている片目も真っ赤に流血している。
塩崎は唖然と鏡に映った己の顔を見ている。
「集中的に、顔に攻撃を受けたからだろ」
少女は、夜中に廊下で鉢合わせでもしたら腰を抜かすような顔も気にならないようだ。鏡をのぞく塩崎を見ながら冷静に分析の言葉を発した。
「半分ぐらい直ったわよ、昨日まではまだ凄かった。刑事さんが感心してたよ、暴行の受け方がプロ並みだって、身を守る術を知ってるって」
あらためて、塩崎の顔を痛ましそうにじっと見ている。
「半分直ってこれか、それにしても凄い顔だ」
塩崎は鏡を覗きながら、人間は顔が、一番頑丈な部分だったかと思い直した。もしも、後頭部とか脊髄、腹部に攻撃を受けてたらと、ゾっとする思いだ。
「時間が短かくって、助かったな」
完全に失神する前に攻撃は止んだのだ。塩崎は不幸中の幸いだと考えている。
「あたしが警察と救急車に連絡しといたの、五平のトイレから」
少女は塩崎の手を軽くおさえてためらいがちに俯いて、上目遣いに塩崎をみながら、思い切ったように言った。
「やっぱり、あの時の・・・」
塩崎は少女を片目で凝視した。乱闘の最中に、警察だあ!と叫んだのもやはりこの子だった。一昨日帰る姿を見たときから心の片隅にあった思いだった。
「怒らないでね、あいつら馬鹿だから喧嘩が趣味みたいな連中なの。だからああなったら止めようがないの・・・だから、どうせ塩崎さん酷い目にあうんだったらと思って、喧嘩の前に警察呼んどいたの・・・ごめんなさい」
薄いそばかすの中にある見開かれた目が潤んでいる。少女の訴えが必死なのが塩崎の胸をついた。彼女の言葉使いからも判る。
「君を僕が怒る道理が無いじゃない、君こそ僕の命の恩人じゃないか」
これは本当のことだ、大時代掛かったセリフになるが他に言いようがない。
「君は外に出るなって、止めてくれたじゃない。あれを素直に聞いとけばよかったんだ」見るからにしょげている、少女を塩崎がなぐさめる番になった。
「そもそも年甲斐も無く粋がって出た僕が悪かったんだ」
彼女も塩崎の言葉にだんだん元気になって来た。
「塩崎さん、許してくれるんだネ!よかった!ありがとう。あんねえ、実は予算一万円をオーバーしたけど、もうチャラでいいや」
このあたりが判らない。単細胞なのか、複雑なのか、塩崎は喜んでいる若い子を不思議なものをみるように片目で眺めていた。
「可愛い子が、こんな化け物みたいなおじさんといて、いいのかねえ、よく見ると美人だが」
塩崎もくだけて話している。が、この日でこの娘とはまだ四日目での会話だ。どうも彼女は人の心に入りこむ才能があるようだ。
「今やっと気が付いたか!オッサン。しかし、よく見ないとあたしはブスか」彼女も楽しそうに合わしてくる。
「あたし、名前は“みわ”っていうんだ。ひらがなだよ、母が付けた名だけど」
無邪気そのものの表情である。
「君、みわさんといったか、かあさんがいるの?」塩崎はえらく馬鹿な質問をした。
「あったりまえじゃないか、オッサン。あたしが木の股から、ポコンと出てきたとでもいうのかよ」
顔を塩崎のまぢかまで近づけ、目を見開いて見せた。
「笑わしたらだめだって、まだ肋骨がくっ付いてないから」
塩崎は擽り(くすぐり)出る笑いを堪えている。
「みわさんのご両親・・何をしているの」
思わず聞いてから、この子にこんな質問はしてはいけないかな、と思ったが遅かった。
「父はいない、あたし私生児だから。母は居たけど今は居ないヨ、馬鹿な女だった。ほんとに、どっかでくたばっていればいいんだ」
みわは遠い昔を思い出す想いだすような目をした。塩崎は何か言おうとして、口を開けかけてやめた。
「ほんとに馬鹿な女だった、馬鹿というより、弱いって言うのかな。男にだまされてばっかり、男も馬鹿なやつばっかり、それもいやなやつばっかり」
小さい唇から憎悪の言葉が出てくる。まなざしもきつくなっている。
「悪いことを聞いたみいだネ、悪かった」
謝る塩崎に、みわは手を伸ばし、塩崎の襟元をさりげなく直しながら諭すようにいう。
「いいんだ、別に、ほんとのことだもん。お互い地を見せたほうが長続きするよ、男女の仲は。気取りはいかん」
少女の言葉に塩崎はまたまた驚く。まったく思考をトランポリンに載せられた気分である。
「みわさん、あんたいったい幾つだい、齢は?」
呆気に盗られた塩崎が片目をまるくして聞いた。
「当年とって17だ、来月に18になる、老けて見えるかな」
いたずらっぽく笑って言う。塩崎はさすがに驚いた。
「なに、17歳!本当か?若いとは思ったが・・・」
とうとう塩崎は絶句した。
「苦労してきたからねえ、あたしは。冷たい世間だ、人間食っていくのは大変だよ」
少女はしみじみと話しながら、白い柔らかな両手で塩崎の大きな手を包み込んだ。塩崎はポカンと相手を見つめたままだ。
「俺は四十八だ、三十も違うな、第一俺はこんな顔になった、無理はしない主義だ」塩崎は常識人である。
「人間顔じゃないよ、心だよ。大事なのは内面だ、その年になってまだ判んないの、あんた」
こうなってはどっちが年上かわからない。塩崎さんからあんたに、呼び方も変わって来た。
「そうはいってもな、年の違いだけはどうしようもない」塩崎は依然常識人たるを変えない。
「四十八歳と十八歳は、〇歳と三十歳ほどの違いはないよ、両方とも大人の人間だよ、機能的にも」
みわの話が生物学的になって来た。
「百歳と百三十歳になったらおなじ年寄りなんだから」
真面目に云う言葉にとうとう塩崎は笑い出した(片手で胸をおさえている)、みわが優しく背中をさすった。
「ごめん、ごめん、また笑わしちゃった、ハハハハ」
みわは塩崎の顔を覗き込む。
(優しい気性の子だが、親への憎悪はなんだろう)みわの手を快く感じながら、彼女の過去を想像した。
この子はどんな育ち方をしたんだろう、ぼやーとした輪郭が見えてきそうである。
入院五日目から、個室から大部屋に移された。同室の患者への気兼ねも一応あったのか、少女の身舞も三日に一度ぐらいで、簡単な身の回りの世話と、あとは横の椅子に静かに座り、一、二時間でニコニコして帰っていた。最初の頃の奔放な言動は影をひそめていて、塩崎はちょっと気が抜けたような気分だ。
幸い脳波、内臓に異常は無く、病院の規則的でまずい食事にも、日に日にの回復もあり大柄な塩崎は大いに健啖家振りを発揮した。
結局、入院生活は4週間足らずで終わったのだが、退院を一週間後に、控えたあたりから、また少女が足繁く見舞いに付きだした。
塩崎があと七日で退院だと告げると「良かったね、ほんとに」と塩崎の顔を見て微笑んでいるところが妙に女らしく見えた、そばかすまで薄くなって見える。
「みわさんのお蔭だ、ほんとうにありがとう、どんなに助かったことか」
真から感謝の言葉が自然に口から出る、彼女も何か話したそうでもある。
「俺、今は仕事がヒマだからねえ、もう少し居てもいいんだが、保険もしこたま入っているしねえ」
退院がこの子との別れになるかも知れない、との思いが塩崎の頭を過ぎる。
「贅沢は言わないの、治ったのが何よりだ」
みわが顔を少し傾けて、塩崎の顔を見つめた。
「お祝いにちょっとコーヒーでもどう、もう歩けるんだろ」
「いいねえ、顔も大分治ったし」
塩崎が手鏡を探していると、みわがとって塩崎の目の前に鏡をかざした。
コーヒーといっても病院の中庭のベンチである、みわが自販機から缶コーヒーを二つ掴んできた。雑役の老人が箒かなにかを持って、二人の前を通り過ぎる。
「二人を、親子と見てるかな」
塩崎も久しぶりの外気が気持ち良いらしい。ベンチの背もたれに体をあずけ、目を眩しそうにして右手に缶コーヒー持ったまま周りの景色など見たりしている。
「恋人同士、似合いのカップルとしか見えないだろ」
みわは悪戯っぽく塩崎の口に、自分の口を付けたコーヒーをあてがってきた。
「看護婦さんが、ご主人お元気になりましたねえって、言ってたもん」ニヤニヤしていう。
「エッ!本当か?」
驚いた塩崎はコーヒーにむせた。目を剥いて、背中を真っ直ぐにしてみわに向き直ったほどだ。
「ウソだよ、ハハハ、そんなに困るの?」
みわは塩崎の背中をさすりながら、顔を覗き込んだ。
「困る・・・年の違いが、恥ずかしいよ」
「何処が恥ずかしいんだろ。いったい、いつまで子供なんだろ、この人は」
みわは唇を突き出し、わざと眉間にしわを寄せて額を寄せてくる。塩崎は擽り出る笑いに胸を押さえた。
「笑っちゃだめだよ、胸に響くんだろ」
優しく背中に手を廻し、塩崎の顔を覗き込む。
「嬉しいんだ、今が。ここ一年、笑う事が無かったんだ、俺は」
みわに会うまでは、塩崎は心から笑うことは無かったのだ。雀が数羽、二人の前に広がっている芝生をつっつきながら歩いている。
「辛い過去があるんだねえ、塩崎さんも。思っていたとおりだ」
塩崎の横顔を見つめて呟いた。
意識不明の二日間の間、無意識で喚いたり、泣いたり、暴れたらしいから、真一と玲子のことも、うわごとで喋ったことだろう。看護婦もちらりと言っていた。
突然、前触れ無しに涙が溢れた、慌てて塩崎はタオルを捜した。みわがハンカチを塩崎に渡し優しく背中をゆっくりと摩った。塩崎はハンカチで顔を隠し、嗚咽を漏らした。(入院生活が弱気したんだ、俺を)。
「退院を翌日に控えた晩、ふたりが中庭のベンチに寄りかかり話している、みわが塩崎を引っ張り出してきたのである。左手こそ吊るしているが、顔のガーゼ、胸のコルセットもはずし、塩崎は元気だ。
「お店止めたんだ、あたし」
塩崎の横で前を向いたまま、みわが小さな唇を開く。
「ここんところ、遅くまで世話してくれるから、そうじゃないかと思っていたよ」
塩崎はうなずいて、次の言葉を待った。
「最近、どうにも嫌になってねえ、あいつらが」
みわは真っ直ぐ前をみたまま話す。あの連中だろう、聞かなくても塩崎には判る。
「特に、塩崎さんを知ってからはあいつらの下劣さがねえ」
みわは口をゆがめていた。
「ママに聞いたんだろうねえ、最近はあたしが店に出ないもんだから、安アパートまで押しかけて来るんだ、同室の子もいやがってねえ」
終わりの方は呟くような口調になった。ほとほと困っているのだろう。
アパートが相部屋だったのは塩崎も初めて知ったが、考えてみれば無理はない、少女が独りで借りるには首都園の家賃は高すぎる。
「あのチンピラたちは仕事は何をしてるんだい」
「あたしもよくはわかんないけどね、ぶらぶらしてるんじゃないかな、しかし夜は暴走族だよ」
「ばい菌みたいな連中だな」
「まあそうだ、自分たちは粋がって銀狼会と名乗ってるよ」
「君もメンバーなのかい、そのギンロウカイとかの」
「違うよ、だけどあいつら仲間と思ってるだろうな」
「もうあんな連中とは顔を合わさないほうがいいよ」
「ホントあたしもそう思うよ、・・・だけど母のマンションだけは嫌だし・・・」
少女は途方にくれているようだった。
「良かったら、みわさん、俺のところにしばらく来ないか、空き部屋があるし。もし君が良かったらだが」
塩崎も前を向いたまま遠慮がちに口篭もった。
「うわあ!ほんと?やったあ!やっとそのセリフを引っ張り出した、わーい、ハハハ」
みわは塩崎に抱きついた、慌てて立ち上がった塩崎の胸にみわは、ぐりぐり顔を押し付けてきた。
「ここんところのの懸案解決だ、ハハハハ」
みわは、目を潤るませて喜んでいる。
「年も開いているし、間違いも無いだろう」
塩崎もいたく嬉しかったが、一生懸命分別くさい顔をした。が、みわは意に介さない。
「女中でもなんでもやるよ、こうなったひにゃあ、お父ちゃん」
みわらしくなってきた。
塩崎には一抹の不安はあったが、なるようにしかならない。どうせ短い人生だ、との思いもあった。
三
四十八歳の男と十八歳の少女の、共同生活が始まった。
チャップリンの映画のなかの言葉に “人間は、生きて行くのに、絶対に必要なものが三つある。それは、勇気、愛情の二つと、少々のお金だ“というのがある、確かにそのとおりだ。
困難に立ち向かう勇気、ひと(家族)を愛すること、そして、それらを可能にする最小限の金、これは必要だ。
これまでの塩崎とみわには、おのおのに欠けた要件があったのだ。そのままだったら、いつか人生、何らかのかたちで崩れていたはずだ。共同生活で満たされるならそれに越したことは無い。
仕事を終えて、夕方遅く帰る自宅に灯がともっている、ドアを開けると暖かい空気の動きの中からみわが顔を覗かせる。
「お帰りなさい、パパ、お風呂にする?ご飯もできてるけど」
塩崎は一瞬、二十年前と錯覚しそうになったものである。違いは“パパ”だけだ、玲子は新婚時代は“塩ちゃん”か“あなた”だった。
塩崎はパパという呼び方が好きになれない。なんか、でっぷりと太った社長か、重役かが囲った若いめかけに呼ばれているみたいじゃないか。しかし、塩崎さんでは他人行儀過ぎるし、南海男さんも、歳を考えたら妙な具合だ、みわも呼びにくいだろう。仕方が無いか、しばらくは・・・。塩崎はどうでもいいようなことに妙にこだわる。
親子感覚だか、新婚感覚だかどっちつかずの日が過ぎる。
みわは女中になるといったが、花嫁気分を楽しんでいるところがたぶんに伺えた。二人で囲む食卓はままごと遊びの新婚風景といったところだ。塩崎は漠然とした不安みたいなものはいつも感じてはいたが。また、こそばゆい気分の様な、楽しさも感じてもいた。
二人の間には暗黙の了解事項があった。それはどちらも相手の過去は問わない、聞かない、尋ねないの三つである。お互い、哀し過ぎる過去を引きずっている。それともうひとつ、これは塩崎が決めた事だが、許可なしに相手の部屋には入らない、であった。
「いいよ」
塩崎の提案にみわは上目遣いにうなずいた。(この人、子供なんだねえ、まるっきり。ひとつ屋根で続くはずが無いじゃないか、引っ剥がしてやろうかい、このええ格好しい!)
みわは、何かの折に過去が口に付いて出る時がどうしてもある。
「あたしのそばかすの原因は、何時も、チョコレートばっかり食べていたからだと思うんだ」
頬を撫でながら言う。
「小学生の時分、担任の先生が言ってくれてね、自分でも気が付いたからピタッと止めたから良かった。でなかったら今ごろ、アフリカのチーターみたいな顔なってたよ。それと、十五で糖尿だ」
チーターはとにかくとして、糖尿病は確かに危なかっただろう。
だらしの無い母親は幼児のみわに、チョコレートなどを食事がわりに山ほどあてがい、機嫌を取ったらしい。子供の未来を考えなければ育児にはそのほうが楽チンだ。
みわの父種は、一流電気メーカー“S”の課長で、みわを認知しなかったこと、(あたしはS製品は絶対買わないから)ホステスだった母親がかなりの慰謝料を貰ったこと、遊び好きの母親は幼児のみわをほったらかしで、男遊びをしたこと。乱れたた生活の母と男達、等など・・・・。
みわは例の調子でさらりと話すが、内容は悲惨そのものだ。
中でも塩崎にとって棲ざましいのは、幼児のみわの前で酔っ払った母と男が性交に及んだこと。みわが中学生の時、内縁の夫がみわに性交を迫っり母がそれを見て、包丁を持って男を追い出したことなどは、さすがに塩崎には想像を絶する話である。
また、幼児のとき母親に連れられて行ったパチンコ店の休憩室で遊んでいて、危うく誘拐されそうになった話もあった。
「わたしの生理が、人より早かったのもとうぜんだろ」
みわは何の屈託もなく笑って話す。
家を飛び出たみわのその後はあらかた想像はつく。母親と、その周りの男へのみわの憎悪も判る話だ。
親子に似せたような、見せかけの生真面目な関係は長続きはしなかった、当たり前の話だ。
「パパ、お願い、そこにいるんだろ、洗面台のシャンプー取って、赤い瓶」
みわが浴室から顔だけ出した。風呂上りのバスロープ姿で、ビールを飲んでいた塩崎が、赤い瓶を掴んで浴室に行くと、むこう向きに座ったみわが、手だけ後ろに伸ばしてきた。
「ありがと・・・」
濡れた髪、小さな頭の割に太目の首、くぼんだ背筋とふくよかな尻が眩しく眼に入った。落ち着かない思いで、塩崎はテーブルに戻って、ビールをグラスに注いでいる、何か悩んでいる顔だ。
「あー、さっぱりした」
バスロープ姿で、風呂上りの赤い顔をしてダイニングルームに入ってきたみわが、グラスにそっと手を伸ばす。・・・いきなりだった!
「飲むのかい」言おうとした、塩崎の男根を、バスロープ越しにみわは、素早く握った。不覚にも塩崎は勃起していた。
「これでも親子か?」
少女は塩崎の目を覗いて言った、そしてけたたましく哄笑した。
浮き上がったそばかすの中の目は、濡れて光っており、まるで牝豹だ。牝豹は抱きついて来た・・・。
「女にこんなこと言わして、意気地なし」
みわが塩崎の厚い胸板に、燃えるような顔を擦り付けた。
「・・・・」
塩崎はものは言わなかったが、そのままみわを抱きしめて、ベットへ縺れ歩いた。(やはりなるようになったか)
男は、若い女体の感触と匂いに欲情した。弾力のある体を抱きしめ、揉み、吸い、押し入った。
若い健康な女体は、荒々しい愛撫に即座に反応した。激しく興奮し、呻き、すすり泣き、涙と体液を漏らしつづけて喜びの声を挙げた。
熱情の時間が過ぎた。思い切り精気を発した塩崎は、快い疲れで、久しく無かった満ち足りた眠りの中に入った。
一線を超えた二人だが、普段の生活に格段の違いはない。今までどおりである、ただ、妙に在った気兼ねみたいな気持ちは消えた。
たとえばトイレだ、二人とも自分が使った後は入念に水洗し換気扇を回したものだったが、そういうような不自然さがなくなった。
要するに自然な男女の関係、同じ空間にいて完全にくつろげる二人になった。
といっても、賢いみわは、彼女なりの節度と甘えとを持って塩崎に接した。その方が塩崎も落ち着いていられた。
しかし、夜は違った。この不良少女は、快楽に奔放だった。
あまりの激しさに、みわの体を心配してそれとなく聞いたことがある。
「あくる日に疲れはないの?」
塩崎が階下の住人を気にして、時として絶頂時のみわの口を塞ぐほどである。彼女は全然覚えが無い風である。
「嬉しくなって、悲しくなって、切なくなって、何が何かわかんなくなるほど、よくなってね、あとは覚えてないもん」
なるほど大概失神する。少女も今まで経験が無い、塩崎とは安心で落ち着けるからだろと言った。
「女は、好きな人との時はこんな風だろ、男はどうなんだろ?」反対にあっけカランと真顔で聞く。
「そりゃあ、いいけどさ、あすこに快感がはしって」
塩崎はわざと情緒的な面をはずして、正直に言うと。
「たったそれくらいのことで、あんな恥ずかしいことするの?まったく助べえだな、男は」
(何い!ほんとかよ!)
塩崎もうっかりみわの言葉に載せられるところだった。健康な男と女は屈託無く明るく大きな笑い声を上げた。
「エッチな性格は母の遺伝だから、仕方が無いよ、こりゃ」
男の胸に顔を埋めて無邪気にみわがいう。遺伝もあるが育った環境もあるだろう。しかし、塩崎は悪い気はしない。
この無邪気さ、天真爛漫さは何処から来るのだろう、もって生まれた性格だろうか。よくもここまで壊れなかったもんだと思う。
夕食を済ませた塩崎はソファーにくつろいでテレビの画面に眼をやっている。画面は天気予報が終わり9時のニュースになった。
「これ、なんだと思う?」
キッチンの片づけを済ませたみわが寄り添い座った。笑顔を浮かべて塩崎の目を覗きこみ、携帯の画面を塩崎に見せた。
「なんだろ?」
塩崎は小さい画面を見たが何かわからない、食前のビールの酔いの心地よいけだるさに浸りながら、手にとって携帯を目の前にかざし横にしたり、立てにしたりしている。
「ちんぽこりんだよ、パパの、ハハハハ」
よく見たら、ライトブルーのパジャマの間から、肌色の男根がニュッと立っているではないか!
