
逢魔伝(おうまでん) 2-10
十
目を覚ますと、見なれた木造りの茶色い天井が目に入った。
僕はどれだけ、眠っていたのだろう。首を曲げて、横を向くと、八枯れの黄色い目と、目が合った。
「何日ぐらい眠っていた?」
「四日じゃ。貴様の母親のほうがよっぽど、昏倒しそうじゃった」
億劫そうな顔をして言った台詞に、ははは、と笑った。八枯れは枕もとで、前足を折って座り込んだ。僕は天井を見上げ、息をついた。
「錦が家まで運んだのか?」
「そうだ」
「母さん達には、なんて言ったんだ?」
八枯れは眉間に皺をよせて、僕から視線を外すと、小さな声で「脱水」と、つぶやいた。
なるほど、と納得して、頭を起こした。八枯れのそばには、大きなペットボトルの中に、なみなみとそそがれた水や、スポーツドリンクが並んでいた。
妙なところ、母は過保護である。僕は苦笑をもらしながら、そのうちの一本を手にとって、蓋を開ける。
「赤也」
一口水を飲みこむと同時に、錦が縁側から顔を出した。長いひげが、蚊取り線香の煙になびいており、少し滑稽だった。
「申し訳ございません。わたしがついていれば、こんなことには」
錦の言葉に、八枯れは微かに、眉間に皺をよせた。
「あの鴉、途中で高く上昇したと思ったのですが、すぐに姿を消してしまいました。二十キロ四方にわたり、捜索しましたが、妖気も感じられませんでした」
「ああ」僕は、水の入ったペットボトルを畳の上に置いて、微笑をもらした。「構わない。もしかすると、刈り入れと言うのも嘘だった可能性がある。僕らは、間抜けにもあの鴉に踊らされたんだ」
ただではすまさないけどね、と小さくつぶやくと、八枯れは身ぶるいした。
「恐ろしい。これから、あの鳥にふりかかる禍を想像するだに、鳥肌が立つ」
もう一度大きく体を震わせてから、八枯れは顔を青くしてそうつぶやいた。僕は聞こえなかったふりをして、そのまま横になると、無表情に言った。
「僕の種はなんだったんだろうね」
八枯れは黄色い目を細めて、前足を舐めた。
「さあな。わしが知るか」
「人殺しかな」
半分冗談に笑うと、八枯れは「なるほど」と、納得したようにうなずいていた。相変わらず、蹴り飛ばしたくなるほど腹立たしい猫である。
「木下はどうした?まさか、倒れたのか」
「知らん。なぜ、わしがお前のこと以外にまで、気を回さなきゃならんのだ」
「事のついでだ。そもそも、相談してきたのはあいつじゃないか」
八枯れは、馬鹿にしたように笑い声を上げた。
「あれだけ、ふり回されているお前は初めて見たな。なかなか見ものだった」
眉をしかめて、八枯れを睨む。
ずかずかと勝手に人の領域にまで侵入して来て、感情的に僕をふり回すだけふり回して、結局、お互いにカラスの被害にあっているなんて、なかなか間抜けな姿じゃないか。
これまで、他人の持っている面倒事を、共有したことなど無かった。これが「友人関係」と言うものなのだろうか、と物想いにふける。らしくないと言えばそうなのだが、これはこれで愉快である。
「木下社の花は、まだつまれていません」
縁側で、錦が透き通るような声を出した。僕は、へえ、と歓声を上げる。
「やっぱり、お前は優秀だな」
錦は一度、勝ち誇った顔で八枯れを見てから、僕を見て微笑んだ。
「随時、確認しておりますので、あの鴉が姿を見せたら、次こそ捕えます」
「うん、その時は、僕を呼べ。あいつにはちょっと用がある」
仰々しく頭を垂れた錦に、八枯れは鼻を鳴らした。
「池の鯉は、ずいぶん出世したのう」
八枯れの嫌味に、錦は応えた風でもなく、涼しい顔をしていた。
「どこぞの黒猫が、もう少ししっかりしていればね。赤也も苦労が絶えない」
「勘違いした鯉のなりそこないが。登紀子に似て、口の減らん魚じゃ」
「お前にだけは、言われたくないですね。泣き虫な青鬼」
「高飛車魚。金魚の糞め」
「死に損ないの猫。役立たず」
二匹は、僕を置いて、しばらくいがみ合っていた。
錦は僕に忠実だが、八枯れは反抗的だ。それが、錦には気に喰わないのだろう。八枯れも、最強を自負しているが故に、錦鯉に「役立たず」扱いされるのが、気に喰わないのだ。
まるで、水と油のような関係である。
「変な奴ばかりだ」
僕は、天井を見上げながら、誰にでもなくそうつぶやいた。幸か不幸か、憎まれ口をたたきあっている二匹には、聞こえていないようだ。
この時なぜか、木下の不機嫌そうな顔が浮かぶ。それに苦笑をもらして、目を閉じた。錦のそばでゆれる風鈴だけが、一度だけ、ちりりん、と僕に返事をした。