
逢魔伝(おうまでん) 2-11
十一
「見つけました」
昏倒し、目を覚ましてから、三日目の朝だ。
ようやく体も回復してきた。玄関先で水を打っていると、尾をくるりと巻いて、瓦屋根の上から、錦がそう声をかけてきたのだ。僕はひしゃくを桶の中につけながら、ふうん、とうなずいた。
「動いたのか?」
「幻覚の中に、足止めしております」
「どういうことだ?」
僕は額の汗をぬぐいながら、屋根にいる錦を見上げた。
錦は、ひげを風になびかせながら、遠くを見つめている。目を向けている方向に、カラスがいるのか、と隣家の家垣の向こうを見たが、何もいない。
「所謂、蜃気楼のようなものです。木下社の幻覚を見せています。長くは保ちませんが」
そんなこともできるのか、と僕は納得した。
そう言えば、ばあさんに聞いたことがあった。ミズチだか、オロチだか知らないが、蜃気楼や幻覚を見せる妖怪が、水に住んでいることがあるとか、ないとか。
そいつは、異国の風景を見せて、人間を惑わすのだそうだ。あまり、幼かったので、記憶は曖昧である。
僕は家の敷居をまたぎ、玄関口で立ち止まると、錦の水色の双眸を見つめた。
「どこにいるんだ?」
「ここより、北西二キロメートルの地点、榎戸児童公園にいます。鴉に、そこがどのように見えているのかまでは、知れませんが。まだ、気がついてはいないようです」
「やっぱり、お前は使える」
そう言って、微笑むと、錦は誇らし気な顔をしてから、恭しく頭を下げた。僕は、ひしゃくと桶を、出入り口に置いたまま、庭の方へ回った。まだ縁側で寝転がっていた黒猫を、叩き起こす。
「なんじゃ、騒々しい」と、黄色い目を細め、眉間に皺をよせた八枯れに、「出かけるぞ、ぐうたら猫」と、言って運動靴に履き替えた。
念のため、錦には先に目的地へ行ってもらった。鈍足な猫と僕は、自転車を引っ張り出して来て、家を飛び出した。
「おい、突然なんじゃ。どこに向かっている」
八枯れは前に取りつけられている籠の中で、ひっくり返りながら、叫ぶ。
若干、声が振動しているのは、道がでこぼこしているせいだ。僕は立ち上がって、ペダルをこぎながら、笑った。
「お前も飲みこみが悪いな。例のばか鴉さ」
「見つけたのか」
「今日は、鬼として働いてもらうよ」
僕の言葉に、八枯れは目を見開いて「喰っていいのか」と、心からうれしそうな声を上げた。それに目を細めて、「状況による。黒猫よりは役に立つだろう」と、つぶやいた。しかし、八枯れは俄然やる気を出して、籠に爪を引っかけると、顔を出して笑った。
「何でも良い。妖怪など、久しく喰っておらん。腹が鳴るぞ」
「腕を鳴らしてくれ」
馬鹿に弾んだ声である。僕は交差点を突っ切って、家の塀沿いにある、角を曲った。
「ちゃんと働かないと、褒美はないからな」
「任せておけ」
歌い出しそうな八枯れの様子に、大丈夫だろうか、と苦笑をもらした。
その黒い後頭部を見つめながら、錦のように無償で働いてくれたらいいのになあ、とため息をつく。むら気のある猫を扱うのにも、苦労するのだ。
「次の角を曲がったらすぐだ」
いまにも、籠から飛び出しそうな八枯れの頭を押さえて、老人施設を左に折れた。遠くに見えた、小さな児童公園の上で、錦が尾を振って、雲のように宙に浮かんでいる。公園の中央には、黒い鴉の姿が見える。僕は、目を見開いて、ブレーキをかけた。
念願の再会である。
