#043_「属人化をなくしましょう」と言いながら、めちゃくちゃ属人的じゃないですか。 ―地域文化を継ぐのは、マニュアルではなく「人」なのかもしれない 〜ハセガワゴイチの、一人暮らしの独り言(文化構造論 継承編)
「属人化をなくしましょう」
組織では、本当によく聞く言葉です。
分かります。すごく分かります。
その人しか分からない。その人が休むと仕事が止まる。その人が辞めたら誰も分からない。うん。確かに困ります。
だから、マニュアルを作る。情報を共有する。誰でも一定の仕事ができるようにする。それ自体は、まったく間違っていないと思います。
でもね。文化事業の現場で20年以上仕事をしていると、ときどき思うんですよ。文化って、本当に「誰がやっても同じ」にしていいんだろうか。むしろ文化の仕事って、「この人だからできる」が、かなり大事なんじゃないか。
しかも、ここからがやっかいなんです。
「属人化をなくしましょう」と言っている組織ほど、「上がそう考えているから」「上が気にしているから」「上がそう言っているから」で、事業の方向が変わったりするんですよ。
……いや。それ、めちゃくちゃ属人的じゃないですか。
■文化の仕事には、「なぜ」がある
たとえば、若者の事業をやっているとします。
「ここは出演者に任せよう」そう判断することがある。でも、それは放任しているわけではありません。この段階では、大人が答えを出すより、自分たちで決める経験の方が大切だから。
逆に、「ここは事務局が入った方がいい」という場面もある。参加者同士の力関係が偏ってきた。一人の意見だけが強くなっている。このままだと誰かが言葉を飲み込んでしまう。だから入る。
あるいは、「この人に相談しよう」という判断もある。誰でもいいわけではない。
若者を管理するのではなく、本人たちが決めることを大切にする。そういう価値観を持っている人だから相談する。
こういう判断は、マニュアルにはなかなか書けません。でも、だからといって、「あの人にしか分からない」で終わらせていいわけでもない。ここが、本当に難しいところなんです。
「毎年第3段階でアーティストに相談する」とマニュアルに書く。一見すると、これで引き継げたように見えます。でも翌年は、参加している人も違う。関係性も違う。事業の進み方も違う。それなのに、「去年もこの時期に相談したので」と同じことをする。それは、再現ではあっても、たぶん継承ではないと思います。
本当に残さなければならないのは、「なぜ、この段階で外部の視点が必要だったのか」「なぜ、この人に相談したのか」という考え方です。それが伝われば、次の担当者は同じアーティストを選ばなくてもいい。時期を変えてもいい。むしろ、違う判断をしていい。
大切なのは、同じ答えを出すことではなく、自分で考えるための軸を持つことだからです。
マニュアルは、行動を残す。継承は、判断を残す。
文化を継承するということは、手順ではなく「考え方」を次の人に預けることなのだと思います。

■「属人化をなくす」と言いながら、本当に属人的なのはどっちなんだろう
ここで、少しややこしいことが起きます。
組織では「属人化をなくそう」と言いながら、「上がそう言って、こう考えて、こう気にしているから」で、事業の方向が変わることがあります。……いや、それって、むしろ属人的じゃないですか。「誰がやっても同じ」を目指していたはずなのに、最後は「偉い人がそう言っているから」で決まる。ものすごく効率的です。ただし、文化的にはたぶん、あまり健全ではありません。
以前、私は文化の現場を「厨房とフロアー」に例えました。厨房では、なぜこの材料なのか。なぜこの火加減なのか。なぜここでは手を出さないのか。誰と組むのか。そういう判断を積み重ねています。
一方、フロアーから見ると、「もっと分かりやすく」「もっと派手に」「子どもも大人も楽しめるやつで」と言いたくなる。
気持ちはわかります。本当に、気持ちはわかります。それ自体は悪くありません。フロアーからしか見えないものもある。でも、フロアーの感想が、厨房の専門的判断より強くなる。しかも、肩書が上であるという理由だけで。それは、専門性に基づく属人性をなくして、権威に基づく属人性を強くしているだけなのかもしれません。
文化的な判断に必要なのは、年齢でも肩書でも、在職年数でもない。現場を経験したこと。失敗したこと。考え直したこと。必要な知識を持っていること。地域の人との関係をつくってきたこと。そして、自分がなぜそう判断したのかを説明できること。そういう積み重ねです。属人性そのものが悪いのではない。その判断がブラックボックスになっていること。あるいは、肩書だけで判断が通ってしまうこと。問題は、そっちなのかもしれません。
■「コトの時代」のもう一つの落とし穴
「モノからコトへ」この言葉も、ずいぶん定着しました。文化施設でも、体験を増やそう。イベントを増やそう。新しい企画を入れよう。という話になります。でも、ときどき思うんですよ。それ、本当に「コト」なんだろうか。
イベントを増やしただけ。ラインナップを変えただけ。体験メニューを足しただけ。それでは、モノがイベントに置き換わっただけです。本当に考えるべきなのは、なぜやるのか。誰に何が起きてほしいのか。何を大切にするのか。その地域に、どんな関係を残したいのか。目的があって、価値があって、そのための方法として事業がある。
——ところが、ときどき順番が逆になります。「来年は何をやりますか」「春はこれ、秋はこれ」「新規事業を一つ入れましょう」コトの時代と言いながら、考えているのはイベントの品揃え。少し不思議です。そして、目的や価値を考えなくても事業が回るようになると、文化的な判断そのものが必要とされなくなります。必要なのは、イベントを選ぶ人。スケジュールを埋める人。数字をまとめる人。もちろん、それも必要です。
でも、それだけでは地域文化は育たない。
「なぜ、この事業をやるのか」その問いを持ち続ける人が必要なのだと思います。

■地域文化を残すとは、人を残すことかもしれない
ここまで考えて、私は少し考え方が変わりました。
地域文化を継承するために必要なのは、属人性をなくすことではないのかもしれません。むしろ、文化的な判断のできる属人性を持った人を育てること。この方が大事なのではないか。
「この人だからできる」をなくすのではなく、「この人だからできる」という人を、次々に育てる。その人にしか分からないブラックボックスをつくるのではなく、自分の「なぜ」を開きながら、次の人に考え方を預ける。そして、受け取った人が、同じことを繰り返すのではなく、自分なりの判断を始める。
10年続くイベントを一つ残すことより、10年後に新しい文化をつくれる人を一人育てることの方が、地域にとって大切な場合もあるのかもしれません。

■最後に
文化は、人に依存する。だからこそ、その属人性をなくすことではなく、誰に、どんな判断を託せるのかを考える必要がある。そして、その人が持っている「なぜ」を開き、次の人に預ける。受け取った人は、同じことをしなくていい。
同じ人を選ばなくてもいい。同じ答えを出さなくてもいい。
ただ、自分で考え、自分で判断できる人になっていく。
文化を継承するということは、手順を残すことではない。
考え方を、次の人に預けること。
たぶん、地域文化が続くというのは、そういうことなんだと思います。
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