なぜ俺が悪口本舗とねたなかを引き合わせ敗戦に導いたのか
本当にうんざりだと思う。俺もこれ以上書きたくないし、もっと楽しいものを書いて読ませたいけど、説明する必要があるからする。文脈を押さえていない人は何一つ読めないからそのつもりで。
昔からブログの炎上は「文章の読めない人が怒っているだけだ」とされている。こんなにわかりやすくはっきりと解釈の余地がないように書いてあるのに、文章を正しく読めない知能に問題がある人は怒り出してしまう。
これを使うとどんな炎上にも全く同じ擁護ができる。燃えている人を擁護したい人はとりあえず「これを読んで怒っている人は文章が読めていないバカだ」と言って批判勢力を蔑んでおけばいい。そういうルールがインターネットにはあった。
もちろん全く正しくない。誰がどうみても全くもって正しくない。
ろくに読まないで何か言う人というのはいる。けれど、文章を読んだかどうかと抱く感想は関係がない。同じものを読んで怒る人、悲しむ人、憎む人、冷笑する人、キモイと思う人、正しいと思う人、面白いと思う人、美しいと思う人、この内の誰かが正しく文章を読めていて、だから正しい感想を抱けたわけではない。
弱者に寄り添い痛ましい文章に胸を痛める人と、新自由主義を内面化し自己責任だと糾弾する人がいるとして、そのどちらかが文章を読んでいないことにはならない。
どう感じるかを決めるのは文章を読んだかどうかではなくて、その人が何を持っているかだ。言うまでもなく、人によって大きく持っているものが違うから、同じ文章を読んで全く違う感じ方をするのは当たり前の話だ。
確かによく読まなくて、雑な感想を抱いてしまうことはあるかもしれない。もしかしたら、怒ってケチを付ける人はそれなのかもしれない。感動を覚えて涙する人も、実はよく読んでいないのかもしれない。少なからず手間を掛けてインターネットにテキストを放流しているものとしては、雑に読むのは悪だと言ってしまいたくもなる。ちゃんと読んでくれよと言いたくなる。どうせ誰も読んでないと言いたくなる。
では自分はあらゆる文章に真摯に正しく向き合っているのだろうか。雑に読んでしまった文章の感想を誰かに披露することは無いのだろうか。荒いところのある文章も、好きなものは都合よく補完して読んで、逆に嫌いなものはその粗を探すように読んでしまわないだろうか。
たまたま文章に対して好意的で、子細に至るまで思いやりを持って筋が通るように拾っただけの人間を「文章が読める人」とは言いたくない。自分の感覚に合うものは簡単に読める。好きな人が書いた文章には注意を払おうと思える。たまたまそのテキストのノリが凄く自分の信念と合うから、何を言ってるのかわかる。ただそれだけだからだ。
同じように好き嫌いで判断して貶している人に「あいつらはまともに文章が読めないバカ」だと言い放つ資格は無いように思う。
他人が何を持っているかいちいち想像を巡らすことは面倒だ。特に自分の持っているものから離れれば離れるほど。だから、感想が大きく異なる人を見て、文章が読めない程度の低い人間なのだと結論づける。
「バカは3行以上の文章が読めないからな」これは暴力だ。自分と異なっていて不愉快で害があって、それだから嫌いでしょうがない存在への暴力だ。
本当に色々な人が「文章が読めていない」と口にしていた。読んでいたらそんな感想になるはずがないから、こいつらは文章が読めないのだと。テキストに一家言ある連中が暴力を振るうのをたくさん見ていた。なんなら俺も言った。やっぱりこの人たちは文章が読めて、文章が読めるから俺と同じ感想を持っているんだとさえ思えた。
ただ単に好意を持ったものが悪く言われているのが許せなくて、思い入れの差異をいいことに文章が読めない低知能な人間だとレッテルを貼っているだけだ。
結局のところ、怒りや憎しみで文章が読めなくなった人と同じことをしているんだ。同じように怒りや憎しみで「人は文章を読めなくなることがある」ということがわからなくなっている。どうして知能の低い人間はこうも書いていないことを読み、書いていることを読まないのかと、真剣に考えてしまう。
こんなこともわからないなんて程度の低い人間だなと思う。