塩崎は画面を凝視して仰天した、思わず立ち上がったほどだ。みわが携帯を持ち直し画面に目を近づけた。
「色よし、形よし、香りよしだ、ピンクで可愛いなあ」
みわは改めて見て、真っ赤な顔をして喜んでいる。
「バカ、消せ、そんなもん、わいせつ物陳列罪になるぞ、アホウ」
眼が剥きでた塩崎は叫んだ。
「いやだ、あたしの宝物だ、誰にも見せないからいいじゃない」
「あっちこっちで見せられてたまるか!早く消せ!バカ!」
「あたしだけの秘密だからいいじゃない」
「間違って転送でもしたらどうするんだ、警視庁にでもよ!」
「絶対そんなこと無いったら。あるわけ無いじゃないか」
「イカン、消せ、第一、いつの間に撮ったんだ、バカヤロウ」
「この前のパパの誕生日、待っていた私を無視して酔っ払って寝てしまったからだよ、グニャチンでさ、アッハハハ」心の底から嬉しそうに笑いながら塩崎を見て「あたしがちんぽこりんだけ起こしちゃったの、そのときだ」
そういえば「今日はパパの誕生日だから早く帰ってきてね、ごちそう造って待ってるから」と朝言われていたのに、大事な仕事先の付き合いから酔っ払って帰り、彼女が懸命に作って待っていた夕食も取らず寝てしまったことがあった。
「悪かったよ、しかし消してくれ」
「判った、消しとく」
「イカン、今消せ」
「消すってば」
「貸せ、俺が消す」塩崎はやにわに手を伸ばして、みわから携帯を取り上げた。
「しかしどうやって消すんだい?」
塩崎は眉間にしわを寄せて、操作しながら聞いた。
「判った、消したげる、今回は」
塩崎から携帯を受け取ったみわは、真っ赤な顔をして笑いながらボタンを押している。
「ハイ、消したよ、ほら」
みわが携帯の画面を塩崎の目の前にかざした。
「なんてことをしやがる、この助べえが。まったくおまえは、安部定か」
塩崎はやっと安心した。
「ン?」
少女はキョトンと塩崎を見た。
しかし、安部定とみわとでは、こよなくひとりの男を愛したということ以外は、まったく違う。猟奇的と健康的、陰惨とユーモラス、腐敗臭と果物の匂い、おぞましさとほほえましさの違い、正反対だ。
塩崎にはみわが奔放な天使にも思えたことだった。
こんな甘い生活を続けていて良いのだろうか、こんな幸福が本当に続くのだろうか。理由も無しに、漠然とした不安がいつも塩崎に付きまとう。
心の底に“玲子に悪い”という思いがあるのだろう。玲子を想うと、真一がよみがえる、俺だけ幸福な思いをして良いのだろうか。
みわは近所のスーパーに行く以外はあまり外出はしない、万一これまで関係のあった者に出会うのを恐れただろう。
携帯も変えている。
「今までのこと、全部スッキリ無くしたいよ、リセット出来たらいいな」一言、みわが呟いたことがあった。
「過去の無い、人間はいないよ」塩崎も呟く。(真一と玲子の死は、俺の軛(くびき)だ)しかし、みわとの生活が始まってからは、心に占める割合が減ったことは確かだ。冷淡でも何でもない、こうしなければ人間は生きてはいけないのだから。
みわはほとんど身ひとつで、塩崎のふところに飛び込んできた、持ってきたものは、最小限の着替え、洗面具、化粧品ぐらいで、宿替えには手馴れたものらしかった。テレビなど家庭道具は、同室の女の子に置いてきたという。
塩崎は何件か持っている口座のうち、郵便貯金のキャッシュカードをみわに渡している。金使いが気になれば、通帳記入すれば確認できることだ。
「家賃もいれてないんで、なんだか悪いみたい。少々はあるんだよ、あたしでも」
みわは一応の言葉をちいさな唇から出したが、塩崎はそんな金を当てにする気は無い。
あばずれた生活を送ってきたはずなのだが意外に質素で地味である。
「家計簿みたいなもの、付けなきゃなんないだろ」真顔で聞く。
「いいよ、たいした額は入れていない」
どうせ塩崎は見る気はない。
「食べたい物があったら、言っといてね。無駄な物買いたくないから」
若妻気分で嬉しそうだ。
「いや、実は、以外真面目そうなんで安心したんだ」
これは塩崎の本心である。
「実はあたしはどんな環境にでも、合わすことが出るんだ。本当は真面目な人間かも」
いたずらっぽい顔を作って言ったが、言葉は本当だろう。そうでなければここまで生きてこれなかったはずだから。
終日、部屋に閉じこもってパソコンをつついたり、テレビを観たりの生活も飽きるだろうと塩崎が言うと。
「今まで、じっとしていたことが無かったからね、その反動だ、こんな生活に憧れていたんだ、第一パパがいるもん」と無邪気なもんである。
「甲府は桃が満開だそうだ、ドライブがてら行ってみるかい」
休日にドライブに誘った。
「ホント、うれしい、いこいこ」顔が輝いた。
初めてのドライヴだ、遊山気分の途中の車内の会話は楽しく弾んだ。普段見慣れたどこにでもある町並みでも、気分が違えば印象も違うようだ。目を輝かしていちいち喜んだり、感心したり、しゃべったりしていた。
「あたし、化粧すること忘れていた!」
「それで充分綺麗だよ」
「だって初めてのドライブなのにさ」
実に楽しそうな表情だ。
「ねえ、ガム食べない」自分で咥えながら聞く。
「もらおうか」
返事した塩崎に口移しで渡す。
「タバコくさいな」
言いながら、塩崎はみわの頬を軽くついた。
「あ、ごめん」
みわも自分の頭を、こつんとたたいて笑った。
「ねえ、タバコってそんなに体に悪いの?」
しきりに、横を向いて運転中の塩崎に話しかける。車に乗ったら多弁になるタイプかもしれない。
「悪いも何も、第一みわはまだ未成年だろが」
「エヘヘヘ、先生に怒られちゃった」
意に介さず少女は浮かれている。
「ぼちぼちと、やんちゃ娘の躾をするかな」
塩崎は半分本気で言っている。
「躾けてくれるの、うれしいな、本気で私のこと考えてくれてるんだ。だけど難しいだろうな」
「なにが難しいんだい、とりあえずはタバコをやめることだけだぜ」
「だって、いままで誰もそんな事いった人、居ないんだもん、急に言われても」
「みわのことを真面目に考える人がいなかっただけだ、となれば俺がやらなければならないと思うだろう。一応この際保護者みたいなもんだからな」
段々塩崎は本気に成りだした。
「パパのところに来たときから、やめなければと思ってたんだホントは、パパに嫌われたくないからねえ」
「それぐらいのことで嫌いはしないがね」
「明日からやめよう、明日からやめようの繰り返しだったから・・・意志が弱いんだろ私は」
少女は真面目な顔になっている。
「禁煙の難しさは知ってるよ、だけどいつからすい始めたんだい」
「いつからかわかんない、だって気が付いたら吸ってたもん」
「驚いたな、いったいどんな生活を・・・やめよう、過去は問わない主義だった」
塩崎は思い直した。今日は楽しい初ドライブじゃないか。
「妊娠したらやめるよ、絶対だ」
みわは塩崎の顔を伺うように見た。
「ええ!出来ない体だろ?」
塩崎は驚いてみわの顔を見た。車が少し蛇行した。
「うん、出来ない、ホントは」
みわは塩崎の横顔を見ている。
「驚かすなよ、アーびっくりした、うっかりガムを飲み込むとこだったぞ」
「そんなに驚くの、出来たら?」
ハイと言いながら、みわは塩崎のガムを口移しで取り込んだ。
「考えたことも無いからねえ、そんなこと」
塩崎は落ち着きを取り戻した。
「ヘヘ、オッサンを驚かしてやった。パパの味がするよこのガム、ハハハ」
少女はまた浮かれてきた。
「タバコよりタマゴにしたら」
塩崎もうきうきしている。
「ハハハ、すごい親父ギャグ、ぜんぜん面白くねえや!ところでパパは吸った事無いの?」
「いや、長いこと吸ってたよ」
「どうしてやめたの」
「みわ、ロシアンルーレット知ってるかい」
「ピストルのあれのこと?話が飛ぶねえ、オッサン、ハハハ」
「例えばだよ、弾を二発こめたピストルの弾倉をクルクルと回して、自分の頭を撃つとすれば、死ぬ確率は四十%だ、やってみるかい。千万くれてもいやだろう」
「絶対いやだ」
「タバコを長年吸うと肺がんになる確率も四十%だ、同じことだ」
「フーン、なるほど、解りやすい」
「ただ、ロシアンルーレットの四十%は恐ろしいが、タバコの四十%は怖くないと感じる人が多い」
「言われてみれば確かに・・なぜだろ」
「自分だけは肺がんにならないと思っているわけだ」
「ホントだ、実はあたしもそう思っているよ」
「なぜそう思えるんだろ」
塩崎は悪戯っぽく聞いてみた。
「なぜだろ、しかしそう思っている」みわは目をすえて前を見ている。
「みわがそう思う理由は?」
「・・・・」
少女は、横向いて塩崎を見ながら、真剣に考えている。
「理由は何も無い、ただみんな、高をくくっているだけなんだよ。自分だけは肺がんにならないと思いたいんだ。根拠は何も無い、思いたいだけなんだよ」
塩崎はアクセルを踏み込んだ。
「ウーム、そうか、なるほど」
少女はしきりと感心していた。車は順調に流れている。
「しかし考えようによっては、肺がんはロシアンルーレットより怖い」塩崎は続ける。
「どうして?」
「ピストルで頭を撃てば簡単に死ねるが、肺がんになればそうは行かない」
「どうなるの?」
眉をひそめて、真剣な表情だ。
「苦しみぬいて死ぬ、治療費も莫大になるから周りも辛くなる」
「うわ!なんか恐ろしくなってきた」
「肺がんになった医者は自殺する人が多いらしい。末期患者の断末魔の苦しみを、自分の目で見て知ってるからね」
「あたしも真面目になんなきゃだめだな、こりゃホントに」
「そのほうがいい。俺もなんかで、ロシアンルーレットとの比較の記事を見てタバコを止めたんだ」
車の中では無論のこと、駐車場を出てそぞろ歩きの時も纏わり付いてくる。
「これだったら、親子には見えんだろ」
常に手を握りくっ付きたがる。
「やめろよ」
人目につくところでは塩崎も面はゆい。
「人がどう思おうと良いじゃない、ねえダーリンちゃん」
べたべたとますますくっ付く。
人の流れに乗って桃畑に入った。全面桃色にあふれ、健康そうな、甘いにおいでむれかえるようだ、まさに桃源郷である。遠くに見える山の斜面いったいまで、桃色に染まっている。遠くに見える山あいの民家の庭には、鯉のぼりが泳いでいた。
「花屋さんの桃の花とぜんぜん違うなこりゃあ、すごく元気がありそう」
みわはまさに子供のように、目を丸くし小さい小鼻を膨らまして浮き立っていた。
「こっちまで元気になりそうだな、気持ちよくて」
美しい匂いたつ花を溢れるように咲かせながら、力強い枝が、四方八方に伸びている。
「ここの桃を食べたら、こりゃあ元気になるだろな、身も心も変わるかもしんない」
みわはまだ目を丸くして歩いていた。
一面の桃の花の中を歩くみわの容姿が、塩崎にはルノワールの絵にかかれた少女のように見えた。現金なもので最近の塩崎は、風景から色彩が消えたという感覚は完全に無くなっていた。
「なんなら、桃の木一本キープするかい、オーナーになって」
「そんな事できるの!」
みわはえらく乗り気のようだ、うれしそうに塩崎を見ている。
「駐車場の張り紙に書いてあった、一本五万円だそうだ。熟れたら連絡が来るから、オーナーは来てちぎったらよいわけだ」
「フーン、一本の木にどれだけ実が生るんだろ」目を輝かして周りの桃の木を見渡している。
「そうだな、ここの木なら四百個ぐらいじゃないかな、いや、だめな実もあるだろうから三百かな」
塩崎は何年か前、別の地区だが、玲子と来たことがあるから詳しい。
「一個にするといくらだ?、五万を三百で割ると、エーと、エーと百七十円くらいか、それにガソリン代も要るし」
みわは眉間にしわを作って、しきりに考えていた。
「やめとこ、第一そんなに食べれないや」
少女は堅実なところを見せる。
「それと、隣のオーナーが早く来て、うちの分をちぎって帰ってもわかりゃしない」
混ざり合った枝を見ながら、目をくりくりして、口を尖らしている。
「心配で、夜も寝られないか」
塩崎はおかしくなって、みわをからかった。
「そうだよ、こっちは遠いところにいるんだから」
彼女は半分真面目だ。
「いるだけ買って食べたらいいや」
みわは自分で納得していった。
日帰りの予定を変えてその晩は甲府のホテルに一泊することにした。明日は日曜日だ、のんびりしよう。みわに言うと、彼女は喜んだ。
駐車場から、白亜の豪華なホテルの玄関をくぐった。広いロビーを歩きながらみわは塩崎を見上げた。
「新婚旅行になったね、私誇らしい気分だ、嬉しいナ」
少女は顔を桃色に上気させ、薄くそばかすを浮かしていた。
「ただホテルのフロントでは親子だぞ、わかってるな」
「わっかりやした、イヒヒヒ」少女はキオツケの格好をして、敬礼した。
「ホントだぞ」
塩崎は疑わしそうに、念を押す。
「どうしてそんなに人目を気にするんだろ、このひと。子供みたいだよ」
「だって、照れるじゃないか」
「どうして照れるの」
みわは面白がっている。
「照れるから照れるんだ」塩崎は苦笑している。
塩崎はフロントでチェックを済ませ、キーを受け取るとさっさとエレベーターに向かった。きょろきょろと周りを見ていた少女が、あわてて付いてきた。
ダブルのルームに入っても、少女は珍しそうに見回していた。
塩崎が上着を抜くと、みわは埃をチェックしながら、ロッカーのハンガーにかけている。
「なかなか渋いスーツだ、色も趣味が良い」
少女は軽くブラシしていた。
みわによると、スーツは薄いグレーか、アイボリーが特に良いらしい。ネクタイは赤かグリーンの淡色に限るとなる。そういえば塩崎が始めてみわと出会った時は、確か薄いグレーのスーツだった。その時のことを「パパが注意に来て、自分の席に帰る後姿がとにかく素敵だった、スーツの背中がピンと張っていて。あたしは子宮がキュンとなった」とえらく不道徳な話をしたことがある。塩崎が「まさか」と言って笑うと「だってホントだもん」不良少女はあっけカランと、小さな舌を出して笑ったものだった。
「こんなおじさんを好きになるとはね、変わってるよこの子は」塩崎の本音だ。
「お金目当ても半分くらいあるかもね」
みわはいたずらっぽく、眉間にしわを寄せて言った。
「しかしどうして自分のことを、そんなに卑下して考えるんだろこの人は、今のは冗談だよホント」
少女は真剣な顔に戻った。
「いや、誰だって金のことは考えるさ、冗談で無しに。当たり前の話だ、世の中金が無ければ生きては行けないもの」
「でも、お金だけではないんだよ、絶対に。病院で一番最初に言ったことは本当なんだよ、正直な気持ちを打ち明けておかんと、悔いが残ると思ったから、恥ずかしかったのに無理して言ったんだ」
少女はますます真剣になった。
「星の出会いのことかい、恥ずかしそうには見えなかったが。まあ、あの時は俺は片目だったからなあ」
塩崎は思い出して、笑い出した。
「茶化すな、人が恥ずかしい思いをしたのに、畜生、噛み付くぞ」
少女は抱きついてきたものだった。あのときのあばずれた言葉使いは、この少女なりの照れ隠しだったのだ。
ベランダに出て、夜空を見上げている塩崎に、みわが寄ってきた。
「あたし、幸せすぎて怖いみたいだ」
みわは塩崎の手を握った。塩崎は肩を抱き寄せたが、不安定なところに立っているような、漠然とした感覚は抜け切れない。塩崎も自分がこんなに幸せでいいのだろうかの思いである。
その夜のみわは、いつにもまして塩崎の体を執拗に求めた。疲れた塩崎が先に眠り込んだほどである。
帰りの車の中で、満ち足りた少女は幸せそうに眠っていた。
四
「タバコ止めてたよ、知ってた?」
同棲をはじめて半年になろうかの時分である、みわが口を開く。
「知っていたよ、この頃タバコ臭くないから」
最近妙に綺麗になってきた、みわを見ながらうなずく。
塩崎はタバコとか、酒を止めろと、あれ以後は言ったことはない。学校の教師みたいな説教を、みわのような境遇にいた少女に言っても、仕方が無いとの考えもあった。(クスリを遣ってないだけでも、良かったじゃないか!本人が自覚すればやめるだろう)しかし、説教ぶって話す時もある。
「先進諸国の中で、際立って喫煙率の高い日本で、統計上、今まで何で肺がんが少なかったのか、これには理由がある・・・・」
塩崎が仕入れたばかりの、知識を切り売りしようと、夕食後のひと時、話し始めると。
「理由は、太平洋戦争期間中のタバコ欠乏が、幸いしたがためであり。現在進行中の潜伏患者の増加は、財政的な面からも、将来はエイズなみの大きな社会問題となろう」
少女は真面目な顔を作って言う、塩崎は驚いて少女のかおを見たものだった。
「日本医学賞受賞のワタナベ博士の論文より」
みわは続けて、悪戯っぽく言う。
「へえ、どうして知ってるの?おまえが」
実は塩崎は入院期間中、病院にあった禁煙キャンペーンのパンフレットの拾い読みでの知識を披露しようとしたのだった。
「あたしもあの病院で読んだもん、良い論文だ」
みわはペロっと舌を出して笑う、塩崎も嬉しそうに笑った。(前から思っていたが、存外頭が良いぞ、中学にもまともに行ってない子なのに・・・)塩崎はあらためて見直す。
「あたし、活字を読むのは好きなんだホントは、今まで読めなかったからねえ」
いろいろな事に、好奇心をもてる脳の持ち主らしい。
「あたしがタバコを止めたのはねえ、実は・・・あとから話すよ」
みわは、両手で塩崎の手をいとおしそうに包んだ。
塩崎はみわも読んだという論文の、タバコの件にも感心したが、エイズの潜伏感染者の広がりについても驚いたし納得もした。(感染の恐れのある若者は、まず検査には行かないから、感染の広がりは予測が付かないほどだろう)
エイズといえば、十年ほど前の薬害事件を思い出す。日本の裁判の特徴が出ているからだ。
薬害エイズ事件に非常に似たテーマを扱った“第三の男”という映画がある、今でも最高傑作といわれて、テレビなどでも放送されることがある名画だ。日本ではラストシーンの印象から、恋愛映画と思われているが、重いテーマの映画だ。
戦後の物資の無いウィーンで、医療機関に粗悪ペニシリンを横流しをして、大儲けをしている闇商人の話だった。かれが観覧車の中で、豆粒ぐらいに見える人々を指差し、友人に仲間になれと誘うシーンが印象的だ。
「あの点がひとつ消えるごとに、何十万の儲けだぜ、それも無税だ。やらないか」
「罪の意識は無いのか」
「犠牲者を見なければ、罪の意識は感じない」
映画では、最後は闇商人は、警官隊に追われ、下水道の中を逃げ回り、鼠のように射殺された。翻って、日本の薬害事件で大儲けをした者たちは、どうなったのだろう。エイズの原因となった非加熱製剤の、許認可の立場にあった厚生省の責任者。危険を察知しながら大量に販売した製薬会社と、それを承知で使用し続けた医者。三者三様の利益を享受したはずだ。その結果、恐怖と絶望の中で悲惨な日々を送っている被害者。塩崎はつくづく日本の裁判の甘さに、改めて絶望する思いだ。
「あたし、生理が無いんだ・・・ここ三月」
塩崎がギョッとしてみわの顔を見つめた、口をぽかんと開けたままの驚いた表情だ。
「だって、出来ない体だと言っただろ」
思わず喉がつっかえたような声を塩崎は絞りだした。
「あたしもホントにできないと思っていたんだけど・・・」みわは塩崎をまっすぐ見て
「神様があたしに恵んでくれたんだ、あなたの赤ちゃんを」すがりつくように、塩崎を見る。
「怒っているの?」
もうみわの目に、見る見る涙が溢れた。塩崎は絶句したままである。
「あたし、赤ちゃんがほしいの、ほんとにほしいの、あなたの赤ちゃんが」
みわは泣きじゃくり、語尾が聞き取れない。塩崎には、ふと、みわとみわの話に出てくるその母親とがダブって見えた。
「どう考えても無理だろ・・・・」
塩崎は立ったり、座ったり、歩いたりしている。思いがけないことに、考えがまとまらないのだろう。何よりも、玲子に悪いとの思いが強くあった・・・・。
みわは泣いて泣いて、塩崎がどう取り繕おうと、泣き伏せて、また泣いた。ひととおり泣いたあと、吹っ切れたように言った。
「あたし、育てる、あなたの子を」
塩崎の予想に反した言葉である。
「この子は殺せない、いやだ、あなたの子だもの」
何かを決意した顔である。“雌は強い雄の子孫を残したがる、動物の本能だ”人間も動物だと、この場合にも当てはまる話だろう。
塩崎は計算をする、育てる資金とか、生まれる子の将来とか諸々のことを。
「その子が十八のとき、おれは幾つになるかなあ」
塩崎の言葉に、みわは手を合わせて拝んだ。
「まだ六十過ぎです。あなた、あたしなんでも言うこと聞くから」
みわは体内の命のために、どんなことでもする決意を固めたのだ。胎児にたいしての、男と女の違いがよく見える話ではある。
二人は日常の会話にだんだん将来のことが増え出した。生まれてくる子供のこと、みわの健全な仕事への淡い願望、二年先、五年先、十年先の三人の生活設計などである。
「子供のためにも、正式な籍を入れとかないといけないな」
塩崎が夕食の時言う、
「早く、そうしてね、でないとできちゃった結婚になるから。恥ずかしいんでしょ、あなた」
みわは真に嬉しそうである、ますます美しさを増した透き通るような白い顔をほころばした。
「しかし、それってどうすればいいんだろ、大企業の課長さんだから知ってるでしょ。なにが要るんだろ、印鑑なら持ってるけど」
