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#13 待ちわぶる

    子どもの頃、
    近所のマミくんの家に、
    年老いた犬がいた。
    雑種。名前はロビン。

    皮膚病で、背中の毛は半分抜け落ち、
    痩せた体を小さく丸めていた。

    その犬は、
    家の前の坂道のてっぺんに座り、
    いつも坂の下を眺めていた。

    もう走れない足。

    吠えもしない。
    尻尾も振らない。
    ただ、じっと。

    何が見えるのか、
    子どもの僕にはわからなかった。

    車も、人も、他の犬も、
    特別な何かも、
    そこにはない。

    それでもロビンは、
    毎日、同じ場所で、
    坂の下の方を見ていた。

    不思議だった。


    娘はシングルマザー。

    娘が働きに出ている間に、
    孫を預かっていた時期があった。

    出勤してから迎えにくるまで、
    およそ12時間。

    その間、
    小さな彼は慣れない私の家で
    母のいない時間をすごした。

    5階の私の部屋の窓から、
    遠くに駅の改札が見える。

    彼は夕方が近づくと、
    私の部屋にきて、
    窓からずっと駅を見ていた。

    何も言わない。
    ただ、改札の向こうをずっと。

    ずっと。

    毎日。


    玄関からまっすぐ伸びる廊下。
    その突きあたりは、
    ガラス貼りのドア。

    ドアの向こう、
    リビングの水槽の前、
    玄関が見えるその位置に、
    ひとつだけ椅子が置いてある。

    母の定位置。

    記憶はほとんど、
    ほどけてしまった。
    今日がいつか、
    ここがどこか、
    自分が誰かも、
    もう
    わからない。

    母はそこから、
    一日中、
    玄関を見ている。

    彼女の目には、
    何が映っているのか。

    それはわからない。


    老いても、
    あてがなくても、
    昨日をなくしても。

    犬も、子供も、母も、
    帰ってくる誰かを、
    ずっと待っていた。

    坂の下にも、
    駅の改札にも、
    玄関の向こうにも、
    まだ開いていない
    見えない扉がある。

    待つという行為は、
    関係の痕跡だ。

    もう走れなくとも、
    心細くても、
    何もわからなくなっても、

    「きっと帰ってくる」

    だから待つ。
    待ちわぶる。

    待つ。

    それは、
    最後までほどけない、
    愛の姿勢。


     
     
    数年後にはデビューして半世紀になる。 続けてきたわけじゃない。 続いてしまったのだ、 というほうが近い。 やめる理由を探すより早く、 次の音が鳴ってしまう夜が、 四十六年分あった。 ここまで歩いてきて、 ようやく 「ここから先は、静かに書きたい」 と思える場所に辿り着いた。