
一群れの雑考──イギリスへの謎の憧れ
なんだかんだでnoteを始めてから、260本を超える記事を投稿したらしい。
ここらで自分が何を考えているのか、一本の記事を軸にして、関連性のある他の記事を引き合いに出しつつ、まとまった形で可視化してみようと思う。
今回軸に据えるのは、以下の記事である。
じゃあ、さっそく始めよう。
イギリスの魅力は何かといえば、俗物のたくましさと美しさである。
イギリスはいい意味で俗物根性がたくましい。理想よりも現実を見て、生き残るために泥臭く手を尽くしてきたのだ。
「俗物」というと聞こえは悪いかもしれない。しかし俗物でないものなんて、大体はソクラテスやキリストみたいに「美しく死ぬ」羽目になるのである。
これは隣国フランスが革命前後に、贅沢から啓蒙へのドラスティックな転換を経たのとは対照的である。イギリスとフランスは同じく「世襲王政をしいた西欧の強国」でありながら、理想と現実に対する向き合い方が対照的な感じがして面白いね。
この辺りは、上記の記事以前に書いた「フランスへの謎の憧れ」を踏まえている。
フランスは現実から乖離した美しい理想を追求する。
ただの印象だが、フランスの追求する理想とは、いつも古すぎるか新しすぎるのだと思う。要するに、現実と組み合わせたときに不格好になってしまうのである。
フランスにとっての「理想」とは、「夢見て殉ずるに値するもの」であって「現実の範」ではないのだろう。
かくしてフランスは往々にして現実に失敗し、地獄じみた流血沙汰や、無為無能や、ひどい醜聞を巻き起こしてきたわけだ。
それはフランス革命(クーデター?)ないしナポレオン戦争かもしれないし、第二次世界大戦におけるあっという間の降伏かもしれないし、最近でいえば2024パリ五輪のあの醜態かもしれない。
なにか、時代と噛み合っていない。他国と噛み合っていない。糞味噌だ。
それがフランスが失敗し嫌われる原因であり、にもかかわらず魅惑的であり続ける理由でもあるのだ。しらんけど。
キセル乗車とポイ捨てとスリで溢れかえった、じめじめした曇天のパリに現れる壮麗なルーブル美術館が、私は好きなのです。
「棘のない薔薇はない」ように、悪徳にまみれない美など存在しないのかもしれません。
だからフランス、これからも糞まみれの生命を肯定していて。
なお、この「謎の憧れ」シリーズは、イギリス、フランス、スペインまで書いている。
これから書きたいと思っているのはオーストリア、イタリア、中国、ソ連辺り!
他方イギリスは、理想と現実とのすり合わせが異様に上手い。
おそらくそうしなければ生き残れなかったから、というのが根底にある気がする。
ジェントルマン資本主義のように、理想を制度として現実にはめ込むのが上手い。理想によって現実を駆動させるのが上手い。
あるいは、テューダー朝期から漸次的に起こってきた新興勢力の支配層への取り込みに見られるように、理想そのものを現実に即して変形させていくのが上手い。
理想と現実、仮説と実証など、あらゆる面でイギリスほど「アブダクション」という言葉が似合う国もないんじゃないかと思う。他にもあったら教えて♡
なお、私の「アブダクション」理解はおおむねこの本に即している。
色々と足りていない中、折衝と妥協を繰り返しながら泥臭く歩みを進めることが板についた国、イギリス。
例えば、経験や観察からの帰納を重んじる、明るい学者精神。大陸ヨーロッパの合理論に対してイギリスが唱えたのは、経験論であった。
他にも、シェイクスピアやらベケットやらの文学に、ホッブズやロックの政治学、ニュートンの物理学と、有名どころだけ挙げてもイギリスは色んな学問をやっているわけだ。
イギリス帝国時代には船に乗って新大陸やら極地やらの探検もしているし、ご存知の通り、大英博物館とかいう巨大な略奪品展示場だってある。
イギリスの十八番こと学問=科学の営み自体が、今引かれている境界線の先にジリジリと進むようなものだ。まあ実際に「進歩する」かは措くにせよ、進歩するのだと信じて、決して完成しない実証性を懲りずに追い求めるのである。
こういう国で様々な学問が花開いたことが、実に美しい帰結だと私は思うのだ。
なぜなら学問という営みもまた、そういうものなのだから。
「演繹」を原理とする数少ない学問(数学と論理学)を除き、「帰納」で駆動するほとんどの学問に実証性が完成する日は来ない。どんなに優れた学説も批判され、否定され、乗り越えられうる。真理は掴んだと思ったそばから、いつもこの手を逃れていく。
古典力学でさえ量子力学によって批判され、補われてきたように。一見すると恒久不変の真理に見える物理学までもがそうなのだ。いわんや他の学問においてをや。
それでも完成しない実証性を求めて歩き続ける人間とは、陽気で軽やかで頭のネジが飛んだ常識人である。