真顔で言ったので、塩崎は苦笑した。
「まず君は未成年者だから親の承諾が要るだろうな、俺も良く判らんが。それと戸籍の謄本だろうな、要るものは」
塩崎も経験が無いので正確には知らない、友人の弁護士に聞いて見るつもりだ。それとすでに作って弁護士に預けている遺言書も訂正が要る。玲子が死んだ段階で、真一と玲子の死亡保険金など、少なくない金額を、全国犯罪被害者の会(あすの会)への寄贈にしてある、その時点では塩崎は漠然とではあるが、あまり長生きはするつもりはなかった。しかし今は違う、今の自分の財産、死亡保険金などはみわを相続人に指定しておく必要があるのだ。
「戸籍の謄本って、区役所でくれるもんだろ」
みわは聞きなれない言葉に戸戻っている。
「母の承諾が必要か、いやだな」
塩崎にビールを注ぎながら考え込んでいるようだ。
「孤児はどうするんだろ、だったら親の無い者は?」
みわは母に会いたくないのだろう、塩崎をじっと見ている。
「君の場合は孤児ではないからねえ、戸籍上母親が居る訳だから」
ビールを口に運びながら塩崎も考えている。
「第一、あたしはどこの役所に行ったらいいんだろ」少女は正式に社会と向き合い始め、戸惑っていた。
「とりあえず、知り合いの弁護士に聞いて見るよ」
塩崎が助け舟をだした。
「久しぶりだな、どうした風の引き回しだい」
弁護士の森口は、塩崎の気の置けない大学時代からの友人だ。旧友の呼び出しに割烹料理屋の個室で待っていた。相変わらず太目の体をきっちりと渋いスーツで包み決めている、有能な弁護士らしく豊かな髪も綺麗に整えていた。
「遅れてすまん、料理注文したかい」塩崎も挨拶抜きで、白い歯を見せて向かいにあぐらを組んだ。
「ビールと刺身を二人前注文しておいた、どうだ調子は」
元気そうな塩崎の顔を見て安心したようだ、こちらも艶のいい顔に笑顔を浮かべた。
「ひどい目に遭ったからなあ。奥さんも本当に気の毒だったし、力になれなくて俺も悩んだがな・・しかし塩、お前が意外に元気そうで良かったよ」
塩崎の顔をじっと見てほっとしている。
「まあ何とか生きているよ。あの節は世話になったな、ゆっくり御礼も言わずすまなかった」
塩崎はお絞りを使いながら言葉を継いだ。仲居がビールとつきだしを持ってきた。
「お刺身の盛り合わせは直ぐに参ります」
テーブルにビール三本と、煮物二皿並べて追加注文はベルを押すように言って出て行った。
「しかし、京東銀行も冷たいな、何十年も尽くしてきたお前を簡単に左遷するとわな。これが企業の論理か」
森口は慰めの言葉を口にした。
「別にどうってことは無いさ。コンデェーションの良くない人間に、重要なポストを任す訳にはいかなんいだよ会社も。俺にとってはこの方が良かったくらいだ」
塩崎は茶色いビール瓶を掴みながら笑顔で応じた。
「まあ人生考えようだからな」森口もコップを掴んだ。
「また太ったようだな、おまえ。うまい物食べ過ぎじゃないのか、顧客からの高級料亭の接待漬けでよ」
ビールを注ぎながら、塩崎は旧友に遠慮のない軽口を飛ばす。
「最近、運動不足でな。つい忙しくて」
森口はビールを注ぎ返しながら友の皮肉をやり過ごして笑った。そして顔をつるりと撫でた。
「結構なことだな、しかしウォーキングぐらいはしたほうが良いぜ」
「まだそんな年寄りじゃないよ、おまえと同い年だぜ。そうだ塩、暇を作って久しぶりで夏山ってのはどうだ、おまえも気晴らしになるぜ、一、二泊ぐらいの山でさ」
森口も旧友との再会で嬉しそうだ。
「冬はなんだが、夏ならなんとかな、俺は、俺はだぜ。しかし、おまえの場合、その前に相談しといたほうがいいぜ」
塩崎はニヤニヤして言った。
「相談って、俺の依頼人か誰かにかい?」
「心臓だよ、森口先生のよ」
「よせやい、異常無しだぜ、毎年の人間ドッグは。俺の内臓はまだ青年だ」
森口は自信たっぷりで言った。
「ところで、今日はまたなんだい。別に俺は用が無くても構わんがな、塩の元気そうな顔を見れたから」
森口はコップにビールを注ぎながら聞いた。
「俺もひさしぶりに、おまえの顔を見たくなったんだよ」
塩崎はコップを口に運びながら、何から聞こうか思案顔だ。
「遺言書の書き直しじゃないのか」
森口はさすがに大学の山岳部で同じ釜の飯を食った仲間だ、察しが的をついている。
「図星だ、どうして判る?まあ他にもいろいろ教えてもらいたいことがあるんだがな」塩崎は空になった相手のコップにビールを注ぎ、返して自分の空のコップにも茶色い壜を傾けながら訊いた。
「おまえの顔を見れば判るさ。あの遺言書はどうも、俺から見ればエキセントリックな面が透かして見えるんだ。塩が無茶をする腹じゃないかと実は心配だったんだな」
塩崎は真一と玲子の死亡保険金は既にあすなろの会《犯罪被害者の会》に寄付していた、その上現在の財産と彼の保険金全てもあすなろ会に寄贈との遺言を作っていたのである。
森口は、親友の心がだんだん平静になったのを見て安心していた。
「真一君の裁判はひどかったからな、あの裁判長はいろいろ問題のある人なんだ。どうして控訴しなかったんだ、控訴してればまた違った結果が出たと思うんだ。ま、いまさら言っても仕方が無いがな」
森口は真一の裁判を思い出して言った。
「そう変わった判決にはならなかっただろ、どうやっても真一は生き返らないし。実は玲子が裁判に拒否反応を起こしてなあ、もう止めてくれと泣くんだよ」
塩崎もいやな裁判を思い出している。
「無理も無いわなア。俺もいろいろ裁判関係に関わって来たけど、被害者の苦しみとかは、本当は判ってないんじゃないかと思うよ、この頃」
森口もしんみりしてきた。
「話は変わるが、森口、菊池寛の小説に“若杉裁判長”というのが有るが読んだ事があるかい」
菊池寛の作品に、若杉裁判長という短編がある、温情主義を旨とし、被告に優しい判決で有名であった裁判長の自宅に在る夜強盗が入った。
強盗未遂に終わったが、その時の恐怖が原因で妊娠中の妻の死、その後の家族のトラウマなどの体験から、彼は法律の条文には被害者の感情が考慮されていないとして。以降、極端な厳罰主義に変わった、というのがある。
「読んだよ、大昔にな」森口は言って、ビールを口に運んだ。
「裁判に携わるもの、参考に読んでもらいたいもんだ。まあ、あれほど極端になってもイカンだろうが」塩崎もコップを空けた。
「おれも、法曹界に生きる人間なんだが、最近疑問を感じるよ、この国の制度自体に」森口はビール瓶を掴みながら表情を戻し「予算面から見てもだな、加害者保護のための国費は、年間五百億円ぐらいだがね、被害者側の国費はいくらだと思う?」
ビールを両方のコップに注ぎながら、目を細めて塩崎に聞く。
「検討もつかんが・・半分ぐらいかい?」
塩崎はあてずっぽうに言った。
「それが約十億円ちょっとだ、要するに被害者側を救済する意思がないんだなあ、この国は」
「本当か!驚いたな、殺されたほうが悪いと言ってるようなもんだな、それじゃあ」
塩崎は本当に驚いた。
「まあ、何年か前の金額だがね、しかし現在もそれほどは変わらない」
森口は塩崎のコップにビールを注ぎながら続ける。
「随分と悲惨な生活を強いられている例が多いんだ。何の罪も無い善良な人間が家族を殺されて」
森口はビールをあおった。
「ショックから立ち直れず自殺した遺族も居るし、ストレスから病気になる例はかなり多いんだ、正確な統計は出ていないが・・・、まったくかわいそうな話だよ」
「塩は強いからな、何とか立ち直ったが・・・」森口は改めて塩崎を見ている。
「それはどうかな、今でも殺してやりたいのが本音だ、思い出したら」
塩崎は裁判を思い出したのか唇を歪めた。
「俺は思うんだが森口、そもそもこの国は犯した罪に対して罰が軽すぎるんだよ」
「そう感じる判例も、確かに有るな」
「極端なことを言えば、日本をだめにしたバブルだってそうだよ」
「あの時分は、あくどいことをして莫大な金を手にした奴らがいっぱい居たからな」
「俺は、銀行マンだったから、実際に見聞きもしたんだが。胡散臭い連中の口利きで、変な会社に何十億と融資して焦げ付く例が多かった、回収不能だ。何故そんな融資をしたか、いろいろ言われているんだが結論を言えばだな、結局は奴らが怖かったからだ。じゃあ、何故怖いか。奴らが何をするか判らんからだ、実際殺された人がいるからな。会社とか銀行とかの責任者は、自分たちの平穏な生活を、壊されたくないと考えるのは当然だ、出す金は自分の金ではないしな、断るには勇気が入る」
「Fフィルムの専務さんの気の毒な例もあったな」
「奴らは、金のためなら何でもやってのける、人殺しだって平気でやる。ここで大事なことは奴らはなぜやるかだ、人殺しさえもだ。・・・何故やるか、引き合うからだ」
「殺人犯でも早いのは五、六年で出てくるからな、それも箔をつけて」
「悪いことをすれば引き合わない、という制度にしないとこの国は立ち直れない。今のままだと正直者がばかを見る」
「全く塩の云う通りだよ。結局、バブルの付けは正直な国民が支払うことになった、やり切れんなあ」
森口はビールを一気にあおった。
「頼むよ、森口先生」
塩崎はどうにもならない気分を、軽口で紛らわす。
「なんだい急に」
「この国を救えるのは、高名な森口弁護士たちだ、アッハハハ」
「よせよ、俺は真面目に聞いているのに、なんだ塩、もう酔ったのか」
「いや、悪い、悪い」
友との久しぶりの酒に、塩崎は饒舌だ。
「話は変わるが、この間テレビのニュースで流れていたんだが、日本で犯罪を犯したイスラム教徒の給食に気を使うんだってさ」
「へえ、なぜだい」
「豚肉がだめだからだ」
「フーン」
「日本人がイランかどこかで、悪いことをしてぶち込まれて、飯は日本食にしろって言ってみろ」
「ハハハ、ぶん殴られるのが関の山だな」
「要するにだな、この国自体がお人よし過ぎるんじゃないかな」
「ハハハ、そういえば日本で強盗とかやって捕まっても刑が軽いからと、外国から不埒な奴らが、ゾロゾロ来てるんだからな」
「とにかく、犯した罪に対してそれに見合う罰を与えなければ、秩序は保てないと思うんだが、俺だって爆発寸前だったんだから」また話が元に戻る。
「塩の気持ちは、痛いほど解るが、感情に走ったらろくなことは無いよ」
森口は親友の繰り言に付き合う。そうすれば塩崎の気持ちを、少しでも平穏に出来るからだ。
「これからも、強く生きることだ、まっとうに生きれば何かいいことがあるはずだ」
塩崎のコップにビールを注ぎながら励ました。
「俺は本当は弱い人間さ、感情を捨てることが出来ない人間だよ」
「感情を捨てれる人間なんていないよ、塩。そこが辛いところだ」
「善良な人間ほど、苦しみ、悲しむんだろうなあ」友の同情の言葉だ。
「善良な人間だけにな、当事者として裁判に関わるってのはかなりの気力がいるんだな。ただ座って聞いているだけでも」
塩崎は友人のコップにビールを注ぎながら言う。
「玲子は耐えられなかったんだ、体も悪くしていたし」
どうしても脳裏にやつれた妻の顔が浮かぶ。
「済んだ話はもう止めよう、気が落ち込むだけだ。今日は前向きの相談だ」
塩崎はビールを飲み干してから言った。
「未成年者と結婚するには、どんな手続きが要るんだろ、実は相手は十八の娘なんだが」塩崎はビールを自分のコップに注ぎながら、言いにくそうに口から言葉を出した。
「・・・塩、おまえがか・・・」
森口はコップを持ったまま、目をまるくして塩崎を見ている。
「いや、恥じ入る話なんだが、もう腹に子供が居るんだ」
塩崎は自分の顔が赤くなるのがわかった。
「本当か・・・」
森口はますます驚いて塩崎の顔を見ていた。そしてビールを一気に飲み干した。
「いやあ、しかし驚いた、ワッハハハ」
森口はひざをたたいて笑い出した。
「そんなに笑うなよ」
塩崎も笑い出した。二人は大学時代の山男に戻ったかのように屈託の無い笑い声を上げた。
「塩がなんか無茶をするんじゃないかと心配してたがな、こんな無茶なら大歓迎だぜ、いやあ、実に慶賀の至りだ、羨ましいや、ホント」
森口は塩崎を見ながら、心から嬉しそうに大笑いをしている。
「そんなに笑うなって、照れるじゃないかよ」
塩崎も顔を真っ赤にして笑った。
「ずいぶんと楽しそうですこと、何かいいことが在ったみたいですね」
仲居が刺身の盛り合わせを持って入って来た。彼女もつられて楽しそうな顔をしている。
「大有りだ、近年滅多にないことだ、今年一番のビッグニュースだ」
森口はまだ笑っている。
「どうぞ、ごゆっくり」仲居も笑顔で出て行った。
「しかしなんだな、俺は二十数年女房と、仲は悪いほうじゃないが、子供はまだなんだ」
「塩は一発で命中さしたのかよ、チクショウ」
「よっぽど念入りに狙ったんだな、この野郎」
弁護士とは思えない乱暴な言葉遣いだが友情はこもっている。
「止めろってば、森口。真面目な話、俺が今日お前を呼んだのはこの事での相談なんだからよ」
塩崎は吹き出る笑いをやっと抑えて本来の目的を言った。
「山行きの件だが、桂司(けいじ)を巻き込もうぜ」
あくる日森口から電話があった。
「本気かよ、森口。おれは今は閑職だからいつでもいいが」
忘れていた塩崎は意外な気がしたが言葉を続けた。
「メイシュンかい、奴は忙しいだろ、今」
桂司とは山岳部の同期で、同じ学部の連中からはいつもいっしょにいる森口、塩崎、桂司(けいじ)はトリオMSKと揶揄されたものであった。塩崎は眼鏡の真面目な親友の顔を思い起こした。
本名は桂司(かつらつかさ)明春(あけのはる)だが、友人たちは無論のこと、誰も舌を噛みそうになる本名で呼ぶ者など居なかった、皆ケイジメイシュンと呼んでいて教授までもが桂司(けいじ)君と発音していたのでこれが本名だと思っていた者が多かった。確かに今日日カツラツカサアケノハルはあまりに堅苦しい。
第一、ザイル一本で命を預けあった岩登りの最中に、カツラツカサ君とか呼んで舌を縺れらしたら、足まで縺れて滑り落ちかねない。体育会系の連中もケイジ君と呼んでいた。しかし、この男は登山などの計画をさしたら完璧である。特に海外への本格的な遠征などは、他の大学の山岳部まで助言を頼って来たほどだ。山岳部の連中は彼を親しみと尊敬をこめて、段取りケイジとか、任せるメイシュンとも呼んだ。
財務省の係長になっているが、名前について面白い話がある。
人事異動の発表の時、人事部長が発令簿を読んでいて舌が縺れ、後から(君、読みを変えたらどうかなあ)言ったというのである。友人が確かめると、彼は否定も肯定もせずニヤニヤしていたらしい。ただこの苗字は由緒ある宮司の家系だからだそうで、彼にすれば結構こだわりがあるらしい。地味だが真に愛すべく男だった。
「塩のためだ、嫌も応も無いさ。やつは独身だから暇は作れるはずだ。第一あすこ(財務省)はなあ、おまえも知ってるだろうが。東大か京大でなきゃあ、なかなか難しいんだろ。それに上役の娘との離婚歴もあるからな。奴もここまでだな、いくら腕を立てても。たまには息抜きしたほうがあいつの為だ」
森口は電話の向こうで、存外あっさりと言ったが親友を思う友情の念はこもっている。
桂司は一度、大蔵省の幹部の長女と見合い結婚をしたが一年足らずで離婚してしまい、それ以降独身を貫いている。それもあいまって森口は彼の省内での出世を悲観している。二人とも彼の結婚式に出席したが、まさに豪華絢爛足るものがあった。大臣、国会議員、大蔵省の官僚、大企業の幹部、花嫁側の音楽関係者の有名人がたむろしていた(花嫁は有名オーケストラのビオラリストでもあった)。
会場は高級なスーツや豪華なドレス・着物をまとった紳士淑女で溢れていた。品のよい会話が辺りを包み、尊敬語、丁寧語、謙譲語が飛交っていた。
森口・塩崎共に友人代表として祝辞を述べたが、ざっくばらんな話は憚られる雰囲気だった。別れた後になってみれば誠に持って虚飾に満ちたものであった。(巧言令色、少なしかな仁)塩崎はこの格言を思い出したものだ。
花嫁は若いピアニストと愛人関係に在ったようで、父親が体面を気にして別れさせようとして、部下で真面目な桂司と見合いさせ、強引に結婚にまで持って行ったらしい。親として娘の幸せを願ってのことだったろうが、しかし無理が在った。彼女は結婚後一年足らずで若い愛人を追ってドイツに出奔している。確かに長身の美人であったが父親に似て、あごが大きな印象だったと塩崎は覚えている。また気も強そうな印象だった。「ああいう顔の美女は年下の男が好みなんだ」
これは後で言った森口の言葉だ。
割を食ったのは桂司で、まったく持ってピエロの役を演じたことになる。幾ら相手が名家であったとしても結婚式費用は対等に出さなければならないし、相当な出費となったはずである。それはとにかくとして、男の沽券にかかわることである。衝撃は大きかったはずだ。
娘の出奔を知った両親は土下座をせんばかりに謝ったそうである。しかし彼は、自分に男としての魅力がなかったからだと、相手の父親に言葉したと聞いた。
『これからも我が家の息子として付き合いたい』と取り繕う父親に、斟酌無用に願いますとはっきりと答えたという。彼の芯の強さが見える話である。その後、彼は何事も無かったかのように振舞ってはいたが、かなり痩せたことは内面の葛藤を物語る。
そんな啓司を心配する塩崎に森口は言った。「彼は他人の同情を嫌う人間だ。あの性格だ、必ず立ち直る、今はそっと見守ってやろうぜ」
「真面目という漢字が服を着て、まっすぐ歩いているような男だからな。人を、押しのけてでもというタイプじゃない」
塩崎も同感だ。
「あいつも乗り気だったよ。久しぶりの飯盒の飯もいいなって、それに塩が元気だと知って喜んでいたよ」
山で食う飯盒の飯は格別だ。たくあんと塩鮭だけでどんな豪華な料理よりも確かにうまい。
「あいつも、塩のこと本当に心配してたからな」
塩崎は二人の親友の心遣いがありがたかった。
「ケイジが入ったとなると、こりゃあ実現だな、森口。おまえ、足腰鍛えとけよ、ゴルフなんかじゃ鍛錬にならないぞ」
「奴も言っていたな、これからはずっとエレベーターとかは使うな、自分の周り全部が、無料のトレーニングジムだと思えってよ」
森口は愉快そうな口調だ、塩崎も用意周到なケイジらしいなと思い懐かしかった。
「途中でダウンされたら、終わりだからな」
電話の向うの太めの友をからかった。
「そりゃあ、おまえこそだ。しかし中ぐらいの山だぜ、段取りは全部ケイジにお任せだな」
森口は念を押して電話を切った。
向かい合って夕食を始めようとの時、チャイムが鳴った。立とうとするみわを制して受話器をとると、
「こんばんは、森口です」
友人の声だ。
玄関を開けると、驚いたことに桂司も一緒に立っていた。
「どうしたんだい、二人そろってこんな陋屋(ろうおく)にさ、まああがれ」
「今日霞ヶ関のほうに用があってさ、ついでと思って財務省に寄ってみたんだ」
「いや、久しぶりだな。実は森口と話しているうち、今晩塩のところへ、行って見ようかって話になってさ」
桂司は塩崎を見て本当に懐かしそうである。
「邪魔だったかな」
これは森口だ、奥のほうを見ている。
「なにを言うんだい、とんでもない。まあ奥へ、と言うほど広くないがね」
どやどやとリビングに入った。みわはスーツ姿の紳士二人の突然の訪問に驚いていたが、ニコニコして応対した。
「いらっしゃいませ、ようこそおいで下さいました」
少女は丁寧に挨拶した。
「紹介しよう、こちらが森口君、有名な弁護士さんだ」
「始めまして・・森口です。有名ではないが一応弁護士です。」
豊かな髪を見事なオールバックに整え、一部の隙も無いスーツ姿だ。外で見る時はそれほどでないが、狭い部屋で見ると、さすがに貫禄充分である。が、会釈しながら、チラッとみわの腹を見たようだ。
「こちらが桂司(かつらつかさ)君、通称ケイジ君、財務省のエリート役人さんだ」
これも、頭はきっちりと七三に分けて真っ白いワイシャツに濃紺のスーツ、白い顔に黒縁の眼鏡の容姿は、まるで汗もかいたことが無いというような感じである。
「桂司(かつらつかさ)です、簡単にケイジと呼んでください」
こちらは礼儀正しく、まっすぐな背筋を軽く折って、会釈をした。
「みわと申します、ふつつかものですが、よろしくお付き合いくださいませ」
みわは懸命に、えらく丁寧な挨拶したが、二人の貫禄に押されたのか、顔が上気していた。
「何も無いが、とりあえずビールだ、まあ座ってくれ。みわ、ウインナーでもボイルしてくれるか」
みわは挨拶がそつなく済んだので、うれしそうに冷蔵庫をのぞいていろいろ取り出している。
「その前に線香をあげさしてくれ」
二人は小さな祭壇に線香をあげた。祭壇には真一と玲子の写真が並んでいた、線香の匂いが立ち上った。
二人はテーブルにつくと携帯を出して確かめ、電源を切った。
「何もないが、ビールだけはいくらでもあるからな、俺のとこは」
塩崎は友人二人を嬉しそうに見た。
「実はもらい物のウイスキーを持ってきた、依頼人からのお礼の差し入れだけどな」
森口はえらく高そうな箱を出してテーブルにおいた。
「さすがに豪勢だな、しかし先にビールだ、乾杯といこうぜ、みわも格好だけだ」
みわはいそいそとコップ四つを、テーブルに並べてビールを注いだ。
「乾杯!」
