
文学わっかんね〜な
私は小説が読めない。きっと、文学的素養が死滅しているのだろう。
登場人物の心情という主題がよく分からないのである。だから面白いとも思えない。
小説の画期的なところは、「個人の内面」という曖昧で閉じたものが作品へと昇華されるようになったことである。
没人格的な叙事詩に代わり、個人の内面に焦点が当てられるようになったことが、小説のもたらした転機なのだ。
叙事詩──すなわち歴史とは異なり、小説の主題とは徹頭徹尾個人的であり、閉じたものだ。
閉じていたもの、本来であれば心のうちに秘められて明かされるはずのないものを語るから、小説は小説なのである。
叙事詩とは、いわゆる「勇者の物語」である。
勇者の物語の筋は明快だ。魔王を倒して、世界を救う。それだけである。
その本筋に「勇者はどのような性格か」みたいな情報は必要ない。世界さえ救えば勇者は勇者だ。
重要なのは「世界を救う」みたいな普遍的な目標だけなのである。
まあ、「叙事詩は勇者の物語」という説明が分かりづらければ、古典の授業で習った漢文のようなものだと思っておいてほしい。
大軍勢が登場したかと思えば、次の文章でもう全員戦死しちゃってる感じね。
つまるところ、小説の「主題」は普遍的であってはいけない。普遍的な主題とは所詮前時代の遺物、叙事詩であり歴史なのだから。
小説は普遍的なテーゼとか、悪くいえば良識派ぶったお説教とかに帰着してはならない。ゆえに小説は、その幼年期において反社会的なものとみなされたのだろう。心の自由奔放さは、誰もが信じるべき社会の慣習に背を向けるためだ。
「その幼年期において反社会的なものとみなされた」
→フローベールの『ボヴァリー夫人』とかね。
フローベールの時代には、不倫自体はありふれたものだったが、それを小説にすることは許されなかったらしい。
だからフローベールはこの小説を発表した後、公衆道徳違反の廉で訴えられている。
不倫を扱った作品は批判されないけれど、現実の不倫は批判される現代とは、正反対だよね。
フローベールの時代から一転して、現代における小説は全くもって反社会的なものではなくなったわけだ。むしろ社会的とさえいえる。
なお、この話については『フーコー・コレクション1』に詳しい分析が載っていたりする。
それにしても、文学という生き物は生まれたときから矛盾していると思わないか?
私的な心情を「主題」にしてしまうという矛盾。
──かつては作品になりえなかった、昇華される以前の生のままの意識が、作品や芸術になりえるという転回がそこにある。
しかし、やはり「作品である」ということは「加工されたつくりものである」ということなのだ。小説はそれ以前の「技巧を凝らした」作品と違い、「心情ありのまま、自然に見せる」ことを旨とする人工物である。
だから小説の価値は、聖俗の権威を称揚するようなそれ以前の芸術の価値からは反転しているのかもしれない。
現世ではありえないような至高性を喚起し表現しようとした権威の芸術とは対照的に、小説は、一般に語りうると信じられている「内面」なるものが、いかに錯綜し、語り得ないかを表現しようとする。「表現できない」ということを表現しようとするのだ。
私的な心情を普遍的な言語によってしか表すことができないという矛盾。
──言語は多くの人が共有しているという点で、普遍的なものだからね。小説が小説である時点で、それは完全に閉じた意識やクオリアではありえないのだ。
「🐕」を「犬」と翻訳するように、小説は、五感から得られた情報や言語化前の漠然とした印象を言葉に翻訳する。そして言うまでもなく、翻訳は「原文」の持つ微妙なニュアンスを多少なりとも損なってしまうものである。
しかし人は、言語化という翻訳なくして何かを意識することができない。言語なくして人の意識は存在しえないのだ。だから仕方なく、より「マシ」な翻訳を求めつづける。
何ものにも奉仕することのない私的な言葉を綴ろうとしながら、綴られた言葉が普遍的でなくてはならないという矛盾。
──評価される小説とは、「多くの人」の心を揺さぶるものだ。であるからして、それは多かれ少なかれ普遍的なものなのだ。
「評価」という他者に依存した言い方を避けるとしても、小説が何かを「語る」ためには、やはりそこに単なる意識のさざめきにとどまらない何かが必要なのだろう。
結局のところ、言葉は普遍性への志向から逃れることができない。小説は普遍性を嫌いながらこれに焦がれるという、矛盾した性向を持っているのだ。
「普遍的言語によって綴られる、私的心情という主題」という小説の幼年期ほど、幾重にもねじくれ曲がっているものはない。
時代が下るにつれて、小説は「主題」の部分を破棄して「普遍的言語によって綴られる、私的心情・意識」のみになっていったきらいがあるが(ジェイムズ・ジョイスとか)──それは私的心情という「主題」に言葉が「奉仕する」のを嫌ったからだろう。
「主題に奉仕する」芸術は本質的に、前時代の権威の芸術と変わりがない。「聖俗の権威」が「個人の内面」に変わっただけなのだから。
だから小説はこのくびきから逃れようと、再びの転回を試みた。
言葉が主題に奉仕するのではない。主題が言葉に奉仕するのだ。
そしておそらく、文章という形式への愛はこのあたりに由来している。人が「意味の伝達」という言葉の役割を超えて美文を求めるのは、美文それ自体に価値があると信じているからだ。
そこでは、主題もまた言語実験の材料の一つである。言葉とは何であり、どこまで行けるのか、どこまで荒唐無稽な姿をとりうるのか、どこまで透明に、映えて、美しくあるいは醜くなりうるのか。そういうことを調べるため、主題が言葉に奉仕する。
けれども「言葉が主題に奉仕する」という伝統的な価値観もなくなったわけではない。
今日の小説への眼差しは、この二つの価値観の汽水域から生まれてきたのだろう。主題をいかに表現するのかを見るのと同時に、文章それ自体に酔いしれる。
更にいえば小説は、見ることと聞くことの間に生まれた落し子であるように思われる。
小説が主題とするのは、内なる心の声──つまり見えないものであり、根気強く耳を傾けなければならない、くぐもったさざめきである。
一方、小説は文字という形式を利用する。言わずもがな、文字も文章も見て読めるものだ。それに小説を貫く「自然に見せる」精神は、ルネサンス期の絵画や建築のようだと思う。大体、文章は「論理」であるからして、鉄骨のように明快であるに違いないのだ。
だから、小説はよく分からない。
表現しえない「高み」の喚起、「文字=視覚」の利用という明晰に固定化された形式──そういうあたたかく伝統的な理知の大洋に流れ込む、「高み」への懐疑や、笑いさざめき、嘆きといった冷たく薄暗い川の水。
塩水と淡水の混ざり合う淵で生まれた、珍妙で呪われた愛くるしい生き物。
それが私にとっての小説であって、こいつをどのように見ればいいのか、なんだかよく分からずにいる。
偉そうなこと言ってるけど、こいつ『エクリチュールの零度』しか読んでませんよ!!