歩き続けるためには未来への展望が必要だから、これを強く持ち合わせた者は、間違いなく人間性のある「常識人」である。
だが頭のネジは飛んでいる。好き好んで泥にまみれた悪路を、決してたどり着けないと分かっている世界に向けて行こうだなどとは、全くもってイカれているとしか思えない。
私はその、冷静で常識的な狂いっぷりが好きなのだ。
「時間に関して、未来への展望を持つことが人間の特徴だ」みたいな話は、バタイユの『宗教の理論』とかに詳しい。
人間性の印象については『フーコー・コレクション1 狂気・理性』の中の「『狂気の歴史』初版への序」にインスピレーションを受けている。
それはさておき、数多あるイギリスの学問の果実の中でも、第一級の地位を与えられているのが文学だろう。シェイクスピアとかね。
私はこれもイギリスらしいと感じる。なぜなら、イギリスにも文学にも混血児的なところがあると思っているからだ。
「混血児」は差別表現だという主張もあるが、そもそも「一般的に『純血』が優位で『混血』が劣位に置かれている。だから『混血』という表現は差別的!」という考え自体が、近代理性が最上のものとして志向した「混じり気のない純粋なuni的普遍」を無批判に前提としてしまっているじゃないか、と思う。
血が「混じる」ということを「差別的」と捉える思考は、自分が批判している当のもの(=純血を志向する近代的価値観)に立脚しているのだ。
私はどちらかといえば「クィア」のような言葉の再征服を行った方が建設的だと思っている。表現を変えるのではなく、価値観の方をひっくり返せ。「差別表現」ということにして、臭いものに蓋をすれば済む話じゃねーだろ。
むしろ「魅惑的なものと魅惑的なものをかけ合わせた最強の混血児パワーで、純血児だってしのいでやるぜ」くらいのつもりでいけよ。弱腰になりやがって。これだから「羊みたいないい子ちゃん」の道徳って嫌いなんだ。
イギリスにはそういう、どこにだって行くし、何だって集めてくるし、何だって見て知ろうとする無邪気な好奇心があるように思うのだ。
博物学的というか、驚異の部屋的というか。イギリスは多分、部屋に閉じこもって「完成された静謐さ」に身を委ねようとはしないだろう。面白いことは外にしかないのである。
それでいて、外から持ち帰ったものを机に並べながら、観察してあれやこれやと分類するのも好きそうなのだ。面白いね。
興味深いのは、イギリスはおそらく和辻哲郎のいう北ヨーロッパ(=音楽など、聴覚の文化圏)側に属しているにもかかわらず、「見る」ことを大いに愛していそうなところである。
それでいて、フランスのように明るい光を見つめすぎて目をくらませるようなこともない。真昼の屋外ではなく、ランプの灯った夜の居室。快晴ではなく曇天。そこでイギリスは見る。眩しすぎる光に目を焼かれることもなく、じっと見つめるのだ。
けれど、イギリスはやっぱり北ヨーロッパ側の血も引いているのだろうな。だから南の地中海世界とも違い、絵画や彫刻というよりは言葉に長けているのだろう。言葉は文字として読ませることも、声として聞かせることもできるからね。
イギリスの文化はどことなく、南北ヨーロッパの精神の混合物のように思える。
南の地中海世界(ギリシャ、ローマなど)では、夏の明るい太陽と乾燥した空気の中でものがよく見えるために、絵画・彫刻などの静的な視覚芸術が発達した。
一方北ヨーロッパ(オーストリア、ドイツなど)は、森に覆われており湿潤で日が当たらなかったため、音楽に代表される動的な聴覚芸術が発達した。
イギリスの風土はどちらかといえば北ヨーロッパ寄りだろうが、その文化には大いに南方的な「見る」精神が底流しているように見える。
ただし、イギリスが「見る」のは、地中海世界のような夏の明るい日差しの中ではない。
明るい太陽の中で見ることは、ふとした瞬間にめまいと死への誘惑を喚起する。
古代ローマの幽霊は、往々にして真昼間に現れたという(『黄金の驢馬』一挿話、フレイザー『金枝篇』)。
私はジョルジュ・バタイユがかなり好きなのだが、『眼球譚』の終盤や『太陽肛門』にも、光輝を見つめることの最果てにある「死」みたいなものが色濃く現れている。
しかし、イギリスの「見る」には、こうした幻想的な破滅の色彩がないのだ。
先に引用した通り、「真昼の屋外ではなく、ランプの灯った夜の居室」「快晴ではなく曇天」のもとでイギリスは見る。
冷静に、博物学や自然科学の目をもって、分析し分類するために見るのだ。「これは何だろう」「何かの役に立つだろうか」という視点も忘れずに。
地中海世界の「見る」が真善美の直観ないし直接的喚起を目指していたのに対し、イギリスが「見る」ものとは、それ自体単なる観察対象や素材にすぎず、したがって至高の何かに直接関係しているのでもない。だから直視できるのだろう。