四人のために、登山成功のため、おなかの赤ちゃんのため等、いろいろな声がでた。みわも格好だけして、あとはキッチンで幸せそうな背中を見せて、ことこと作っている。
チャイムが鳴った、受話器を取ると近所のスーパーだと言う。
「僕がでるよ、さかなだろう」
なぜか、桂司が立ち上がって玄関に出た。
「ここへくる途中、スーパーの鮮魚部で、でかいひらめを見つけたんだ。刺身にしての配達を頼んでおいた」
カバーのかかった巨大な皿を抱えてきた桂司は、ヨイショとテーブルに置いた。
「凄いな、こりゃあ、みわも見てごらん」
塩崎はカバーを除けて、唸った。みわも目を丸くしてのぞいていた。きれいな白身を綺麗に並べてある、それも山盛りだ。
「皿が一つだから、無理に詰め込んだって感じだな」
桂司は笑っている。
「うまいなあ、ひらめの刺身は」
森口は豪快に、飲み食いしている。
「ここがひらめの縁側か、みわ、食べてごらん」
塩崎がみわの小皿にいれた。
少女は緊張しているようだ。差し出ない風情で塩崎の横にくっつき、遠慮がちに刺身を口に入れた。
「コリコリしてうまいだろう」
「ホントだ、おいしい」
みわのコップには、ウーロン茶が入っている。
「うまいと言えば、山の飯盒飯が楽しみだな」
桂司もピッチをあげながら言った。
「同じ飯なんだが、どうしてあんなに旨いんだろ」
「空き腹が最高の料理というからな。森口、ぼちぼちウイスキーをもらおうか」
塩崎の声に、みわが氷とグラスを並べた。
「二人とも上着を脱げよ、どうもみわが怖がっていかん。おまえら貫禄が有り過ぎだ、この部屋には」
塩崎が笑いながら友人を促した。二人は苦笑しながら上着を脱ぐと、
「気が付きませんでした、すみません。どうぞ楽になさってください」
みわが顔を赤くして立ち上がり、ニコニコしながら二人の上着をハンガーに掛けた。
話は弾み、和やかで楽しい時間が過ぎてゆく。
「僕は思うんだがねえ、昔話の天女が舞い降りたってのは、ホントに在ることなんだな」少し顔の赤くなった桂司が、眩しそうにみわを見なから言った。酔いが口を軽くしている。
「俺も思うんだ、みわさんと出会って塩は命拾いしたなって」
森口も良い気分らしい。
「だって考えても見ろ。こんな部屋で、一人でじっと考え込んでいたらろくな事は無い」
「こんな部屋とはひどいな、森口」
塩崎は上機嫌で明るく笑った、みわもうつむいて笑う。
確かにケイジと森口のいうとおりだ、みわが来てから、部屋の空気は一変して明るくなった。
みわとの出会いが無ければ、夕食はコンビニの弁当かなんかを買い込み、一人ぼそぼそと済ますのが定番だろう。今は、みわの手作りの料理をふたりで、ほのぼのと会話を交えながらの夕食だ、栄養素の吸収のされかたも違うだろうし空気までもが違ったようだ。二人の友の言うとおりだ。
「こんなときに難しい話は何だが、俺は思うんだ」
盛んに飲み食いしていた森口が、塩崎とみわに顔を向けた。
「人間、幸せと不幸とは本当に紙一重だと思うよ。トルストイのアンナカレーニナの中にあるんだが、“幸せな家庭は一様に幸せであるが、不幸な家庭は様々に不幸である”とナ、弁護士を長くやっているとつくづくこの言葉が胸に響くんだ」
心地よい酔いのためか、饒舌に話し出した。
「人間幸せになるにはそこそこの努力が必要なんです、平凡な幸せでもです。仕事、家庭、育児、教育、健康など日常的なことに対しても、順調な生活を送るには日常の努力が欠かせないんです、人生は」
だんだん森口は人情弁護士の顔になって、みわの顔を見ながら話し始めた、みわを評価した証拠だろう。
「しかし、その努力が苦になっては続かない、毎日のことだから」
森口は気持ちよさそうに続ける、みわは膝に手を置き真正面から聴いていた。
「では、どうするか?習慣にすればいいんです。たとえば朝の洗顔、歯磨きなど習慣になってますよね、こうゆう良い習慣をだんだんと増やしていけばいいんですよ。要するに
出来ることから始める、最も簡単なやり方ですね」
塩崎と桂司は盛んに飲み食いしていたが、みわは真剣な表情でうなずきながら、森口の言葉に聴き入っていた。
「いや、なんか奥さんに説教したみたいになりました。こんな席で、すみません、職業柄癖が出てしまいました」
みわの酌をコップに受けながら、森口は心から嬉しそうだった。
二人の友はおそらくみわを見にきたのだ。
森口には先だっての夜、一応かいつまんでみわとの出会いは説明しておいたが、重厚な親友は一抹心配だったのだろう、何しろ歳が違いすぎるのだから。慎重な桂司に話せば、いうことは決まっている(心配だな、その子。見ておこうよ)好奇心も一部どころか、かなりあるだろうが。
そしてみわは、二人のメガネにかなったのだろう。二人とも随分とくつろいでいたし、楽しそうに飲んでいたから間違いない。
真一と玲子の死亡は、塩崎を自暴自棄にさせかねないと、旧友は心配してくれていたのだ。
今晩、二人の友は塩崎の生活ぶりを確認してその心配が消えたことを喜んだのだ。
塩崎も友の心遣いが嬉しかった。
楽しい時間が過ぎ、二人は上機嫌で帰っていった。
塩崎は階段まで見送って、部屋に帰ってみわに声をかけた。
「お疲れさん、あの二人が急に来たからびっくりしただろ」
「あたし、胸がドキドキして。ホント凄く偉い人たちみたい、なんか匂いまで他の人たちとぜんぜん違う感じ」
少女は顔を上気さしていた。
「とにかく、いい事を判りやすく言ってくれるし、いっぺんでフアンになっちゃった」
少女は心酔したようだ。
「そうかねえ、ああ見えて、あの二人、山で蛇を食ったことがあるんだぜ」
ニヤニヤして塩崎が言った。
「うそ!どうして、また」みわは目を丸くした。
「二人で、どこだったか日帰り登山に行ったんだ」
塩崎は続ける。
「早朝登山口から登り歩き、腹をすかしきってだな、山の頂上で昼飯を食べようとしてだ。その前にということで二人とものんきに小便をしてたんだな、少し離れたところに下りていって。ここからが傑作なんだ」
みわは興味深々で聞いている。
「用を済まして、二人が戻ってみるとだな」
「・・・・・」
みわは話に引きこまれている。
「サルが何匹か、弁当の包みをくわえて逃げて行ったんだって」
塩崎は愉快そうに笑い声を上げた。みわも大笑いだ。
「俺はそのときの二人の格好が、目に浮かぶよ」
二人の男が大声を上げて、サルを追っかけている姿だ。
「森口は助けてくれーと叫んで、走っていたそうだぜ」
塩崎は真っ赤な顔をして、額に筋を立てて、大笑いをしている。
「どうして」
みわも面白そうに塩崎を見ている。
「だって、ここで弁当を盗られたら、飢え死にすると思ったそうだ」
「それでどうなったの?」
「どうもならん、猛烈に腹が減っただけだ。しかしそこからがさすがだ」
「下山の途中、木にぶら下がっている大きな蛇を見つけたんだ」
「捕まえて食べたんだ」
みわが眉をひそめて感心した。
「五寸ぐらいに切って、長いままだと気持ちが悪いからな。塩を振って焼いて食べたと言ってた、無論皮をはいでだよ」
「どんな味だろ」
みわはひらめの刺身を見て言った
「するめみたいな味だったといってたなあ、ひらめほど旨くは無いだろ」
「ああ見えても、たくましい面もあるんだ」
みわはまだ感心していた。
「偉くてもすることはたいして変わらんよ、しかし良く飲んだなあいつら」
「三人ともホント楽しそうだったね、山の話で盛り上がって」
「三人そろったのは久しぶりだったからな」
「パパが山男だったとは、知らなかった」
改めて塩崎の体を見ていた。
「山は大学に入ってからだ、中学までは水泳をやってた」
気分良く酔っ払った塩崎は自慢する。
「どうりでスタイルがいいと思った、水泳もやっていたんだ」
「これでも早かったんだぜ」
「オリンピックに行けるぐらい?」
「そんなに早かったら続けているよ」
「残ったお刺身で、ご飯食べよっと」
少女は気兼ねが無くなり、今になってはしゃいでいた。
「パパも食べときなさい、飲んだらまったく食べなくなるんだからこの人は。飲んだら食べるを習慣にだ」
嬉しそうに言いながら、飯を盛った茶碗を二つ並べている。森口の口調に塩崎は思わず噴き出した。
五
夕方、塩崎が帰宅するとマンションの灯りが小さかった。みわは外出か、珍しいなと思いながらリビングに入った。
(どうしてもしなければならない事のため、外出します。明日の晩までに帰ります、夕食はレイゾウコの中です、みわ)丸いみわの字の書置きがテーブルの上にあった。横には“胎児のための食事”という題名の本があった、直前までみわが読んでいたのだろう。
みわは母親のマンションへ急いだ。塩崎には要らぬ心配は掛けたくなかったのと、これくらいのことは自分でやろうと思った。
電話で戸籍謄本と結婚承諾書が要るので送れとの要請に、一度顔を見せて欲しいとの母の答えがあったからだ。
渋谷駅から歩いて道元坂の母のマンションへ行ったが不在だ。母の携帯を呼び出すと店が思わず忙しいので帰りは朝になると言うので、店まで鍵を取りに行った。渋谷の西武デパートの北の路地の‘宵待ち草’を捜し、扉を押して青い照明の店内に入った。
いらっしゃいませの若い女の声がした、カウンターとボックス席が五つ位に、客で埋まっていた。それぞれの席に女の子が二人ついている、笑い声や嬌声に満ち溢れなまめかしい照明の中タバコの煙が揺らいでいた。
派手な青い和服姿の母が来た、前と変わらぬ美しさである。空いている奥のトイレの横の狭いボックスに向かい合って腰をおろしたが、さすがにこみ上げてくるものはあるようで母は何も言わず、ただみわの手を両手で包み込みしばらく黙って顔を見詰めて頷いたりした。
「元気そうね、良かったわ。しかし貴方綺麗になったわね」
手は離さないままで、小声で言った。
「ウン、鍵」
みわは努めて平静を保ち、わざとぶっきらぼうに言った。
「相手はどんな人なの」
みわの手を優しくもみながら嬉しそうに聞く。こんな表情の母は初めてだ、化粧の奥のしわは増えたようだが綺麗な目は変わらず、優しさは溢れている、みわはさすがに母を感じる意外な思いがした。
近くのボックスのニ三人の客が、チラチラと二人を見ているようだ。女の子達は心得ているのか、笑顔で客の応対をして男の関心を自分に向けようとしている。
「夕食は食べたの」
母は鍵を渡しながら訊く。
「途中でなんか食べるよ」
「お金持ってるの」
母は数年ぶりの娘に嬉しく、優しさに溢れている。
「それ位は持ってるよ」
「ちょっと待ってて、おいしいお寿司をとってあげる、直ぐ来るから」
母は立ち上がり、電話をした。仕方なしにみわは座って待っていた。
「ここで食べる?それとも帰ってから?」
母は向かいに座りながら娘を見た。
「行ってから、向うで食べるよ」
「もう来るよ、おいしいお寿司だからね」
またみわの手を両手で包んで柔らかく揉んだ、遠慮がちに。
みわは母の店を出て、歩いて道元坂のマンションに向かった。なぜかうつむき加減の急ぎ足で歩くのは一抹の不安があるのだ、向こうに目的の白いマンションが見えてきた、都会のど真ん中のこのあたりも、この時間は青白い街灯の光はあるが人一人歩いていない。緩やかな坂道を上がり門内に入った、玄関横の植え込みから帽子を被った大柄な若い男が出てきた。
「みわ、久しぶりだな、どこに消えていたんだい」
男はみわの前に立ちふさがった。
「あら、ジョウジ、元気だったの」
みわはいやな奴に出会ったと思ったが、調子を合わした。相手は冷たい目をして無言である。
「怪我は治ったようだね」
彼は塩崎との乱闘の際、顔の骨を折ってうめいていた。
乱闘のしょっぱなに塩崎の頭突きを顔面に受けて、その後非常な苦痛にさらされ、しばらく病院通いを余儀なくされたと聞いている。
「やっとな、これもおめえのおかげだ」
冷たい目でじいっと見て言う、蛇の様ないやな目だ。
「よかったね・・・」
「おめえ、しばらく見ないうちにえらい綺麗になったな、どんな野郎をくわえ込んでやがるんだ?」
「あたし今、急いでるんだ、また後で」
そのまま玄関に入ろうとした。
「冷てえな、おめえ」
玄関の蔭から二人の男が出てきて、前をふさぐように立った。
「急いでるんだから後から電話するよ」
みわは必死になって逃れる方便を捜す。
「そう言うなって、捜していたんだよ、俺たち」
彼らは待ち伏せしていたのだろうか、それにしてもタイミングが良すぎる・・母の店に仲間がいたのか!
「ちょっとでいいからさ、そこまで付き合えよ」
男たちは有無を言わさない態度である。
この場で大声を出すことも出来たが、修羅場になるのを恐れてみわはためらった後、少し
の時間言うとおりになろうと思った。そうしなければどんな目に遭わされるか判らない、揉みあいになったりしたら・・・彼女は何とかここは平穏にと、お腹の子の心配があった。
アパートの部屋に連れ込まれた、みわは何とか逃れる言葉を考えていた。
「みわさんよ、抜けるつもりなら落とし前がいるんだぜ」
「それぐらいは解っているだろうな」冷酷な目の色である。
「手前にあいさつがありゃあ、まだよ、考えてやっても良かったんだがよ」
「可愛げが無いぜ、みわさんよお」
不良たちはネズミをいたぶる猫のような気分だろう。
畳の上に正座しているみわを囲んで脅し文句を並べていた。いや決して脅しでないことはみわは良く知っている。
「しかしこいつ、しばらく見ねえ中にえらく美人になったな。おい、三人で回そうか」
チンピラたちはニヤニヤして話し合っている。みわは激しく震えだした。
「あたしが消えてたのは、訳があるんだ」
みわは必死で頭を働かした。
「往生際の悪い女だ、さっさとズボンを脱がねえか、蹴り殺すぞ」
ジョウジが立ちあがった。
「あたしエイズなんだよ、だから消えてたんだ、エイズをうつされたんだよ」
死に物狂いの機転だ、不良どもは皆一歩ずつ後ろに引いた。じいーとみわを見ている。
「ホントか」
「うつしちゃあ悪いだろ、だから・・」
みわは泣き出した。
「嘘じゃねえだろうな、みわ」
声の調子が変わってきた。
「誰に移されたんだよ、おめえ」
まだ半信半疑である。
「あっ、町田とやったことがあんのか!おめえ?」
みわの知らない名だ、連中の仲間で、エイズに感染した者がいるらしい。
「知らないよ、マチダさんて」
「じゃあ、誰だよ」
「そんなこと、判らないよ」
「どうして判ったんだ?」
「体がだるかったから、保険所に行って検査したんだ、二週間ぐらいで来た通知が陽性だったんだ」
みわは泣きながら続ける、人間必死になれば、迫真の演技も出来る。
「よし、許してやらあ、てめえエイズに感謝しな」
「本来なら、たたき殺して山の中に埋めるところだ、小娘になめられる訳にはいかねえからな、俺たちはよ」
本音だろう、三人はみわから離れたところで、何か話し合っていた。
一人が部屋から出て行った。残った二人はタバコを吸いながら、黙ってみわを見ている。
「帰してくんないの」
みわは頼んでみた。
「そこにじっとしてろ、用が済んだらかえしてやる」
ジョウジがばい菌を見るような眼でみわを見て言った。
それでも二人は油断なく見張りながら、みわの持っていた折り詰めの寿司をつまみ始めた。
一時間は経っただろう、部屋の中はタバコの煙でくもっている。出て行ったのが帰ってきた。手にポリ袋か何か下げている。
「うまくいったか」
二人は立ち上がって出迎えた。
「ご苦労だった」
「えらく早かったじゃねえか、トオル」
「奴は文句いわなかったか、なにしてたあいつ」
「やけ酒食らって寝てたよ、意外元気そうだったよ」
トオルはみわを見ながら答えていた。
三人はみわを見ながら、何か企みごとを打ち合わせているようだ。
「おい、帰してやらア、ちょっとじっとしてな」
トオルがバンダナで、みわに目隠しをした。みわは恐怖の中に希望が見えたように感じた。
「トオル、慎重にやれよ」
ジョウジの大きな声がした、いきなり顔の左に猛烈な衝撃があり、目の前が真っ暗になった。
「・・・おい、起きな」
闇の中から声が聞こえた、みわは起き上がった、かおに水がかかっている。
「おめえ金持ちだな、銭と携帯は借りだぜ」
赤い財布を放ってよこした、中は空だ。
「みわさんよお、おめえの話はいまいち信用できねえからな、俺たちがたった今マジにしてやったぜ、感謝しな」
ジョウジが蛇のような目で薄笑いを浮かべて言った。
「終わったから出て行きな」
三人は冷たい目でみわを見ている、みわは正直虎口を脱した思いで外へ逃れ出た。まだ意識がふわふわしている。(どうゆう意味だろう・・・)小走りで深夜の通りに出て、拾ったタクシーの後部シートに飛び込み、震えながら考えていたが、(まさか・・・)右ひじの内側の内出血と注射痕とを確認した。事態を察したみわは頭が真っ白になった。
冷酷なチンピラどもは、なんとエイズに感染したという仲間だった男の血を、みわの右腕に注射したというのだ。本当だろうか?、まさかそんなひどいことを・・・しかし彼らの獰悪なことは知っている、やりかねないのだ。もう一度右ひじの内側を確認し絶望した。
みわの頭に一番先に浮かんだことは、これで塩崎のところには帰れない体になったという思いだった。
後は何を考えても、思考がばらばらになってまとまらない。腕一本動かすのも億劫だった。しいて言えば、このまま死ねたらいいという感慨だけが浮かんだ。
この瞬間ここに原爆かが落ちて、みんなと一緒に死んだらどんなにいいだろう。大地震が起きて、大勢の人々といっしょに、死ねないかなあ。
初老の運転手は穏やかな顔でマイクを咽んで、会社と連絡を取ったりしている。
この運転手、錯乱を起こして私の首をしめて殺してくれないかなあ。常軌を逸した考えが、みわの脳裏に浮かんでは消える。
・・いずれ死ぬしかないが、とりあえず母のところへ帰ろう・・・・、この際他にいくところがないから・・。
みわは、塩崎のところへは帰れない身体になった、と判断したのだ。
やっとの思いで、再び母のマンションにたどり着いた。もう東の空は明るくなりつつある。タクシーを降りふらふらと歩いた。後ろからタクシーの運転手が付いてくる、当然、乗り逃げを警戒したのだ。
「大丈夫ですか」
エレベーターのなかで運転手は心配そうな顔をしていた。タクシー代と、さすがに普通でないみわの顔色、両方を気遣っているのだろう。
「遅かったわね、心配したのよ、どこに・・・」
ドアを開けて入って来たみわをみて、母の友子は、途中で言葉を飲み込んだ。みわは、何年ぶりかの再会で喜び舞い上がっている母を絶句さすほど、憔悴していたし、左のほほがはれ上がっていた。
「財布盗られたの、タクシー代貸しといて、お願い」
みわはその場にしゃがみこんだ。
彼女は、生まれて初めて母の胸に顔をうずめて、思い切り泣けたらと思った。しかし、絶望感が強すぎ、涙も出ない、泣く気力さえ失ったかのようである。
「みわさん、どうかしたの?何があったの?」
運転手を帰してから、友子は中腰になって遠慮がちに、それでも必死の真剣な顔で聞いた。
「あたし、エイズの人の血を腕に注射されたの」
みわはつぶやくように言って、ゆっくりと立ち上がった。
友子は最初、みわの言っている意味が判らないのか、怪訝な表情で目をすぼめて我が子の顔を覗いている。
「エイズの血を注射されたらしいの、ここに」
力なく母を見て、右ひじの内側の注射痕を示し呟(つぶや)いた。
友子は、意味が呑み込めないのか娘の顔を凝視していたが、だんだんその目が大きくなった、ようやく事態を悟った。
「ヒイ!ほんとなの!いつ?どうして?」
友子は息を呑んで再会した娘を見ている。
「どうしてエイズの血とわかるの?そんなことってあるの?ほんとなの!」
友子は目を見開いたままだ、彼女は動悸が早鐘のように早くなった。
横から、やせて背の高い男が顔をのぞかせた、友子の情夫だろう。派手なガウンを着て、黙って母娘を見ていた
友子は、まともに育てることの出来なかった我が子が、必用な都合があるにせよ、何年振りかに顔を見せてくれたのである。かなわぬまでも許しを請いたい、許しの言葉だけでも聞いてもらいたい。出来たら二、三日でもよいからと一緒に居れたら、との思いもあった。
しかし、昨夜店を出た我が子に大変なことが起こったのだ。甘ったるい考えも何も吹っ飛んでしまった。
どうしようか、何をしたら良いんだろう・・・。とにかく事の真偽を確かめるのが先だ。友子にも子を守る母の本能が目覚めたようだ。
「悪いけど少し寝かせてくれない、迷惑だろうけど」
疲れきったみわが、うつろな顔で言った。
「なに言ってるの、ここは貴女の家よ」
「そこのソファーでいいよ」
「ベットでゆっくり休んでよ、こちらよ」
友子はみわを自分のベットに連れてゆき、横たわったみわの手を握った。みわはしばらくうつろに目を開けていたが、あまりの疲れにいつの間にか、つかの間の安息に入った。
友子は、みわの入眠を見届けると、両手で顔を覆ってリビングに戻った。さっきまでガウン姿だった緒方が、赤いシャツと白いフレザーコートを着込んでいた。
「友さん、俺、急用を忘れていたんだ、今から出かけるぜ」
「・・・そう、しばらく来ないだろうね」
友子には、緒方の意図は丸見えだ。
「いや、そうとは限らないが・・・十万ぐらい貸してくれないか」
緒方もさすがにばつが悪そうだった。
「ソウ、無理しなくてもいいよ」
