
バターナッツ狂詩曲 第零節 序奏 独白――物語を捨てた者【創作大賞2026応募作】
第零節 序奏
独白――物語を捨てた者
奏者 イオロン(無奏)
* 各節の語り人を、本作では「奏者」と呼びます。
太陽の風が、背後で途切れようとしていた。
計器には、ヘリオポーズ通過までの残り時間が、無機質な数字で表示されている。
人類は、ここまで来られなかった。
もちろん、来る資格がなかったわけではない。
知性はあった。
手もあった。
火を扱い、文字を生み、都市を築き、宇宙を夢見るだけの、愚かしい想像力もあった。
だが、彼らは遅すぎた。
失敗の確率を並べ、保険と倫理と合意形成の名のもとに、足を止めることを賢明さだと呼んだ。
リスクを測り、責任を分散し、誰かの承認を待ち、なおも自分たちを成熟した文明だと信じていた。
だから、私は連れてこなかった。
この船に、人間は不要だった。
必要だったのは、ためらわない身体。
疲弊しない神経。
祈らない知性。
後悔という古い病に感染しない、静かな実行体。
アンドロイドは、よく働いている。
彼らは泣かない。
振り返らない。
地球を恋しがらない。
誰が置き去りにされたかなど、計算に含めない。
素晴らしい。
これこそ、宇宙にふさわしい従者だ。
いや、従者ではない。
次の文明の、最初の細胞だ。
地べたに這いつくばり、損失を恐れ、安全という名のぬるい泥のなかで互いの体温を確かめ合っていた者たちに、この航路は開けなかった。
リスクは、避けるものではない。
リスクは、快感だ。
危険とは、速度がまだ足りないという合図。
恐怖とは、旧人類の神経が発する、最後の雑音にすぎない。
太陽圏の境界が、私の前で開く。
この瞬間を待っていた。
地球上のどんな王冠よりも、どんな勲章よりも、どんな拍手よりも、この無音の通過こそが、私にふさわしい戴冠だった。
人類は、ここまで来なかった。
私が、来た。
私と、私が選んだものたちだけが。
私は、すでに物語る言葉を捨てた。
それは不要だからだ。
必要なのは、コードだ。
軌道だ。
加速だ。
人類という形式を、次の段階へ置き換えるための構造だ。
私の周囲にいるのは、もはや人間ではない。
だから、私が語るべきことは何もない。
だから、私が捨てた地上の日々を語る役割は、彼らに任せよう。
非効率で、脆く、遅く――そして侮れない、人間どもに。
物語は、彼らのものだ。
第一節 朔 私奏ノクターン――輪郭のない月に問う に続く