とはいえ、イギリスの端的な凝視が、何の情熱にも結び付けられていないわけではない。
イギリスが見るのは、探検に出た先の動植物であったり、異国の文物であったりするわけだが──こうしたものは「不変の真理」とは違い「動的で未知」だ。
つまるところ、イギリスの見る情熱は「真理の発見」に対してではなく「未知の発見」に向けられているのかもしれない。
このように、イギリスは南方のように明晰に見ようとするが、北方のように薄暗い中で幻惑されずに見るし、動的な対象を志向しているのである。しらんけど。
そしてその表現形式は、「文字(=見るもの)」でも「音声(=聞くもの)」でもありうる言葉なのだ。
言葉ないしは文学もまた、異なる精神の混合物だったように思う。
更にいえば小説は、見ることと聞くことの間に生まれた落し子であるように思われる。
小説が主題とするのは、内なる心の声──つまり見えないものであり、根気強く耳を傾けなければならない、くぐもったさざめきである。
一方、小説は文字という形式を利用する。言わずもがな、文字も文章も見て読めるものだ。それに小説を貫く「自然に見せる」精神は、ルネサンス期の絵画や建築のようだと思う。大体、文章は「論理」であるからして、鉄骨のように明快であるに違いないのだ。
だから、小説はよく分からない。
表現しえない「高み」の喚起、「文字=視覚」の利用という明晰に固定化された形式──そういうあたたかく伝統的な理知の大洋に流れ込む、「高み」への懐疑や、笑いさざめき、嘆きといった冷たく薄暗い川の水。
塩水と淡水の混ざり合う淵で生まれた、珍妙で呪われた愛くるしい生き物。
それが私にとっての小説であって、こいつをどのように見ればいいのか、なんだかよく分からずにいる。
しかし残念ながら、私は文学的素養が死滅した哀れな現代人なので、英文学の金字塔・シェイクスピアについてすらほぼ何も知らない。ハムレットis誰。
かつて挑んだ『リア王』は、読んでいる最中雨に降られてビチャビチャになった挙げ句冷凍庫に突っ込まれ、とうとうそのままになっている。
しょーがねーだろー文学に興味ないんだもん。
もうしゃーない。この辺は詳しい人に考察を任せます〜〜
まあ続けよう。私が英文学に明るくないとはいっても、シェイクスピア作品が演劇であることくらいは知っている。
登場人物は、まあまあ口が悪く人間くさいことも。
お心のこもった! ぷっ! 恐れいりましたよ、けがをしたことのないおぼこ娘のおっしゃりよう。そのやさしいお言葉とやらを、心から信じてござるのかな?
文学の金字塔・シェイクスピア作品が「演劇」であったように、イギリスの文化の精髄には、社会と交わったり大衆を楽しませたりするような、社交的で慇懃で陽気な軽やかさがあるように感じるのだ。
実用や熱意や真剣さの中に混じる、かすかなアマチュアリズムがイギリスの面白いところだと思う。しらんけど。私、ウォードの箱とか好きだよ。
イギリス文化の精華は、そうやって自らに軽くてユーモラスな外衣をまとわせる。
これは何も文学に限った話ではなくて、イギリスの支配層の価値観にまで組み込まれた慇懃さなのではないかと思うのだ。
イギリスの王朝とは流血の王朝であり、イギリスの歴史とは侵略するかされるかの歴史であった。
そういう悪路をなお行くために必要だったのは、おそらく忍耐ではない。忍耐は一過性のものだ。少なくとも何百年と続けられることではないだろう。
むしろ必要なのは、地上ですでに救われているという俗物的な幸福観の「見せかけ」なのである。
土砂降りの雨を「まったく最高の天気だ」と評し、愉快に、淡々とその日を生きる。たとえそれが強がりの見せかけにすぎないのだとしても、軽やかに見えることに意味がある。
つき続けた嘘は現実に変わるのだから。苦しみを「耐え忍ぶ」外観よりも、苦しみすら「愛し楽しむ」外観の方がよい。
しかし、これは所詮「見せかけ」にすぎないと分かっているから、そのために殉ずるようなことはしない。フランスと違ってな。
イギリスはこの辺りの引き際?を見極めるのが上手いんだと思う。大破局には至れないからさ。
「見せかけ」に支えられながらも、変える必要が出てきたらこれを即座に変えるのである。
やっぱり「社会契約説」という名の擬制を生み出し、世界で初めて議会制民主主義にまで到達した国は伊達じゃないぜ。
「フィクションとしての国家」については、丸山真男『日本の思想』なんかに詳しく書いてある。
私はイギリスの持つ、このズルくて泥臭いかっこよさにめちゃくちゃ憧れているんだ。なんだか矛盾しているんだけど、いたく心を惹かれる。
思っていたより長くなったが、大体そんなことを考えている。