友子はゆっくりと財布を取り出していった。
「今、現金はこれっぽちよ」
万券三枚を、ウィルスから逃げ出そうとしている男に渡した。いまは身勝手な男を怒る気もしない。
友子はソファーにこしをおろし、また両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。
これは“親の因果が子に報い”ではないか。我が子の不幸は、今までの自分の生き様の性だとも思えたし、何年ぶりか出会ったみわが、こんな目に合わされ不憫でならなかった。変われるものならば、変わってやりたいと正直思った。
なぜ、もっと早くこんな気持ちにならなかったんだろう、なんと言う母親だ私は!友子は、われとわが身を傷つけたいほどの憤怒に襲われたが、だが、今はそんなことを言っている時ではなかった。
とにかくはことをはっきり確かめてからだ、間違った思い込みだってあるだろう。それまでは我が子を守らなければ。
いや、何を考えているのよ!私はどうなっても、どんなことをしてでも我が子を守ってやらなければ。
やはり、さすがに年の功だ。乱れた生活を送ってきた女が、遅ればせながら肝を据えなおしたようだ。
みわが帰らないまま二日が過ぎた、何度電話を携帯に入れても呼び出し音が響くばかりだ。どう楽観的に考えても、不測の事態がみわの身に起こったと思わざるを得ない。そうでなければ電話なり何なり連絡があるはずだから。
念のため、電話機を変えてかけてみると、突然男の声がみわの携帯から響いた。
「誰だてめえ、みわはくたばったぞ」
若い男らしい、短く言って電話が切れた。
「もしもし、もしもし」
塩崎の必死の呼びかけにも空しく、中断音が響くだけだった。後は何度呼んでも、電源切れのメッセージが繰り返された。
塩崎の胸の中を冷たい風が吹き抜けていく気がした、塩崎はこんな感覚はまえにもあったが・・・(いつのことだったろう?ああ、玲子の死んだ時だったな)不吉な予感は当たったな、と彼は考えた。
塩崎は愛するもの三人を失った、いや、みわの腹の中の子を入れたら四名だ。
これが俺に課せられた試練か、そうか、神が俺に与えた試練か、・・(よし、やってやるぞ、法が何だ、良識?知るか、そんな首輪はたった今捨てた。どんな手を使ってでも、どんなに金を使ってでもやってやろうじゃないか。時間と金はたっぷりある、俺は黙って死ぬわけにはいかないんだぞ。神よ見てろ・・)神の存在を信じていない塩崎が神に復讐を誓う、矛盾であるが常識をだんだん失っていく塩崎は違和感を感じない。異様な病理が塩崎の心の中に広がってきたのだろう、獰猛な野犬のような表情になっていた。
具体的には、まだ何をするかは塩崎は決めては居なかったが、何かをする決心はしたのだ、彼は黒い情念と闘志を燃やしだした。
その夜、塩崎は退職願を書いた。
温厚な吉田社長も、塩崎の退職願を見てさすがに驚いた。
「本社の霧島部長はご承知でしょうか」
「いや、誰にも相談していません」
「私の一存では、なんともはや・・・とりあえずお預かりとしましょう」
塩崎の決意の固さを見て取った吉田は辞表を机の引き出しに入れた。
「人間先のことは判りませんからねえ、発想の転換も必要かもしれませんなあ」
吉田は親会社のリストラ計画のことを言っているようだ。確かに、現時点での退職希望者には年齢でのばらつきはあるが少なくない額の退職金の上積みがある。しかし、今の塩崎にはそのことは大したことでは無かったが・・・。
本部の承認決定まで休職扱いとして、塩崎は会社を後にした。
京東銀行は塩崎にとって二十数年の生活の大部分だった。いくばくかの寂寥は禁じえないが、この寂しさでも愛する者の死には比べるべきも無い。
六
夜の横浜港の夜景はすばらしい。日本有数の人工的な観光名所がひしめき豪華絢爛にネオンを輝かしている。その横浜港を大きく跨いでいる首都高速湾岸線の根元に本牧ふ頭がある。
大型トラックなどがそこここに止まっており、倉庫コンテナなどが雑多に交じり合った広い埠頭だ。周りにある山下公園、港の見える丘、みなとみらいパークはアベックが集いロマンチックそのものであるが、本牧ふ頭だけは雰囲気が異なり少々殺風景にも感じる埠頭だ。夜になると人気は無くなる。
九月二十日の深夜、そこで殺人事件が起こった。犠牲者はそこにたむろしていた暴走メンバーの4名であるが事件が報道されると世間は少なからず驚いた。殺された人数の多さもあるが、それよりも殺人の方法が大胆と言おうか非常に変わっていたからである。
その夜、そこ本牧ふ頭の一角に暴走族銀狼会のメンバーが数人集まっていた。会の顧問格の暴力団米田組の幹部である佐伯に少女を世話しろといわれ、犠牲になる女の子に因果を含めて連れてきたのである。
メンバーは佐伯の車に少女を押し込み離れた。それから事が終わるのを待つ間はそのへんにたむろし自分たちの車を比べあったり、タバコを吸ったり岸壁から海に向かって連れ小便したりしていた。
沖には大小の船舶が停泊しており闇の海に白い姿を浮かべている。黒い海面は時々風にゆれ、さざなみが月のひかりや街灯の光を照らし映す。上を見上げれば巨大な橋が真っ黒い腹を見せて偉容を誇っている。
港の後ろは街のネオンがきらめき、夜空には満月が見える。遠くのほうから街の喧騒が聞こえるようだ。
離れた倉庫の並びの方からひとりの男が歩いて来た。グレーの作業服の上下に白いヘルメット姿で懐中電灯を照らしながら近寄って来る、もう一方の手には棒状の物を持っていた。
普通こんな夜中にチンピラのたむろしているところに近寄るものなどは居ない。チンピラたちは港の職員がなにかの緊急の測量にでもきたかと思ったものだ。
男は棒を担いだりしながらのんきそうに懐中電灯の小さなライトをちらちら振ったりしながら近寄ってくる、口笛でも吹きそうな暢気(のんき)な雰囲気だ。
男は顔のわかるところまで近ずくとつかつかと佐伯の車に近寄り、車中に懐中電灯の光を当てて覗き込んだ。
「アッ、野郎何しやがる」
それまでのんびり見ていた大柄なひとりが驚いて怒鳴った。
他の連中も驚いた、こんなことを許したら後で佐伯にどんな目に遭わされるか知れている。どやしあげようと走りよった。
男は振り向いて笑ったようだ、夜目にも白い歯が見えた。男は懐中電灯を連中めがけて投げつけると、すばやく岸壁のほうに走った。
チンピラたちはめいめい自分の車のトランクからバットを取り出し、殺気だって男を囲もうと走った。
四人が罵り声と共にバットを振り上げながら走り寄った。
男は落ち着いた動作で手にした棒を小脇に抱えるようにした。そして、喚(わめ)きながら走り囲んで正面に来た一人の胸を突いた。
真っ先に走り寄った大柄な男は、バットを両手で振り上げ、手加減の無い一撃を振り下ろした(と思った)瞬間、左胸に大きな焼け火箸を突っ込まれたような激痛に意識が爆発した。
彼は悲鳴を上げようとしたが血で喉を塞がれ、ガッと血潮を吹き上げ昏倒した。男は瞬時に棒を抜き返すと、左側で何か大声を上げて、踊るようにバットを振り回している不良の胸に、腰を据えて思い切りの突きを入れた。
「うわ!うわ!うわ!」(野犬の群れが羊だと思って、追い詰めた相手が猛豹だった)
一瞬呆然と見ていた二人が叫ぶと、さすがに逃げるのは速かった、文字どうり脱兎のごとく逃げる、すぐ後ろを男が追走する、ただならぬあわただしい足音が響いた。死の恐怖に駆られた二人は躊躇なしに岸壁から真っ黒い海に身を躍らせた、ザッブーンと大きな波しぶきが響いた。
何本かのバットがカランカランと転がって止まった。追ってきた男は、棒を右手に立てるように持って岸壁の端に立ち海面を見下ろしていた、白い歯を見せて笑っているようだ。岸壁の下からはバシャバシャと切羽詰まった慌ただしい音が聞こえた。
男は引き返してきた、棒で突かれた二人はよろめき、はいずり死力を尽くして逃げようともがいていた。
一人は一度立ち上がってよろめき歩いたがすぐ前のめりに倒れた。それでも二,三メートル這い進んだが、力尽きたのか大きなうめき声とともに地べたに腹ばいになった。
男は情け容赦なしにうつ伏せでもがき波打っている背中を右足で踏みつけると、両手で棒を拝むように握ると、足下に気合とともに突き下ろし両手の爪で地面を掻きながら絶命していく犠牲者を見下ろしていた。
もうひとりは既に動く力を失っていた。血溜まりの上で仰向きに大の字になり口からおびただしい血を吐き悲しそうに目を開けていたが、断末魔のうめきも小さくなり・・やがて静かになった。
佐伯は少女との性交に満足してズボンを引き上げて車の外の気配に気を配った。何か変だなと感じて窓ガラス越しに外を見たが、車内の熱気でガラスが雲ってさっぱり見えない。
自分達に恐れ気も無しに懐中電灯の光を当ててきた、ボケたような男はもう手下どもが半殺しに叩きのめした時分だが。
ドアを開けベルトのバックルを止めながら外灯に照らされた周りの光景を見ると、人間がふたつ地面に長くなっており、ヘルメット姿の男がこちらを見て近寄って来つつある。人数が足りんなと思いながら男の顔を見て佐伯は息を呑んだ。
瞬間、事態を呑み込んだ佐伯は素早くポケットから自慢のピストルを取り出し、男に向けながら大声で威嚇の喚き声を上げた。
「やりやがったな、オー、ぶち殺すゾ、オー、ヤロウ、やりやがったナ、クソ」
佐伯が今まで相手してきた者はだいたいこのあたりで肝を潰すか、腰が引けるか、逃げ腰になるか、要するに腑抜けになるのである。特に佐伯の凶暴な前歴を知っている者などは異常に恐怖したものである。
子供の頃の残忍な犯行は、当時のマスコミを随分と賑わしたものだった。しかし少年法たる法律と優しくもお人よしの児童相談員や弁護士によって守られて来た。残忍な犯行は驚くほどの軽い罰で済み、今の彼にとってはむしろ経歴に箔を付けたようなものであった。
裁判のとき皆の心証を良くする為、後悔の言葉を口にし、涙する演技も人よりも上手にできた。その時は不思議と本当にそんな気分になれると、後年不良仲間に吹聴したものである。「なんてひどいことをしたんだろう、許してくださいってな、後悔してるふりをしてるとナ、本当に涙が出てくるんだぜ、ありゃあ不思議だな」
年配の女性相談員などは同情のあまり、彼に慰めの言葉をかけながら一緒に泣いてくれたこともあるという。(ババアをチョロマカスなんざ簡単なことさ!)
彼の恐ろしい自慢話を聞いた者もいた。彼が保護観察中の時分、彼に親身になって面倒を見てくれる初老の女性保護司がいたという。
なんとその女性を彼は隙を見て強姦したというのである。
そのときの情景を彼は得意げに、こと細かく仲間に話したが(ババアが、よがってフガフガ泣きやがって・・・)。
話はまだ続き、悪魔のような少年はその女性から金を脅し取ろうとしたのである。金をくれなければ世間にばらすぞというわけだ。最終的には彼女は自殺したそうである。彼の話によると(惜しいことをした、銭がくたばりやがった)となる。笑いながら聞いていた不良仲間も内心眉をひそめる思いだったろう。
要するに彼は年と共にますます性悪になり、ますます周りの人間を恐れさし、そしてそれに大いに満足していた。
そこに彼の油断があったし、この時点でも未だ彼は相手が、凶暴な猛獣だとは気づいていなかった。威嚇と自分自身を鼓舞する喚き声を上げながら、狙いも定めず引き金を弾いた。
港の夜空に轟音がひびいた。
普通なら肝を潰すような状態にもまったく臆する気配も見せず、男はすたすたと近寄って来る。白っぽいヘルメットの下の顔は白い歯を見せ笑っているようだ。手には長い棒を持っている。
野獣がより凶暴な敵に対面していることに気づいた。佐伯は死神に出会ったような恐怖に駆られ、叫び声を上げながら引き金を引き続けたが弾が出ない。
死神は委細かまわず佐伯の正面に近づくと棒を逆手に頭上に振りかぶった、ピストルを突き出し目をむいて喚いている男の胸に、正面から“死”を、容赦なく拝み突きに刺し通しそのままの勢いで押し倒し、地面に縫いつけた。
佐伯は地面にあお向けに倒れ、目と口を大きく開けたまま自分の胸に突き立っている棒を両手で握ったままのたうったが・・・動かなくなった。男は遠慮なく、仰向けで空をにらんでいる佐伯の、腹部を踏みつけ棒を引き抜いた。傷口からどす黒い血が溢れ出た。
男が車の中を覗くと、後部座席に黒っぽい服装の髪を赤く染めた少女らしき者がうつ伏せのままじっと動かないようである。別に気にしない風で、そばに転がっているピストルを拾い上げズボンの尻ポケットに押し込むと悠然と棒を担いで倉庫の方へ歩いた。
惨劇は終わった・・・転がったままの三つの死体を満月が照らしていた。
明け方自分の部屋に帰った塩崎はシャワーを使った。体を流しながら肩に違和感を感じ、鏡に映して見た、左肩の中央部分が小さく突起しておりそこから乳首にかけて帯状に茶色くなっている。鎖骨か肩甲骨の骨折と内出血だな・・かれは舌打ちをして突起部分を押し込んでみた、痛みはたいしたことはない。気が付かなかったが、乱闘の中でバットの打撃を受けたのだろう。
白いバスタオルを使いながらリビングに入って、彼は立ったり、座ったりしながら右手で痛めた肩を押していたがあきらめて手をはずした。痛みのためではなく疲れたからである、そのうちに治るだろう。
塩崎はピストルをつかみ出し調べ始めた。(野郎、なんで俺を撃たなかったんだ、その方が良かったのに)弾は二発残っていた。塩崎は笑い出した(人を撃つ度胸も無かったのかあいつ)
この推察は的外れだ。佐伯は人を殺す度胸はあったが、殺される度胸はなかったのである。
佐伯は恐怖でパニックになり、十分に引き金を戻さずに慌てて引き続けたため二発目の弾が出なかっただけだ。
人間、恐怖心の無いものほど強いものはない、改めて塩崎は思った。
夢も希望も愛するものも、人生の全て失った男は死への恐怖も失っていたのだ。怖いものなどあるはずがない、どんな大胆な行動も平気で行なえるのだ。
銀行員として三十年近くまじめに勤め上げた人間が変われば変わるものだと、苦笑したいぐらいだ。
ピストルをタッパに入れ冷蔵庫に放り込んだ塩崎は、ベットに身を横たえて目を閉じた、しばらくすると規則正しい寝息が聞こえ出した。
人間それほど変われるものだろうか。しかし、塩崎は冷酷な殺人者になった。この男の殺伐な性格への変化は本来の彼の資質の特殊性もあるだろうか。
三十年近く、納税義務を果たし、より良い社会建設に努めてきた善良な市民が凶悪な犯罪者となった。
幸せな家庭を築くと言う夢破れた塩崎は、これからを坂道を転がり落ちる石みたいな人生だと思っている。が、世間から見れば、ただ捨て鉢になっただけと見るだけである。
“深夜の横浜港本牧ふ頭で乱闘!四人死亡”
その日の夕刊、社会面の見出しがセンセーショナルに躍っていた。
九月二十日の深夜、横浜市港区の埠頭で、人が殺されたとの一一〇番通報があり、横浜署員が急行した。現場は深夜の暴走族の溜まり場として、地元では有名な場所で、人通りは少ない。
死亡したのは、横浜市・・会社員小山譲二さん(20)、横浜市・・無職金井義男さん(19)、横浜市・・無職山中秀樹さん(18)、住所不定無職佐伯真治さん(24)の4名で、現場にいた男性(19)と女性(18)の二名に事情を聞いている。
死亡した者のうち、山中秀樹さんは海に転落しての溺死であり、他の三名は鋭利な刃物での急所およびその周辺への刺し傷が致命傷である。
佐伯真治さんは暴力団米田組の幹部であり、残った者も銀狼会と呼ばれる地元暴走族グループの構成員である。原因は暴力団の抗争、あるいは暴走族グループの対立による事件とも考えられることから、神奈川県警は横浜署に特別捜査本部を設置し両方視野に入れての捜査を行う方針である。
なお、現場にいた男女は事件を目撃しており、県警の事情聴取に対して「犯人は単独であり面識はない。服装は灰色っぽい上下で白いヘルメットを着用していたので年齢は判らないがかなり大柄な男性だと思う。犯人は長い棒状の凶器で襲い掛かってきた」と言っている。
捜査本部では、凶器が棒の先に鋭利な刃物を装着していた可能性が高く、現場近くに放置されていないか、海中を含め徹底的に捜索されているが発見されていない。
吉本勝男特別捜査本部長の談話「平和な町で起こった大胆不敵な犯行だ、市民の安全と平和のために、署員全員総力を上げて早期解決を図りたい」
塩崎は記事を読んだが別に感慨も無かった。まったく他人事のように感じたし、事件の当事者が、自分の報道記事を観る時はこんなものかなとも思った。ひとつ気になったのは被害者の一人が持っていたピストルのことが何も書かれていないことだった。現場に居た男女が供述しなかったのか、警察が思惑があって発表を伏せたのか、どうも判らない。
相手よりも強力な武器を持つことがいかに自信と落ち着き生むものかと、つくづく思った。ちょうどの握り具合の鉄パイプを適当な長さでカットし、大型のサバイバルナイフの柄をねじ込んで手槍状にしたが、実に強力な武器となることに驚く。その上沈着冷静に、残忍な行動を取れた自分にも驚いた。
昨夜の乱闘の場面場面を克明に思い出せるのである。不思議に思えることは、実際は一秒足らずの場面がスローモーションのようにゆっくりと動いていたように思い出せるのである、どの場面を思い出してもそうなのだ。塩崎は自分の行動も同じようにスローだったのかと、考えたりしたものである。
それともうひとつは、人間の体は鋼鉄に対しては実に柔らかいものだと改めて知ったのだった。どの体も木や竹のように鋼鉄に抵抗する硬さは無く本当に柔らかだったなと、思い出したりした。ただ筋肉の痙攣は手ごたえ十分だった、今でもそのブルンブルンとした感覚が両腕に残っているほどである。
鉄パイプはあの後ナイフは取り外し、車のトランクに入れたままだ。そのうちどっかの岸壁から深い海に投げ捨てよう。
殺人者は表情のない顔で新聞を読んで思い出している。
七
矢野刑事は、遅い夕食を取っていた。妻と二人きりだ、テレビは夜の九時のニュースを流している。 イラクのテロ事件、国内政治、とアナウンサーは手際よくこなしていた。
ビールを済ませて茶碗を取っていると。(九月二十日の横浜の本牧ふ頭殺人事件の捜査は、特別捜査本部の懸命の捜査に関わらず・・・・)
矢野は自分の担当の事件が大々的に報道されているのを見て、なぜか気が躍った。あれほど大胆な殺人事件は、矢野の長い経験でもない特異な事件だった。矢野はテレビを見ながら事件を振り返ってみた。
犠牲者は地元の暴走族四人だ。三人は槍状の武器で刺されたのが致命傷で、あとひとりは犯人に追われ、海に飛び込んだが溺れ死んだものだった。生存者はふたりで若い男と女だった。ふたりとも当然事件は目撃しており、警察の聞き取りにも、恐怖のあまり震えながらではあったが正直に述べていた。驚いたことは犯人がひとりだったことだ。
男の供述の概略は、(自分たちがたむろしていると作業服の男が近寄ってきた、手にライトと長い棒を持っていた。白いヘルメットをかぶっていたので、港の作業員が何かの調査に来たのかと観ていたが、いきなりけんかを売ってきた。仲間三人とともに相手を懲らしめてやろうとして取り囲んだが、その場で小山と金井の二人が突き刺された。怖くなって慌てて逃げたが、犯人がおいすがってきたので夢中で海に飛び込んだ。一緒に飛び込んだ山中が溺れたのも見ているが、自分も必死だったのでどうしようもなかった)というものだった。
女は、佐伯が車から出て大声で怒鳴っていたので車の中からのぞくと、犯人が佐伯を長いもので突き刺し、しばらく地面に刺したまま抑え付けていた、佐伯は上向いて足をバタバタしていたが、動かなくなった。そして犯人が車に近寄ってきたので、うつぶせになって、眠ったふりをしていた、後は恐ろしくて見られなかったと述べた。
難を免れた男女は、事件の前半と後半を別々に目撃したことになる。
この事件の特殊性は、二人の目撃証言で明らかなように凶器が槍状のものだったことであろう。近代日本の犯罪史上、凶器が槍の殺人事件なんてきいた事がない。
解剖の結果は、犠牲者三人が頑丈な刃物状なもので胸部に致命傷を受けていた。鑑識が驚いたのは、刺し傷痕すべてが非常に深く、凶器の刃が肋骨を砕いている遺体もあるなど惨忍な強さを見せていたことだった。凶器が槍だとすると、穂先が二十センチぐらいで肉厚のものと判断された。また、傷口から黒系統の塗料が検出された、このことは犯人が穂先を黒く塗り相手を油断さすしかけと想像された。
しかし、凶器が槍となれば、犯人の必殺の気構えが見て取れる、脅し目的は毛ほども無い。ただ、人間を冷酷に突き殺すのが目的だったのである。
矢野は直接目撃者の少女の事情聴取は行わなかった。ただ少女の供述書は何度も読んだ『犯人は槍を頭上に振りかぶり逆手に槍を突き下ろしていた』という供述を確認して腹の底が震えるのを感じた。男は屠殺者だ、原始の狩人の獣を殺す効率的な仕草で人を突きとどめを刺す、恐ろしく冷酷残忍な奴だ。
凶器発見のため現場付近は大勢の捜査員をいれて入念な捜索が行われた。海中も数人のダイバーが潜ったが何一つ発見されなかった。槍だといっても車に積めば人目には付かない。
