
生業の種を蒔く
平日の僕は
犬や猫の毛一本すら落ちていないオフィスで
彼らとは1ミリも関係のない仕事をしている。
デスクに座って
見栄えだけはいいパワーポイントの資料を
こねくり回しながら
「あ、今の『てにをは』は
どこか卑屈だったかな」なんて
気にしたりしている。
週末は譲渡会のボランティアに出かける。
もちろん、一円ももらえない。
それどころか
交通費とおにぎり代を考えれば完全な赤字だ。
けれど、仕事の都合で譲渡会に行けなくなると
僕は比喩抜きで
「この世の終わり」のような顔をする。
給料が出る本業より
金が減るボランティアを優先したがる自分。
客観的に見れば
ただの算数ができない大人である。
たぶん僕は
そこに「仕事」という名の不純物が混ざるのが
たまらなく嫌なんだと思う。
僕が日々「仕事」と呼んでいるものは
1から10まで説明しなきゃいけない
儀式の連続だ。
3くらいまで説明したところで
「ちょっと待って」と手が挙がる。
「そこはこうしてほしい」
「リスクが」。
相手があることだから
僕は神妙な顔をして折り合いをつける。
「そうですね、そっちの方が合理的です」
なんて心にもないことを言いながら
僕の魂はそっと席を立つ。
逆に、仲間のやりたいことに
僕が待ったをかけることもある。
言い終わったあと
「これ、僕がいなければ
もっと面白く転がってたんじゃないか?」と
後悔する。
責任者ならリスクを止めなきゃいけない。
わかってる。
でも、本音を言えば
「いいよ、俺が全部泥をかぶるから
好きに暴れなよ」と言える
昭和の映画の親分みたいな度量が欲しい。
現実は、会議室で
「念のため確認ですが」と
小姑みたいなことを言っている
小市民な僕がいるだけだ。
一方、犬や猫はいい。
彼らに「企画の意図」を説明する必要はないし
彼らも僕の「キャリアパス」に興味がない。
言葉が通じないからこそ
10まで説明しなくていい解放感。
里親を希望する人間とは
たまにわかりあえないこともあるが
そこはさほど苦ではない。
言い方は悪いけれど
僕は一円にもならないその時間のほうが
ずっと呼吸がしやすい。
「チラシを作ってくれない?」と頼まれる。
もちろんボランティアだ。
仕事以上に神経を研ぎ澄ませて
デザインを仕上げる。
納品して、喜ばれる。
「ありがとう」という言葉だけで
僕の胃のあたりに溜まっていた
「納期」や「クオリティ」という名の重石が
ふっと軽くなる。
「お金が発生してないんだから適当で」
なんて微塵も思わない。
むしろ、お金という不純物が
混じらないからこそ
純度100%の自分で向き合える。
そんな僕が今
犬猫を「仕事」にしようと模索している。
自分で言っておいてなんだが
盛大に矛盾しているな、と思う。
でも、昔、テレビで
リリー・フランキーが話していたことが
僕の背中を静かに押してくれる。
農家の人が育てた野菜を売ってお金に変える。
これは「生業(なりわい)」だ。
けれど、商品になる前の野菜のために土を耕し
種をまき、泥にまみれて世話をする。
その「一円にもならない時間」を
「仕事」と呼ぶのだという。
世の中には
「生業」に必死な人はたくさんいるけれど
その根っこにある「仕事」を
疎かにしている人が案外多いんじゃないか。
そんな話だった。
僕は今、誰に頼まれたわけでもないのに
お金にならない記事を
noteにせっせと書いている。
書けば書くほど自分のダメさ加減が露呈して
夜中に布団を蹴りたくなるけれど。
これがいつか
保護カフェのスポンサーを募る際の
名刺代わりになるのだとしたら
この泥臭い時間は
僕にとっての立派な「仕事」の証になる。
ボランティアは、やりたくてやっている。
でも、その積み重ねがいつか誰かを動かし
お金を生み、その一部がまた別の命を救う。
そうなったとき、それは僕にとって
ただの「ライスワーク」ではない
誇り高い「生業」に変わる。
「仕事だから」と
自分を納得させて折り合いをつける今の僕と
「一円にもならないこと」に
命をかけている今の僕。
この二つの点が
いつか綺麗な一本の線でつながる日が
来るのかもしれない。
相変わらず会議室では
「念のため」なんて
リスクを恐れる僕が顔を出す。
けれど、心の中には
「泥は僕が被るから
好きにやれ」と言える泥まみれの僕が
少しずつ育っている。
そう思うと
今のこの中途半端なダメさ加減も
悪くない気がしてくるのだ。
……なんて
ちょっと格好をつけすぎた。
とりあえず
明日までに書き上げなきゃいけない
「お金になる方の資料」を
泣きながら片付けることにする。