好き嫌いから逃れられない。嫌いだから知能がないように見える。嫌いだから邪悪に見える。嫌いだから取り合わない。好きだから賢いように見える。好きだから理知的に見える。好きだから当たり前のことしか言ってないように見える。好きだから正しいように見える。
みんな優しい人たちだということを俺は知っていた。ありていに言えばみんなのことが好きだった。だからそういう人たちが憎しみに染まって誰かに暴力を振るうのは悲しかった。
ところで、昔から炎上した人が批判を受けて「会って話しましょう」と言い出すパターンがある。こんなに陳腐なことはない。意見がこんなに衝突する我々も会ってしまえば同じ社会を生きる一人の人間なのだから、誤解は元から無かったかのように解けて本心からわかりあえるはず、なんていうのは人をバカにしている。真摯に言葉を交わして互いに主張し合うことに人柄の良し悪しなんてノイズでしかない。本当にバカだ。会おうが会わまいがその人のやったことには何の影響もない。事実は変わらない。何一つ免罪されることはない。
であるのに、人は実際に会って対話の姿勢の一つでも見せられれば相手に少なからず好意とも呼ぶべきリスペクトを抱いてしまうものだ。対立は緩み、主張はよく読むようになり、欠けた言葉をいいように補い、かける迷惑には寛容になる。「会って話しましょう」と言い出す人はそれをよくよく分かっている。人生においてひたすらその人柄を理由に得をしてきた人物なのだろう。好き嫌いを悪用しているのだ。
安倍晋三は会ってみるとものすごくいい人だったと言われている。ヒトラーもいい人だったんだとねたなかは言っていた。巨悪は得てしてそうやって行いの是非を有耶無耶にしてしまうものだ。
彼らを引き合わせたのは俺だ。別に隠すつもりもなかったが、あの場にいた人たちが俺の存在をはっきり伝えることはなかった。大したことをしていたわけではないから当然ではあるが。
各種note記事にあるように、罪人の咎を矮小化しようとする俺の目論見はこれ以上なく上手くいった。怒っていた人たちの溜飲は下がり、憎しみは霧散したように俺には見えた。あんなに力強く、虐げられた誰かのために悪口本舗を非難したねたなかは、声を弾ませて生きててよかった〜と尻尾を振った。得も言われぬ満足感があった。
これで俺の身の回りのごちゃごちゃとしたあれこれは一応の解決を見たのだという感触があった。俺はしばらく続いていた食欲の不振から解放され、久しぶりに気分良くぐっすりと寝られた。
集まりに誘う前に悪口本舗と二人で話したとき、俺はその不道徳を諭した。悪口を言うにも作法や通すべきスジがある。責任は自分で取る。不利益は必要以上に被るべき。アイデンティティが染み付いた名義で書け。免許証の画像でも添えればなお良い。手に負えない迷惑はかけない。全部俺の勝手な美学ではあるのだけど、そのどれもにピンときている様子はなかった。道徳的であることに何の執着もないようだった。
挙げ句「なんでねたなかがあんなに怒っているのかわからない」と抜かした。曰く「自分が悪口を言われているわけでもないのに怒る意味が分からない」そうだ。全身の力が抜ける思いだった。あれだけ幾人もの人々が言葉を尽くして、何一つ届いていなかった。そんなこともわからないなんて程度の低い人間だと思った。文章が読めていないのだと思った。自分と違うものを持った人たちへの想像力が働いていないのだと思った。
だから招いた。そういう悪に利することを俺はやった。自分が悪人だからだ。俺がそうであるのと同じように、悪口本舗は人だからだ。自分が悪口を言い続けたいからだ。俺が俺の知り合いに嫌われているみたいだったからだ。憎しみが渦巻いているのが嫌だから。俺がみんなに好かれたかったからだ。
これが俺がねたなかと悪口本舗を引き合わせた理由だ。
ハシゴ外しを画策したということになる。冒頭に貼り付けた記事群はもちろんそれについての怒りだ。全く正当だと思う。まさにマッカーサーと昭和天皇の写真に見るような屈辱があるだろうと思う。
俺は自分のために、誰かが愛していた何かを、陳腐な情にほだされて思想を曲げる軽薄でくだらないものに貶めたのだろう。文章が読めない大衆と同じようにクソであることを暴いてしまったのだろう。それは俺が感じていた悪口本舗のnoteが伸びたことによる失望と何ら変わりないのだろう。
じゃあどうするのがよかったのか俺はわからない。