捜査本部の上層部の発言の中には武芸の達人でないと出来ないことだろう、という意見も有った。型に嵌めたような幼稚な推察を矢野は心の中で嘲笑った。が、特段意見は何も言わなかった。最近は捜査会議も上層部の意見、推察、指示をみなが黙って聞くことが多いからだ。
武芸は関係ないが、ただ並外れた胆力の持ち主だと、そして本性から凶暴な人間だと矢野は思った。短槍状の武器を持ち、ヘルメットをつけているにせよ、チンピラ四人がバットを振り回しながら取り囲んできたのである、尋常な肝の座りようではない。その上、人並み以上の膂力を持っている人間だ。
しかし犯人もまた、乱闘のさなかに手傷を負った可能性が高い、とても無傷で済んだとは思えないのだ。バットによる怪我だからと整形外科を主に病院廻りの聞き込みをしたものだった。
捜査本部は、暴力団関係、暴走族関係を中心に聞き取りを続けているがいまだ手がかりなしである。有力な目撃証言が出てこないのである。
しかし、暴力団がらみの抗争なら武器が合点がいかないし。暴走族の喧嘩なら一人で襲うことはありえない。実のところ捜査は行き詰まっている。
矢野刑事が思い出しているうちに、テレビは天気予報になっていた。
(台風八号は潮(しおの)岬(みさき)の南東百二十キロのところを時速三十キロで・・・・)アナウンサーは繰り返し言っている、(シオノミサキのナントウか・・・明日の聞き込みは大雨か・・)茶を飲みながらつぶやいた。
矢野刑事の脳裏になぜか、シオザキナミオと言う名前が唐突に出てきた。半年前に数人のチンピラにレストランの駐車場で暴行を受けた男の調書を病院で取ったことがある。半死半生で救急車で担ぎ込まれたが、頑丈な体躯のせいか、二日目には調書が取れた。とりあえず加害者不祥(当時横浜署は目撃情報、また相手の数人もかなりの怪我をおい病院で治療を受けているなどから、彼ら暴走族のメンバーによる傷害事件と視ていた)での告訴を勧めたが頑強に拒んだ。なにか裁判所が嫌いだからとか理由を言っていた。変わった男だと思ったことを覚えている、・・たしか塩崎南海男という名前だったな、と浅黒い顔の大柄な頑丈そうな男を思い出していた。
この夜は矢野刑事も、変わった男だったな、と思い出しただけだった。
「銀狼会って、チンピラたちは米田組の息がかかってるんでしょう」
友子が緒方に聞いている。マンションの近くの喫茶店の午後だ。
「うん、銀狼会はうちの佐伯がかんでいた」
緒方はなぜか明るい顔で言った
「みわにエイズの血液を注射したやつらは、あいつらなんだよ、本当かどうか聞いてよ」小さい声で話しているが、友子は必死の思いだ。
「保険所の検査はしないのか」
緒方はひとごとのような顔だ。
「エイズは感染してすぐは、検査にならないらしいの。判るまであの子持たないのよ」
声は小さいが強い目力で緒方を見据えている。
「ただ、やつら何人も殺されたぜ、うちの佐伯も一緒にね」
話しながら、持っていた新聞を広げた。
「おとといの晩のことだ、神奈川新聞に詳しく載ってるよ、これだ」
緒方は友子に新聞の記事を示した。
友子は黙って、新聞を取って記事に目を走らせている。
「テレビでもやっていたよ、なんせ、槍で何人も突き殺したんだからな」
緒方はタバコを口にくわえ、ゆっくりとライターを取り出し火をつけた。
「うちの佐伯も心臓を一突きだ、背中まで突き抜けていたそうだ」
緒方は佐伯が死んだことが嬉しいらしい。彼は若い佐伯に不気味な恐怖を感じていたかもしれない。
友子はだんだん軽薄な緒方にうんざりし始めていたが、ここは頼み事がある。
「あんた、こんなところでのんびりできるの」
友子はやくざ同士の抗争のことを言っている。
「犯人は極道でも、チンピラでもないよ」
「どうして判るの、警察が言ってるの」
「いや、警察も判っていない、組関係を洗っているもの。馬鹿じゃねえか、あいつら」
「だったらどうして判るのさ」
「極道は槍なんか使わない」
「生き残った子がいるわね」
「うん、徹というやつだ、折を見て確かめてみるよ」
「何をのんきな子といってるの、急いでるんだよ」友子は、(この馬鹿)と出そうになった言葉を危うく飲み込んだ。
「わかったよ、そんなら俺行くぜ」
緒方はタバコを灰皿にこすり付けてから、立ち上がった。
「電話でいいから、急いでね」
肩をゆすって出て行く緒方の背中に声を投げた。
九月二十五日、新聞の片隅にある記事が載った。
見出しは、(パチンコ店で、若い男殺される)とあり、内容は(九月二十四日午前十一時ごろ、パチンコ店ゴールドの男子トイレで、近くの無職、北山秀樹さん(20)が倒れているのを、店の客が発見し、救急要請したが、既に死亡していた。横須賀署の調べによると、北山さんは特殊なベルト状のもので首を締められており、死亡原因は窒息死と発表された。なお、ベルトは北山さんの頚部に巻きついたままであり、横須賀署はベルトの流通経路の特定を急いでいる。
現場は、郊外の大型店であり、普段は客は多いが、犯行時は午前中であるので、客は少なかったと店の従業員は話している。
浦賀署の刑事杉山は、朝食を撮りながら新聞記事を読んでいて、殺された北山秀樹を思い出した。一年半前に暴行殺人の容疑で杉山が検挙した男だ。あの時はまだ少年だったが、共犯の二名と共に少年院送りとなったはずだった。そうか、社会へ戻っていたのか、月日のたつのは早いものだなと思った。それにしても人ひとり殺しても、わずか一年ちょっとで娑婆へ出てくるのか。生きていればまた何かやっただろうな。杉山は刑事の感として、漠然とした不満ともつかぬ感慨を覚えた。
たいした理由もなしに簡単に人を殺すような人間が、一年や二年でそういう性格を矯正できるとは思えないのである。しかし、それが今の社会の制度だ、文句を言っても始まらない。
杉山は、次に死亡原因の、特殊なベルトという記事に興味を持った。(どんなベルトだろう)。茶を飲みながら、暇があればちょっと横須賀署に寄ってみようと考えていた。
三日後に杉山は横須賀署を訪れた。広い正面入り口から一回のフロアに入ると、浦賀署と同じようにカウンターの向うは皆無言で俯いて事務処理をこなしている。
「浦賀署の杉山と申します。少し北山秀樹の事件の担当さんにちょっとお願いがあるんですが」
杉山はちょうどカウンターの向うからこちらを見た係りに、警察手帳を見せながら遠慮がちに言った。
「お待たせしました、前田です」
奥から若い刑事が出てきた、背の高い色の黒い青年で明るい表情だ。
「ここではなんですから、どうぞこちらへ」
前田刑事は大股でカウンターの仕切り戸を跨ぎ越え、屈託ない表情で窓口ロビーに出て杉山を空いている取調室へ向かう廊下へ案内した。取り調べ室は簡単な机と椅子のどこの署も同じ感じだ、杉山は打ち解けた感じになった。
「浦賀署の杉山です。実は私、犠牲者の北山とは少し縁があるのです」
「ほう、それはまたどんなご縁ですか?」前田刑事は興味を持った顔だ。
「私は北山を一年半前、暴行殺人で検挙した担当なんです」
「そうでしたか、なるほど、それで今日はまた?」
前田刑事は話を進めたいらしい。
「じつは、新聞での発表の特殊なベルトというのに、興味が湧いてきまして」
「あー、あれですか、いや、僕も感心したんですよ」
前田刑事の声が少し大きくなった。
「なんでしたら、今ここへ持って来ましょうか」
「すみません、お願いします」
「ちょっと待ってください」
前田刑事は気軽に出て行った。
「お待たせしました、これです」
前田刑事は白い手袋をして、灰色のベルトを机の上に置いた。杉山も手袋をはめて手にとって見た。
「良く出来ています。原理は簡単なんですが、一度思い切り締めたら元に戻らない」
前田刑事は自分の太ももに巻きつけると、ぎゅっと締めて見せた。
「緩めるには、思い切りもう一度締めてからこうしなければならないんです、ですから首を締められたら、ひとたまりも無いはずです」
前田刑事は顔を歪めもう一度ぎゅっと締めてから、ベルトの端を反対向きにしゃくって緩めた。そして自分の太ももをさすった。
「なるほど、良く出来ていますねえ」
杉山はもう一度手にとって眺めている、締められたほうが自力で緩めることは不可能だ。
「恐らく、北山は小用の最中後ろから突然締められたと思います。チャックの間から陰茎を出していましたから」
前田は愉快そうに笑った。
「何秒間かで、意識が無くなったでしょう」笑いながら続けた。
「そうでしょうなあ」
杉山は昔、柔道の練習中に落とされた瞬間のことを思い出していた
先輩格と立ち技の段取り中突然の襟締めを食い、瞬間目の前が真っ暗になった。
師範代が活を入れてくれ意識が戻ったが、不思議だったのは何の苦痛も無かったことだった。
「苦痛を感じる間もなかったかも知れない」
杉山は机にベルトを置いた。
「ただ被害者は周りに小便を漏らしていました」
「覚せい剤の反応はどうでした、尿検査は?」
「陽性でした」前田刑事は笑って言う。
「人を殺して、一年ちょっとで出てきてシャブを打ってぶらぶらする。殺されて良かったんじゃないですか、こんな事いっては何ですが。金がなくなれば何をするか判らない」
若い刑事は明るい顔であっさりと本音を言った。
杉山は礼を言って横須賀署を出た、何か考え込んでいる風だった。
昼の繁忙時間も過ぎようやく客もまばらになった午後2時過ぎの繁華街の中華料理レストランのフロアは、客同士の低い話し声と大型テレビから聞こえる声とかが、低く交じり混ざって落ち着つける空間だった。
そのフロアの一角で場違いな光景が突然起こった。
きゃ!という小さな悲鳴がした、近く座っていた客が顔を向けるとそこには、バンダナにエプロンの若い小柄なウエイトレスが目を見張って、口を両手で押さえるようにしてカウンター席の中年の男性客の方に向いてぶるぶると震えている。
「あなた、あのときの人だね!イヤだ!ホントだ!確かにこの人だよ」
ウエイトレスは口ごもりながら、後ずさりした。
客はウエイトレスを見上げていたが、
「驚いた人だな、私に言ってるのかい。何を言ってるんだ、失礼じゃないかね」と言いながら立ちあがった。
「何かの勘違いだろうが、気を悪くしたから帰るよ」
ウエイトレスに言いながら、横の椅子に置いてあった帽子を頭に載せ大股でドアの方に向かい歩いて行って店の外へ消えた。
自動ドアが低い音を立ててゆっくりと閉まり静かになった。
居合わせた者全員、ただ黙って閉まったドアの方からウェイトレスに視線を移した。
彼女は両手で口をふさいで、立ちすくんだままだった。
奥からおなじくバンダナにエプロンのウエイターが出てきた。
「どうしたんだ」と言うようにウエイトレスの肩に手を置いて顔をのぞきこむと彼女は
「あの人、犯人だよ、犯人だよ、ホラあの本牧ふ頭の犯人だよ、本牧ふ頭の殺人事件の犯人だよ」
口走りながら男の出て行ったばかりのドアを指差し、そのままウエイターの腕の中に倒れこんだ、口から泡を吹いていた。
ウエイターは彼女を近くの椅子の上に置くと、
「誰か警察に通報してくれ!」と言って外へ走り出た。
店内に居た二、三人の男も後を追って道路へ出て、店員の視線の先の方へ目を遣ったがもうあの男の姿は無く、普段の雑踏の風景が広がっているだけである。
「どっちへ行った?」「あっちか?」
店内から出てきた者は聞いたが、ウエイターは自信無さそうにキョロキョロするばかりである。
近くを歩いていた通行人たちが、怪訝そうな表情で見ながら通り過ぎる。
「どうした、無銭飲食か」
にやにや笑いながら近寄って聞く男もいる。
「食い逃げだってさ」笑いながら、通り過ぎる男たちいた。
塩崎は電車の座席に身を沈め、流れて行く窓の外の風景に目を任せながら考えていた。
カウンターに座り料理を待ちながら、注文を取っていったウエイトレスの視線が妙に気にはなってはいた。奥の方からジーっと見ているのにも気が付いていた。
しかし、まさかあの時のあの車の中の少女が俺の顔を覚えていたとは、と思いながら帽子を目深にかぶりなおした。
窓の外の風景は流れている。
料理の皿を塩崎の前のカウンターに置きながら、アンタ!あの時の!と少女がつぶやく様に口篭もるのを耳にして、彼は相手の顔に目を遣った。少女は、港の犯人?と小さく言って激しく震えだした。そして、次の瞬間、彼女は悲鳴をあげたのである。
電車は雑多な住宅街の間を猛スピードで走っている、幼児を乗せた自転車乗りが待っている踏切とか、ベランダに洗濯物の見えるビルとか、平凡な生活の景色を、次々と後ろに流して電車は走る。午後の電車の中は乗客がぱらぱらとまばらに、濃紺のシーツの上に座り、手持ち無沙汰だ。天井からは白いつり革が下がり、そこここに、ポスター類が彩っている。
塩崎は一流といわれる銀行の課長として、将来を宿望されるというほどでもないが部下や上司の信頼もあり、対外交渉、書類審査、職員評価等忙しくはあるが充実した日々を過ごしていた。課員の尊敬も受けて仕事は順調であり、円満な家庭は近所も羨むほどだった。
そして今は殺人犯の逃亡者である。
「人殺し!あの男だ!早く警察に電話を!」等の叫び声を背中に受けながら逃げなければならない。物凄い大きい落差が現実に自分の身に起こっているのである。
中華レストランから、本牧ふ頭の犯人らしい男が現れたとの通報があった。矢野刑事は相棒と一緒に駆けつけた。事件現場にいた少女がその店で働いていて、今日犯人らしい男が店に来たと言うのである。店の個室で二人の刑事は少女から事情を聞いた。彼女は震えていた。
途切れ途切れに話す内容は、矢野をうなずかすものが有った。
(長身のスーツ姿の中折れ帽を被った客が来た、席に座って注文を聞いたとき声に聞き覚えが合った。そのとき、なぜか身体が震えだして、この人は槍を持っていた男だと感じた。なぜそう思ったか今でも解らないが、間違いないと思う)
矢野刑事は少女に、本牧ふ頭で犯人の声を聞いたか質問をすると。
「犯人は殺人現場では無言でした、どうしてそんな気がしたんだろう」
少女は困って、もじもじと改めて思い出している風だった。
矢野刑事は、かまをかけて思い当たることを聞いてみた。
「半年くらい前に、港区のレストランの駐車場で乱闘事件というか、暴行事件があったが、あの時あなたは現場にいましたね、正確に言うと五平といううどん店の駐車場ですが」
少女は矢野の質問に、はっとしたようで口を両手で覆った。眼を見開いたままで矢野を見ている。
山崎刑事も身を乗り出して、少女と矢野を交互に見ていた。
「あのときの相手が、スーツ姿に帽子の大柄な男性だったね。あなたはそのときの男性の声とか歩き方とかの印象が、本牧ふ頭の犯人の印象とダブって感知した可能性がありますね」
「すみません、落ち着いて思い出すとそのとうりでした」
矢野の言葉に、彼女は蒼白だった顔色を真っ赤にして答えた。
矢野と山崎は必要事項をメモし、今後事情を聞くことがあるかもしれないので、そのときはよろしくお願いしますと言って、少女と別れ店を出た。
車の中で山崎刑事は矢野に聞いた。
「ガセネタでしょうか、わざわざ嘘はつきそうも無いが」
「女の直感かな、今の所判らんが。ただ、うどん屋の男と本牧ふ頭の犯人が歩き方なんかが似ていたんだろう」
「そして、今日のレストランの客がうどん屋の男と似ている」
「大柄なスーツ姿に、帽子と、声か。証拠にはならないね」
「うどん屋での被害者は、たしか倉庫会社の役員とかでしたね」
「そうだったかな、なまえは塩崎だったな、たしか塩崎南海男だ。そうか倉庫会社勤務だったな」
矢野は片目で嗄れ声の、塩崎を思い出していた。
「よく覚えていますねえ。しかし、かなり痛めつけられていましたね、彼は」
山崎も考え込んでいた。
「彼はなんで被害届を嫌がったのでしょう」
山崎も矢野と同じことを考えていた。
「本牧ふ頭にも彼の会社の倉庫があるかな、少し塩崎を洗ってみるか」
矢野がつぶやいた、彼の目は光っていた。
矢野刑事たちは先日のレストランに少女を尋ねた。塩崎の面通しの協力を頼むためである。塩崎の勤務先か自宅の近くに張り込み、出入りする塩崎を見せて、少女の確認を取ろうとしたのだ。
「藤田ですか、あの子はやめました」
活気に満ちた店の奥から、ワイシャツにネクタイ姿の店長が出てきて、こともなげに言った。
先日はどうもと、挨拶を言おうとした矢野刑事は二の句が次げなく、ぽかんと店長を見ている。
店の入り口での立ち話になった。
「昨日辞めました。電話がかかってきましてね、何か結婚するとか言ってましたね」
店長は別に残念そうな風も見せずに、あっさりとしている。
「先日の通報の絡みで、辞めたんですかね」山崎が聞いてみた。
「さあ、どうでしょうか、そのあたりは判りません」
店長は本当に知らないらしい、首をかしげていた。
「ああいう娘はあちこちの店を渡り歩いていますからねえ、この店が十店目とか言ってたようですよ。採用も簡単ならやめるのも簡単なものです」
店長はフロアを見渡しながら言った。
「長い人は何年も続くんだけど、変わり癖が付いたら、ちょっとのことで来なくなる。うちの店が十店目か二十店目か解ったもんじゃない」
どうも、簡単にやめた子にいい感情を持ってないらしい。
「藤田さんはこのお店にいつから働き始めたんですか?」
山崎は手帳を出しながら聞いた。
「先週の金曜日からですから、五日目ですか」
店長は山崎の手帳を見ながら言った。
「へえ、そんなもんですか!それはまた短いですね、すみません店長さんがわかる範囲でかまいません、彼女のことを教えてくれませんか」
山崎は手帳に書き込み始めた。
店長はあまり彼女のことは知らないらしく、店も者を呼んだりして丁寧に説明してくれた。
「未払いの給料は取りに来るんでしょうね」
一通り聴いた二人の刑事だが、最後にどうでもいい事を矢野刑事は聴いている。
「通帳への振込みですから、来ないでしょう」店長は笑顔を見せた。
店長に礼を言って二人の刑事はレストランを出た。
「望みが消えたかな」矢野がつぶやいた。
「住所にもう居ないということですか」
「いや、連絡は付くだろうがね、要するにわれわれには会いたくなくなったんだよ」
「気が変わったのですね」
「店長が結婚とか言ってただろう、結婚相手に過去を知られたくないんだよ。われわれに協力していたら、どうしてもフィアンセに過去を知られることになる」
矢野はひょっこりとハイカラな言葉を使った。山崎は矢野のごつい顔を見ていた。
「そうですね、しかし、あの日はどうして・・・」
山崎も半分ぐらい呑み込めたようだ。
「あの時は、あまりの驚きでとっさに警察をと口から出たんだろう・・今は後悔していると思うよ。とにかく電話をしてみるか」
矢野刑事は気を取り直して山崎刑事をうながした。
予想に反して少女にはすぐに電話が通じた。
しかし矢野刑事の予想どうり、警察への協力はかたくなに拒否をした。要するに、私の勘違いでした、今後は警察と係わりたくない、の一点張りであった。
両刑事の懸命のとりなしにも、私は幸せになる権利がある、警察はそれを邪魔するつもりかと、この前とは打って変わって、小さな少女とは思えない頑強な口ぶりだった。
最後は、“私の勘違いでした”の言葉を一語一語区切って、念を押すように話し、一方的に電話を切った。
「取り付く島はないようだ、しかし女は弱いようで強いな」
少女の態度の変貌振りに、感心しながら矢野刑事は、山崎を見た。
八
九月三十日地方裁判所の村主(すぐり)判事に外部から電話がかかった。
「村主(すぐり)正子さんでしょうか」野太い男の声だ。
「はい、村主(すぐり)ですが」
「息子さん預かっています、五千万用意して置いてください、追って連絡します」
低いがはっきりした言葉だった。
「何のことでしょうか?私は裁判所の村主(すぐり)ですが?」
「むすこさんを預かっています、五千万用意して置いてください、追って連絡します」
低いがはっきりした言葉を、電話の向こうは繰り返した。
「何を言っているんですか、あなたはどなたですか?」村主正子の声が高くなった。
「・・・誘拐犯です・・」
電話は切れた。
「もしもし!もしもし!」村主正子は切れた電話に向かって、呼びかけた。
いたずら電話だと思ったが念のための行動を起こした。さすがに村主裁判長は的確に動こうとした、まずは状況把握だ。
自宅には母の澄子が、生後十ヶ月の友孝の守をしている。丸々と健康そうな友孝を澄子が嬉しそうに、目を細めてあやしているはずだ。ことは無いだろうが確認の電話で安心しよう、いたずらにしては、電話の声は不気味なほど落ち着いていたのが気がかりだった。
自宅の電話番号を押す・・呼び出し音が続いているが応答は無い。五、六分ほど間をおいて再度かけたが同じである。裁判長は胸騒ぎを覚えた、時計を見ると十時十四分だ、母の澄子は友孝を寝かしつけているんだろうか。
村主裁判長の自宅では、彼女の母親の柏原澄子が晩婚の娘が高齢出産した一人息子、澄子取っては初孫の世話のため来ていた。村主裁判長の夫の隆は法務局勤務だ。
その日は朝から上天気だった、澄子は可愛い孫にミルクを飲ませ、寝かしつけると溜まっていた洗濯物を干しに二階のベランダに上がった。さわやかなそよ風が気持ちよく流れ、隣接する公園の木立も久しぶりの日光にうれしそうに輝いて見える。
