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犬に教育される夜。

    保護犬の預かりボランティアを始めたのは
    今思えば、薄っぺらな正義感と
    「徳を積んで、少しでも自分を許したい」
    という、実に僕らしい自意識の産物だった。

    昔、犬を飼っていたことがある。
    だから、犬という生き物については
    それなりに「わかっているつもり」でいた。

    今お世話になっている
    保護犬団体のホームページに並ぶ
    「譲渡条件」を見たとき
    当時の僕は鼻で笑ってしまった。

    「未婚カップル不可」
    「一人暮らし不可」
    「子犬なら50歳以上不可」
    「お留守番は3時間まで」

    いや、厳しすぎるだろう。

    心の中で
    何様だと言わんばかりのトーンで
    ツッコミを入れた。

    これじゃあ、犬を飼えるのは毎日が日曜日で
    かつ健康な資産家ファミリーだけじゃないか。
    もっと条件を緩めて間口を広げたらいいのに。
    そうすれば、もっと多くの犬が救われるはずだ。
    僕は、正義の味方にでもなったつもりで
    団体の「お堅いやり方」に疑問を抱いていた。

    ところが、実際に預かりボランティアとして
    一匹の犬と向き合ってみて
    僕は自分の浅はかさを知ることになる。

    例えば、なぜ「未婚カップル」が弾かれるのか。

    犬はリビングの真ん中で
    愛の終焉なんて微塵も想像させない
    間抜けな顔で寝ている。
    だが、もし人間側が「方向性の違い」とか
    「価値観の相違」なんて言って解散したとき
    この無防備な寝顔をどちらが守るのか。
    犬には親権を争う法廷もなければ
    財産分与の権利もない。
    失恋の傷に酔いしれるヒロインにとって
    雨の日の犬の散歩は
    あまりにも重すぎる「現実」なのだ。

    とりわけ、僕が「自分の無知」を
    骨の髄まで思い知らされたのは
    出産を控えた家庭が
    断られる理由を知ったときだ。

    かつての僕はこう思っていた。

    「これから生まれる子供と犬が
     一緒に育つなんて、まるで海外の
     お洒落な映画みたいじゃないか。
     情操教育にもいい。断るなんて
     団体の連中はロマンがないな」と。

    だが現実は
    セピア色のスローモーションでは進まない。
    実際に目の前にいるのは
    出産間近で一歩歩くのもやっとの妊婦の横で
    「散歩? 行くよね? 行くんだよね!?」
    とばかりにタックルをかましてくる
    毛むくじゃらの暴走機関車だ。

    彼らにとって、人間の「産気づく」とか
    「安静にする」なんて事情は
    知ったことではない。
    彼らが求めているのは
    今この瞬間の全力疾走と
    退屈を紛らわすための執拗な遊びの誘いだ。

    不規則な陣痛に耐える傍らで
    犬はといえば、空気も読まずに
    「このヌイグルミ、綿が出るまで
     一緒に振り回そうぜ!」と
    よだれまみれのオモチャを
    膝の上に叩きつけてくる。

    これは「情操教育」なんて
    生易しいものではない。
    「猛獣使いの修行」と「育児」の
    同時並行という、正気の沙汰とは思えない
    地獄の二面待ちだ。

    「お堅い条件」は
    僕たちが夢想するライフスタイルを
    否定していたのではない。
    キャパオーバーで共倒れになり
    結局また犬が「やっぱり無理でした」と
    シェルターに返品されるという
    最悪の悲劇から守っている。

    「子犬、50歳以上不可」についてもそうだ。

    散歩の途中で全力疾走する彼に引きずられ
    膝の皿が悲鳴を上げた瞬間、確信した。
    犬の20年と、僕のこれからの20年。
    それは、どちらが先に「介護」される側になるか
    という、笑えないチキンレースだ。

    3時間のお留守番だって
    退屈のあまりに僕の数少ないブランド靴を
    「前衛的なオブジェ」に作り替えてしまった
    惨状を見れば、その制限がいかに
    慈悲深いものだったかが
    胃のあたりにズシンと響く。

    「わかっているつもり」だった自分が
    いかに何もわかっていなかったか。

    条件が厳しいと思っていた。
    でも、実際に関わってみると
    それは「ハードル」ではなく
    命を二度と捨てさせないための
    「安全装置」だった。

    僕は、カッコよく犬を救う側になりたかった。
    でも現実は、犬に生活の乱れを矯正され
    自分の「いい人でありたい」という
    自意識のメッキを剥がされている。

    「譲渡は人間のお見合いと同じ」

    今ならわかる。その言葉の裏側には
    僕のような、ちょっと良いことをして
    自分を好きになりたいだけの半端な人間が
    うっかり命を背負って共倒れにならないように
    という、団体側の祈りにも似た
    お節介が詰まっていた。

    格好いいことなんて一つも言えないまま
    僕は今日も犬に教育される夜を過ごしている。

     
     
    犬猫好きを拗らせてウェブマガジンを作ることにしました。299は「にくきゅう」と読みます。

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