よい天気だ、洗濯物もよく乾くだろう。澄子はてきぱきと干し始めた。膨大な量だ、早く済まさないと友孝が目を覚ます。とにかく友孝のオムツが多い、最近は紙おむつが主流だが澄子は昔風の木綿オムツにこだわった。娘の正子が洗濯が大変だから紙おむつにしたらという言葉も、珍しく聞かなかった。(風にそよぐ真っ白いオムツを見てごらんよ、気持ちがいいでしょ。第一紙おむつはもったいないじゃないか)。
一時間近くはかかっただろう、澄子は鼻歌気分で階下に下りた。もう孫の友孝も目を覚ます時分だ。
リビングに隣接している畳の部屋にそっと行った、そこに布団を敷いて孫を寝かしている。
布団の上に友孝は居なかった、何処に這っていったんだろう。
「友ちゃん、何処かな、お目目がさめたの、友ちゃん」
澄子は可愛くってたまらない初孫を呼んだ。ソファーの陰から丸い桃のような顔がのぞいたような気がした。
「ここかな、友ちゃん、こっちかな、友ちゃん」
エプロン姿の澄子は孫を捜してリビングをうろうろした。一階には居ない。
「おかしいな、這って二階に上がったんだろうかな」
二階は四部屋だ、二つの寝室と二つの書斎だ。全部ドアが閉まっているから入る筈が無いが・・・と思いながらも各部屋を確認して廻った・・居ない・・どこにも居なかった。
「何処へいったんだろう」
思いながら澄子はトイレをのぞいた、居なかった。今のトイレは万一も無い。
突然、彼女はバスルームじゃないかと考え慌てて階下に下りた。胸騒ぎを覚え、バスルームへ小走りで入ったが赤ん坊の姿は無い。
「あー、良かった」
バスタブは空だった。激しい動悸のなかで一応はほっとはしたが、孫の友孝がいないことには変りは無い。
一回のトイレものぞいた、子供が這っていけそうなところは、隅から隅まで探した。まさかと思いながらも、玄関のドアを開けて、道路に出て見回した。
閑静な住宅街だ、向かいの公園にも何処にも人影は無い。念のため澄子は小走りで公園内まで見回して廻った。変ったことは無いのだ。第一、友孝は玄関のドアを開けれるはずが無い。
彼女は狼狽した。どうしよう、どうしよう、突然赤ん坊が消えたのである。いやそんな事は有り得ない、もう一度家の中を捜そう、絶対に居るはずだ。玄関を開けて家に入ると、電話が鳴っていた。
大急ぎで受話器を取ると、娘の正子の声が響いた。
「お母さん、友孝はなにしてるの?ちょっと気になることが有ってね」
「それが居ないのよ、洗濯物を干して降りてきたら寝ているはずの友ちゃんがいないのよ、今捜しているところなの」澄子の息せききった泣き声の返事に、正子は全身が震えだした。
村主裁判長は夫の隆に至急の帰宅の旨連絡を取り、大急ぎで帰宅の途についた。帰りの電車に揺られながら、落ち着かなければと、自分に言い聞かせつづけた。しかし不安はだんだん大ききなる。
それと同時に我が子が何処かから、這い出てくるのを祈ったりもした。幼児が好奇心から、押入れの隙間か何処かに、もぐりこんでそのまま眠りこんだ可能性だって有り得るではないだろうか。不慣れな母が気づかないだけだ。しかしまた、電話の声を思い出すと、底の無いような恐怖に震えがくるのだった。
友孝が誘拐された!こんなことが有っていいのか、まさか!私たちのよう平和な家庭に、有るはずが無いではないか。しかし、また電話の声がよみがえる。明晰な彼女の思考が空回りを始めた。今のこの状態は夢ではないのか、夢ならばどんなにいいだろう。周りの乗客や、外の風景なぞ彼女の目には入らない。放心状態で我が子の無事を祈り続けた。
駅から乗ったタクシーのお釣りをもらうも、もどかしく村主正子は自宅に駆け込んだ。
「正子!」夫の隆が一足先に帰っていたのだ。
玄関のドアの音を聞いて妻の帰宅に気づき奥から大またで寄って来た、夫の表情で彼女は事態を察した。
「あなた!どうしよう」震えながら靴を脱ぎ棄て取り乱し夫の胸に抱きついた。
「落ち着け、正子!こんな時こそだ、落ち着け、大丈夫だ」
さすがに男だ、村主裁判長も息を整え直した。続いて出て来た母の澄子が横で泣いていた。
「私が悪いのよ、私がついていながら」澄子は顔を覆って号泣しながら玄関先のフロアにに崩れた。
「友孝の命がかかっている、三人が最善の行動をとろう」
隆が促し、母娘はリビングのソファーに腰をおろした。澄子は顔を覆ったままだった。
「正子とお母さん、今日のことを知ってる範囲で私に教えてください」
隆が一番平静だった。
裁判長がまず電話の内容、時間、声について出来るだけ、推察を除けて報告した。
隆はメモを取っている。
「ごめんなさい、私は何もわからないの」
澄子はまた泣き出した。これは仕方が無い、なにしろベランダから洗濯物を干し終わって降りてきたら、寝ているはずの友孝が消えていただけだから。
静かな空間の中でけたたましく電話が鳴った!母娘はビクッとして凍りついた・・・隆が静かに電話を取った。時計の針は午後二時十二分を指していた。
「村主(すぐり)さんか」
「はい、村主(すぐり)です」
「誘拐犯だ、あす十七時までに五千万、TM銀行の普通口座に入金のこと、追って連絡する、警察が入ったら、その時点で終わりだ、以上」
太いゆっくりとした男の声だった、耳を寄せている正子にもはっきりと聞こえた。
「もしもし・・・・」隆が応答したが電話は中断音がしている。
「きれた・・・」
隆は電話を置いた。母娘は息を呑んで隆の顔を見詰めていたが、ワッと泣き崩れた。
「警察に通報しなければ、それと五千万円だが」
隆はメモを取りながら言った。落ち着いているようだが顔面は蒼白だった。
「友孝はどうなるの」
正子はおろおろして動揺は隠せない。
晩婚の夫婦にやっと出来た一粒種だ。片言を話し、とことこ這い回る愛嬌あるしぐさ。プリンのような柔らかい丸い顔に、真っ黒いつぶらな瞳、時折見せる天使のような笑顔。母親の動揺は無理も無い。
「今、内に預貯金はどれくらいかな、どうなるか解らないが一応段取りしておこう」
隆は妻を見やりながら、考えている事を口にする。
「私のほうも何とか」
澄子が隆に言った。
「すみません、もし足らないなら不足分お願いできますか。では通報だ」
隆は電話を取った。
「あなた、大丈夫なの?」
正子は何か言いたそうだった。
「私たちだけでは何も出来ないだろう。専門家の指示を受けよう、それが最善の方策だろう、それしかない」
隆の表情も苦渋に満ちていた。
本牧ふ頭殺人事件を追っている矢野刑事は、相棒の山崎刑事と塩崎の勤め先である京東倉庫本社ビルを訪ねた。一応自宅マンションを訪ねたが応答がなかったためこちらに廻ってきたのだ。有力な容疑者というわけでもないが、マークされるべき人間の一人というぐらいの認識だった。
「少々お待ちください、ただいま総務課と連絡を取っています」
塩崎への面会の意を告げた矢野たちに、青い制服の受付の女性は丁寧に応じた。二人の刑事は、受付横の背の高い観葉植物の鉢植えのそばで、手持ち無沙汰に待っていた。
「お待たせいたしました、社長室にご案内いたします」
階段から下りてきた受付嬢と同じ制服の背の高いOLが笑顔で言った。二人の刑事は塩崎が社長だったかと、意外な思いで秘書と思われる女性の後ろを付いて階段を上った。意外と殺風景な廊下を進み社長室のドアを女性社員がノックして開けていった。
「どうぞ」
二人の刑事が入ると、初老の小柄な男がデスクの向こうのいすから立ち上がった。
「わたしは当社の社長の吉田と申します」
二人に歩きよりソファーを勧めながら、男は言った。
「塩崎さんに、少しお目にかかりたいのですが」
妙な具合だなと思いながら矢野が口を開いた。
「副社長の塩崎は九月十五日付けで退職しました」
社長の吉田の意外な言葉に、二人の刑事は唖然とした。
「いや実は、横須賀署の方からも刑事さんが午前中に見えられたのですよ、何か塩崎にあったのでしょうか?もう当社とは関係は無いのですが気にはなりますからな」
吉田は言葉を継いで二人の刑事を見ている。
「なに、たいしたことではないんですがね、少し塩崎さんのご意見をお伺いしたいと思いまして」
矢野は、当たり障りの無い言葉を出した。
「そうでしょう、彼は実直で信頼のおける人間でしたから」
吉田社長は正直に言った。
二人は京東倉庫本社のビルを出て近くの喫茶店に入った。
「横須賀の連中は何を調べているんでしょうか」
山崎は矢野に聞いた。
「なんだろう、本牧ふ頭の絡みではないな、聞いてみるか。山崎君、横須賀に知ったやつはいるかい」
京東倉庫社長の吉田の、警察署同士の横の連絡はないのですかという、言葉を思い出しながら矢野刑事は言った。
「前田という僕の剣道仲間が居ます、聞いてみましょう」
山崎は携帯を取り出して横須賀署を呼んだ。
「ああ、俺が行ったよ、浦賀の杉山刑事に誘われてねえ。管轄に挨拶すべきだったかな」しばらくしてから、山崎の携帯に掛けてきた前田は、明るい声であっさりと言った。
「ハハハ、おまえだったのか。いや、それはどうって事は無い、それより今晩でもちょっと一杯どうだい」
山崎は話が早く通り、嬉しそうである。
「いいな、久しぶりだな」
前田刑事は、屈託が無い。
「浦賀の杉山さんも誘ってくれないか」
矢野の出してきたメモを見て、山崎は言葉を追加した。
「彼は北山に一人息子を殺されたのですよ、それからしばらくして奥さんも亡くしましてねえ、確か胃がんだったと聞いています。結局は北山たちに家族をズタズタにされたといえるのじゃあないですかね」
居酒屋の一室で杉山がぼそぼそと話している、矢野たちは黙って聞いていた。
「裁判のほうは北山たちの言う若者同士の喧嘩の結果ということで、軽い刑になったのですがね。私は一方的なリンチ殺人事件に間違いないと睨んだのですがねえ、何しろ死人にくちなしですから」
「北山の仲間たちは、まだ少年院の中に居るのですか」山崎が聞いた。
「ええ、北山が真っ先に自首してきたのです、だから、酌量の余地が有ると判断されたんでしょう。しかしこれも訳け有りなのです」
杉山は塩崎真一死亡事件について話した、ある程度の彼の主観が入るのは仕方がない。
「北山が耳を噛み切られたから、乱闘になったという主張が通ったんですか」
山崎は目を丸くしていた。
「全面的に認められたと言う訳ではないんのですが、大体はねえ」
杉山は悔しそうに唇を歪めた。
「殺された少年は、警察官に採用されていたのですがねえ、休暇を利用してバイクで旅行の途中で事件に巻き込まれたのです。遺体の損傷が激しくてねえ・・・親御さんの、特に母親のショックは見ていて気の毒でした」
杉山は少し涙ぐんでいるようだった。
「北山たちはどうして、遺体にそんなことをしたのでしょうか」
やはり山崎が聞いた。
「殺された少年は最期を悟り、健気にも証拠を残すために必死で相手の耳を噛み切り、飲み込んだと私は思うのです、そうしないと迷宮入りの可能性がある。何しろあんな夜の山道です目撃者は皆無でしたから」
杉山はお絞りで顔を何回もぬぐった、目が赤くなっていた。
「北山たちは、その耳を探して遺体を切り裂いたのか・・・」
山崎は眉をひそめて呟き頷いた。
夜の人通りの無いくらい山道の脇で、不良少年たちが殺した相手を切り裂いている様を刑事たちは想像していた。
「なるほど、耳か、絶対的な証拠だ。犯人にとっては命取りになる。しかし小さな肉片を見つけることは素人では難しい」
矢野は感心したように言った。
「そうです、血の海ですから。結局そのことが報道されてすぐに、北山が自首してきたのです、頭に包帯を巻いて。耳が欠けたのでは誰が見ても判るからとても逃げ切れない」当時のことを杉山は思い出している。
「しかし、殺された少年は根性があったなあ、生きていれば立派な警官になっただろうな、現職の警官でも、そんなことが出来るかどうかわからない」
矢野の言葉の後、しばらく沈黙が続いた。
「それで、塩崎側は控訴しなかったのですね」矢野が杉山に聞いていた。
「ええ、そう聞いています。塩崎さんの友人の弁護士も薦めたらしいけど、なぜか控訴しなかったのです」
杉山は思い出しながら話していた。
「北山が死んだことを塩崎さんに伝えようと思ったのですよ、初めは」
杉山は国立の家に行ったらしい。
「しかし、奥さんが無くなってからこちらに引っ越してきたらしい。会社もこちらに変わっていたから」
杉山は銀行のほうも回っていた。
「奥さんが亡くなったのも、結局は息子さんの件からの心労からだろうと思うのです。気の毒な話です、塩崎さんはエリート銀行員だったのに」
杉山は塩崎に同情的である。
「北山が死んだのはどうって事はないのですがね。殺されたのが少年院から出てきてすぐだから、塩崎さんが一応マークされるのは仕方が無いと思うのです。正直言って、私は塩崎さんがかかわっていないことを願っていたのです。だから彼のアリバイがほしくて、動いていたのですがね」
杉山は矢野のほうを見て続ける。
「しかし、横須賀署に市内の探偵事務所から、情報が寄せられたんだよねえ、前田君」
みなが前田刑事に目を移した。
「ええ、かなり有望な情報と、うちも判断したんです」といって話し始めた。
要約すると(九月十六日、横須賀市内の個人経営探偵事務所に、中年の男性から電話での依頼で、北山秀樹の全一日の行動を、翌朝九時に連絡するから報告してほしい。契約期間は一週間とする、延長するときは当方から連絡する、報酬は一日十万円を基本とし、特別の経費があれば朝の報告のとき請求のこと、なお、報告に不備があれば、翌朝から契約打ち切りとなる。支払い方法はATMからの郵便振替口座への振込みとする、とりあえず二日分前払いをする)という内容である。
「探偵事務所も、一度面談の上の契約にしたいと言ったのですが、北山の親類筋だが、遠方だから無理だということと、料金が破格だし、実際二十万円の前金の振込みもあったもんですから要請に応じたらしいんです」
前田刑事の話は続いた。
「きちきちと入金はされるので、探偵事務所も張り切って尾行し報告をしたでしょう」
「で、北山の一日の行動はどんなですか」矢野が聞く。
「簡単なんです。朝からあのパチンコ屋に午後四時過ぎまで漬かる、それから晩の十時ごろまで母親の経営する居酒屋の手伝い、これの繰り返しだったようです」前田が笑って言った。
「なるほど簡単だ、そういう場合調査員はパチンコを打つんだろうか」
山崎が当然の質問をした。
「打ったりもしたんだろう、特別経費でパチンコ代を請求したら、振り込んできたそうですよ、たいした額ではなかったが」
前田が明るい声で言った。
「気前がいいんだな」
山崎がうらやましそうに言った。
「探偵事務所と契約した日が、塩崎さんの辞職した日の翌日だからなあ」
杉山が上を向いた。
「で、契約は延長が無かった」前田がつぶやいた。
「北山が殺されたのは契約期間が終わって、二日後ということになるか」
矢野は前田を見ていった。
「探偵事務所は、事件の報道を見てすぐにうちに連絡をくれたのです」
前田の報告は終わった。
「ほかの探偵事務所にも頼んだ可能性だが」
矢野が前田に言った。
「横須賀地区ではないそうですが、ほかの地区はどうでしょう」前田が答えた。
「無いとはいえない、中年の、金に不自由しない男か」話しながら矢野の目が光ったようだ。
「しかも、本牧ふ頭の殺しも可能性が出てきたとなるとねえ」
杉山は矢野を見ていった。
「いや、実は本牧ふ頭の件も、物的証拠は何も無いのですよ、状況的に可能性がある一人だというぐらいなのです、まだ捜査本部にも私たちは上げていない、彼をマークしているのは私たちだけなんです」
矢野は山崎を見ていった。
「しかし、社会的地位のある歳も五十近い人間に、あれほどのことが出来るのだろうかと、正直思うのですよ、私も」
矢野は槍で三人も突き殺したという、物理的な行為のことを言っている。
「前田君たちは剣道の達人だから、何か意見を聞かせてくれないかな」
杉山は笑顔で前田を促した。
「ハハハ、達人ですか、山ちゃん、どうですか」
前田は笑いながら山崎に振ってきた。
「僕も解らんですが、試合と殺し合いとは、まるっきり違うんじゃないでしょうか」
剣道の全国大会にも出たことのある、山崎も苦笑していた。
「僕も同感です。殺し合いだけは、何しろやったことが無いから解らない」
前田の言葉にみな笑い声をあげた。
「県警の偉いさんの中には、武道の達人じゃないかという人も居るが、私はいちがいにそうだとは思わない。ただ、確実なことは、筋力、胆力は人並み以上の人間だろう、そして恐怖心の少ない男。それともう一つは恐ろしいほど野蛮性を秘めた人間」
矢野は目撃した少女の供述『槍を振りかぶり逆手での拝み突きにつき伏せていた』を思い出している。犯人は武道と槍術とかは関係ない、ただ殺伐な人殺しの究極を知っているのだ。
矢野はあまり参考にならない捜査本部合同会議を思い出して、視点を変えようと思った。
「塩崎は学生時代山岳部でしたね」
矢野は杉山に聞いた。
「そうです、大学時代は山岳部で鳴らしています、彼は確かヒマラヤ遠征も経験してるはずです」
杉山も塩崎をある程度マークしていたのだった。
「それは凄い本格的ですね」
山崎が感嘆の声を上げた。
「本当ですか」前田も驚いていた。
「君たちも大学では体育系だが、山岳部も鍛錬は凄いだろうな」
矢野が若い二人の刑事に聞いた。
「それはかなりでしょう。ある面、われわれの武道系よりも凄いでしょう、ミスが直で死につながるんですから鍛錬は半端じゃないと思いますよ」
山崎はロッククライミングの場面を想像している。
「僕の大学にも山岳部はあったんですが、確か滑落して死んだやつも居ましたね」
前田も大学時代を思い出しているようだ。
「山岳部だけは半端なものはだめでしょう。ザイル一本で、命を預けたり、預けられたりですから。ストイックに体を鍛える連中が多かったですね」
前田は自分の手を見ながら話している。
「そして、肝っ玉も鍛えられる」
塩崎の頑丈そうだった大柄な体つきを思い出しながら矢野は考えている。
「しかし、二十年たってもそれが、その厳しい体験みたいなものが残っているんだろうかねえ、それもエリート金融マンに」
杉山も塩崎を頭に浮かべているようだ。
「体は覚えているでしょう。だって先輩連中を見て、この人は柔道やってたとか、この人は剣道部とか、体や動作を見ていると大体わかるんじゃないですか。何かが残っているもんですよ」
前田は山崎に相槌を求めた。
「そうそう、何かが残っているもんな。例えば杉山さんは柔道でしょう?」山崎の言葉に杉山が笑いを浮かべて頷いた。
「確かにそうだろうな、そして体も肝っ玉も、何かのときは、元に戻りやすいだろうな」
矢野は考えている(しかし、本牧ふ頭の犯人が塩崎だとすると、彼をそこまで突き動かす理由があるだろうか、うどん店の事件だけでは動機が弱すぎるが)矢野たちはまだみわの件までは、知る由も無い。
(しかし、撤回したとはいえ中華レストランの証言もあるし、突然の辞職も何か引っかかる、とにかくもう一度尋ねてみよう、奴はトンズラするような人間では無いから慌てることは無い)矢野は考えるのをやめて飲むことにした。
「ぼちぼち始めましょうか、捜査会議はここまでにして」
矢野の言葉に笑い声が響き一座が和やかになった。前田が注文用のベルを押した。
友孝が居なくなって二日過ぎた。犯人側からはなんの動きも無かった。ただどう嗅ぎつけたか秘かにマスコミが動き出した。村主判事に面会のアポイントメントが新聞社から有りだした。おそらく北山絡みの取材である、マスコミもまだ誘拐事件だとは感づいているはずがない。
然し村主家に何か事件があったとの通報が、メヂィアにあったのだった。
村主家は対応に苦慮した、無責任なマスコミの対応から逃れる必要があった。正子は急病で入院中、隆は海外出張しての不在扱いでマスコミとの接触を避けた。
家族全員、張り込んでいる刑事三人もだが、カーテンを締め切った家の中で、息を潜めるように待機していた。
二階ではともかく、一階では話し声も立てることが出来なかった、警察が犯人の盗聴を警戒したのである。犯人が友孝を浚(さら)いに進入しているからだが、かなりその方面の専門家が念入りに調べて廻わった結果、盗聴器は発見されなかった。しかし見残しが皆無とはいえないので、念のための行動だ。もしも小さな盗聴器が、絨毯の中か何処かに仕掛けられていたら筒抜けだからだ。家族と刑事連中の会話は筆談だ、それか、その都度二階へあがり、小声で話すことになった。そのため、刑事たちの控え室は二階の、隆の書斎になった。
一階では陰気な雰囲気この上ない、さまでさえ家族全員落ち込んでいるところである。
特に、正子の落ち込みようはひどかった、どうしても最悪の結果を想像するのである。
今までの裁判で彼女が担当ではないにしろ、子供が犠牲になった事件は多いのである。
無垢な幼児が無残に殺され、その赤裸々なありさまを克明に裁判を通じて見たり聞いたりしてきた者にとって、わが最愛の子がその対象になる事は到底受け入れることなど出来なかったのだ。
真っ白い柔らかな小さいからだが、おおきな手で簡単に絞め殺されるか、刃物で刺し殺され水中か土中の中に葬られる。想像するだに、正子は気が狂いそうになるほどの恐怖を覚えた。
犯人は警察の張り込みに感づいて、もう友孝を殺めたのではないだろうか。なんてことだ!
(もしも、友孝をそんな目に合わしたら、絶対に許さないから)今の村主裁判長は、法曹界で言われる“罪を憎んで、人を憎まず”の格言なんか頭の中から、どっかへ消し飛んでいた。
彼女の端正な顔はどうしようもない苦悩に青白くなり、薄い唇をゆがめていた。
(とにかく、友孝を無事に帰して欲しい、その為ならなんだってやろう、五千万円も欲しければやろう、また二人で稼げばいいじゃないか。何で警察などに連絡をしたんだろう、あの時止めれば良かった)彼女は、はかなくも弱い悲しい母親になった。
しかし、犯人からはなんの連絡も無い、一体どうしたら良いのだろう。
刑事の推察では、犯人は知能犯の可能性が高い、その理由に。
1、 現金の用意をTM銀行に指定(札に目に見えない特殊なしるしの塗布な どの防止のため受け取る直前に、銀行から引き出さす)、
2、 電話での言葉遣いの分析(必用最小限しか連絡をしない)を挙げ、簡単に人質は殺さないだろう。
と言って、慰めてくれるが、あくまで希望的分析ではないだろうか。とにかく不安でたまらないのだ。
刑事連中も犯人からの動きが無いので手持ち無沙汰に見えたが、実際はカーテンの隙間から常時双眼鏡で周りを入念に窺っていたし、携帯で何処かに連絡を取り合っていた。恐らく何人かの刑事が、この近所に何らかの格好で溶け込んで見張っているのだろう。
誘拐事件対策本部も、金目当ての誘拐か、恨みによる犯行かなどありとあらゆる方向から緊密な情報の収集と精査をしているはずだ。恨みによる犯行だと子供の命はもう無いだろうが。
九
一雨来そうな夕暮れ時だったが今村主家に入る者には天気のことなど念頭にない。ただひたすら犯にからの連絡をじりじりしながら待っているだけである。
玄関のチャイムが鳴った、家族三人は互いに顔を見合してから所定の行動に動いた。
二階から刑事たちが音も無く降りてくる。
隆がインターホンの受話器を静かに取った。
「・・はい」
「村主(すぐり)さん、宅配です」
受話器の向うから、場違いな明るい声が響いてきた。
「スグリマサコさんあて荷物をお届けに来ました」
インターホンからもれる営業用の元気な声は、一階で耳を澄ませているみんなに聞こえた。
隆が玄関を開けると、帽子を被った宅配業者が顔を覗かせ笑顔で言った。
「ご注文のピレネー犬です」
「・・なんです?」
隆は怪訝な顔で聞きなおしている、正子と澄子も寄ってきた。
「犬ですよ、どうしましょう。中に入れますか、麻酔が効いているうちに急いで届けてくれとのご注文で」
宅配業者は外にある台車の上の大きな箱を示した。
「うちは犬なんか・・」
隆と正子が顔を見合してから外にある箱を見ていた。突然、隠れていた刑事二人が風を巻く勢いで飛び出してきてなにか大声で怒鳴った。ひとりは宅配業者の腕を掴んで玄関内に引っ張り込みいきなり組み伏せた。怒声と悲鳴が飛び交い荒々しい物音が大きく響いた。もうひとりは外の大きな箱を抱えて走りこんできた。
「島田!救急班の手配!」その刑事が叫んだ。
箱の中から子供の泣き声がした。両手を口に当て、立ちすくんでいた正子が、はじかれたように悲鳴を上げて、箱に走りよった。
「こちら村主(すぐり)邸、こちら村主邸、至急救急の手配、救急の手配、こちら村主邸、動きあり、こちら村主邸、動きあり、応援頼みます、応援頼みます。救急手配、救急手配、こちら村主邸」
島田刑事が大声で電話に怒鳴っている。
大騒動になった。
突然テレビが臨時ニュースを流し始めた。
先月三十日午前十時ごろ、東京都町田市鶴川公務員村主(すぐり)隆さん(45)の長男、友孝ちゃん(十ヶ月)が自宅から、家人の目を離した隙に誘拐され、午後二時過ぎに犯人らしい男から、五千万円用意しておけとの、電話連絡があったことから、隆さんの通報を受けた警視庁は誘拐事件として、極秘に町田署に特別捜査本部を設けて、捜査していたがその後、犯人側から連絡が無く捜査は難航していました。しかし、二日午後六時過ぎ、宅配便の箱の中に、閉じ込められたままで友孝ちゃんは帰宅しました。外傷は無く、医師の診断を受けていますがが、元気な模様で家族は一応安心しています。
送り届けてきた宅配業者の話によると、犯人らしい男が当日午後、町田駅前の営業所を訪れ、大型犬だが麻酔が効いているうちに届けてほしいと言い、乗りつけたワゴン車のトランクを開け、大きなダンボール箱を示し配達を申し込みました。店員が中を確認しようとすると、目を覚ますと暴れる可能性があるから、出来るだけ静かに扱ってほしいと言って、少しダンボールに開いた穴からのぞかせたそうです。穴からのぞくと金網越しに白い犬の背中が、確認できたので引き受けたといっています。そして犯人はとにかく早く届けてくれと、特別な料金を払い帰ったということです。宅配店は、まさか幼児が白い犬のぬいぐるみに包まれて眠っていたとは、夢にも思わなかったと非常に驚いていたということです。
男はかなり背が高く180センチ前後で、ハンチングをかぶっていたとの事です。その他、男の特徴・車の№・車種、メーカー・色等についての発表はまだありません。
なお、本事件につきましては人質となっていた友孝ちゃんの身の安全から、極秘捜査となっていましたが、友孝ちゃんの無事が確認されたことにより、本日午後八時、警視庁により始めて公表されました。なお、特別捜査本部は今後も、金目当ての犯行、恨みによる犯行、両面から捜査を継続する方針です。
なお、この事件は幼児誘拐事件であり、人命尊重が第一の見地から報道各社ともども報道を自粛しておりましたが、人質解放となったので報道を開始いたします。
母親の公務員村主正子さん(42)のコメントです(無抵抗の幼児を誘拐するという許しがたい犯行だ、犯人は一刻も早く自首して禊を受けてほしい)以上です。繰り返しますというアナウンサーの言葉があり、同じ言葉が一字一句違わずにテレビから流れている。
遅い帰宅で、ビールを飲んでいた矢野刑事の目はテレビの画面に釘付けになった。
スグリマサコ、村主正子!杉山刑事の話に出てくる塩崎真一死亡事件の裁判長ではないか!彼女の子供が誘拐されていた!矢野刑事の心臓は、早鐘のように打ち出した。
(見事だ!塩崎南海男、さすがだ)
ニュースを凝視しながら、矢野刑事は心の中で思わず喝采を叫んだ。彼にはこれで塩崎の一連の犯行は決定的になったのである。(こんな大胆な犯行は塩崎しか出来ない、山崎たち三人に連絡を取って、明日の朝一番、速攻で捜査令状をとろう、状況証拠ばかりだが間違いない、絶対だ)
「そこまでだ塩崎、待ってろよ、必ず俺が吐かしてやる。お前にワッパ(手錠)かけるのは俺たちだ」
思わず矢野は、テレビに向かって叫んだ。
矢野刑事は、その夜は、期待と興奮で眠れなかった(これで、県警本部、警視庁の偉いさんたちに、たたき上げの刑事の実力を見せることが出来る)、彼はベッドの中で、寝返りを打ち返しまた打ち返し、朝になるのを待ちかねた。
友子にうれしい電話が、緒方からかかってきた。
「友さんか、銀狼の徹に聞いたんだがね、みわに注射した血はエイズのじゃないってさ、徹が自分の血を取って、ジョウジたちをごまかしたって言ってたよ」
友子は息を呑んで聞いている。
「やつは、エイズの血を取るのが怖かったんだろう。本人は面倒だったからといってたがね・・・」
緒方の声は続いていたが、友子はありがとうの言葉もそこそこにみわのところへ走った。
みわは、とにかく生き返った思いだ。やっとあの人に顔を合わせれる体になったと、正直思った。早く塩崎に電話をして、長期の不在のわけを話したい、許しを請いたい。そして一刻も早く塩崎の胸に飛び込みたい一念で浮き立っていた。
みわが何度塩崎の携帯に電話しても、呼び出し音が響くだけだった。マンションの電話も塩崎は出なかった。
母の友子は、長いこと人任せにしている店に顔を出しに出て行った。
「お願いだから、母さんが帰るまで待っててちょうだい。遅くはならないから」
みわは、心から心配をして自分を慰め、力づけてくれた母の言葉に従うことにした。母も一晩ぐらいは、親子水入らずでゆっくりと話し合いたいだろう、今までの許しも請いたいだろう。みわは今はもう母を許す気になれたのだった。
塩崎の携帯にメッセージを入れておいて、ここは母を待っていよう。(ごめんなさい、本当にごめんなさい、大変なことがあったので連絡できませんでした。明日の朝には帰れます。訳はそのとき、わたしもおなかも元気だ、あなたのみわ)
のっそりと、緒方が入ってきた。
「ねえちゃん、ほっとしただろう、俺が徹をはかしたんだぜ」
戸棚から勝手にウイスキーの瓶を出してきた。
「お世話になりました」
みわは、この男は好きになれないなと思ったがここはひとまず礼を言った。
「ねえちゃん、氷を取ってくれないか」
空のグラスをみわに渡した。
「よい子だ、ねえちゃん、おめえ結婚するんだってな」
テーブルを挟んで、みわの向かいに腰をすえた。
「そう、母の承諾書などを取りに来たの」
みわは立ったまま、きざな格好のやせた男の顔を見ていった。
「おめえ、銀狼会の連中殺されたの知ってるだろ」
露骨にみわの顔を見ながらコップのウイスキーをあおった。
「うん、母に聞いたけど」
「やつらが死んでうれしいだろう、まあ座れよ、ねえちゃん」
「・・・・」
みわはいやいや、いすを向かいに廻してに腰を下ろした。母さん何をしているんだろう、早く帰ってくれないかなと考えていた。
「あの犯人が俺だったらどうする」
緒方は目を細めて大物ぶっていう、自分の容姿に自信たっぷりのようだ。
「別に」
みわはごく簡単に答えた。(あんたにそんな度胸があるの、あたしは母と違って目が見えるんだよ、この馬鹿。あんたに出来るのは、女の紐になって小遣いをせびるぐらいだろ)
「おめえの話を聞いて、いずれ俺が焼きを入れてやろうと考えていたんだが、手間が省けたな」
思わせぶりたっぷりに、みわの気を引いているようだ(俺ぐらい良い男は、そうざらに居ないぜ)偉そうにグラスをあおった。
「うん」
一応うなずいた(誰が本気にするかい、アホタレ。母も母だ、こんな馬鹿と一緒に居るなんて)
「ねえちゃん、十八だったな。俺と組んだほうがいいぜ、おれとおめえはファミリーだからよ」
ひとしきり黙って飲んでいた緒方が、唇をなめてみわを見て言った。
「おめえの相手はどんなやつだ?どうせ間抜け面のトウシロウだろが」
自分でウイスキーを注いで、またあおった。
「おめえ、十六ということにしてだな、ゆすってやろうじゃないか、俺に任せな」
またグビっと飲んで、目を細めてみわをみた。また唇をなめた。
「おめえ、ねえちゃん、そのトウシロウとやってんだろう。そこでだな、青少年保護何とか法律があるだろ、それにしてだな」
いやらしい目で、みわを見て言う。
「一千万ぐらいは剥ぎ取れるぜ、おめえ、俺の言うとうりにしな」
こんどはウイスキーの瓶をくわえてラッパ飲みした。強い男に見せたいらしい。
「・・・・」
みわの我慢が沸点に近づいてきた。
「おめえ、いい体してるな。ファミリー同士だ仲良くしようぜ、友子が戻る前に」
目をすえて、酔っ払いがふらっと立ち上がった。
「おめえ美人だな、友子の若い時はそんなだったろうな。あれも今は俺の体なしには三日と辛抱できない体になったぜ、おめえも同じように極楽の味を教えてやるよ」
緒方は目を異様にぎらぎらとさして薄笑いを浮かべている。
「母さんがもう帰ってくるよ・・・」
蒼白になったみわは、じりじりと後ろに下がりキッチンの調理台を背にした。
「帰ってきてもどうということはねえ、親子丼ぶりもいいらしいぜ」
緒方は子供の時から顔自慢で、女性は自分になびくものだと自信たっぷりである。いやらしく唇をなめてゲタゲタと笑った。みわには緒方がこの上なくいやらしく下品で、毒牙を持ったおぞましい軟体動物のように見えてきた。
「どうせおめえも友子と同じように淫乱の血が流れていらあ、俺が確かめてやる」
「・・・そんな恐ろしいことを、なんてことを・・・」
みわは怒りのあまり体が激しく震えだした。
けだものはふらふらと両手を広げるようにして無防備に近寄ってきた。激しい憎悪が思わぬ力を少女に与えた。必死の思いで隠しつかんだ背中の包丁に憤怒の激情を込めて両手で水平に握り直し、必殺の気迫で思いきり体当たりし男の胸に突き刺した。
衝撃で緒方の思考は止まったが、体は激痛に反応しそこから離れようと5・6歩、リビングまでよろめき逃げ歩いたが、彼の網膜にフローリングの床がだんだんと近寄り、そのまま動かなくなった。
ここのところ毎晩のように真一が塩崎の夢の中に出てくるのである。いや正確に言うと真一のようなものが、である。夢の中のそれは必ず言う。
「もうやめてくれ、殺すのはやめてくれ、もういいよ」
言葉遣いは覚えていないからテレパシーだろうか。夢の中の真一は、玲子になり、みわになり、ここ二日は、みわの腹の中の子供にもなりだした。どんな表情か、どんな服装かも感じない。三人、いや四人が一人の人間みたいなものに合体して、もういいよ、というのである。いつの間にか三人が朧(おぼろ)げな大きな蝶になってもうやめなさいという。
塩崎はこれは夢だなと、夢の中で感じているのである。
塩崎は夢の中で考える。ぼちぼちそこへいこうか、そこは真一のところか、みわのところかどちらへ行ったらいいんだろう。しかしそこはそこだ、夢の中の話だからあやふやに白い蝶になったように、フワアと感じている。
この事象は、本人は気が付いていないが心の中の良心が彼の脳に働きかけていたのだろう。夢の中の真一とかみわの姿はみたいなものは、塩崎の良心が姿を変えて現れたのだろう。道を誤った若者とはいえ、五人もの命をまるで虫を殺すように抹殺したのである。ましてや無垢な幼児まで誘拐するとは・・・何という非道だろう。心の奥底では、自分は死ぬべき人間だとの思いが常に滞っていたのだろう。
彼は残忍な殺人鬼になると決意し実行したが、ただ自分の良心までは殺せなかった。
テレビは “村主友孝無事帰る”のニュースを流している。
意外と時間がかかったな、宅配業者はなにしていたんだ、あれほど四時間以内に届けろといっておいたのに、と塩崎は考えていた。しかし、やることはやったんだという思いである。もういいだろうと現実を客観的に分析をする。初めからこれほどのことをやって無事に済むとは考えていない、ぼちぼち終わりかな、刑事の影もちらつきだしたようだし。この二週間の激動に、さすがに疲れも感じている。スーツのポケットの携帯が鳴っている、みわからのメッセージだった。
塩崎は携帯のメッセージを凝視した。(生きていたのか!この世に居たのか!)震える指でダイヤルを押した。
「パパ、助けて、なんてことになったんだろ」
電話に出たのはみわだった、震えながらの泣き声だ。
「どうしたんだ、どこにいるんだ」
塩崎も急き込んで携帯に向かって大声を出した。
「どうしよう、パパ、あたし人を刺しちゃった、どうしたら・・・」
声が上ずって聞き取り難い。
「みわ、落ち着きなさい、どうしたんだ、どこに居るんだ、そこの場所を言うんだ」
塩崎にも容易ならぬ事態は判った。
「ここはマンションだよ、死んだみたいだよ、もうお終いだ」
要領を得ないやりとりがつづく。
「渋谷区道玄坂のアパールマンション二〇八号です、娘が大変なんです」
声が別人に替わった。
「娘が悪いんじゃないんです、あの人が悪いんです、お願いです、お願いです」
泣いているがみわの母親だろうと思った。
電話の向こうにみわの声を聞いた。みわが生きていた!良かった!しかし、みわはいったいどんな目にあっているんだろう、この身に代えてでも守ってやる、よし!最後の仕事だ。
塩崎は冷蔵庫の後ろからピストルをとりだし、内ポケットに入れると、タクシーを呼んだ。
ここのところ随分と修羅場は経験したが、今回は気ははやるし胸の動悸が激しい。やっと道元坂のアパールというマンションに着いた。
タクシーに待っているように言ってマンションに入った。無人の廊下を足早歩いて、二〇八号室の前に立って息を整えた。周りは静かである。ドアをノックすると音もなしに開き、みわが顔色を変えて、塩崎の胸に抱きついてきた。
横に立って、おろおろしているのは先ほどの電話の母親だろう。二人とも涙を流している、ドアが自然に閉まった。
「ごめん、黙って出てきて」
「母の結婚承諾が要るから」
「譲治たちに、見つかってひどいことされたの」
「あいつ、パパを脅迫しようとするんだ、お金を獲ろうと・・」
声を震わしながら途切れ途切れにつぶやく。
「母の目を盗んで、あたしの上に乗ろうとするんだよ、俺の女になれだって。けだものだよ、絶対許さないから・・」
「あんまり幸せ過ぎたから、バチがあたったんだろうか・・・」
薄幸な少女は塩崎を見上げてつぶやいている、そのまま塩崎の腕のなかで激しく震え失神した。
塩崎は事情のあらましが解った。
近くのソファーにみわを横たえ、離れたところに背中を丸くしてうつぶせに長くなっている男に近寄った。そして肩をつかんで仰向けにひきかえした。
派手なシャツを着た、やせた男が目と口を開けたまま胸に深く刺さったままの包丁の柄を、大事そうに両手で掴んでいた。見ようによっては自分で刺したようにも見える。口から血を流しびっくりしたような顔をしている。観るとフローリングの床にかなりの血が溜まっている。
母親がソファーに横たわったみわを抱きながら、許して、許してと泣いているのを見ながら塩崎はじぶんでも不思議なほど冷静だった。
事は急いでいるが正確な対処が必用だ、
人生最後の大仕事だと塩崎は覚悟を決めた。
みわを抱いて泣いている母親に近寄り、強く両肩を掴んで正対させ有無を言わさない言葉を押し付けた。
「あの男は私が殺したんだ、いいね」
「君たちは席をはずしていた、解ったね」
「大声がしたので、来て見たら死んでいた、解ったね」
母親は塩崎を向いて両手を合わせて拝んでいる。
「解ったね、これが貴女がみわにしてやれる償いだ、出来るね。みわの母親の義務だ、為すべき義務だ、解ったね」
「必ずそう言うんだ、いいね、みわにも必ずそう言うんだ、いいね」
「後は私に任せなさい」
母親は床に頭を押し付けるように、塩崎を拝んでいた。
詳しく話している時間は無い。塩崎は手帳を出すと手早く用件を箇条書きし、自宅の鍵とともに母親の手に押し込んだ。
「貴女の子と孫の命が懸かっているんだ、今までの償いはするんだ、解ったね」
母親は号泣して塩崎に手を合わせている。
塩崎はもう一枚メモった(みわは殺してない、まだ生きていたので俺がとどめを刺した。俺が殺したからみわに罪はない。何事も森口に相談せよ、別れだ。子供を頼む、幸せを祈る、俺のことは忘れろ。もう一度言う幸せになれ、お前の幸せが俺への供養だ)みわの胸に押し込んだ。
「みわが気がつく前に、タクシーに乗せたほうが良い」
手早くみわの返り血をチェックし腕に抱き上げ、まだ塩崎を拝んでいる母親を急かし待たせていたタクシーに急いだ。みわが息を吹き返せば、塩崎にしがみつき離れない恐れがある。
母娘をタクシーに押し込み運転手にチップを渡し、自宅の場所を告げタクシーを見送ると引き返した。
塩崎は考えをめぐらしながら無人の廊下を急ぎ、部屋に入ると死体の周りを見回した。入念に手早くチェックを済ますと死体に刺さっている包丁を引き抜いてもう一度突き刺した。近くにあったタオルか何かで柄をぬぐうと、じぶんでぎゅっと二回か三回握り直すして近くに置いた。
携帯を取り出し、森口を呼び出した。
「・・・もしもし塩か、なんだい、また・・」
寝ていた森口は、のんびりした声である。
「森口、頼みを聞いてくれ。俺はいま人を殺した」
「・・・なにい!塩、今どこだ?」
森口は電話の向うで跳ね起きたようだ。
「今、俺のマンションにみわを送らした。急で悪いが行ってやってくれ、頼みの諸々はリビングのテーブルの上の書置きの文書を見てくれ、俺の希望のあらましは書いてある。おまえの手数料とかは遠慮なく取ってくれ、俺の最後の頼みだ」
「何を言うんだ!あっ!おまえ死ぬつもりじゃないだろうな?馬鹿野郎!塩、今どこだ、俺が助けてやる!今そこに行く、待つんだ、塩、どこだそこは?」
切羽詰った森口の声が携帯から響く。
「俺みたいな人間は死んだほうがいい、潮時だと思うんだ、今がその時だ」
「森口、悪いが山には行けなくなったな、ケイジに断っておいてくれ・・・別れだ」
塩崎は携帯を置いて、ポケットからピストルを取り出した。そして口にくわえ、正確に向きを確かめ、思い切り銃口を噛んで引き金を絞った。
意識が闇の中にはじけ散った。
轟音が響き後頭部から鮮血を噴出しぶっ倒れた。二度、三度、血液の流入が止まった塩崎の筋肉が酸素を求めて痙攣したがそのうち静止した・・塩崎は動かない、静かになった。
横に転がっている携帯から森口の声が弾けている。
「塩、塩、塩崎南海男!何をしたんだ!」
「死ぬな!いかんぞ!なんてことしやがる」
「塩、塩崎、おまえみたいないい奴が、どうしてだよ、何てことだよ、塩!・・・」
明るい照明に照らされた死体の横の携帯から、友人の慟哭が洩れ出ている・・・・。
芝生の庭に注ぐ日が傾いて少し風も出て来たようだ、庭の向こうのプラタナスの色づき始めた葉も揺れが大きくなっている。我に帰った森口は静かに立ち上がり庭に面した透明な全面窓をそうっと閉めた。
なみよのピアノの演奏は断続的に続き、今はモーツアルトのトルコ行進曲が軽快で流麗なリズムを刻んで落ち着いたリビングを明るくしている。
少女はときには顔を左右に激しく振りながら力強く鍵盤をたたき、また背中をそらしてキラキラときらめくようなリズムを細い指をめぐるがましくはじかしてメロヂィを流し出す。昔のトルコ軍の勇壮でかつ煌(きら)めかしい雰囲気を感じさせる見事な演奏である。演奏が終わると少女は自然なしぐさでこっくりと頭を下げて横に立っていた淑子に合図をしてから椅子から降りた。淑子も思わずつられてお辞儀を返し嬉しそうに笑った、本当に嬉しそうに上気した顔を笑わして「素晴らしかったわ!私にとっては名ピアニストの演奏よりも感動したわ!なみよちゃんありがとう、本当にありがとう」彼女は少女に抱き付かんばかりの喜びようである。
インターホンのチャイムが鳴った。、
「なみよちゃん、八王子のお婆さんがおいでましたよ」白い壁の受話器を取った淑子がなみよからみわに視線を移して「入ってもらいましょう」と言いながら玄関に歩いた、後ろからナミヨも浅黒い長い脚を小走りに運んでついて行った。
玄関の方から元気な女性の笑い声や、どうぞ入って・お世話になります・まあすみませんなどいろいろな声が重なって聞こえた、ナミヨの幼い笑い声なども交じった賑やかな話し声が続いている。森口とみわも玄関に出ると黒いゴム長に茶色い作業服姿の友子が日焼けした顔に笑顔を浮かべてなみよの手を握ったまま「まあ先生、娘と孫がお世話になります」丁寧に頭を下げるのに「良いところへ来ましたよ友子さん、靴を脱いで上がってください、まあ入ってください。どうぞどうぞ」と大きな声で促す森口に「いえ、実は農園の配送トラックに便乗していますので今日はここで失礼します。又、ゆっくりお伺いします」相変わらず大きな目で愛おしい孫からこちらに視線を移して繰り返した。なるほどドアの向こうの表からトラックのエンジン音がかすかに響いている。
「貴方、友子さんがトマトとジャガイモをこんなにたくさん・・」淑子の足元に赤いトマトとジャガイモの入った大きな茶色い紙袋がおいてあった。
「いや、ありがとう。お宅の農園の物は確かに味が違う、いやありがとう」森口の謝辞に頭を下げて「みわ、貴方のマンションへも置いておいたわ玄関先に」みわに言いながら框に立ったナミヨを軽く抱き寄せて「おばあちゃん又来るからね・・みわ、この子にあんまり甘い菓子を食べさせては駄目だよ・・なみよ、今度婆ちゃんが梨と栗をいっぱい持ってくるから待っててね」
慌ただしく大声で話しながら、森口夫妻に「淑子さんお世話になります、先生。又出て来ます」と大きく頭を下げて手にしていた作業帽を被り小腰を屈めて玄関のドアを開けて出てゆくのに「おばあちゃんもう帰るの?」なみよが素早くズック靴をはき後を追った。そんな孫を後ろから抱きしめて引き返して来て「おばあちゃん、又すぐ来るからね。まあすみませんお騒がせして、失礼します」屈託のない笑顔でお辞儀をしながら出て行った。なみよの向こうでドアがゆっくりと閉まりトラックの発進するエンジン音が聞こえた。
「なんと慌ただしい人、森口さんすみません」みわが我が母のがさつを苦笑いで断るのに「友子さんも忙しそうだね、然し元気で何よりだ。あの調子では歳をとる暇もないだろうね」靴を脱いでいるなみよを抱き起こしながらにこやかに笑った。
「まあ、見事なトマトとジャガイモですこと、さすがは八王子の有機栽培農園ですよ・・・今晩はポテトサラダにしようかしら」淑子はしゃがんで紙袋を開けて感心している。
「母が農園に勤め出して早十年経ちました。最初はなみよの食べる物を自分で作りたいと言って始めた土いじりが今ではやみつきになったみたいです、あの人」みわは嬉しそうな穏やかな微笑を白い顔に浮かべた。
そんなみわを見ながら森口は思う『あれから十年か・・人間、時と共にガラッと変わる人もいるのだな・・』